御簾よりなかば出でて。 小式部内侍が大江山の歌の事②|Danno|note

古今著聞集

御簾よりなかば出でて

東京都府中市の大学受験プロ家庭教師『逆転合格メーカー』のコシャリです。 いつも独学受験. jpにお越しいただきましてありがとうございます。 助動詞: 薄緑のマーカーです 敬語: 緑のマーカーです 係り結び: オレンジのマーカーです。 歌合の歌人に選ばれた小式部内侍をからかった定頼の中納言!返り討ちに! 歌人として有名な和泉式部さんの娘、小式部内侍さんは当時、自分の歌がうまいのは母の和泉式部が代わりに詠んでいるからではないか?と人々から疑われていたという。 そんな中、自分をからかった定頼の中納言をみごとな詠みっぷりで返り討ちにした小式部内侍さんに当時を振り返ってもらった。 前から自分の実力がちゃんと評価されてないなとは思っていたんです。 有名な歌人の母の七光なんじゃないの?代わりに読んでもらってるんじゃないの?って。 今回いい機会だと思って、ちょっかいを出してきた定頼の中納言の袖を掴んで聞かせてやったの。 私が詠んでるのよって。 そしたらどうなったと思う? 定頼の中納言ったら返事もしないでどっか行っちゃったの。 しつれーな奴だと思わない?。 ていうかダサすぎるわよね? 心の中で中指を立てていたわ。 あらいけない、ついつい本音が出ちゃったわね。 今のはオフレコでよろしくね。 まあこれを機会に私も有名になったから、定頼の中納言には感謝しているわ。 彼はいい踏み台になってくれたわね。 では後半のコシャリの空想は置いておいて、内容に入っていきましょう。 和泉式部、保昌が妻 にて丹後に下り けるほどに、 京に歌合あり けるに小式部の内侍歌詠みにとら れて詠み けるを 現代語訳 和泉式部が、夫の保昌の妻として(保昌の任国の)丹後の国に下っていた頃に、 都で歌合があったが、(和泉式部の娘の)小式部内侍が歌人に選出されて、歌を詠んだが、 品詞分解 和泉式部 名詞 保昌 名詞 が 格助詞 妻 名詞 にて 格助詞 丹後 名詞 に 格助詞 下り ラ行四段活用動詞「下る」連用形 ける 過去の助動詞「けり」連体形 ほど 名詞 に 格助詞 京 名詞 に 格助詞 歌合 名詞 あり ラ行変格活用動詞「あり」連用形 ける 過去の助動詞「けり」連体形 に、 格助詞 小式部の内侍 名詞 歌詠み 名詞 に 格助詞 とら ラ行四段活用動詞「とる」未然形 れ 受身の助動詞「る」連用形 て 接続助詞 詠み マ行四段活用動詞「詠む」連用形 ける 過去の助動詞「けり」連体形 を、 接続助詞 定頼の中納言戯れに、小式部の内侍に、 「(歌人として有名な母和泉式部のいる)丹後に派遣した人はもう帰って参りましたか。 「踏み」=足で踏む=行く• 「文」=手紙 の掛詞になっています。 このパターンを覚えておこう! 品詞分解 大江山 名詞 いくの 名詞 の 格助詞 道 名詞 の 格助詞 遠けれ ク活用形容詞「遠し」已然形 ば、 接続助詞 まだ 副詞 ふみ 名詞 も 係助詞 み マ行上一段活用動詞「みる」未然形 ず 打消の助動詞「ず」終止形 天の橋立 名詞 と詠みかけ けり。 思は ずにあさましくて、「こはいかに。 」 とばかり言ひて、返しにも及ばず、袖を引き放ちて逃げ られにけり。 小式部、これより、歌詠みの世おぼえ出で来 にけり。 現代語訳 と(小式部内侍は定頼の中納言に)詠みかけた。 