富士 フィルム adr。 富士フイルムの20年3月期、純利益17%増に上振れ 過去最高へ :日本経済新聞

富士フイルムのあゆみ 創立50周年を迎える

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1980年代に入り、当社は、活発な設備投資を実施し、他方、増資や転換社債の発行で資金調達も推進する。 この間、新製品の導入などにより、売上高は急増、1983年度(昭和58年度)には5,450億円を記録、自己資本比率も54. 6%と改善される。 そして、1984年(昭和59年)1月20目、当社は、創立50周年記念日を迎え、新たな半世紀への旅立ちの決意を新たにする。 1980年代に入って,当社は,磁気記録材料の需要拡大に備えた生産設備の増強ならびに研究開発設備の充実を図るため,1981年(昭和56年)12月14日払い込みで2,000万株の一般公募の増資(発行価格1,085円)を行ない,新資本金を167億9,256万円とするとともに,217億円の資金を調達した。 この結果,財務体質の改善も図られ,1982年度(昭和57年度)期末の自己資本比率は52. 9%(前期末は47. 1%)となった。 その後,1982年(昭和57年)11月,1株につき0. 1株の割合で無償増資を行ない,新資本金を184億7,181万6,400円とした。 しかし,公募増資後も,当社は,引き続いて生産設備の増強,フォトレジスト事業への進出のための新工場建設,研究開発体制の充実,あるいはオランダ現地生産工場の建設など積極的な企業活動を展開。 所要資金も急増したので,その一部に充当するため,1983年(昭和58年)7月,国内で第1回無担保転換社債300億円を発行すると同時に,オランダでダッチギルダー建転換社債1億ギルダー(邦貨換算額83億円)を発行した。 なお,オランダにおけるわが国企業の転換社債の発行は,当社が初めてであった。 1983年(昭和58年)6月14日から17日までの4日間,当社は,ロンドン・チューリッヒ・フランクフルト・アムステルダムの各会場に,多くの金融関係者や記者などを招いて説明会を開催した。 また,国内で発行した第1回無担保転換社債は,同年6月,日本公社債研究所にてAAA(9ランク中第1位,元利支払いの安全性が最高)と格付けされた。 第1回無担保転換社債券面見本 ダッチギルダー建転換社債券面見本 ダッチギルダー建転換社債の発行説明会 第1回無担保転換社債(国内) <募集内容>• 発行総額 300億円• 発行価額 額面100円につき 100円• 利率 年 4. 償還期限 1989年(昭和64年)7月7日• 申込期日 1983年(昭和58年)7月6日• 払込期日 1983年(昭和58年)7月9日• 利払日 毎年4月20日および10月20日• 転換の条件 転換価額 2,440円 転換請求期間 1983年(昭和58年)9月1日から1989年(昭和64年)7月6日まで• 募集方法 一般募集 ダッチギルダー建転換社債(オランダ国) <募集内容>• 発行総額 1億ダッチギルダー• 発行価額 額面金額の100%• 利率 年4. 75%• 償還期限 1993年(昭和68年)10月20日(アムステルダム時間)• 払込期日および発行日 1983年(昭和58年)7月15日(アムステルダム時間)• 利払日 毎年4月20日および10月20日• 転換の条件 転換価額 2,440円 転換請求期間 1983年(昭和58年)7月20日から1993年(昭和68年)10月14日まで• 募集方法 欧州を中心とした海外(アメリカ合衆国を除く)において公募 なお,両社債とも,当社の好調な業績に加えて,積極的な経営姿勢ならびに株式市場において当社株式の好評なことが評価され,国内転換社債は7月9日,ギルダー建転換社債は7月15日,それぞれ全額の払い込みを完了した。 1980年代に入って,当社は,設備投資についても引き続き積極的に進め,各種製品生産設備の増大あるいは効率化・研究開発設備の充実化を図った。 生産設備については,足柄工場のインスタントカラーフィルム製造設備・小田原工場のビデオテープ製造設備・富士宮工場の感圧紙製造設備・吉田南工場のPS版製造設備など,各工場の製造設備の増強を図り,生産能力を拡大した。 また,各種工場の合理化・省力化投資も間断なく進め,設備の効率化とコストダウンを図った。 オランダの写真感光材料工場の建設も進めた。 