ナチス の 人体 実験。 ナチスの人体実験とニュルンベルク・コード

【狂気の戦時医学】ナチスの人体実験まとめ【ヒトラー・ドイツ】

ナチス の 人体 実験

ナチス政権は、男女を問わずすべてのユダヤ人を迫害し、究極的には殺害の対象としました。 ナチス政権は、ユダヤ人とユダヤ人以外の女性に対して残酷な迫害を行いました。 ときには女性だけを対象にした迫害もあったのです。 ナチスの思想はまた、ロマ族(ジプシー)の女性、ポーランド人女性、そして療養施設に入居していた心身障害を持つ女性を迫害の対象としました。 一部の強制収容所や、収容所内の一部の領域は、女性囚人専用となっていました。 1939年5月、女性用としては最大の規模を持つラーフェンスブリュック強制収容所が開設されました。 1945年にソ連軍によって解放されるまでに、10万人以上の女性がラーフェンスブリュックに投獄されました。 1942年、親衛隊当局は、女性囚人を投獄するためにアウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所(アウシュビッツ第2強制収容所としても知られる)の構内に刑務所を作りました。 この収容所の最初の囚人となったのは、親衛隊によってラーフェンスブリュックから移送された囚人でした。 ベルゲン・ベルゼンでは、1944年に収容所当局によって女性用収容所が設置されました。 親衛隊は、第二次世界大戦最後の年に、何千人ものユダヤ人女性をラーフェンスブリュックとアウシュビッツからベルゲン・ベンゼンの収容所に移送しました。 ドイツ人とその協力者は、大量殺戮作戦の実行においては、ユダヤ人であるかどうかにかかわらず、女性や子供も容赦しませんでした。 ナチスの思想は、年齢や性別にかかわらず全ユダヤ人の完全な絶滅を進めることでした。 親衛隊と警察当局は、「最終的解決」という暗号名の下にこの政策を実行しました。 ドイツ親衛隊員と警察官は、占領下のソ連領土内の何百もの拠点で行われた大量射殺作戦で、男女を問わず殺害しました。 移送作戦中、妊婦や幼児を持つ母親は常に「働くことができない」と見なされました。 これらの女性は絶滅収容所に送られ、収容所職員はガス室へ入る最初のグループにこれらの女性を含めたのです。 正統派ユダヤ教の衣服を着た人々は潜伏中に発見されやすく、特にポグロムのような活動で残忍な行為を受けたため、子連れの正統派ユダヤ教徒の女性は特に弱い立場にありました。 正統派ユダヤ教徒の家庭の数多くの子供たちもまた、これらの家庭の女性がナチス思想の特別な標的となる理由となりました。 非ユダヤ人女性もまた弱い立場にありました。 ナチスは、アウシュビッツ強制収容所でロマ族女性の大量殺戮を行い、T4作戦やその他の安楽死作戦で心身障害者女性を殺害し、また、1943年から1944年にかけて多くのソ連の村落でいわゆるパルチザンの男性と共に数多くの女性を殺害しました。 ゲットーや強制収容所では、ドイツ当局は、しばしば死につながるような環境で女性を強制労働に従事させました。 ドイツ人医師や医学研究者は、ユダヤ人やロマ族(ジプシー)の女性を不妊実験やその他の非倫理的な人体実験の被験者として使用しました。 収容所とゲットーの両方において、女性は特に暴力や強姦の被害に遭いました。 ユダヤ人の妊婦は、妊娠していることを隠そうとしました。 妊娠が発覚すると、中絶を強制されたためです。 ポーランドやソ連から第三帝国での強制労働のために移送された女性は、しばしば殴られたり、強姦されたり、食べ物やその他必需品や基本的な生活品との引き換えに性関係の受け入れを強いられました。 ポーランド、ソ連、およびユーゴスラビアの女性強制労働者は、ドイツ人との性関係によって妊娠することが少なくありませんでした。 いわゆる「人種専門家」によって、生まれてくる子供の「ドイツ人化」が不可能と判断された場合、女性は堕胎を強制されるか、乳児の死亡が保証されるような環境にあるその場しのぎの託児所に送られて出産したり、または食べ物も医療手当もまったくなく出身地方へ送還されました。 強制収容所に投獄された多くの女性は、非公式の「相互援助」グループを作り、情報や食糧、衣服を共有して生き残ろうとしました。 このようなグループは、同じ都市や省の出身者や、似たような学歴や家族的なつながりを持つメンバーで構成されました。 その他の女性は、親衛隊によって衣服の修繕、料理、洗濯、清掃などの作業に派遣されたことで生き残りました。 女性は、さまざまなレジスタンス活動で重要な役割を果たしました。 特に社会主義、共産主義、またはシオニズムの青年行動に関与していた女性たちです。 ポーランドでは、女性はゲットーに情報をもたらす密使の役割を果たしました。 多くの女性はポーランド東部やソ連の森林地帯に逃亡し、武装パルチザン部隊に加わりました。 女性は、フランス人(およびフランス系ユダヤ人)のレジスタンスにおいても重要な役割を果たしました。 ミュンヘン大学の学生で、レジスタンスグループ「白バラ」のメンバーであったソフィー・ショールは、反ナチスのパンフレットを配布したことで、1943年2月に逮捕され、処刑されました。 ゲットーのレジスタンス組織のリーダーやメンバーになった女性もいました。 その中に、ビャウィストクのハイカ・グロスマンがいました。 強制収容所内部でレジスタンス活動をしていた女性もいました。 