キングダム えい せい。 キングダム李信の最後は悲惨?嫁が超大物で子孫が王様になったって本当か

(羌瘣物語)象姉の仇を討つ為だけに生きるはずだった【涙】

キングダム えい せい

「キングダム」時代と、「三国志」時代の繋がりを時系列で解説 人気漫画「キングダム」と、人気歴史小説「三国志」 この 2 つの作品には、数々の類似性がありますが、この 2 つはどのような繋がりがあるのか? 「キングダム」は、「秦」という国の若き王「 」と、その友人「信」の活躍を描いた作品。 対して「三国志演義」は、「劉備」「曹操」「諸葛亮孔明」らの英雄が、天下統一を目指して争う、という作品。 一言でいえば、この 2 つの作品は、舞台は現代の「中国」であるものの、時代が異なるのです。 「キングダム」の時代が先で、「三国志演義」の時代が後。 「キングダム」の時代のほうが「400年」ほど先です。 「キングダム」の時代は西暦何年? キングダムはのちの「 」である「嬴政(えいせい)」が、天下統一を成しとげるまでの作品です。 始皇帝は「 紀元前246年 」に13歳で王位を継承。 「 紀元前221年 」に天下統一。 「 紀元前210年 」に亡くなっています。 「三国志」の時代は、西暦何年? 「三国志」は、光武帝「劉秀」が建国した「後漢」という王朝(国家)の時代が舞台です。 「 西暦184年 」に勃発した「黄巾の乱」の頃から物語がスタートします。 そして「後漢」は「 西暦220年 」に、魏王「曹丕」に帝位を譲って滅亡。 「後漢」のあとを継いだ「魏」は「 西暦265年 」に滅亡。 「晋」という国に乗っ取られます。 その後「 西暦280年 」に「晋」が、「呉」の国を滅ぼして三国を統一。 三国志は幕を閉じることとなります。 つまり「キングダム」は始皇帝が天下統一を成し遂げるまでの 「 紀元前246年 」から「 紀元前221年 」まで の物語。 対して「三国志」は、「黄巾の乱」が勃発してから、「晋国」が天下統一を果たすまでの 「 西暦184年 」から「 西暦280年 」までの物語 というわけです。 「キングダム」と「三国志」の繋がりを「年表」で解説 始皇帝により「天下統一」が果たされた「 紀元前221年 」から、「黄巾の乱」が起こった「 西暦184年 」までの、「 405年間 」に何があったかというと、大陸では戦乱と平和が繰り返されていました。 年表「春秋戦国時代」から「三国時代」 紀元前260年 長平の戦い。 秦将「 」が趙将「趙括」と趙軍45万を撃破 紀元前259年 のちの始皇帝「贏政」が趙国の首都「邯鄲」で誕生 以下「キングダム」が始まる 紀元前246年 「 」が秦王に即位 紀元前238年 「贏政」が22歳で「元服(加冠の儀)」をおこなう 紀元前236年 「 」が「 」「 」を従えて「閼与」「鄴」を攻め落とす 紀元前235年 元丞相「 」が服毒自殺 紀元前230年 「 韓 」滅亡 紀元前229年 趙の大将軍「 」死去 紀元前228年 「 趙 」滅亡 紀元前227年 燕の太子「丹」が、暗殺者「荊軻」を使って「贏政」を暗殺しようとするが失敗 紀元前225年 「 魏 」滅亡 秦将「 」「 」が楚将「 」に大敗 紀元前223年 「 楚 」滅亡 紀元前222年 「 代 (趙の亡命政権)」と「 燕 」滅亡 紀元前221年 「 斉 」滅亡。 秦が天下統一。 贏政が「皇帝」に即位し「始皇帝」と呼ばれる おそらく「秦」による「天下統一」達成で「キングダム」終了 紀元前210年 始皇帝「贏政」死去。 始皇帝の末子「胡亥(こがい)」が、「李斯」と「趙高」の策略で二代皇帝に即位。 始皇帝の長子「扶蘇(ふそ)」と将軍「蒙恬」が、「胡亥」たちの策略で自害に追い込まれる。 紀元前206年 「秦 」滅亡。 「項羽」が「覇王」を名乗り「 楚 」を復興 「劉邦」が「漢王」となり「 漢 」を建国 「 漢 」と「 楚 」の間で「楚漢戦争」勃発 紀元前202年 西楚の覇王「項羽」が「垓下の戦い」で敗死。 「楚漢戦争」終結 「劉邦」が「 前漢 」の皇帝に即位 紀元前119年 「前漢」の第7代皇帝「武帝・劉徹(りゅうてつ)」の時代、「李信」の子孫である「李広」将軍がモンゴル騎馬民族との戦いに遅れたことを恥じて自害。 西暦8年 「王莽(おうもう)」に帝位を奪われ「前漢」滅亡。 「 新 」建国 西暦23年 皇帝「王莽」が殺害され「 新 」滅亡 西暦25年 「劉邦」の末裔である「劉秀」が皇帝に即位する。 (光武帝) 「 後漢 」を建国 西暦155年 「曹操」誕生 西暦161年 「劉備」誕生 西暦181年 「諸葛亮孔明」誕生 この頃から「三国志」開始 西暦184年 「黄巾の乱」勃発 西暦200年 「官渡の戦い」 西暦208年 「赤壁の戦い」 西暦220年 「曹操」死去 「曹丕」が献帝「劉協」から帝位を譲られる。 「 魏 」建国。 「 後漢 」滅亡 西暦221年 「 蜀漢 」建国。 劉備が帝位につく 西暦222年 「夷陵の戦い」 西暦223年 「劉備」死去 西暦229年 「 呉 」建国。 「孫権」が帝位につく 西暦234年 「諸葛亮孔明」死去 西暦263年 「 蜀漢 」滅亡 西暦265年 「司馬炎」が元帝「曹奐」から帝位を譲られる。 「 晋 」建国。 「 魏 」滅亡 西暦280年 「 呉 」滅亡。 「 晋 」が天下統一 「三国志」終了 キングダムで活躍しているキャラの子孫が「三国志」で活躍 キングダムの時代のほうが「400年」ほど先であることは、わかったと思います。 実は、「三国志」には、「キングダム」に登場するキャラクターの末裔が、何人か登場しているのです。 「司馬尚」の末裔 まずは、趙国の武将「 」 名将「 」から「 」に推薦された名将ですが、「司馬尚」の末裔が「司馬懿仲達」 「諸葛亮孔明」のライバルである「司馬懿仲達」ですが、その孫「司馬炎」は「晋国」の皇帝に即位しています。 「呂不韋」の末裔 次に「 」 呂不韋の末裔「呂凱」は、「蜀漢」の武将。 「南蛮王・孟獲」の征伐に向かう「諸葛亮孔明」に対して、「南蛮の地図」を献上し協力する武将です。 「趙括」の末裔 「キングダム」において「長平の戦い」にて の一人「 」に斬られた趙軍の武将「趙括(ちょうかつ)」 趙括は「三大天」の一人「趙奢(ちょうしゃ)」の息子です。 その「趙奢」「趙括」の末裔が、 「馬騰」 「馬超」「馬岱」 趙奢は、秦国軍を撃破した褒美に「馬服君」という称号をもらいますが、子孫はその称号の「馬」の一文字を苗字に使ったのです。 主人公「信」の子孫が「皇帝」になった? キングダムの主人公「信」こと「 」将軍の子孫からは、数々の有名人が誕生。 皇帝まで輩出しています。 信の息子「 李超 」は、劉邦が建てた国「前漢」で、大将軍となっています。 その「信」の末裔で、前漢の最盛期「武帝・劉徹(りゅうてつ)」に仕えたのが、飛将軍と呼ばれた名将「 李広 」です。 李広は 「桃李言わざれども、下自ずから蹊を成す」 ということわざを残した人です。 このことわざを名前にした「松坂 桃李 」さんという俳優さんがいますね。 「 李広 」は、後にモンゴルの騎馬民族との戦いが原因で憤死することとなる悲劇の武将です。 更にその「李広」の末裔が、「五胡十六国時代」に「西涼」という国を建国した王「 李コウ 」 そのまた末裔が、「遣唐使」で有名な国「唐」を建国した初代皇帝「 李淵 」。 李淵のあとを継いだ二代皇帝「 李世民 」は、「中国史上最高の名君」と呼ばれた人物です。 この「李園」と「李世民」という二人は、間接的に日本とも関わりがあります。 「 」が「遣隋使」として送った使者「 」に怒った皇帝「煬帝(ようだい)」の支配する国「隋(ずい)」を、「李淵」と「李世民」は倒しているのです。 李淵と煬帝は、「いとこ」同士という間柄。 煬帝の母親が、李淵の「叔母(おば)」にあたる人物なのです。 『三国志』について、「ひとこと」言いたい 「三国志」と小説「三国志演義」は別物。 有名な話ですが、小説「三国志演義」は、史実とは若干異なります。 西暦233年に生まれた「陳寿(ちんじゅ)」という人物が記した歴史書「 三国志 」は、「魏」「呉」「蜀」という3つの国の記録をまとめた代物。 対して「 三国志演義 」は、「陳寿」の歴史書『三国志』を基礎にして、「明」の時代に「羅貫中(らかんちゅう)」によって記された 時代小説 です。 「三国志演義」は「史実8割、創作2割」の比率で記されているのだとか。 「三国志演義」の中には、「関索」「周倉」「貂蝉」などの「史実上存在しない架空の人物」がけっこう登場しています。 また、ストーリーでも史実とは異なる扱いがなされており、小説「三国志演義」では「諸葛亮孔明」の初陣となる「博望坡の戦い」も、史実「三国志」では「諸葛亮」がいない状態で、劉備が勝利しています。 小説「三国志演義」が、歴史や史実をそのまま描いていると、恥ずかしながら拙者も勘違いしていました。