一方,研究関係についても,1981年(昭和56年),宮台技術開発センター,翌年,磁気記録研究所の新棟も完成したほか,その他の研究所の研究設備も拡充・強化を進めて,研究効率の一層の促進を図っている。 1980年度(昭和55年度)から1984年度(昭和59年度)の5年間の設備投資額は,累計で,約2,000億円に達した。 9 日本生命保険相互会社 21,061 5. 7 三井信託銀行株式会社 18,213 4. 9 株式会社三井銀行 16,336 4. 4 ザ・チェースマンハッタンバンク N. ロンドン 9,117 2. 5 株式会社横浜銀行 8,690 2. 4 ダイセル化学工業株式会社 7,658 2. 1 大正海上火災保険株式会社 6,540 1. 8 三井生命保険相互会社 5,900 1. 6 株式会社住友銀行 4,736 1. この間,物価は比較的安定して推移し,当社にとって死活の問題であった銀の価格も,みぞうのシルバーショックを過ぎて,ここしばらく小幅な動きにとどまっており,いくぶん愁びを開いた感じではあるが,見通しは依然難しい状況である。 こうした環境下にあって,当社は,1980年(昭和55年)5月に就任した大西社長のもと,一致団結して,新しい観点から設定した「V-50計画」をはじめとする諸計画の達成にまい進した。 1981年度(昭和56年度)は,わが国経済は,民間設備投資および輸出はほぼ堅調な動きをみせたが,個人消費は期待ほどの回復がみられず,景気回復の足どりははかばかしくないままに推移した。 当社関連業界は,景気停滞の影響から,一部製品を除き国内市場の需要が伸び悩み,全般に厳しい販売競争が展開された。 この中で,ビデオカセットテープを中心に,磁気記録材料市場は国内外にわたり急速な拡大を続けた。 このような環境下にあって,当社は,引き続き,研究開発の一層の強化による製品ラインの整備充実,積極的な販売施策,輸出の増強および磁気記録材料を中心とした非感光材料製品の拡販を図り,この結果,1981年度(昭和56年度)の業績は, 売上高 4,468億円 (対前年度10. 4%増) うち国内 3,024億円 (対前年度9. 5%増) 輸出 1,444億円 (対前年度12. 4%増) 輸出比率 32. 3% を得た。 利益については,研究開発費・減価償却費などの増加,円高,特に欧州通貨の下落などがあったが,他方,販売の拡大・合理化の徹底などの企業努力と原材料価格が比較的安定に推移したことなどによって, 経常利益 771億円 (対前年度70. 2%増) 当期利益 362億円 (対前年度129. 8%増) となり,特に利益面で急回復を果たすことができた。 なお,当年度の連結売上高は,国内3,516億円(対前年度11. 7%増),海外1,685億円(同11. 3%増),合計で5,201億円(同11. 7%増)を計上し,また,損益面では,当期連結純利益492億円(同52. 2%増)と,大きく好転した。 1982年度(昭和57年度)は,わが国経済は,個人消費や民間設備投資ともに低迷し,輸出にもかげりがみえるなど,総じて景気回復はいまだしの感が深く,一方,海外もおしなべて経済の停滞が続き,全般に不況の様相の色濃い状況が続いた。 当社関連市場も,景気停滞の影響を受けて,全般に需要は伸びず,拡大を続けていた磁気記録材料の販売も期末には伸びが鈍化し,販売競争が激化した。 このような厳しい経済環境下にあって,当社は,新製品の発売や販売促進策の強化,そしてサービス体制の充実など総合的販売諸施策を実施し, 売上高 5,109億円 (対前年度14. 4%増) うち国内 3,430億円 (対前年度13. 4%増) 輸出 1,679億円 (対前年度16. 3%増) 輸出比率 32. 9% と,初めて年間売上げ5,000億円の大台を確保することができた。 利益については,引き続き販売経費・研究開発費・減価償却費などの増加があったものの,販売増や合理化等の企業努力,原材料価格の安定推移と為替の円安傾向などから, 経常利益 966億円 (対前年度25. 3%増) 当期利益 474億円 (対前年度31. 2%増) と,ほぼ順調な業績をあげることができた。 なお,株主への配当金は,1株につき1円増配し,中間配当金と合わせて年8円50銭とした。 また,当年度の当社連結売上高は5,874億円(対前年度12. 