定頼の中納言は思いがけず(小式部内侍のみごとな歌の詠みに)驚いて、 これはどうしたものだ とだけ言って、小式部内侍への返歌も出来ず、小式部内侍の掴まれた自分の袖を引き離してお逃げになった。 小式部内侍は、この時から、歌人として世間の評判になることになった。 品詞分解 と 格助詞 詠みかけ カ行下二段活用動詞「詠みかく」連用形 けり。 過去の助動詞「けり」終止形 思はずに ナリ活用形容動詞「思はずなり」連用形 あさましく シク活用形容詞「あさまし」連用形 て、 接続助詞 「こ 代名詞 は 係助詞 いかに。 過去の助動詞「けり」終止形 小式部、 名詞 これ 代名詞 より 格助詞 歌詠み 名詞 の 格助詞 世おぼえ 名詞 出で来 カ行変格活用動詞「出で来」連用形 に 完了の助動詞「ぬ」連用形 けり。 過去の助動詞「けり」終止形 この記事を読んだ人は下の記事も読んでいます お役に立てましたらランキングをクリックしていただけると大変うれしいです。

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上の御局の御簾の前にて

御簾よりなかば出でて

後深草院二条 一〇八 須磨・明石・鞆の津 厳島参拝を思い立って都を出で、瀬戸内海を舟で行く。 須磨に泊り、明石を経て鞆の津に泊る。 その地の遊女が世を捨てて草庵生活をしているのが羨ましく、そこに一日二日滞在し、別れを惜しんでまた舟に乗る。 さてこの旅は何年の事であったか。 後に記される東二条院崩御(嘉元二年一月)、後深草院崩御(同年七月)から逆算して乾元元年九月と推定しておく。 さても安芸(あき)の国厳島(いつくしま)のやしろは、高倉の先帝(せんてい)も御幸(みゆき)し給ひけるあとのしらなみもゆかしくて思ひたち侍りしに、例の鳥羽(とば)より船にのりつつ、河尻(かはじり)より海のに乗りうつれば、浪のうへのすまひも心ぼそきに、ここは須磨の浦ときけば、行平の中納言、もしほたれつつわびけるすまひも、いづくのほどにかと、吹き越す風にも問はまほし。 なが月のはじめのことなれば、霜がれの草むらに、なきつくしたる虫の声、たへだへきこえて、岸にふねつけて泊りぬるに、千声万声(せんせいばんせい)の砧(きぬた)のおとは、夜寒(よざむ)の里にやとおとづれて、浪の枕をそばだてて聞くもかなしきころなり。 明石の浦の朝霧に、島がくれゆくふねどもも、いかなるかたへとあはれなり。 光源氏(ひかるげんじ)の、月毛の駒にかこちけむ心のうちまで、のこるかたなくおしはかられて、とかく漕ぎゆくほどに、備後(びんご)の国鞆(とも)といふ所にいたりぬ。 なにとなく賑(にぎ)ははしきやどと見ゆるに、たいかしまとて、はなれたる小島あり。 遊女の世をのがれて、いほりならべてすまひたる所なり。 さしもにごりふかく、六つの道にめぐるべきいとなみをのみする家に生れて、衣裳に薫物(たきもの)しては、まづ語らひふかからむことを思ひ、わが黒髮をなでても、たが手枕(てまくら)にかみだれんと思ひ、暮るれば契(ちぎり)をまち、明くればなごりをしたひなどしてこそ過ぎこしに、思ひすてて籠りゐたるも、ありがたくおぼえて、「つとめにはなにごとかする。 いかなるたよりにか発心せし」など申せば、ある尼申すやう、「われはこの島の遊女の長者(ちやうじや)なり。 あまた傾城(けいせい)を置きて、めんめんのかほばせをいとなみ、道行人(みちゆきびと)をたのみて、とどまるをよろこび、漕ぎゆくをなげく。 