アウシュビッツでは、ヴィスワ・ユニオン・メタルワークスでの作業に派遣された5人のユダヤ人女性(アラ・ゲァトナー、レギーナ・サフィアシュタイン(別名サフィア)、エスタ・ヴァイスブルーム、ロザ・ロボタ、そして身元不明の女性(おそらくファイガ・セーガル)が、アウシュビッツ・ビルケナウのユダヤ特殊別動隊(ゾンダーコマンド)の隊員に火薬を調達し、これが1944年10月に起こった暴動中のガス室の爆破と、数人の親衛隊員の殺害に使用されました。 その他の女性は、ドイツ占領下のヨーロッパにいたユダヤ人の支援活動や救援活動に活発に取り組みました。 ユダヤ人落下傘部隊の隊員ハンナ・セネシュや、シオニスト活動家のギシ・フライシュマンなどでした。 セネシュは、1944年にハンガリーに落下傘で侵入しました。 ブラチスラヴァのユダヤ人評議会の枠組みの中で運営されていた作業グループ(Pracovna Skupina)のリーダー、フライシュマンは、スロバキアからのユダヤ人移送の阻止を試みました。 ホロコースト時代には何百万人ものユダヤ人女性が迫害され、殺害されました。 しかし結局のところ、彼女たちは女性という性別ではなく、ナチスの人種差別階層や宗教的または政治的関係に基づいた分類によって標的とされたのです。

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アウシュビッツ生き延びたエバ・コールさん死去、85歳 「死の天使」の人体実験も 写真3枚 国際ニュース:AFPBB News

ナチス の 人体 実験

<Dr. Robert Jay Lifton; Author The Nazi Doctors> ・囚人たちは列車で移送され、収容所に降り立つと、そこには赤十字をつけた救急車と医者( SS-Doctors:ナチ親衛隊の医師たち)が待ち構えていた。 ここには病院も医者もいて、病人や弱った人々を救ってくれるものと囚人たちはわずかな希望をもった。 ・囚人達は、収容所に入る前にまず、消毒をする必要があると言われ、そのための施設へと連れて行かれた。 健康な人は歩かせ、弱った人たちを救急車に乗せて運んだが、行き先は同じ強制収容所だったのだ。 ・ひとつにはユダヤ人たちが抵抗しないようにごまかすことも医者たちの役割だったと思われる。 また、医師の行為を正当化するためのごまかしでもあった。 ・アウシュビッツは単なる絶滅収容所ではなかった。 そこはドイツ人医師たちがまぎれもなく倫理的な教育・訓練をすべて裏切る行為を行った場所でもあった。 ・親衛隊の医師たちは、75〜90%の囚人に即刻「死」を申し渡した。 そして、残りの人たちは過酷な労働を強いられた。 新に送られてきた囚人たちは医学実験のために医師によって選別されたのだ。 <Dr Wolfgang Eckart; Medical Historian-Heidelberg University> ・最初に囚人を殺していろいろな実験に使用した。 様々な毒を注入し生体の反応を見た上で、最終的には殺し、脳や肝臓など内臓器官がどのように反応するかを調べた。 <Dr Wanda Poltawska; Concentration Camp Survivor> ・医者たちは送り込まれた囚人をみて、明日にも死にそうなものがいれば、「今日中に実験材料として使おう」と言っていた。 <Prof Henry Friedlander; Author The Origins of Nazi Genocide> ・まったく道徳的でも倫理的でもなかった。 彼らは、医師として一度も(病人や囚人達)の為になることを考えることはなかった。 ・ドイツ人医師たちは一夜にして殺人者になったわけではなかった。 ドイツ人医師たちは最初からユダヤ人を殺害していたのではなく、最初は、アーリア人系ドイツ人についての研究を行っていた。 1939年から、彼らは優生学の研究に着手し、「master race」、すなわち、優れた人種としての遺伝的な特徴などを研究し始めた。 そのために、劣性遺伝子を持った人種を抹殺しようとしたのだ。 ・(囚人たちが働いている様子を写した)このプロパガンダ映像は、カウフバーレン (Kaufbeuren)の精神病病棟で治療を施せば、いかに彼らが有益に働くことができるかを示すことだった。 ・一方で障害者たちは、生きる価値のない命、無駄に食べるだけの者たちだ、として根絶すべき命であると考えられていた。 彼らは本来ドイツ兵が使うべきベッドを占有しているとして、ヒットラーは彼らを抹殺することを承認し、その方法として「安楽死(euthanasia)」計画を進めた。 彼らはほかの人々と同じように寿命もあったにもかかわらず、抹殺されていった。 1939年ベルリン、ナチの高官たちは集まって、極秘のうちに「安楽死」計画について相談していた。 ドイツ中の病院から生産性のない患者たちが集められた。 この計画のリーダーたちはまぎれもなく「医師達」だった。 <Dr Michael Von Cranach ;Director - Kaufbeuren Psychiatric Hospital> ・集められたのは、20代からせいぜい35歳くらいまでの医者たちで、彼らは選ばれた特別なグループで、これから革命的なすばらしいことをやるのだと意気込み、何でも自由にやれるのだと思い込んでいた。 ・医者たちは犠牲者たちの「安楽死」の方法を慎重に検討し工夫した。 まず、人目につきにくい離れたところの施設を利用することとした。 技術者たちはそこに、ヨーロッパ最初のガス室をつくった。 患者たちはもともといた病院からそこに送り込まれていった。 ・Granfeneckという施設に着くと患者たちは、消毒のためにシャワーを浴びる必要があると言われ、裸にさせられシャワー室に入れられた。 特別なバスが仕立てられて患者たちはそこに集められていった。 <Dr Michael Von Cranach;Director-Kaufbeuren Psychiatric Hospital> ・最初のバスで来た患者たちは非常に正常で、今から何が起こるのかを知らなかったので自然に普通に振る舞っていた。 しかし、数週間後、グラフネックに最初に送り込まれた患者たちの衣類が汚れたひどい状態で送り返されてきたことにより、看護婦たちや患者たちは彼らが殺されたのだと悟った。 ・2回目の患者の移送からは、患者達は怖がって泣き叫び、大変な状態となった。 ある患者は、鎖でバスの座席に体を縛り、そこから降りないと叫んだり、司祭に救いを求めたりした。 患者たちはそこで何が行われるかを知っていたのだ。 医者たちはどの患者を殺すかを選別するだけでなく、殺害を監督し、執行者に簡単な説明を行った上でガスの栓を操作させていた。 <Prof Michael Burleigh; Author The Third Reich> ・実際には、配管工や猿を使ってガス栓を回すことができるため、医師たちはほんとうのところ、いかがわしい科学的、医学的なカモフラージュでこの計画を隠すためにそこに居たのだ。 <Prof Henry Friedlander; Author The Origins of Nazi Genocide> ・医師たちは自分たちがやっていることは医学ではないと知っていた。 誰がなんと言おうと、人を殺すことは医療行為とは言えないことは明らかだ。 ・医師たちの仕事は、彼らを殺す理由を作り上げることだった。 彼らは患者の家族に手紙を書いた。 <Dr Michael Von Cranach;Director-Kaufbeuren Psychiatric Hospital> ・患者がなぜ死んだのかの死亡診断書などをいろいろな病名を付けて書いて家族に送っていたが、家族は当然、自分の子供たちや家族が「殺されたこと」をよくわかっていた。 そんな嘘は通用しなかった。 ・1939年から2年間で何百人ものドイツの医師が、このような障害者たちを死に追やったのだ。 7万人以上のドイツ人、オーストリア人がこの秘密のハータイム城に集められ、ガス室に送られた。 家族が抗議したため、ヒットラーはこのガス室を1941年8月に取り壊すこととした。 しかし、障害者の殺戮は、終戦まで続けられていのである。 <Dr Michael Von Cranach;Director-Kaufbeuren Psychiatric Hospital> ・ドイツ中の病院では、注射による治療と偽って、毒物を患者に注射し殺害するか、または、ゆっくり餓死させる方法をとっていた。 ・一ヶ月以上も患者に食料を与えず餓死させるのを見ているというのはほんとうに残酷なことだ。 彼らの痛みや恐ろしい運命を見ていたら助けたいという気持ちになるのが普通なのだが・・・ ・親の居ない孤児たちにも危険な立場に置かれていた。 ・孤児だった一人の女性が最後に兄を見たときのことを覚えていた。 <Marly Speidel; Camp Survivor> ・ある晩、私と姉の姉妹は、寝室で目を覚まし廊下に連れ出されてみると、兄がきちんと洋服を着てスーツケースを持っていた。 「お兄さんは遠くに行くからお別れをしなければ、彼は大丈夫。 大丈夫」と牧師が言った。 ・11歳の兄のエルンストは児童養護施設で何度か盗みを働き、怠け者で施設では手に負えないとして、精神科病棟に送られた。 そこでは、彼は好ましくない病気という理由から、ゆっくりと餓死させられることになった。 <Dr Michael Von Cranach;Director-Kaufbeuren Psychiatric Hospital> ・彼は何度か台所に忍び入って林檎やパンを盗んで飢えている他の病人たちに分け与えたが、それが精神病棟の医師や監督に見つかり、「彼はやっかいもの」と判断され、処分されることになった。 この子は精神的に病気ではなく、単に、生活が苦しく生きるのが大変だった子供に過ぎなかったのに。 ・1944年8月9日の夜、エルンスト・ロッサは腸チフスの治療として注射をされることになったと告げられた。 <Marly Speidel; Camp Survivor> ・それは腸チフスを治療する注射ではなく、ごまかしの(偽の)注射だった。 14歳くらいの子供は精神的には病んでいたが、絶対に腸チフスではなかった。 そのことは彼のカルテにも書かれていた。 彼は、今でもそこらに居る子供と同じように、ただちょっと扱いが難しいだけの子供だったのだ。 ・エルンストの遺体はカーフベーレンの近くの墓地に埋葬された。 彼は戦争中に病院で殺された250人の子供のなかの一人に過ぎなかった。 医療関係者たちは、その他に600人の大人を殺害したのだ。 ・墓地にはそれらの人々の墓標はない。 なぜならまとめて集団埋葬されたからだ。 ・ある精神科医は、システマティックな病人の殺害によってこの先、医者が余ってくることを心配しはじめていた。 <Prof Michael Burleigh; Author The Third Reich> 彼らは医者としての将来が保証されるのかどうか気になっていた。 次第に彼らは、枝の先に座っていていつしか切り落とされるのではないかということを認識するようになった。 そして、この政権(政策)の下での仕事の中から何らかの副産物的な成果を見いだそうとする者もいた。 そして、多くの20世紀の学会や科学者がそうであったように金儲けのために、人を殺すことを通じて様々な副産物的な(派生的な)研究テーマを見いだそうとした。 <Prof Henry Friedlander; Author The Origins of Nazi Genocide> ・彼らは子供達に対して非常に痛々しい死に直結するような実験を行っていった。 ・彼らは、脳を研究するとして子供を(様々な実験で)殺し、殺した後で解剖して脳を取り出し、さらに研究した。 こうした研究を彼らは完全に合法的なものと考えていた。 これは研究目的なのだとして。 <Dr Michael Von Cranach;Director-Kaufbeuren Psychiatric Hospital> ・ベルリンから来た医師は医学実験を繰り返した。 彼らは、6人の精神的に障害のある子供達を選び出し、感染症の予防接種として、新たなワクチンを接種し実験を行い、そのうちの何人かは感染して発症し、数名は死亡した。 ・彼らがこのような実験をした背景には「価値のない人間」という基本的な認識があったからだ。 だから、実験に使っても良いと考えていたのだ。 <Prof Henry Friedlander; Author The Origins of Nazi Genocide> ・もちろん彼らは、こうした実験をしたのは病気を予防するためだと主張していたが、彼らは、むしろ、人間を改良することを目的に行っていたのだ。 それと同時に、彼らは自らのキャリアを上げるために行っていたと私には思える。 ・アメリカ軍がこのカーフボールンを開放した時、病院のスタッフ達は最後まで病人達を殺し続けていたことがわかった。 死体の中には、この病院の副院長であった医師の死体もあった。 彼は、連合軍が来ることを聞いて、自ら命を絶っていたのだ。 ・ヒットラーは、1941年にドイツ人の障害者たちをガス室で殺害することを禁止する命令を出した、しかし、彼は医師達が引き続き病人を殺し続ける方法を指示していた。 (ここでの殺害は)ナチは絶滅が最後の解決策と説明したことの舞台稽古に過ぎなかった。 ・ガス室を運営していた親衛隊の医師達は、ポーランドの絶滅収容所に配置換えとなり、彼らはT4というコードネームで知られていた。 ・戦後、ドイツの国民は、連合軍によって収容所の見学ツアーに連れて行かれた。 ほとんどの人々は恐怖におののいた。 ブーフェンワルド収容所の研究室では、医師達の残虐な研究の成果を見ることになった。 ここは、科学者達が最初に囚人を実験に使用した収容所だった。 しかし、それはここだけではなかったのだ。 ・医師は親衛隊に加わった者達の中で、最大の専門職グループだった。 彼らの罪は非常に大きかったため、ドイツで何カ所かに分かれて裁判が行われた。 裁判シーン:彼らの目的は病気の治療ではなく、いかに彼らを破壊し殺すかだった。 ・ニュールンベルグ裁判では、若いポーランド人の女性が恐ろしい実験の証人として出廷した。 トスカさんは、ポーランドのレジスタンスのために働いていたが、ナチに拘束され、女性だけの強制収容所であるRavensbruckに移送された。 ある日彼女は親衛隊の医師のところに出頭するように言われた。 <Dr WANDA POLTAWSKA; Ravensbruck Survivor> ・私たち6人は8月22日?に招集され、私は処刑されるために呼び出されたと確信した。 彼らは私に清潔なシャツとベッドをくれたけれど、何をされるのかとても怖かったのを覚えている。 ・ドイツの兵隊達は前戦で酷い怪我をするので親衛隊の医師達は薬品の効果を確かめるために収容所の囚人に兵隊と同様の傷を負わせ、実験を行った。 <Dr WANDA POLTAWSKA; Ravensbruck Survivor> ・私がいたグループでは、バクテリアを骨髄の空洞に注射し、身体が感染症に対してどう反応するかを見るという実験が行われていた。 非常に高熱が出た。 彼らは、どの程度の高熱に身体が耐えられるかを見ていたのだろう。 私のグループでは何人かが亡くなっていった。 ・親衛隊の医師達が手術を行っていた。 彼らは健康な骨や筋肉をはぎ取り、そこに炸裂した手榴弾の破片やドロ、バクテリアなど開いた傷口から押し込んだりして、戦場の状況を再現して実験を繰り返した。 <Dr WANDA POLTAWSKA; Ravensbruck Survivor> ・私の手術はきれいなシーツを敷いた手術台で行われたが、他の人たちは汚い足で立ったままとか、汚れた台の上で手術をされていた。 こんなことはまさに医学の原理原則に完全に違反しており、最も非人間的な行為に他ならなかった。 ・5人の女性がこのような傷の実験によって死亡した。 他の人々は一生それによって苦しむことになった。 しかし生き残った4人は、医師達の裁判で彼らを苦しめた暴行について証言することができ満足することができた。 ・裁判で、主犯格の医師は死刑や終身刑を宣告された。 裁判の場面での判決の言い渡し ・ニュールンベルグで、弁護士は傷の実験は、戦争への貢献の一部であると主張したが、この主張は他の医師達が行った実験については適用できなかった。 ・最も忌まわしいのは当時尊敬を集めていたカール・クロバーグ(Carl Clauberg)教授だった。 彼は、多胎をもたらす二つのホルモンを発見した著名な科学者である。 優生学を通して人口を増やすことに夢中になった国に送り込まれた「神」のような存在だった。 <Prof. Carl Clauberg> <Dr. Robert Jay Lifton; Author The Nazi Doctors> ・優生学の専門家であるクロバーグは生殖学を得意としており、それは、不妊の人を助けるための学問だった。 彼は熱心なナチの党員で、ヒムラーとも接触していた。 