9%増),このうち,国内は3,894億円(同10. 7%増),海外は1,980億円(同17. 5%増)を計上した。 損益面では,当期連結純利益571億円(同16. 0%増)となり,増益基調を維持した。 1983年度(昭和58年度)は,わが国経済は,依然として個人消費および民間設備投資とも低迷し,輸出についても,後半,米国向けなどにやや明るさが見えてきたものの,全体としては景気は停滞したまま推移した。 当社の関連市場についても,一般写真製品市場や業務用製品市場とも,需要が伸び悩み,特にカメラの需要は低調であった。 また,磁気記録材料製品市場は,従来の大幅な伸びが鈍化し,各社の生産能力の増強に伴い,品質と価格両面での競争がさらに激化した。 また,業務用製品部門では,X-レイフィルムおよび印刷製版用材料の需要低迷が続く中で,当社は積極的な販売施策を展開して前年度を上回る実績を保った。 この結果,1983年度(昭和58年)の業績は, 売上高 5,450億円 (対前年度6. 7%増) うち国内 3,554億円 (対前年度3. 6%増) 輸出 1,896億円 (対前年度12. 9%増) 輸出比率 34. 8% を計上した。 一方,利益は,磁気記録材料の主力製品である家庭用ビデオテープの激しい価格競争による販売価格の低下や研究開発費の増加などの要因により,経常利益は934億円(対前年度3. 3%減)にとどまったが,当期利益は491億円(対前年度3. 7%増)となった。 また,1983年度(昭和58年度)期末の自己資本比率は,54. 6%となった。 株主への配当金は,創立50周年記念を含めて,中間配当金と合わせて,1株につき1円増配し,年9円50銭とした。 当年度の連結売上高は6,336億円(対前年度7. 9%増),このうち,国内は4,051億円(同4. 0%増),海外は2,285億円(同15. 4%増)を計上した。 また,当期連結純利益は585億円(同2. 4%増)となり,増益基調を維持した。 これは,激しい販売競争,増加する販売経費・研究開発費,およびブラジルにおける通貨の大幅切り下げなどに対して,より徹底した合理化努力と販売の拡大を図った結果,もたらされたものであった。 創立50周年記念マーク 1984年(昭和59年)1月20日,当社は創立50周年を迎えた。 企業の歴史として,50年は必ずしも長い期間ではないが,企業成長の大きな節目として記念すべき日であった。 創業以来今日まで,社会各方面から当社に寄せられた暖かい支援に感謝し,そして,内にあっては会社の発展を支えてきた幾多の先輩の労苦に思いをいたし,この日から始まる新たな半世紀への旅立ちの決意を役員・従業員ともども,それぞれの胸に刻みこんだ一日であった。 この時点での当社を取り巻く環境は,大きく変化しつつあった。 1980年代に入って,当社が現在まで推進してきた写真ならびにその関連分野の市場は,世界的に市場の成熟化が顕著になってきた。 成長分野と目されている磁気記録材料分野での競争はますます激しくなっている。 また,すべての市場分野において市場ニーズの大きな変化とエレクトロニクス技術をはじめとするハイテクノロジーの急進展が見られ,これが当社事業の各分野に大きな影響を与えている。 このような環境の変化に対処するために,創立50周年記念日に先立って,1983年(昭和58年)10月21日,すなわち,1984年度(昭和59年度)の年度始めに当たって,大西社長は,年度の基本方針を「強力な商品戦略の展開による新たな成長への挑戦」の一点に集約して打ち出した。 「次の半世紀に向けて新たな道を切り開き,生き残ってその発展と繁栄を確保していくためには,他者に先んじた強力な商品戦略の全社的な展開と推進が唯一の道である」と強く訴えた。 このような背景のもとに迎えた創立50周年の記念日であった。 50周年を迎えるに当たり,この1年を通じて使用する記念マークを制定した。 このマークには,「Imaging the Future(未来を映す)」というスローガンが添えられた。 未来に向かっての新しい出発の日という当社の50周年を迎える基本姿勢を象徴する言葉であった。 