次の

漫画キングダム年表

キングダム えい せい

秦の始皇帝の性格は? 秦の始皇帝 出典 中華を最初に統一した最初の王として現代にまで名を遺す秦の始皇帝。 生前の性格はどんなものだったんでしょうか。 歴史上で始皇帝によって行われた行為を紐解いていくと、その性格がおぼろげながら見えてきます。 自分に従わないものは容赦なく処分する暴君 秦の始皇帝はその生涯の中で幾度となく非道な行いをしており、暴君としてのイメージが強かったと言います。 例えば• 不義理を働いた呂不韋の葬式で涙したものは処分する• 自分を暗殺しようとした燕の首都の民を虐殺する• 秦王朝の郡県制に反対した儒者たちを生き埋めにした(実は生き埋めではなく、処刑後に埋めたなど諸説あり) 基本的には自分に逆らうものは殺しておく、ぐらいのノリですね。 十分暴君と呼べる所業でしょう。 しかし秦の始皇帝もこんな風に育ってしまったのもその壮絶な幼少期に理由があるのですが、それはまた別の記事で語ろうと思います。 自分だけの称号作っちゃうくらい自己顕示欲が強い 秦の始皇帝は最初から始皇帝と名乗っていたわけではありません。 自分で作った(家臣に命じて作らせた)んです。 元々国が7つに割れていて秦がそのうちの1つの国に過ぎなかった頃、秦の始皇帝はまだ「秦王」と名乗っていました。 それは他の6つの国も同じで、「趙王」「燕王」「楚王」・・・などなど、王というものは複数存在していました。 中華統一後、秦王は 中華の唯一の王である自分にはただの「王」では不十分だ。 「中華を統一した王にふさわしいだけの威厳のある呼称を考案せよ」と臣下たちに命じます。 この時、提案の中で最終的に決定されたのが「皇帝」という称号。 この皇帝に「始まりの・最初の」という意味をつけて「始皇帝」と言う呼び名を作りました。 さらに自分の後に続く秦王は「2代目皇帝、3代目皇帝」と名乗るようにと付け加えます。 どうしても自らを偉大にして唯一の王として後世に名を残したかった。 その自己顕示欲の強さが読み取れますね。 永遠の王でいるために不老不死を求める 晩年の秦の始皇帝は不老不死の法を探し求めます。 世界(中華)を統一して全てを手に入れたと思った始皇帝は、最後に不老不死を手に入れて、自らが手にした絶対権力を永遠に手にしていたいと思ったのでしょう。 部下に命じて山に仙人を探しに行かせたり、水銀を飲んでみたり色んな方法を試しますが結局願いは叶わず。 49歳にしてその壮絶な人生に幕を閉じます。 キングダムの嬴政(えいせい)の性格 一方でキングダムに登場する秦王・嬴政(えいせい)はどんな性格をしているでしょうか。 キングダム 多分今一番勢いのある歴史漫画なんじゃないかな?僕は史実ならオウゼンの楚攻めのエピソードとか好き。 でもこの漫画で一番のイケメンは政!! 元々秦の始皇帝好きなのにもっと好きになった!!!!イケメン!! ストーリーとしては中国戦国時代を制した秦の将軍の成長日記。 — しみ(けんいち) alucardcrying ご存知の方もいらっしゃるとは思いますが、主な性格をまとめてみましょう。 