ヒムラーは彼に、逆のことができないかと頼んでいた。 つまり、我々が求めない人々、すなわちユダヤ人とかその他の劣勢と判断された人々に対して、積極的な優生学ではなく、消極的な優生学を推進することであり、そのことを念頭に不妊方法を開発するというものだった。 ドイツの主要な医薬品メーカーは、強制収容所の囚人達を使って新しい医薬品のテストを行っていた。 ナチス政権はこれを推奨していたのだ。 これは儲かる官民の連携だった。 クローバーグ教授は、招聘されアウシュビッツを活用して彼の実験を行うよう誘われたのだ。 <Prof Henry Friedlander; Author The Origins of Nazi Genocide> ・クローバーグによって遂行されたアウシュビッツでの不妊実験は、人々が不妊治療されていることに気付かないまま、大勢を不妊にすることができた。 <Dr. Robert Jay Lifton; Author The Nazi Doctors> ・彼は、この方法が完成すれば、おそらく千人の女性を一日で不妊にすることができるというとんでもない主張をしていた。 ・ナチの計画はスラブ人を強制労働に使うことだった。 この集団不妊の方法は、スラブ人が(不妊になることによって)ドイツ人の人種的純粋性に与える脅威を無くすことができるという大きなメリットがあったのだ。 クローバーグの追求は、いかに安上がりに集団不妊の方法を見いだすかということでありそのために彼は、数百人の女性に対して、実験を行った。 その中の一人がモニカ・ドンケだった。 彼女は22歳で、ポーランド人のレジスタンスを支援したということでアウシュビッツに送られていた。 <MONIKA DOMBKE; Auschwitz Prisoner, Survivor> ・女性達はテーブルの上に横になるように言われた。 洋服は脱ぐように言われ、みんな裸になった。 ずっと裸のままだった。 彼らは我々の身長、体重、骨盤などを計測。 血液を採取され、何かの検査が行われていた。 ・ヒムラーの後ろ盾をうけ、クロバーグはアウシュビッツで医療施設を借りることが出来た。 1943年4月、第10ブロックが彼の悪名高い実験研究室となった。 ・囚人の中にはそれぞれの分野で名高い医師達がいたが、彼らはクロバーグに実験を行うように強制された。 クロバーグは不妊実験を行うために500人以上の若い女性の囚人を選びだした。 ・教授は親衛隊に対して一週間に1マルクを支払い、また、囚人の医師達や人間モルモットに対して同様にお金を支払った。 <MONIKA DOMBKE; Auschwitz Survivor> ・いろいろなテストが行われたが、最終的になんらかの液体が生殖器内に注入された。 しばらく待つように指示され、その後夜になって、それぞれのバラック(宿舎)に戻ることを許された。 ・クローバーグは(薬剤の)処方(作り方)については秘密にしていた。 彼は不妊の安価な方法の開発で利益を得ようと目論んでいたのだ。 ドイツ最大の医薬品会社の化学の専門家は、彼と一緒にアウシュビッツで働いていた。 <MONIKA DOMBKE; Auschwitz Survivor> ・その後、体全体に感染が起こり、酷い悪臭と炎症で、しばしば出血した。 ときには、彼らはさらに液体を挿入し、その後我々を開放した。 ・クロバーグはモニカの子宮頸部に腐食剤を注入していた。 その薬剤によって彼女の卵管は塞がれてしまった。 他の多くの人々は、感染によって死亡した。 その他の人々は生き残ったが、教授の目的は一年後にその女性達に強制的に性交させ、不妊処置の注射が有効かどうかを確認することだった。 ・クロバーグは彼の実験を完成させることは出来なかった。 しかし、彼はモニカが子供を産めない身体にしてしまったことは間違いない。 <MONIKA DOMBKE; Auschwitz Survivor> ・このことは私の人生にとって大きな問題となった。 私は裕福な家の一人息子と結婚したが、子供はできず、まもなく私の夫は婦人科に私を連れて行った。 義理の母は私に何故子供が出来ないのかと尋ねた。 私はほんとに子供が欲しかった。 そしてその子供を一国国民としてだけでなく、世界の一員、一市民として育てたかった。 ほんとうに辛かった。 ・クロバーグはロシア軍に拘束された。 しかし、1955年に戦犯として釈放された。 彼は、彼の事件がドイツで裁判に掛けられる前に死亡した。 しかし、アウシュビッツを優生学という名の下で野蛮な実験の場として使っていたのはクロバーグ医師ひとりだけではなかった。 ・同じ収容所で働いていたのが、ヨセフ・メンゲレ医師であった。 27:44 アウシュビッツ-ビルケナウはナチの最大の強制収容所というだけではなかった。 そこは、近くに工場を建設していたドイツ国内の主要産業にとっての強制労働者の供給場所でもあった。 巨大な新しい工場では、囚人労働者は過労で死ぬまでに3ヶ月から6ヶ月働くのが平均だった。 多く労働者が病気か飢餓で死んでいった。 ・労働力は親衛隊の医師達によってコントロールされていた。 彼らは、誰が働けるか、誰は働けない者として抹殺するかを選別していた。 <Dr. Robert Jay Lifton; Author The Nazi Doctors> ・彼らは、単純に相対的に元気な若い成人を選別していた。 老人、子供、妊婦などは直ちにガス室に送られて殺された。 しかし、ナチは彼らを医療用人材(キャスト)として提供することを求めていた。 そして、それを医学的な考えの領域の中、医学の正当性という名の下で行っていた。 