富士フイルムグリーンファンド 設立許可書の交付 (左から三井信託銀行山中会長, 環境庁梶木長官,当社大西社長) 富士フイルムグリーンファンドのポスター 創立50周年記念映画 「サイエンス・グラフィティ - 科学と映像の世界」のタイトル 50周年記念施策についても早くから検討を行なってきたが,単なる祝事やお祭り騒ぎ的な行事に終わらせることなく,実質的な社会還元につなげる主旨で,「富士フイルム・グリーンファンド」の設立と記念映画「サイエンス・グラフィティ - 科学と映像の世界」の製作という二つの事業をメインテーマとして絞り込んだ。 「富士フイルム・グリーンファンド」は,当社の顧客・取引先・関連業界をはじめ,当社に暖かい支援をいただいた社会全般に対する謝意をこめて設立した公益事業助成のための基金で,新しい公益活動の制度として,今後広範な普及が見込まれている公益信託の形態をとっている。 活動の対象としては,社会的な関心の大きい自然環境の保護育成,とりわけ環境緑化の推進を取り上げ,1983年(昭和58年)10月,内閣総理大臣の許可を受けて発足した。 基金規模10億円,これは公益信託としてはわが国最大の規模であり,受託者三井信託銀行により運営されるが,今後の活動には大きな期待が寄せられている。 一方,「サイエンス・グラフィティ--科学と映像の世界」は,科学映画の発達史を背景として,映像が科学の進歩に果たした役割を広く理解してもらうことを目的に,これまでわが国で製作された科学映画の代表的シーンと現代のすばらしい映像技術を駆使した場面とを1本の記録映画に編集し,後世に残そうというものである。 この映画は,岩波映画製作所とタイアップして製作し,1984年(昭和59年)1月に完成,各地の主要なフィルムライブラリーなどに贈呈した。 ちなみに,「サイエンス・グラフィティ - 科学と映像の世界」は,文部省選定映画に選ばれたほか,第25回科学技術映画祭や日本産業映画コンクールで「グランプリ」に,1984年優秀映像選奨では教養部門の最優秀賞に,それぞれ選定された。 このほか,創業以来の社史をとりまとめ,「富士フイルム50年のあゆみ」を製作するとともに,海外向けに英文版略史「50 YEARS OF FUJI PHOTO FILM」を刊行することとした。 また,春木相談役から寄贈された蔵書を収めた「春木文庫」を,足柄本社に開設した。 創立50周年記念式典(東京本社) 1984年(昭和59年)1月20日,社内では,ごく内輪に,創立50周年の式典を事業場単位で挙行した。 東京本社と足柄工場の式典では,平田会長・大西社長・春木相談役がこもごも壇上に立って式辞を述べた。 大西社長は,この日を「新しい創業の出発日」として,次のような言葉で,その式辞を締めくくった。 「今日の日を,単純に過去を回顧する日とするのではなく,これからの新しい創業の日と受け止めたい。 今後の競争は,ますます厳しく多難なものとなろう。 創業の歴史が示すように,結局は品質が全てであるが,そのうえに立って,これからの時代を先どりする新しい商品を他社より先に生み出していくことが,今後の激しい競争と変化を生き抜く唯一の道である。 富士フイルムの栄光ある未来を信じ,21世紀へ向けて,着実な成果を重ねつつ,われわれの進む道を築いていこうではないか。 国内市場には1984年(昭和59年)3月発売,海外市場にも,翌4月から船積みを開始した。 この新製品の誕生によって,その場にあるわずかな光だけで,その場の雰囲気を生かした自然な写真が撮れるようになった。 また,スポーツなどの動きの速い被写体を高速シャッターで瞬間的にとらえる写真,あるいは,被写界深度(被写体の前後のピントの合う範囲)の深い写真が撮れるなど,写真の撮影範囲を飛躍的に広げることができるようになった。 その一つは,新型の二重構造粒子(Advanced Double Structure Grains)の開発である。 この技術の開発によって,高感度化に必要な機能をハロゲン銀粒子内部に正確に組み込ませることができるようになり,従来の感度の限界を克服することができた。 いま一つの新技術は,A-カプラー(Image-Amplifier Releasing Coupler)の開発である。 このA-カプラーの開発によって,カラー現像の際に,感光した写真乳剤粒子を効率よく色素像に変換させることを可能にし,粒状を粗くすることなく,高感度の画像をつくり出せるようになった。 このフィルムと処理システムは,スポーツ・報道分野でのプロフェッショナル写真家の強いニーズに応え,ロサンゼルスオリンピックを機に開発したもので,ISO1600・ISO3200の超高感度撮影領域において,世界最高水準の高画質を実現した。 