まだ知らざる人にむかひても、千秋万歳を契り、花のもと露のなさけに酔ひをすすめなどして、いそぢにあまり侍りしほどに、宿縁(しゆくえん)やもよほしけん、有為(うゐ)のねぶりひとたびさめて、二たびふるさとへかへらず。 此の島にゆきて、朝な朝な花をつみにこの山にのぼるわざをして、三世(みよ)の仏(ほとけ)にたむけたてまつる」など言ふもうらやまし。 これに一二日とどまりて、又こぎいでしかば、遊女どもなごりをしみて、「いつほどにか都へこぎかへるべき」などいへば、「いさや、これやかぎりの」などおぼえて、 いさやそのいくよあかしのとまりとも かねてはえこそおもひさだめね 一〇九 厳島参籠 厳島神社に参拝して、九月十二日の試楽、十四日の大法会を見る。 厳島の神の本体は阿弥陀如来であると聞くにつけ、弥陀の本願に乗じて救われたいと願うのであるが、心中に濁りをもちながら願っている自分が、自分ながらもどかしく思われる。 かの島につきぬ。 漫々たる波の上に、鳥居はるかにそばだち、百八十間の廻廊(くわいらう)、さながら浦の上にたちたれば、おびたたしく船どもも、この廊につけたり。 大法会(だいほふゑ)あるべきとて、内侍といふ者、めんめんになどすめり。 九月十二日、試楽(しがく)とて、廻廊めく海のうへに舞台(ぶたい)をたてて、御前の廊よりのぼる。 内侍八人、みな色々の小袖に白き湯巻(ゆまき)をきたり。 うちまかせての楽どもなり。 唐の玄宗の楊貴妃が奏しける霓裳羽衣(けいしやううい)の舞のすがたとかや、聞くもなつかし。 会の日は、左右の舞、青く赤き錦の装束、菩薩のすがたにことならず。 天冠をして、かんざしをさせる、これや楊妃(やうひ)のすがたならむと見えたる。 くれゆくままに楽の声まさり、秋風楽(しうふうらく)、ことさらに耳にたちておぼえ侍りき。 くるるほどに、はてしかば、多くつどひたりし人、みな家々にかへりぬ。 御前(おんまへ)も物さびしくなりぬ。 通夜したる人もせうせう見ゆ。 十三夜の月、御殿のうしろの深山より出づる気色、宝前(はうぜん)の中より出でたまふに似たり。 御殿(ごてん)の下まで潮(しほ)さしのぼりて、空にすむ月の影、又水の底にもやどるかと疑はる。 法性有漏(ほつしやううろ)の大海に、随縁真如(ずゐえんしんによ)の風をしのぎて住まひはじめ給ひける御心ざしもたのもしく、本地(ほんぢ)阿弥陀如来と申せば、光明遍照(くわうみやうへんぜう)、十方世界(じつぱうせかい)、念仏衆生(ねんぶつしゆじやう)、摂取不捨(せつしゆふしや)、もらさずみちびき給へと思ふにも、にごりなきこころの中ならば如何(いか)にと、われながらもどかしくぞおぼゆる。 一一〇 足摺の観音 この段の内容は足摺観音の伝説が主となっている。 この伝説を記すきっかけとして、まず船中で知り合った女に、我が家に立ち寄れと誘われ、自分はこれから足摺へ行きたいのだから、その帰途にと約束する。 そして足摺への紀行は何も記さず、伝説だけを記しているおで、果して足摺へ行ったのか、希望だけで実行しなかったのかは確実でない。 しかし以下、佐東の祇園社・白峰・松山などの巡歴を書いているから、それも紀行文として順路の光景などを詳しく記したものでなく、ただ事がらを羅列したものであるから、足摺旅行もその例であろう。 これにはいくほどの逗留もなくて、上り侍りし船のうちに、よしある女あり。 「我は備後の国、和知(わち)といふ所の者にて侍る。 宿願(しゆくぐわん)によりて、これへまゐりて候ひつる。 かへさにたづね申さん」と契りぬ。 かの岬には、堂ひとつあり。 