中華を平和にするために統一を志す キングダムの政(以下政)は 平和を重んじる性格です。 中華統一を夢に掲げているのも、500年間続いている国家間戦争を憂いてのこと。 平和のためなら後世から暴君として批判されることになろうと構わぬと、武力による中華統一を目指します。 作中では何よりも世の平和を大切に考え、またそのためならどんなことでもするという強い意志を持った人物として描かれています。 権力によらない法による統治を志す 作中の1シーンに斉王と政の問答があります。 政が中華統一を仮になしたとして、他の6国の民から秦は恨まれるだろう。 そんな状況でどうやって中華全土を統治するのか。 斉王は政にそう問いかけます。 そこで政が出した答えは 「法」 中華全土を支配した時、民たちの上に立つのは 人であってはならない。 法こそを人の上に置くべきだ。 政は自分たち王族は退いても、法という実態のないものが人民の上の統治することを考え出したのでした。 このエピソードからは政の自分の地位に執着しない、他人(民)を第一に考える性格が見て取れます。 国の危機には危険を顧みず自ら前線に立つ 作中で6国による合従軍が秦に迫った際、李牧率いる別動隊に秦の首都にあと一歩で迫られるというところまで攻め込まれます。 それを迎撃できる武将がだれも首都には残っていない、そうなったとき政は 自分が出る そう言って最後の小城として抵抗をする民を鼓舞しに前線へ赴き、一緒に戦います。 このエピソードから、政の自分の命よりも国を重んじる性格が垣間見えます。 はっきり言って 両者の性格は真逆であると言っていいでしょう。 <両者の性格の違い> 史実の秦の始皇帝 キングダムの政 自分のために中華統一 人民のために中華統一 自己顕示欲が強い 自分の地位に執着がない 自分の命に執着がある 不老不死を追い求める 自分の命より国のことを想う ここまで性格が違うと、キングダムの政は全く史実を元にしていないかのように見えますが、行動に関してはかなり共通点が多いです。 <両者の行動の共通点> 史実の秦の始皇帝 キングダムの政 幼少期は敵国・趙にて暗殺から逃げる日々を過ごす 幼少期は敵国・趙にて迫害を受ける日々を過ごす 呂不韋の不義理が発覚し、国を追放する 呂不韋との政権争いに打ち勝ち、秦の王としての権力を得る 中華統一後に新たな法を制定する 中華統一後は法による統治を宣言する この他にもまだまだありますが、行動による共通点は多いです。 キングダムの作者・原泰久さんは、史実の始皇帝の歴史は曲げないように主となる行動は踏襲しています。 まとめ 今回の記事をまとめると、• 史実の秦の始皇帝の性格は暴君のそれ• キングダムの政の性格は名君のそれ• 作者は両者の行動は共通させつつもうまく名君として脚色して、政というキャラクターを描いている でした。 最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