室内・屋外,順光・逆光のいかなる場合でも美しい写真が得られ,また,その優れた操作性ときめ細かい設計が注目されている。 引き続き,ビジネスやプロフェッショナル用インスタント写真システムとして,高品質の「フォトラマFPシステム」を開発,同年9月から発売した。 従来のフォトラマ製品と合わせて,フジインスタントフォトシステムは,さらに幅広い分野で活用されていった。 さらに,多様化するユーザーのライフスタイルとそのニーズに合わせて,エレクトロニクス技術の粋を駆使して,常に失敗のない写真の実現を目指して,これまでのコンパクトカメラのイメージ・デザイン・機能性のすべてを刷新する新しいコンパクトカメラの商品化を企画した。 富士フイルム フロッピーディスク Super HR 富士フイルム フロッピーディスク MD2HD Super HR 一方,磁気記録材料の分野でも新製品を次々に発売した。 これは,低温・低湿から高温・高湿までの極めて広範囲な環境条件下で2,000万パス(ヘッド通過回数を示す,JIS規格では300万パス以上)を超える耐久性と安定した入出力特性を実現し,画期的なスーパーハブリングの採用によるセンターホール補強策など,多様化するユーザーニーズに対応させた製品である。 また,1984年(昭和59年)7月には,高密度スーパーファインベリドックス磁性体を使用した5. これは,カーステレオの高性能化に伴ない,より高性能のカセットテープが求められ,ハイポジションにも商品化を望む声に応えたもので,先進のサウンド化技術に新開発の「スーパーダイナミックベリドックス」磁性体を採用することにより,完成した。 すでに,カラー製版分野では,カラースキャナーが普及しているが,雑誌などの定期刊行物に利用されている黒白製版分野では,従来からのカメラによる製版方式が主流を占めており,黒白製版分野でも高品質の仕上がりと操作が簡単に行なえる機器の開発を求める声が強かった。 当社は,これらの各分野の新製品の商品化によって,新たな出発に向けて,力強く,その第一歩を踏み出した。

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明日の株価の参考になるPTSとADR、先物、CFD。時間外取引の活用方法

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1960年代の10年間、写真需要の拡大とカラー写真の急激な増加によって、写真感光材料事業が大きく伸長する。 他方、磁気記録材料、感圧紙、PS版、電子写真などの新規事業に相前後して進出し、事業の多角化が進む。 この間、写真感光材料の輸入の自由化が進む中で、輸出の増加とコストの引き下げに努め、1970年度(昭和45年度)の売上高は1,000億円を突破し、利益も向上する。 2度にわたり倍額増資を実施、1964年(昭和39年)には、当社資本金は100億円となる。 そして、1969年(昭和44年)には、新本社ビルを建設する。 また、この年、当社ADRがニューヨークで発行される。 翌1970年(昭和45年)には、外貨建転換社債を発行する。 1960年(昭和35年)を迎えた当時の当社の主たる販売品目は,写真フィルム,印画紙,乾板,写真薬品,光学製品,光学ガラスおよび紙であったが,このうち,写真フィルムや印画紙などの写真感光材料が全売上高の80%強を占めており,次いでカメラなどの光学製品が10%強を占めていた。 年間売上高は181億円,輸出比率はわずかに4. 2%に過ぎなかった。 1960年代の10年間,わが国経済は大きく発展したが,当社もめざましい飛躍を成し遂げた。 写真需要は拡大し,とりわけカラー写真が急激に伸びてきた。 当社の写真感光材料の生産数量も増加し,1970年(昭和45年)までの10年間で,黒白・カラーを合算して,写真フィルムは4倍弱,印画紙は約5倍の伸びとなった。 このように,銀塩写真感光材料の分野で著しく伸長する一方,新規事業分野も大きく展開していった。 磁気記録材料事業・感圧紙事業・PS版事業と,その後大きく育っていった新規事業が,いずれも,この期間に相前後してスタートした。 また,電子写真分野で,富士ゼロックス社の事業もスタートした。 その結果,1970年度(昭和45年度)の当社の総売上高は1,003億円となり,この10年間で,売上高は5. 5倍(年率18. 6%の伸び)になった。 