ウテナ 王子様。 「少女革命ウテナ」に何度でも救われる

【少女革命ウテナ】西園寺‥なんだこのサイテーな男は

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「昨年3つの「ウテナ」が終了した。 TV版「ウテナ」と漫画版「ウテナ」と舞台版「ウテナ」である。 TV版は「王子様はいない。 あえて王子様になろうとする者は、こんなにつらい」という男性の女性に対する主張の出たラストになっていて、これは作品を創ったのがビーパパスの男性スタッフだったから、当然の結果だった。 」(さあ私とエンゲージして/さいとうちほ) 緊張のあまり吐きそうになりながら観た「少女革命ウテナ」の最終話「いつか一緒に輝いて」の放映日から、長い年月が過ぎようとしています。 筆者の感想は「大変なものを見せられてしまった。 どうしよう」でしたが、当時は、「よくわからなかった」という感想が大半でしたし、「期待はずれ」という評価もありました。 結末が「王子様になった天上ウテナが姫宮アンシーを救う」なら、「少女革命ウテナ」は、もっとわかりやすい作品になっていたはずです。 期待通りのラストに、視聴者の多くが、スッキリとした満足感を得ることができたでしょう。 けれど、天上ウテナは「おせっかいな勇者様」になることはできても、「本当の王子様」になることはできませんでした。 あれほどひたむきに姫宮アンシーを救いたいと願い、彼女のために命がけで闘った天上ウテナが、なぜ王子様になれなかったのでしょうか? ビーパパスの一員であった榎戸洋司によれば、「王子様、というのは、女の子がお姫様になるために必要な装置である」(少女革命ウテナ脚本集 下 薔薇の刻印/榎戸洋司/アニメージュ文庫)とのことですが、筆者は、男の子にとってのお姫様についても、同じことが言えると考えます。 つまり、「お姫様、というのは、男の子が王子様になるために必要な装置である」わけです。 王子様を王子様たらしめるのは、お姫様の存在であり、男の子が王子様であるためには、彼が守ってあげるお姫様が必要です。 自分に恋をして、自分を頼る女の子がいれば、男の子は自分を肯定することができます。 自分を必要とする女の子に、己の存在理由を見いだすことができるのです。 「少女革命ウテナ」の世界で、守ってあげるべき対象の女の子は、「輝くもの」であったり、勝者の証であったり、純愛を捧げる対象であったりしました。 そういう守るべき女の子、男の子が王子様になるために必要な装置であるお姫様が、お姫様になることを拒否したら……王子様を拒絶してしまったら? 最終回、鳳暁生に別れを告げた姫宮アンシーが体現していたのは、まさしくこのことでした。 「もういいんです……あなたはこの居心地のいい棺の中で、いつまでも王子様ごっこしていてください……さよなら」 「私はお姫様にならなくていい」と決めた女の子は、王子様という装置を捨ててしまいます。 お姫様に逃げられた王子様には、存在理由がありません。 男の子は、本物の王子様ではなく、「王子様ごっこ」の王子様になってしまいます。 拒絶された王子様は、「少女革命ウテナ」の初期にも登場しています。 「僕が君を……僕が君の美しい音色を守ってあげるよ」 これは、第5話「光さす庭・フィナーレ」の薫幹の台詞ですが、守られているお姫様であるはずの姫宮アンシーは、対戦者の天上ウテナに声援を送ります。 「そこだ~ウテナ様、やっちゃえ~」 姫宮アンシーにとって、薫幹の思いは、滑稽なひとりよがりの「王子様ごっこ」でしかありませんでした。 最終話にもどって、生徒会のデュエリストたちがバーベキューを囲み、有栖川樹璃が、「姉を助けようとして川に飛び込んだ少年の名前を忘れてしまった」という話をするシーンに注目してみましょう。 つい話に引き込まれてしまいますが、音声を消して見ると、話し手の有栖川樹璃、聞き手の西園寺莢一、桐生冬芽、薫幹の瞳が、震えていることに気付きます。 指輪をはめた彼らは、デュエリストです。 決闘の勝利者には薔薇の花嫁が与えられ、世界を革命する力を手にすることができるといわれています。 デュエリストであるということは、つまり、王子様をめざす者である、ということなのです。 