本尊は観音におはします。 へだてもなく、また坊主(ぼうず)もなし。 ただ、修行者、ゆきかかる人のみ集まりて、上(うへ)もなく下(した)もなし。 いかなるやうぞといへば、昔一人の僧ありき。 この所に、おこなひてゐたりき。 小法師一人つかひき。 かの小法師、慈悲をさきとする心ざしありけるに、いづくよりといふこともなきに、小法師一人来て、時(とき)・非時(ひじ)を食ふ。 小法師、かならず我がぶんをわけてくはす。 坊主いさめていはく、「一度二度にあらず。 さのみ、かく、すべからず」といふ。 又あしたの刻限(こくげん)に来たり。 「心ざしは、かく思へども、坊主しかり給ふ。 これより後は、なおはしそ。 いまばかりぞよ」とて、また分けてくはす。 いまの小法師いはく、「此のほどのなさけ忘れがたし。 さらば我がすみかへいざ給へ。 見に」といふ。 小法師、かたらはれてゆく。 坊主あやしくて、しのびて見送るに、岬にいたりぬ。 一葉の船に棹(さを)さして南をさしてゆく。 坊主泣く泣く、「われをすてて、いづくへゆくぞ」といふ。 小法師、「補陀落世界(ふだらくせかい)へまかりぬ」と答ふ。 見れば、二人の菩薩になりて、船の艦舳(ともへ)に立ちたり。 心うく悲しくて、なくなくあしずりをしたりけるより、あしずりのみさきといふなり。 岩に足跡とどまるといへども、坊主はむなしく帰りぬ。 それより、へだつる心あるによりてこそ、かかるうきことあれとて、かやうにすまひたり、といふ。 三十三身の垂戒化現(すゐかいけげん)、これにやといとたのもし。 一一一 松山・白峰 安芸のさとと(佐東か)の社に一夜泊り、次に讃岐の松山で写経した事を記す。 厳島では九月十四日の大法会を見、その後、さととへ行って一泊し、そこから松山へ渡り、松山では九月末に写経をしていた。 そして次段には十一月末に京への船の便宜あるに乗ったとある。 十月・十一月の二個月は記事がない。 この間に足摺の旅行があったのではなかろうか。 安芸のさととの社は牛頭天王(ごづてんわう)と申せば、祇園の御こと思ひ出でられさせおはしまして、なつかしくて、これには一夜とどまりて、のどかに、たむけをもし侍りき。 讃岐(さぬき)の白峰(しろみね)、松山などは、崇徳院の御跡もゆかしくおぼえ侍りしに、とふべきゆかりもあれば、こぎよせておりぬ。 松山の法花堂は、如法おこなふけいき見ゆれば、沈み給ふともなどかとたのもしげなり。 「かからむ後は」と、西行がよみけるも思ひ出でられて、「かかれとてこそむまれけめ」と、あそばされけるいにしへの御ことまで、あはれに思ひいでまゐらせしにつけても、 物おもふ身のうきことを思ひ出でば 苔の下にもあはれとはみよ さても五部の大乗経の宿願(しゅくぐわん)、のこりおほく侍るを、この国にて又すこし書きまゐらせたくて、とかく思ひめぐらして、松山いたく遠からぬほどに、ちいさき庵室をたづねいだして、道場にさだめ、懺法(せんぽふ)、正懺悔(しやうさんげ)などはじむ。 長月のすゑのことなれば、虫のねもよわりはてて、なにを伴なふべしともおぼえず。 三時の懺法(せんぽふ)を読みて、「慙愧懺悔六根罪障(ざんぎざんげろくこんざいしやう)」と唱へても、まづわすられぬ御言(おんこと)の葉(は)は、心の底にのこりつつ、さても、いまだをさなかりしころ、琵琶の曲を習ひたてまつりしに、給はりたりし御ばちを、四(よつ)の緒(を)をば思ひきりにしかども、御手なれ給ひしも忘られねば、法座のかたはらに置きたるも、 手になれし昔のかげはのこらねど かたみとみればぬるる袖かな このたびは、大集経四十巻を、二十巻かきたてまつりて、松山に奉納したてまつる。 