製品別の内訳では,写真フィルムや印画紙などの写真感光材料が,売上高で10年間に4. 7倍(年率16. 7%)の伸びを示し,依然として当社の主力製品であることに変わりはなかった。 しかし,新規事業分野が売上高に寄与しはじめたのに伴い,1970年度(昭和45年度)では,写真感光材料のウエイトは約70%となった。 また,輸出比率も,1970年度(昭和45年度)には,13. 7%にまでアップした。 この間,貿易自由化に対処するため,コスト引き下げと体質改善に努めた結果,1970年(昭和45年)度の税引純利益は,75億7,000万円,利益率7. 5%と向上した。 しかしながら,この1970年(昭和45年)の後半,万国博覧会の閉幕とともに,日本経済はポスト万博不況といわれる景気後退期を迎え,やがて国際経済の大きな変動のもと,低成長期に入り,当社の経営もまた苦難期を迎えることになった。 増資目論見書 既存事業の拡大と新規事業への進出には,膨大な資金が必要であった。 そのため,資金の調達と財務体質の強化を目的として,1961年(昭和36年)10月,資本金を倍額増資し,新資本金を50億円とした。 この増資資金は,主として,足柄工場におけるカラーフィルム生産能力の増強と,印画紙用原紙の生産のための富士宮工場の建設資金の一部に充当した。 その後も,カラーフィルム工場の増設やTACフィルムベース工場の増設,PETフィルムベース工場の建設・事務用印画紙工場の建設・磁気記録材料工場の建設・感圧紙工場の建設など,大型の設備投資が相次ぎ,所要資金が急増した。 このため,1964年(昭和39年)8月に再び倍額増資を行ない,新資本金を100億円とした。 この増資資金は,足柄工場のフィルム生産合理化設備・機器などの研究設備・小田原工場のゼロックス機材増産設備・富士宮工場の感圧紙製造設備などに充当した。 しかし,この間の所要資金は増資だけではまかないきれず,社債の発行と金融機関からの借入金にもその多くを依存した。 社債を含めた借入金総額は,1960年(昭和35年)10月20日現在の約30億円から,1970年(昭和45年)10月20日現在には,割引手形残高も含めて,317億円へと,10年間で10倍に膨張した。 モルガン・ギャランティ・トラスト社が 発行した当社ADR見本 1960年代の日本経済のめざましい発展は世界の注目を集め,日本の株式に対する外国人の投資が年々増大してきた。 ところが,外国の投資家に取得された株券は,そのほとんどが日本国内の保管機関に預託されることになるため,外国での日本株式の流通にはなにかと不便が伴っていた。 そこで,外国人が取得した株券の見返りに,信用のある外国の銀行が一種の預り証を発行し,それに株券と同じような役割を果たさせる方法が考案された。 米国で発行する預り証(預託証券)をADR(American Depositary Receipts)と称している。 当社は,高成長を続ける優良企業として,外国人投資家の間でも高い人気を得ており,外国人投資家の持株比率は年々増加の傾向にあった。 こうした当社株式の人気に目をつけて,米国の有力銀行,モルガン・ギャランティ・トラスト社は,1969年(昭和44年)8月,三井銀行を株券の保管銀行として,当社株式のADRを発行した。 モルガン銀行の手でADRが発行されたことは,当社の成長性が国際的に高く評価されたことを意味し,当社は,海外での知名度を高め,国際企業として大きな第一歩を踏み出した。 一方,日本経済の国際化の進展に伴って,新しい資金調達手段として外貨建転換社債が登場してきた。 当社も,海外での転換社債の発行について検討を重ね,1970年(昭和45年),証券会社メリル・リンチ社を主幹事として,ヨーロッパで1,500万ドルの転換社債を発行することとした。 当社株式が海外で人気を博していたこともあり,転換社債の人気も高く,同年12月1日,ニューヨークにおいて,幹事会社との間で引き受け契約の調印を行なった。 その概要は次のとおりであった。 発行地 ヨーロッパ• 発行総額 1,500万USドル(54億円)• 発行価額 額面価格の100%• 利率 年6. 75%• 転換価格 490円60銭• 転換請求期間 1971年(昭和46年)3月1日から1985年(昭和60年)10月19日 この海外転換社債の発行は,主として,後述する富士宮工場におけるX-レイフィルム工場の建設資金の一部に充当したが,国内での調達に比べ安いコストで資金調達ができただけでなく,海外金融機関や投資家が当社についての認識を深めるうえでも大きな役割を果たした。 