人よりも優れているという自覚を持つ彼等は、彼等をデュエリストに指名した「世界の果て」である鳳暁生に時には逆らいながらも、二度、あるいは三度、薔薇の花嫁を奪い合う決闘というゲームに参加することになります。 彼等デュエリストにとって、そして、元王子様であった鳳暁生にとって、「王子様になる」というのは、どういうことだったのでしょう? 第34話「薔薇の刻印」で描かれた小屋に押し寄せてくる人々、紙を吐き続けているFAXの描写は印象的でした。 王子様になれば、どんなに疲れていても、傷ついていても、「守って」と救いを求める女の子たちの期待に、応え続けなければなりません。 バーベキューのシーンのデュエリストたちが、ひどく傷つけられた表情を見せてるのは、「王子様になる」ということが、助けようとした女の子を助けられず、その上、名前も忘れられてしまうくらい虚しく、割に合わないことだ、と悟ってしまったせいなのかもしれません。 王子様を目指すということ、デュエリストであり続けることは、早々にこのゲームから身を引いた桐生七実が言った通り「バカバカしいこと」に違いないのです。 このバカバカしさを理解した上で、それでも王子様になることを選んだ者が、お姫様に、「守ってくれなくてもいい」と拒絶されたら、一体どうすればいいのでしょうか? 姫宮アンシーに捨てられた鳳暁生の、 「どこへ行くんだ、アンシー!」 という悲鳴のような叫びには、自分の存在のすべてを否定された悲哀さえ滲み出ていたように思います。 かつて王子様であった鳳暁生は、デュエリスト同士の決闘によって出現した最強の王子様の剣によって、ディオスの力を取り戻そうとしていました。 「薔薇の刻印の掟」と彼が呼ぶ企みは、用意周到に準備され、最強の剣を持つ天上ウテナが「世界を革命する者」に選ばれました。 「あの扉には、永遠の、輝くものが、奇跡の力がある」 「力があれば何でもできる。 彼女を運命から解放することもできる」 「力がなければ、所詮誰かに依存した生き方しかできないのさ」 鳳暁生は、ディオスの剣より強い天上ウテナの剣を欲し、彼女を誘惑し、彼女と決闘し、そして姫宮アンシーの手で彼女を傷つけて、それを奪います。 「だけど、力をどう使うかは……俺が決めることさ」 鳳暁生は、天上ウテナの剣で薔薇の扉に挑みますが、剣は折れてしまいます。 「この剣でも、また駄目か」 彼は、薔薇の扉を開けることが出来なかった理由を、「天上アテナの剣が、本物の王子様の剣でなかったから」と考えたようです。 が、本物であろうがニセモノであろうが、王子様の剣では、薔薇の扉を開くことはできなかったのではないでしょうか。 この後、天上ウテナは、剣によってではなく「ひたむきさ」で封印を開きますが、それでも、彼女は、自分が、王子様にはなれなかったことを認めています。 「やっぱり僕は王子様になれないんだ。 ごめん、姫宮……王子様ごっこになっちゃってごめんね」 このことは、何を表しているのでしょうか? 封印は、なぜ、王子様の剣で開かなかったのでしょうか? 封印を開いた天上ウテナが、王子様になれなかったのは、なぜでしょうか? 「そのとき、奇跡の力で僕は本当の王子様に……」 「どうせアニメでしょ、それって」 最終回の予告に登場した影絵少女の台詞には、「普通のアニメだったら、最終回に王子様になれるだろうけど、これはそういうお話じゃないよ」という警告が込められていました。 「革命とは、支配されている者が、その支配のシステムを破壊することである。 少女革命とは、だから少女が、少女を支配するものから自由になる物語だ。 」(少女革命ウテナ脚本集 下 薔薇の刻印/榎戸洋司/アニメージュ文庫) もし、天上ウテナが王子様になってしまったら、それは姫宮アンシーにとって、鳳暁生と天上ウテナが入れ替わるというだけで、革命とはなり得なかったでしょう。 天上ウテナが王子様になる、ということは、「王子様とお姫様」というシステムを肯定することです。 その支配のシステムを否定して、革命を成し遂げるために、天上ウテナは王子様となってはならなかったのです。 だからこそ、天上ウテナが王子様になった、と視聴者が確信した瞬間に、姫宮アンシーは、天上ウテナを刺さなければならなかったのでしょう。 最終回、「彼女(ウテナ)にも革命は起こせなかった」と呟く鳳暁生に、姫宮アンシーは、こう告げます。 