そのために、医師たちはアウシュビッツに集まっていたのだ。 ・Ellaはオーストリアの医師で、1943年にユダヤ人をかくまったために、アウシュビッツに送られていた。 ある日彼女は、親衛隊たちが、死んだ囚人達の遺体を焼いているのを目撃した。 <Dr Ella LINGENS; Auschwitx Survivor> 私は隣にいた親衛隊の医師達に聞いた。 「貴方はこの現実と医師倫理綱領の宣誓とをどう調和させることができるのか」と。 彼はこう答えた。 「私は医療倫理綱領の宣誓をして居るからこそ、ヨーロッパという身体に付いているただれた突起であるユダヤ人を取り除かなければならないということだ」と。 つまり、このことは、彼の哲学・信念にそって、いかに真実をねじ曲げているかということを示しているに他ならなかった。 ヒットラーの右腕、ハイリッヒ・ヒムラーは、親衛隊の医師たちが唯一、アウシュビッツで選別を行う資格を持った人々だと述べていた。 ハンス・ミュンヒは、アウシュビッツの医師のなかで、戦犯裁判で無罪となった数少ない人物の一人であった。 しかし、彼は、ヒムラーの命令を覚えていた。 <Dr HANS MUENCH;SS Doctor Auschwitz interviewd in 1994> ・ヒムラーは完全主義者だった。 選別が行われる時、素人はある種の特徴を見抜くことが出来ないので、ガス室に送る人が多くなりすぎたり、少なすぎたりするが、君たちはしっかり選別できる資質をもっている、と。 ・それは、毎日の仕事だった。 普通の医師が患者を診察して、今日何をすべきか指示していた。 移送全体のことを考えて誰が使えそうで誰は使えないかを判断するのだ。 ・12歳以下の子供は若すぎて労働力として使えないと判断され、すぐさまガス室に送られた。 しかし、ロシア軍が1945年にアウシュビッツを開放した時、大勢の子供達が未だ生きていたのに驚かされた。 彼らの多くは双子だった。 彼らには多くの語るべき物語があった。 親衛隊は大きな犬を連れてきて私たちはとても恐ろしく見ることも出来なかった。 犬を連れている人を見るのはまるで悪夢のようだった。 彼らは、「双子、双子」と叫び、母の所にやってきて、彼女が「双子を連れて」いると叫んだ。 私たちはそっくりだったから。 ・少女達を選び出したのはメンゲレ医師だった。 かれは野望をもった遺伝人類学者で、特に双子に興味を持っていた。 彼は、Vera Kregelとその姉妹を抽出した。 <Dr Mengele> <VERA KRIEGEL; Auschwitz Twin Survivor> ・私たちは彼が非常に恐ろしかった。 なぜなら「左右、左右」と、どちらを生かし、どちらをガス室に送るかを選ぶのだった。 まるでゲームをしているようだった。 <Dr HANS MUENCH;SS Doctor Auschwitz interviewd in 1994> ・メンゲレは私が接した中でも最もユニークな親衛隊の医師だった。 彼はいわゆる話がうまい医者だった。 メンゲレは親衛隊として生まれたような人物だった。 彼は非常に楽観主義で、虚栄心が強く、制服姿は格好良かった。 どういうわけか、彼は遺伝的性質についての理論に接することになり、この分野こそ医師として出世できる偉大な領域であると考えた。 そして彼は、アウシュビッツなら遺伝生物学の研究を行う機会が得られるとしてそこにやってきたのだ。 ・メンゲレだけが彼自身の個人的な研究を追い続ける唯一の科学者ではなかった。 彼は、ドイツで国際的に尊敬されているオットマー・ヴォン・ヴァシュア教授のもとで訓練を受けた。 ヴァシュア教授のベルリンにおける遺伝学研究は世界的に見ても最も長期間続けられた一卵性双生児の研究であった。 メンゲレはヴァシュア教授に新たな研究施設を提供した。 <オットマー・ヴォン・ヴァシュア教授> <Prof. BENNO MULLER-HILL;Geneticist-Cologne University > 戦争中、彼(教授)は双子を手に入れることが出来なかった。 そのため、研究室のポスドクであったメンゲレに、双子を沢山手配できる(手に入れることが出来る)と言われ、教授は非常に興味を持ったに違いない。 どこからであれ双子は双子であり、研究に必要だったからである。 メンゲレはさらに、異なる人種の双子が居るというとさらに、教授はさらに興味を持った。 そうした双子は手に入りにくいので、もし手に入るなら非常に素晴らしいと考えたのだ。 ・ヴァシュア教授は優生学者で反ユダヤ主義者だった。 彼は、複数胎児の妊娠を可能にする遺伝子工学ができれば「優性人種」を増やすことができると考えた。 彼の双子研究は身体の観察に限られていた。 しかし、アウシュビッツではメンゲレはそうした制限に直面する必要はなかったのだ。 彼は双子にどんな実験でも行う事ができたのだ。 なぜなら双子達はジプシーやユダヤ人の家族から提供されていたから。 そして、双子やその母親達がどうなるのかを見たかったのだ。 なぜなら彼らは母親にも実験を行っていたからだ。 <MOSHE OFER;Auschwitz Twin Survivor> ・彼らはジプシーのキャンプから双子の女の子を連れてきた。 彼女らはジプシーだ。 私が知っていることを話そう。 彼らはジプシーの女の子を連れてきて、十代の男子を連れていき、性器に多くの実験を行った。 <VERA KRIEGEL; Auschwitz Twin Survivor> ・彼らは私たちを裸にして部屋に連れて行き、女子も男子も一緒に部屋に入れられた。 その部屋には小さな観察用の窓があり、私たちが何をしているかを観察していた。 