なお,その後,当社株式の価格が上昇したこともあり,転換社債の株式への転換は予想を上回るテンポで進み,1977年(昭和52年)4月に,全額を繰り上げ償還した。 当社の東京事務所は,終戦直後,東京銀座の中島ビルに再開して以来,同ビルを本拠としてきた。 しかし,業務の拡大と人員の増加に伴い,同ビルだけでは手狭となり,近隣数か所に事務所を分散し,営業部門の一部は神田地区に移転して業務を遂行してきた。 当社経営の中枢であり,営業活動の本拠でもある東京事務所が各所に分散していることは非効率でもあり,東京本社の建設についてかねてから検討を重ねてきた。 しかし,当社は,設備投資について品質第一の考えに立って,これまで研究設備や生産設備の改善・増強のための投資を優先的に実施してきたので,本社ビルにまでは手が回らなかった。 しかし,国際化時代を迎えて,経営の効率を高め,全社の機能を総合して国際的な企業活動を展開していくためには,それにふさわしい本社事務所が必要である。 そこで,かねて取得していた東京西麻布の用地に,創立35周年記念事業の一環として当社ビルを建設することとした。 東京本社ビルは,芦原義信建築設計事務所の設計と鹿島建設株式会社の施工によって完成したが,写真フィルムの透明感やスマートで軽快というイメージをみごとに表現したデザインの斬新さが評価され,1971年度(昭和46年度)の建築業協会賞受賞の栄に輝いた。 東京本社ビルの完成により,長い間,諸所に分散していた東京本社各部門および東京営業部門を同ビルに集中した。 それを機に,マイクロ写真システムを活用して新しい文書ファイリングシステムを導入するなど,事務の効率化を一段と進めた。 また,本社ビルの建設と同時に,新しい「富士フイルムの歌」の制定を企画し,1969年(昭和44年)6月,新社歌を制定した。 それまでの社歌は1939年(昭和14年)に制定された初代社長淺野修一作詞のものであったが,新しい時代にふさわしい内容のものに改めることとしたものであった。 歌詞は社内から募集して,限りなく発展する当社の姿を力強く表現するものとし,明るくさわやかな歌として誕生した。 ここに,新旧の社歌を掲載し,長く歌いつがれてゆく記念としたい。 勲三等旭日中綬章を 受けた春木榮会長 勲二等瑞宝章を 受けた小林節太郎社長 1960年代から1971年(昭和46年)にかけて,当社の役員は,次のような叙勲・受章に輝いた。 会長春木榮は,1969年(昭和44年)11月,写真感光材料の工業化と特許管理の進歩を推進した功績で,勲三等旭日中綬章に輝いた。 社長小林節太郎は,1964年(昭和39年)10月,藍綬褒章を受け,後に1970年(昭和45年)11月には,写真産業の振興などの功績が認められ勲二等瑞宝章を受章した。 また,1966年(昭和41年)9月,副社長藤澤信は紫綬褒章を,1971年(昭和46年)3月,副社長竹内喜三郎は藍綬褒章を,それぞれ受章した。 しかし,喜ばしいことばかりではなかった。 1962年(昭和37年)2月,当社創業の功労者(元大日本セルロイド取締役社長,元当社相談役)森田茂吉が,数え年98歳の天寿を全うして永眠した。 生前の功績によって,勲二等を追贈された。 大日本セルロイドと当社の合同社葬には,参会者が延々と長蛇の列をつくり,故人の遺徳を偲んだ。 馬場遺跡公園 1966年(昭和41年)5月,足柄工場の当社社宅用地(地元で馬場と呼称している地域)で採土工事を行なっていたとき,敷石住居跡の一部と土器片・石器などの遺物が発見された。 当社は,その後,同年6月から1971年(昭和46年)3月にかけて,4次にわたって発掘調査を行ない,敷石住居跡・竪穴住居跡・配石遺構・破砕石の集積跡および土器・石器などの遺構・遺物を発見した。 これらの遺構や遺物は,およそ紀元前3000年頃,縄文時代後期の人びとの生活の跡と考えられ,すでにその当時,ここで生活していた人びとがいたことを示す貴重な考古学上の遺跡であった。 これらの遺跡は「馬場遺跡」と名付けられたが,当社は,発掘調査のあと,これらの遺跡を永久に保存し,後世に伝えるために付近一帯を遺跡公園として保存している。

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