「あなたには何が起こったかもわからないんですね」 ウテナの物語の中で成し遂げられた少女革命は、また、少年革命でもありました。 女の子を支配していた「王子様とお姫様」というシステムには、男の子も支配されていたからです。 守るべき女の子がこのシステムを否定して、お姫様をやめてしまったら、男の子も王子様を目指す必要はなくなってしまいます。 支配のシステムから自由になった女の子と男の子は、一体、どこへ向かうことになるのでしょうか。 第39話のラストで私達の前に示されてのは、「いつか一緒に……」という漠然としたビジョンでした。 「行く手の道程は、降る雪で定かに見えない。 だが姫宮アンシーは、毅然とした歩様で、その寒い道を歩きはじめた。 」(少女革命ウテナ脚本集 下 薔薇の刻印/榎戸洋司/アニメージュ文庫) 「王子様とお姫様」というシステムは、最近いろいろな不都合が目立つようになってきましたが、それでも何百年も何千年も機能してきた、それなりに便利なシステムです。 姫宮アンシーの鳳暁生に対する思いは、このシステムの中で成立していました。 システムが脆弱なものであるならば、姫宮アンシーと鳳暁生の絆は、とっくの昔に断ち切られていたはずなのです。 そういう強固なシステムだからこそ、「システムが破壊された後、どうすればいいのか」は、簡単に解決できる問題ではありませんし、物語の中でシステムが破壊されたことすら、今だに理解されているとはいえない状態です。 けれど、「少女革命ウテナ」は、確かに、少女の革命を描く物語であり、それは、少年の革命を描く物語でもありました。 天上ウテナを王子様にせず、安易な結末に視聴者を導かなかったことで、「少女革命ウテナ」は、「よくわからないけど好き」「よくわからないけど感動した」と、今も語り継がれるアニメになったのではないでしょうか。 引用・参考文献 「とりかへばや、男と女」河合隼雄著 新潮文庫 「少女革命ウテナ脚本集 上」榎戸洋司著 アニメージュ文庫 「少女革命ウテナ脚本集 下」榎戸洋司著 アニメージュ文庫.

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少女革命ウテナ

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あしかけ1年くらいかけて、今日ようやく『』を見終えました。 最終回「いつか一緒に輝いて」を見終えた瞬間の胸の滾りときたら、それはもう、筆舌に尽くしがたく。 創作物に触れて「言葉を失う」という体験をしたのはいつぶりだろうかというくらいの衝撃がありました。 とりあえず、思ったことを書き留めておこうと思います。 「王子様」の条件 『』は、主人公である天上が「王子様」になる物語である、と要約できるのではないか。 「王子様」とはいったい何なのか、それが鮮烈に示されるのが、後半の鳳暁生編、そしてそれに続く黙示録編である。 なのでこの文章では主に後半部分のことを語ることになると思います。 かつて人々を救う使命を背負った「王子様」は、その使命のために疲弊し、苦しむことになった。 「王子様」を救うためその力を封じたその妹=姫宮アンシーは、「魔女」として人々の憎悪を一身にあつめ、その憎しみの具現である無数の剣に貫かれ続けることになった。 「彼女が魔女と呼ばれたとき、ディオスもまた、王子様ではなくなった。 王子様としての俺は存在しない」 かつての「王子様」は、自身の妹である姫宮アンシーを結果的に「魔女」として責めを負わせ続けている。 そこから彼女を救うための「革命」のために、かつて「王子様」だった男が仕組んだのが決闘ゲームだったというわけだ。 おそらく、無限ともいえる回数を積み重ねられたに違いない決闘ゲームという茶番。 それは毎回、かつて「王子様」だった男が「王子の剣」を手中に収めるものの、結局「薔薇の門」、世界を革命する力を秘めた扉を破ることはできず、また「魔女」は剣に貫かれ続け、新たな決闘ゲームが開始される、という終末を迎えたのではないか。 その円環の中で、かつて「王子様」だった男は、理想の体現者であるディオスと、現実を相手に戦い続けられるだけの狡猾さをもつ「世界の果て」=鳳暁生のふたつに、自身を分けざるをえなかった。 理想の体現者ディオスはしかし、現実には無力であり、それと裏表をなすかたちで、「世界の果て」も理想を失う。 