一日中裸で水も食べ物もなく、裸で閉じ込められた子供達がどのような行動をするかを見ていたのだ。 ・メンゲレの双子への実験はサディスティックなだけでなく、科学的にも欠陥のあるものだった。 彼は、遺伝学的な双子の研究の基本的なルールに従わず、対象は一卵性双生児だったが、人間モルモットに対する彼の欲望は、一卵性以外の双子も含まれ、さらには狡猾な双子まがいも含まれていたのだ。 <EPHRAIM Reichenberg ; Auschwitz Survivor> ・私は双子ではなかったが、双子のように見えた。 その時私は、一歳年上の兄と一緒だった。 非常によく似た兄弟だった。 他のユダヤ人の囚人と一緒に列に居たときに、列の間を双子を探していろいろなヨーロッパの国の言葉で叫んでいた。 双子を探していると叫んでいる。 誰かが、何語かで私たちにささやいた。 「今、双子だと言って名乗り出れば、生き延びられる」と。 そうして私たちは双子として研究所で最後の日を迎えた。 しかし、実際には私たちは双子ではなかったのだ。 <Dr. Robert Jay Lifton; Author The Nazi Doctors> ・双子の研究はすべて最初から欠陥だらけだった。 ひとつには、一卵性双生児と二卵性双生児との区分けがしっかりなされていなかったことである。 一卵性双生児は遺伝的に同一であるために非常に重要だが、二卵性はそれほどにておらず、二卵性の子供たちは(男女の区別なく)たちは、無駄な遺伝的実験をされたことになる。 メンゲレは、双子を比較対象実験に用いた。 例えば、双子の一方には実験を行い、一方には行わないというような。 そして最終的には二人は解剖台で終わりを迎え、二人がどのように違っているかを比べるというものだ。 戦争当時の遺伝学者はDNAの存在を知らなかった。 メンゲレは双子にいろいろな処理・手術をして形質的な遺伝についての理論を証明しようしたが、それはまったく間違った結果となった。 <Dr WOLFGANG ECKART; Medical Historian-Heidelberg University > ・当時は、分子遺伝学がまだ確立しない時代であり、双子の研究は当時の遺伝学研究の王道的な方法だった。 国際的にも非常に重要な研究だった。 しかし、国際的な双子研究の状況と異なったのは、ドイツの強制収容所の双子たちはすぐに殺されたことだ。 なぜなら、研究者は比較のために彼らの目が欲しいとか、比較するために肝臓が必要だ、など彼らの臓器を科学研究所で比較することが重要だった点が異なっていた。 <MOSHE OFER;Auschwitz Twin Survivor> ・居なくなった双子は二度と戻ってこなかった。 彼らは双子を連れ去って二度と戻さなかったのだ。 私の兄のことについて唯一知っているのは、兄は4回の手術を受け、4回目の手術の後、病院から戻され、私の腕の中で亡くなったことだ。 私は、兄の死体を、たくさんの死体が積み上げられた荷車に投げ込むように言われた。 でも私には出来なかった。 それは私には辛すぎた。 <Dr HANS MUENCH;SS Doctor Auschwitz interviewd in 1994> ・彼(メンゲレ)は、こんなことは今までになかった、今後もあってはならない、と言った。 彼はこの機会を(本来の)双子の研究に使うべきだった。 (ここで行われたような)悪い物を一方の双子に投与し、一方に与えないで、両方を解剖し、何が違うか変化を見るというようなことは、ウサギでなら可能だっただろう。 <Prof. BENNO MULLER-HILL;Geneticist-Cologne University > ・アウシュビッツでは、すべての垣根が取り外され何でも出来た。 そこでメンゲレはやりたいことを何でもやってみることが出来たのだ。 ・多くの収容所の医師達は囚人達を殺害し、必要な身体の部位を(実験用、研究用)に提供し、ドイツ中の病院での教育や研究室で使ってきた。 ・ベルリンにあるカイザー・ウィルヘルム研究所の人類学・人類遺伝学研究所では、ヴァシュア教授が責任者だった。 1943年の夏、メンゲレは、この研究所に得意な色の6組の目を送ってきた。 それは、殺されたジプシー一家のものだった。 <EPHRAIM Reichenberg ; Auschwitz survivor> ・正確には何があったか知らないが、少なくとも自分と兄については、首の付け根のところに何かを注射され、それによって喉が痛み、喉が腫れ上がり、高熱が出た。 彼らは、兄の声がなぜ美しい歌声で、自分の声は低いしゃがれた声なのかを知りたかったようだ。 この違いを見いだそうとしてこの措置をしたものの、彼らは何ら結論を得られなかった。 <Prof. BENNO MULLER-HILL;Geneticist-Cologne University > ・もし、すべての禁止事項や道徳的な抑止力を失ってしまった場合、もはや合理的な詳細を気にしないことに興奮し、この方法が本当に良いかどうかは気にしなくなる。 そして、この観点からその人がやっていることはすべて間違っており、すべてが無駄になる。 まさにこれがここで起こっていたことなのだ。 ・メンゲレは二人の子供を縫い合わせてシャムの双子を作り出そうとしていた。 彼は囚人の医者にこの手術を行うように強制した。 そして、もしその結果が迅速でなく彼にとって興味のないものだった場合には、その対象を殺させた。 <EPHRAIM Reichenberg ; Auschwitz survivor> ・彼自身はほとんど何の手術も行わなかった。 