次の

成蟜(せいきょう)ってどんな人?史実の通り策士な政(始皇帝)の弟

キングダム えい せい

少年時代、韓の宰相として領地を割譲させる 漫画では、自分では何もできず、部下任せでありながら、尊い血筋だけを誇り 成りあがり者を毛嫌いする嫌な性格として描かれる成蟜ですが、現実には 兄の政よりも早く手柄を立てています。 史記、春申君列伝によると、彼は盛橋(せいきょう)という名前で登場し 曾祖父であるの命令で韓に宰相として送り込まれます。 当時の韓は漫画と違い(同様?)弱小国で、常に秦の干渉を受けていました。 ここで成蟜は、秦の為に謀り、韓の土地の百里四方を割譲させて、 秦の領地に組み込んでいます。 これは、昭襄王の末年の出来事ですが、その時、成蟜は十歳未満なので 大きな手柄と言っていいでしょう。 年齢から言って当人の仕事ではないでしょうが、それだけ有能な臣下に 恵まれていたという事かも知れません。 —熱き『キングダム』の原点がココに— 呂不韋の策謀で王位は望めず恨みが募る しかし、成蟜が王位に就く事はありませんでした。 彼の父である子楚は呂不韋の援助を受けており、紀元前250年 荘襄(そうじょう)王として即位すると趙から帰還した趙姫を正妃とし、 政を太子としたのです。 当時の成蟜は10歳に満たないので、何と言う事も無かったのでしょうが、 成長するに従い、腹違いの兄の事が疎ましくなっていきます。 それが成蟜の中にいつか取って替わろうという野心を育てていきます。 紀元前239年、屯留で謀反! 紀元前239年、秦王政の命令により成蟜は軍を率いて 趙の領地である屯留を攻めて、これを陥落させます。 ところが、その後、成蟜は屯留の人間をまとめ上げて秦に反旗を翻すのです。 もちろん、この謀反を秦王政は許さず、軍を送り込んで鎮圧します。 屯留と蒲鶮(ほこう)の兵は降伏せずに勇敢に戦い、すべて斬り殺されました。 八年、王弟、長安君成蟜、軍を将いて趙を撃ち、屯留に反す。 軍吏皆斬死す。 其の民を臨洮に遷す。 将軍、壁死す その団結力を恐れた政は、屯留の民がここに留まる事を許さず 臨洮に移動させてしまいました。 史記正義による補則では、成蟜は城壁の中で戦死した、 つまり 将軍壁死すと解釈しています。 異説、成蟜は死なず趙に逃れた説・・ 史記正義は、唐の張守節が編纂し736年に成立したものです。 の記述を補う為に書かれましたが、しかしキングダムの時代から およそ千年後のもので、どこまで真実か分りません。 また、壁死は壁という名前の将軍が死んだとも解釈できるようで、 成蟜が戦死したと断定できる記述ではありません。 このように史記には、成蟜が死んだという断定的記述はありません。 では、本当に成蟜は死んだのでしょうか? 実は、ここには異説があり成蟜は死なず趙の悼襄(とうじょう)王により匿われ 饒に封じられたという話があるのです。 忽然と出現する紀元前239年長安君、饒に封じるの記述 史記の趙世家には、 悼襄王の六年、長安君を封ずるに饒を以てすという記録があります。 これは紀元前239年にあたりますが、ちょうど成蟜が反乱を起こした その年にあたるのです。 長安君という尊称は、同じ時代の趙の王族には見当たりません。 時代を遡る事26年前、紀元前265年に悼襄王の父である孝成(こうせい)王が 即位した時に、趙は援軍を斉に求めていますが、この時に趙は、 先代恵文(けいぶん)王の皇后であった太后が自分の末っ子の長安君を 人質に差し出さないと援軍は出さないと言ったという記述が出てきます。 その後、すったもんだで長安君は斉に人質に出され、 斉からは援軍を受ける事が出来ました。 しかし、その後、この長安君には何の音沙汰もありません。 あるいはお役御免として紀元前239年に斉から趙に戻り、 甥にあたる悼襄王が改めて封地を与えたと考えられなくはありませんが、 かなり不自然な感じがします。 成蟜は趙による扇動で反乱を起こしたのではないか? こちらは、成蟜が陥落させた屯留の位置ですが、趙の領内にあたります。 あるいは、趙は、李牧(りぼく)か龐煖(ほうけん)の計略によって 成蟜を叛かせたという事は考えられないでしょうか? 元々、血筋では政よりもずっと王位に近い成蟜ですから、 「ここで自立して趙の援軍を受けて秦に攻め入り、お前が秦王になる」 と唆されれば、将来を考えて、いちかばちかの賭けに出たと考えられなくありません。 そもそも、成蟜の単独の謀反なら、被征服者の屯留の兵が 全員斬り死にする程に秦に抵抗した理由が分りません。 どうして、侵略者の成蟜の為にそこまでしたのでしょうか? ここは、成蟜と趙の間で密約、おそらく反乱の成功、失敗も含めての談合が すっかり出来あがっていて、その密約に沿い敗れた成蟜は悼襄王の手配で 饒に封じられ、秦の内情を知るものとして重宝されたと考えるのが自然です。 キングダムウォッチャーkawausoの独り言 キングダムでは、キレイに最期を飾ってしまった成蟜ですが、 史実では叛いたのは確実であり、なかなか強かな野心家だったようです。 個人的には、屯留では死なず、趙の領地で一生を終えたという説が 魅力的に見えるのですが、皆さんはどう思いますか? キングダムファン向け:キングダムに関する 関連記事: 関連記事:.

次の