かくして「革命」の可能性は見捨てられ、真の革命の可能性をもっていたかもしれない決闘ゲーム自体も、歴史を繰り返すだけの茶番劇に堕してしまった。 その繰り返しの茶番の中で、アンシーは残酷な痛みと苦しみから脱け出せずにいたのである。 その無限の苦しみの円環から、アンシーを救い出すこと。 それがディオスの理想に触れた天上にとって、「王子様」になる、ということだった。 が「王子様」になることの不可能性については、作中で何度も言及される。 それは何より彼女が「女の子」だからだ。 女性らしくせよ、という圧力に彼女は何度も何度も遭遇する。 「もっと女の子らしくしなさい」 「第30話 裸足の少女」、女教師 「もし君が大きくなっても、本当にその気高さを失わなければ、彼女は永遠の苦しみから救われるかも知れないね。 でもきっと、君は今夜のことを、すべて忘れてしまう。 仮に覚えていたとしても、君は女の子だ。 やがては女性になってしまう」 「第34話 薔薇の刻印」、ディオス 「君はいい女さ。 女の子でいるべきなんだ」 「第38話 世界の果て」、鳳暁生 そして黙示録編では、彼女が「王子様」を目指すことをやめ「女」になった、とまで指摘されもする。 鳳暁生への恋心によって、彼女は「王子様」の資格を失ったのだろうか。 「彼女は、世界を革命する者になりたかったんじゃない。 だが、今の彼女の心はあなたにある。 王子様より、現実の男であるあなたを選んだ」 「第37話 世界を革命する者」、桐生冬芽 自身も、自分のふるまいを「王子様ごっこ」と自嘲気味に語りもする。 「でもボクの生き方は所詮、王子様ごっこなんですよね」 「第37話 世界を革命する者」、天上 しかしむしろ、この「王子様ごっこ」に過ぎないのではないかという自問が、アンシーを救いたい、という彼女の理想を明確に駆動させる。 「ボクは、君の痛みに気づかなかった.... 君の苦しみに気づかなかった。 それなのに、ボクはずうっと、君を守る王子様気取りでいたんだ。 ほんとは、君を守ってやっているつもりで、いい気になっていたんだ。 そして、君と暁生さんとの事を知った時は...。 ボクは、君に、裏切られたとさえ思ったんだ.....。 君が、こんなに苦しんでたのに....。 何でも助け合おうって、ボクは言ったくせに。 卑怯なのはボクだ。 ずるいのはボクだ。 裏切ってたのは、ボクの方なんだ」 の思いを、アンシーを救いたいと表現するのは間違いなのかもしれない。 結果的にアンシーを救うことになったわけだが、彼女の思いは、「アンシーと一緒にいたい」と言い表すのが適切だろう。 「きっと十年後にも、一緒に笑ってお茶を飲もう。 約束だ」 そのためには、薔薇の門へと手をかける。 どんなに自分が傷ついても、それが不可能だったとしても。 「女の子」なのに「王子様」を目指し続けた彼女にとっては些細なことだ。 どんなに全能の力があり、人間を自在にあやつることができたとしても、そんなことに大した意味はないのかもしれない。 しかし、その「ひたむきさ」だけでは打ち破れるほど、世界の殻は薄くはない。 「かつては俺もそうだった。 ひたむきさに価値があり、それが世界を変える唯一の術だとね。 だが、ひたむきさだけでは何も変わらない。 力がなければ、所詮誰かに依存した生き方しかできないのさ。 世界を変える力を得るため、俺は十分リスクを支払ってきた。 それが世界というものだ」 そうペシミスティックにごちってみせる「世界の果て」は、はたしてどれほど「ひたむき」だったのか。 その気高さを失うことを恐れて、理想と現実に自身をわけ、本当には「魔女」と向き合うことを避けてきたのではなかったか。 「王子様」が本当に「王子様」でなくなったの瞬間は、多分、理想と現実とを二分することを決断したときだ。 大人の狡知によって理想が傷つくことを避けてしまったことが、革命の可能性が失われた要因なのだ。 たとえ「女」だったとしても、気高さを失ったとしても、どんなに傷ついても、それでもひとりの「王子様」たろうとすること。 それこそが「王子様」の条件に他ならない。 ほんの小さな一歩、しかし果てしなく思い一歩 そのの行動も、結局は革命など起こせなかったのかもしれない。 あれほどの人気者だった彼女も、数ヵ月後には学園の生徒たちに忘れ去られ、彼らはいつも通りの日常を歩んでゆく。 