経の程の事は、とかく、この国のしる人に言ひなどしぬ。 供養には、一とせ御形見ぞとて、三つ給はりたりし御衣、一つは熱田の宮の経の時、しゆ行の布施にまゐらせぬ。 このたびは供養の御布施なれば、これを一つ持ちて、布施にたてまつりしにつけても、 月出でん暁までの形見ぞと などおなじくは契らざりけむ 御はだなりしは、いかならむ世までもと思ひて残しおきたてまつるも、罪ふかき心ならむかし。 一一二 備後の国和知 帰京の船に乗ったが、海が荒れたので、先般、船中で知り合った備後の国の女の家を訪ねる。 そこは地方の豪家であったが主人は情を解せぬ荒くれ者であった。 折から、この主人の伯父である広沢与三入道が熊野詣でのついでに立寄る。 とかくするほどに、霜月のすゑになりにけり。 京への船の便宜(びんぎ)あるも何となくうれしくて行くほどに、波風荒く雪あられしげくて、船も行きやらず、きもをのみつぶすもあぢきなくて、備後の国といふ所をたづぬるに、ここにとどまりたる岸より程近くきけば下りぬ。 船のうちなりし女房、書きつけてたびたりし所をたづぬるに、ほど近く尋ねあひたり。 何となくうれしくて、二三日ふるほどに、あるじがありさまを見れば、日ごとに男女(をとこをんな)を四五人具しもてきて、うちさいなむありさま、目もあてられず。 こはいかにと思ふ程に、鷹狩とかやとて、鳥ども多くころしあつむ。 狩(かり)とてししもてくるめり。 おほかた、悪行深重(あくごふしんぢゆう)なる者なり。 をりふし、鎌倉にある親しきものとて、広沢(ひろさわ)の与三(よさん)入道(にふだう)といふ者、熊野まゐりのついでに下るとて、家の中(うち)さわぎ、村郡(むらこほり)のいとなみなり。 絹障子(きぬしやうじ)を張りて、絵をかきたがりし時に、なにと思ひわくこともなく、「絵の具だにあらば、かきなまし」と申したりしかば、鞆(とも)といふ所にありとて取りにはしらかす。 よにくやしけれども力なし。 持てきたれば書きぬ。 よろこびて、「いまはこれにおちとどまり給へ」などいふも、をかしくきくほどに、この入道とかや来たり。 大かた、何とかなどもてなすに、障子の絵を見て、「田舎(ゐなか)にあるべしともおぼえぬふでなり。 いかなる人のかきたるぞ」といふに、「これにおはしますなり」といへば、「さだめて歌などよみ給ふらん。 修行のならひ、さこそあれ。 見参(げざん)にいらん」などいふもむつかしくて、熊野まゐりときけば、「のどかに、このたびの下向に」など、いひまぎらかしてたちぬ。 一一三 江田の里 作者が最初に訪ねたのは和知の家であったが、その家の主人の兄が江田に住んでいる。 作者は江田へ招かれてそこに滞在することになった。 和知の主人がそれを怒って大事件になり、作者の身が危険になった。 そこへ熊野から広沢入道が下向して来た。 作者が入道に逢って見ると、それは先年鎌倉滞在中、連歌の席に一座した者であった。 奇遇というべきであるが、作者はこれによって難をのがれることができた。 このついでに、女房二三人きたり。 江田(えだ)といふ所に、此のあるじの兄のあるが、むすめよするなどありとて、「あなたさまをも御覧ぜよ」「絵のうつくしき」などいへば、このすまひも、あまりにむつかしく、都へは、この雪に叶はじといへば、年のうちもありぬべくやとて、何となく行きたるに、この和知のあるじ、思ふにもすぎてはらだちて、「我、としごろの下人を逃したりつるを、厳島にて見つけてあるを、また江田へかどはれたるなり。 