彼は、単に手術が行われるときに現れるだけだった。 彼は実験の最中、ノートをとっていた。 私はメンゲレに対して個人的に重大な疑問を抱えてい。 それは非常に大きく重大な疑問だった。 なぜなら、私は時々、もし、自分が彼の役に立たない囚人(子供)だったら私は生きていられなかったのではないかとと思う。 アウシュビッツのメンゲレの研究からは何か役に立つ成果を得ることはできなかった。 ドイツの製薬会社は彼らの製品が収容所で開発されたものだとは決して認めない。 メンゲレ自身、彼のやっていた実験は犯罪であると知っていた。 彼は他愛ない記録で嘘の研究ファイルを作成し、リネンズ博士からアリバイを提供してもらうと協力を求めた。 しかし、彼女は決して彼の実験を証明しなかった。 <リンゲンズ博士> <Dr. ELLA LINGENS; Auschwitz survivor> ・彼は私を部屋に連れて行った。 そこには沢山の書類が広げられていて私にそれを見るように言った。 そして彼は、「どうだい、完璧に通常の科学的な仕事で参考になる研究だと言えるだろう。 」と言った。 そして私は書類に目を通し、どうして欲しいのかと言うと、彼はこう言いました。 「この研究成果がすべてロシア人のボルシェビキ(共産党員)に持って行かれてしまうのはいかにも残念だとは思わないか」と。 というのも、私の証言がなかったら、彼は逃げられないかも知れないので、彼は私にその仕事を示して証人になってもらい、完璧に通常の仕事だと言って欲しかったのだと思う。 ・1945年1月、ソ連軍がアウシュビッツに侵攻していった。 メンゲレは彼の多くのファイルをカイザーフィルム研究所に送っていたが、これらは1960年代に破壊された。 彼自身はソ連軍が到着する前に逃げていた。 戦後、彼の恩師であったヴァシュア教授は、彼がメンゲレから受け取った資料や材料などを燃やしてしまった。 ヴァシュアは犯罪訴追から逃れ、1969年に亡くなるまで、尊敬される遺伝学者として研究を続けた。 <Dr WANDA POLTAWSKA;Ravensbruck Survivor> これらナチスの医師たちが取った行動が、当時の立場をはるかに越えるような意味合いを持っていたということについて、人間の犯罪を正当化するにはどうすればよいのだろうか。 起こったことは医療倫理に対して重い負担となっている。 医者は本来、高貴な職業であり、年齢や世界をとわず、医師がヒポクラテスの誓いを立てたのは、医師だけが人を助けて、決して人を傷つけてはならないことを約束する美しい宣誓であったはずである。 <Dr. Robert Jay Lifton; Author The Nazi Doctors> ・アウシュヴィッツでのいわゆる実験やいわゆる研究を腐敗させたのは、何かひとつのものではなく、アウシュヴィッツの雰囲気そのものが完全に腐敗と悪だったからに他ならない。 <Prof. BENNO MULLER-HILL;Geneticist-Cologne University > ・私は、アウシュヴィッツでのメンゲレによる実験は、人間遺伝学の歴史の最も不愉快な部分であると思う。 また、私は科学は歴史に直面していなければならないと考える。 そして歴史を振り返る必要がある。 歴史を顧みない科学を私は信用できない。 それはひどく不愉快かもしれないが、その視点から、行われた可能性のある大きな出来事ととして見なければならない。 END ROLL 以下はプロデューサー、監督など主なスタッフ Executive Producer DAVID DARLOW Narrator SEBASTIAN FAULKS Music ELIZABETH PARKER …… Research PIA TURUNEN-RUSINEK ERI SILVER Camera FRANK-PETR LEHMANN CHRIS MERRY YORAM MILLO ……. Production Coordinator FIONA HUTCHISON Production Manager MARIAN LACEY …… Editor ANDY TAYLOR Produced and Directed by 制作・監督 SASKIA BARON.

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ナチスの人体実験とニュルンベルク・コード

ナチス の 人体 実験

「母がいてくれたから、こうして生きているんです。 母は私たちの髪をとかし、雪のなかで入浴させ、双子の実験区画にこっそりパンを持ってきてくれました」 メンゲレが2人に実験をしていると、そこに母親が飛び込んできて、やめてくれと懇願したこともあった。 母親は罰として何かの注射を打たれ、その後2週間、意識を失っていたという。 「母は私たち姉妹のヒーローなの。 私たちのように双子が2人とも強制収容と実験を生き延びたケースはほとんどありません」とリアは話す。 リアとイェフディット姉妹は1937年、北トランシルヴァニアに生まれた。 故郷の町は1940年、ルーマニア王国からハンガリーに割譲された。 1942年、2人の父は強制労働班に配属される。 1944年5月、姉妹は母とともにシムレウのゲットーへ送られ、その月の終わりにアウシュヴィッツに強制連行された。 アウシュヴィッツに送られた全親族のうち生還したのはリアとイェフディット、そして母親の3人だけだった。

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