彼女自身が言うように、それは「王子様ごっこ」にすぎなかったのか。 しかし、その行動がアンシー自身を変革した。 そのことがの為した唯一の、かけがえのない革命だった。 「今度は、私が行くから。 どこにいても、必ず見つけるから。 待っててね、」 アンシーが踏み出したこの一歩。 この一歩が踏み出されるためだけに、おそらく『』という物語はあった。 ほんの小さな一歩かもしれないが、それは果てしない重みをもつ。 こんなちっぽけな一歩が、いやちっぽけな一歩だからこそこ革命なのだ。 一歩を踏み出せないものは、学園という円環の中に囚われ続けるしかない。 御影草時はそのことに気付かないままに一方的に「卒業」を言い渡されたが、御影と暁生にそれほど本質的な違いはないのかもしれない。 一歩を踏み出すことができない男たちと、踏み出して見せた女たち ・アンシー。 その一歩を踏み出すためには、何よりもまず、自分自身のすべてを賭ける覚悟が必要なのだろう。 その賭金は、現実を知りすぎるほどに知っている暁生には重すぎるかもしれないが。 まとまりがありませんが、こんなことを思ったのでした。 劇場版はまだみてないので、はやいとこみたいです。

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「少女革命ウテナ」に何度でも救われる

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アニメ版とは異なる完全新作ストーリー。 映像美がすごいです。 考察もしたいと思います。 あらすじ 閉鎖的な名門校を舞台に、男装の美少女が繰り広げる愛と闘いの物語を独特の美的センスで描く、テレビ版の発展形として製作されたアニメーション。 監督は「R」の。 脚本は「 9戦士集結!ブラック・ドリーム・ホールの奇跡」の。 撮影を中條豊光が担当している。 (映画. com) 感想 完全に一見さんお断りの映画でした。 アニメを見ていてもこれは?と疑問に思うところがいくつもありました。 しかし、これはこれでカッコいいが見られるし、画作りも非常に綺麗、かつストーリーもアニメより分かりやすく構成されていて、見ていて楽しかったです。 劇場版ではやや説明調子なセリフがあったところは残念でした。 しかしながら、全体としてあふれる画作りがアニメよりパワーアップしており、見た目にも楽しめました。 また、描写としてもテレビの規制がないせいか、過激なものも多く、監督が本来表現したいモノを全て出し切っているような印象を受けました。 完全新作ストーリー(以下、ネタバレあり) 本作、『アドゥレセンス黙示録』はアニメ版とは異なったの話です。 いわば。 並行世界の話です。 アニメ版が原作漫画の翻案だとすると、劇場版はアニメ版の翻案といったところでしょうか。 本作は、桐生冬芽が亡くなっている世界。 そして、鳳暁生が亡くなっている世界です。 物語の中盤でこれが明かされるわけですが、結構驚きましたね。 2人が亡くなっている世界になることで、とアンシーの関係性がかなり明瞭になっています。 劇中のセリフにもありますが、これについては後述します。 とアンシーの描写 劇場版のは短髪で、より男らしく描かれています。 一方、アンシーはより積極的な性格で、エンゲージしたに対しても最初からタメ口で責めます。 アンシー、に変わっててマジか…と思いました。 しかし、これはこれで尺の短い映画において、との関係を早く前に進めるためには良い改変だったとも思います。 さて、劇場版ではは冬芽と幼馴染で恋をしていた設定になっています。 冬芽、ふつうに王子様ポジションです。 これにも結構驚きましたね。 普通に男性に恋をする。 可憐です。 は自分のせいで冬芽を死なせてしまったと、自責の念があるようです。 実際、学園の中でも冬芽の幻影を認めており、過去のトラウマから抜け出せていない様子が描かれています。 一方、アンシーも、兄である暁生を亡くしています。 劇場版での暁生は少しカッコ悪い一面も見せるちょいダサハンサムです。 それをが演じているので、ナゾの説得力がありました。 アンシーが暁生に対して、自分が死なせてしまったという自責の念があるかは定かではありません。 