うちころさむ」などひしめく。 こはなにごとぞと思へども、「物おぼえぬ者は、さるちうようにもこそあれ。 なはたらきそ」などいふ。 この江田といふ所は、若きむすめどもあまたありて、なさけあるさまなれば、何となく、心とどまるまではなけれども、さきのすまひよりは心のぶる心ちするに、いかなることぞと、いとあさましきに、熊野まゐりしつる入道、かへさに又下りたり。 これに、かかる不思議ありて、我が下人をとられたるよし、わが兄を訴(うた)へけり。 此の入道はこれらがをぢながら、所の地頭とかやいふものなり。 「とは、なにごとぞ。 心えぬ下人沙汰(げにんざた)かな。 いかなる人ぞ。 物まゐりなどすることは常の事なり。 都にいかなる人にておはすらん。 はづかしく、かやうになさけなくいふらんことよ」など言ふときくほどに、これへ又くだるとてひしめく。 このあるじ、ことのやういひて、「よしなき物まゐり人ゆゑに、兄弟(おととい)なかたがひぬ」といふをききて、「いと不思議なることなり」といひて、「備中の国へ人をつけて送れ」などいふもありがたければ、見参(げざん)して事のやうかたれば、「能(のう)はあだなるかたもありけり。 御能(ごのう)ゆゑに、ほしく思ひまゐらせて申しけるにこそ」といひて、連歌し、続歌(つぎうた)などよみてあそぶほどに、よくよく見れば、鎌倉にて飯沼の左衞門が連歌にありし者なり。 その事いひいだして、ことさらあさましがりなどして、井田(ゐた)といふ所へ帰りぬ。 雪いとふりて、竹簀垣(たけすがき)といふ物したる所のさまも、ならはぬ心ちして、 世をいとふならひながらもたけすがき うきひしぶしはふゆぞかなしき 一一四 広沢の入道 乾元元年は備後の江田で年を越し、翌嘉元元年二月の末に江田を立って帰京の途につく。 出発に当り広沢の与三入道と和歌を贈答し、都に着いたのは三月中の事と思われる。 この段の末に「修行も物うくなり侍りて、なかすみして、時々侍り」とある文章は不明瞭であるが、「旅行もいやけがさして、じっと都に落ちつき、時々ちょっと出かけるくらいであった」の意に解しておく。 年もかへりぬれば、やうやう都のかたへ思ひたたむとするに、余寒なほはげしく、船もいかがと面々に申せば、心もとなく、かくゐたるに、きさらぎの末にもなりぬれば、このほどと思ひたつよしききて、この入道、井田といふ所より来て、続歌(つぎうた)などよみて、帰るとて、はなむけなど、さまざまの心ざしをさへしたり。 これは、小町殿のもとにおはします中務宮の姫宮の御めのとなるゆゑに、さやうのあたりをも思ひけるにやとぞ、おぼえ侍りし。 これより、備中荏原(えはら)といふ所へまかりたれば、さかりと見ゆる桜あり。 一枝をりて、おくりの者につけて、広沢の入道につかはし侍りし、 かすみこそたちへだつともさくら花 かぜのつてにはおもひおこせよ 二日の道を、わざと人してかへしたり。 花のみかわするるまなきことの葉を 心は行きてかたらざりけり 吉備津宮は都のかたなれば参りたるに、御殿のしつらひも社(やしろ)などはおぼえず、やうかはりたる宮ばらていに几帳などの見ゆるぞめづらしき。 日もながく、風をさまりたる頃なれば、ほどなく都へかへり侍りぬ。 さても不思議なりしことはありしぞかし。 この入道くだりあはざらましかば、いかなるめにかあはまし。 主(しう)にてなしといふとも、たれか方人(かたうど)もせまし。 