暁生は、アンシーにテイタな自分の一面がバレて、自暴自棄になって死んだようなものだからです。 ただ、そのせいでアンシーが薔薇の花嫁になってしまったのは明らかであり、心のどこかでは自分のせいで薔薇の花嫁になってしまったんだという後悔の念があるのでしょう。 とアンシーの関係性 劇場版ではとアンシーはどのような関係性でしょうか。 序盤、は西園寺との決闘を通してアンシーと知り合います。 アンシーは最初からグイグイ来るため、とアンシーの距離感が近いと思いました。 かといって友達のようかと言われれば、序盤ではアンシーがちょっとのことを下に見ているような気がします。 中盤では、は、冬芽がアンシーと関係を持ったのではないかと勘違いをし、アンシーに対して嫉妬心を持ちます。 いわゆる三角関係ですね。 しかし、アンシーにひどいことを言ったは反省し、アンシーとの真実の友情を求めます。 ここでの2人のダンスシーン、美しいの一言です。 赤いバラに囲まれ、水面に映る2人の姿の美しさたるや。 水面に映ったは長髪になってるんですね。 アンシーもまた、こそ、自分の求めた救済だと認めているのではないでしょうか。 終盤、幻影の城と暁生から抜け出したとアンシーは「外」の世界を目指して荒野を駆けんとします。 ここで、ははっきりと、本作におけるアンシーとの関係性をセリフによって明示します。 「僕たちは、王子様を死なせた共犯者だったんだね」 は冬芽、アンシーは暁生、というお互いにとっての王子様を亡くした、という共通項があったということです。 では、なぜ彼女たち「王子様を死なせた共犯者」は「外」を目指したのでしょうか。 「外の世界」とは 彼女たちが目指す「外の世界」とは一体何でしょうか。 それは一言で言えば「自由の世界」でしょう。 アニメ版ではアンシーがを求めて旅に出ます。 これは学園の「外」に旅に出ることを意味するものであり、本質的に劇場版でいうところの「外の世界」と同じだと思われます。 アニメ版をもう少し解釈すると、アンシーがを求めて「外の世界」を目指したのであれば、それはすなわち、がアンシーの行動の原動力・駆動力になったということです。 劇場版でも、は文字通り「車」に姿を変え、アンシーを外の世界へと導く駆動力となります。 「外の世界」はまずが求め、目指したものであり、それに感化されたアンシーもまた目指すことになったわけです。 劇場版では車での脱出の際、学園の仲間がたちを助けに来ます。 西園寺は「外で会えたら今度は堂々と落としてみせる」とアンシーに声をかけます。 樹璃は「外を目指すのは志高いことだ」とも言っていました。 「外に出て道を進み、世界の果てを広げ続ける」というセリフもありました。 これらのことから、「外の世界」というのは、目指すのは困難だが、非常に志高く、皆が求めているものだと思われます。 それはつまり、王子様を失ったやアンシーがお互い幸せになれるような許された世界(百合を考えてもいいでしょう)、学園の規則などがない開放された世界のようなものだと考えられます。 自由の世界を求めて荒野を駆ける2人、最高にカッコよかったです。 ワニの名は。 劇場版ではビデオテープの映像でしか出番がなかったチュチュ。 もっと見たかったです。 チュチュと一緒に、見慣れないワニのキャターが新しく登場していました。 このワニの名前、気になったのですが、のチャプター名を見ていると、ありました。 「ケロポン」というらしいです。 ワニっぽい見た目ですが、カエルっぽい名前が付けられていました(笑)。 シーツから蝶々が生み出るシーンは完全にメタファー。 劇場版では決闘が行われることは別に秘密ではないんですね。 劇場版公開は1999年で、アニメ『』の放映は1996年ですから、からインスパイアされたパロディかも。 「冬芽って誰だ?」は割とゾクッとしました。 冬芽がこの世にいないことの伏線でしたね。 まとめ さて、アニメ版とは似ても似つかぬ劇場版でした。 これはこれでアリ。 説明がきちんとセリフでなされるし、最低限の理解は出来るようになっていました。 何より35mmフィルムでの美しい作画の数々は素晴らしかったです。 音楽も相変わらず良いです。 アニメ版を楽しめた人はぜひ観るべきでしょう。

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