さるほどには何とかあらましと思ふより、修行も物うくなり侍りて、なかすみして、時々侍る。 一一五 東二条院崩御 嘉元二年一月、東二条院の崩御を聞き、富小路御所に集まる人々の中に混って御様子をうかがう。 遊義門院の御悲嘆が特に作者の心を打つ。 前段で作者は、旅行も物うくなり、しばらく落ちつく事にしたと書いているが、どこに落ちついたのか明らかでない。 この段で「都の方の事を聞くほどに」とあり、「折ふし近き都の住まひに侍れば」とあるから、京に近い所にいたのであろう。 都のかたのことなど聞く程に、むつきのはじめつかたにや、東二条院、御なやみといふ。 いかなる御ことにかと、人しれずおぼつかなく思ひまゐらすれども、こととふべきかたもなければ、よそにうけたまはるほどに、いまはかなふまじき御ことになりて御所をいでさせおはしますよし、うけたまはりしかば、無常はつねのならひなれども、すみなれさせおはしましつる御すみかをさへ出でさせおはしますこそ、いかなる御事なるらんと、十善のゆかにならびましまして、あさまつりごとをも助けたてまつり、夜はともに世ををさめたまひし御身なれば、今はの御こともかはるまじき御事かとこそ思ひまゐらするに、などやなど、御おぼつかなく覚えさせおはしましし程に、はや、御事きれさせ給ひぬとてひしめく。 をりふし近き都の住まひに侍れば、何となく御所(ごしよ)さまの御様(おんやう)も御ゆかしくて、見まゐらせにまゐりたれば、まづ遊義門院、御幸(ごかう)なるべしとて、北面の下臈一二人、御車さしよす。 今出川の右のおとども候ひ給ひけるが、御出でなどいひあひたるに、遊義門院、御幸(ごかう)まづいそがるるとて、御車よすると見まゐらすれば、又まづしばしとて、ひきのけてかへり入らせおはしますかとおぼゆること、二三度になれば、今はの御すがた、又はいつかと、御名残(おんなごり)をしくおぼしめさるる程もあはれに悲しく覚えさせおはしまして、あまた、物見る人どももあれば、御くるま近くまゐりて、うけたまはれば、「すでに召されぬと思ふほどに、又たちかへらせおはしましぬるにや」ときこゆ。 召されて後も、ためしなき御心まどひ、よその袂もところせきほどにきこえさせおはしませば、心あるも心なきも袂をしぼらぬ人なし。 みやみや、わたらせおはしまししかども、みなさきだちまゐらさせおはしまして、ただ御一所わたらせおはしまししかば、かたみの御心ざし、さこそと思ひやりまゐらするも、しるく見えさせおはしまししこそ、かずならぬ身の思ひにもくらべられさせおはします心ちし侍りしか。 いまはの御幸(ごかう)を見まゐらするにも、昔ながらの身ならましかば、いかばかりかなど覚えさせおはしまして、 さてもかくかずならぬ身はながらへて いまはと見つる夢ぞかなしき 一一六 後深草法皇御悩 東二条院の崩御を悲しんでいるうちに同じ年の六月、後深草法皇御病気の噂が伝わり、次第に御重態との事。 心配のあまり八幡に隠って武内の社の御千度を踏んで法皇の延命を祈る。 御葬送(ごそうそう)は伏見殿の御所とて、法皇の御方も、遊義門院の御方も入らせおはしましぬとうけたまはれば、御なげきもさこそとおしはかりまゐらせしかども、つたへし風も跡たへはてて後は、何として申し出づべきかたもなければ、むなしく心になげきて明かしくらし侍りしほどに、同じ年水無月(みなづき)のころにや、法皇、御なやみときこゆ。 御おこり心ちなど申せば、人しれず、いまや、おちさせおはしましぬと、うけたまはると思ふほどに、御わづらはしうならせおはしますとて、閻魔天供(えんまてんく)とかや行はるるなど、うけたまはりしかば、ことがらもゆかしくて、まゐりて、うけたまはりしかども、たれに事とひ申すべきやうもなければ、むなしくかへり侍るとて、 夢ならでいかでかしらんかくばかり われのみ袖にかくる涙を 御日(おんひ)おこりにならせたまふ、いしいしと申す、御大事いでくべきなど申すをきくに、思ひやるかたもなく、いま一たび、この世ながらの御面影(おんおもかげ)を見まゐらせずなりなんことの悲しさなど思ひよる。 あまりに悲しくて、七月一日より八幡(やはた)に籠りて武内(たけうち)の御千度(おせんど)をして、このたび、べちの御事なからんことを申すに、五日の夢に、日しよくといひて、あらはへいでじといふ、 〔本のまま。 ここより紙をきられて候。 おぼつかなし。 紙のきれたる所よりうつす。 〕 一一七 西園寺邸訪問 西園寺邸に実兼を訪ねて面会を得ず。 空しく帰る帰途、北野神社・平野神社に御身代りにならん事を祈る。 再び西園寺邸を訪なう。 今回は面会を得、院参の方策を授けられて帰る。 ……めす。 又御やまひの御様(おんやう)もうけたまはるなど思ひつづけて、西園寺へまかりて、「むかし御所さまに侍りし者なり。 ちと見参(げざん)にいり侍らん」と案内すれば、墨染の袂をきらふにや、きと申し入るる人もなし。 せめての事に、ふみを書きて持ちたりしを、「見参(げざん)に入れよ」といふだにも、きとは取りあぐる人もなし。 夜ふくる程になりて、春王といふさぶらひ、一人出で来て、ふみとりあげぬ。 年のつもりにや、きともおぼえ侍らず。 「あさてばかり、かならずたちよれ」と仰せらる。 なにとなくうれしくて、十日の夜、またたちよりたれば、「法皇御なやみ、すでにておはしますとて、京へ出で給ひぬ」といへば、いまさらなる心ちもかきくらす心ちして、右近の馬場をすぎゆくとても、北野(きたの)・平野(ひらの)をふしをがみても、「わが命に転じかへ給へ」とぞ申し侍りし。 この願もし成就して、我もし露ときえなば、御(ご)ゆゑかくなりぬとも知られたてまつるまじきこそなど、あはれに思ひつづけられて、 君ゆゑにわれさきだたばおのづから 夢には見えよ跡のしらつゆ ひるは日ぐらし思ひくらし、夜は夜もすがらなげきあかす程に、十四日夜、又北山へ思ひたちて侍れば、こよひは入道殿出であひ給ひたる。 むかしの事なにくれおほせられて、「御なやみのさま、むげに頼みなくおはします」など語り給ふをきけば、いかでかおろかに覚えさせたまはむ。 いま一度(いちど)、いかがしてとや申すと思ひては、まゐりたりつれども、何とあるべしともおぼえず侍るに、おほせられ出だしたりしこと、かたりて、「まゐれかし」と、いはるるにつけても、袖の涙も人目あやしければ、たちかへり侍れば、鳥辺野(とりべの)のむなしき跡とふ人、内野には所もなく行きちがふさま、いつかわが身もとあはれなり。 あだしのの草葉の露の跡とふと 行きかふ人もあはれいつまで 一一八 後深草法皇崩御 七月十五日の夜、実兼をたよって院の御所に参り、わずかに院にお目にかかる。 十六日のひるころ崩御。 その夜、両六波羅の武士たちが御弔いに参る。 作者は終夜庭にいて、月を眺めて悲しみ明かす。 十五夜、二条京極よりまゐりて、入道殿をたづね申して、夢のやうに見まゐらする。 十六日のひるつかたにや、はや御こときれ給ひぬといふ。 思ひまうけたりつる心ちながら、今はと聞きはてまゐらせぬる心ちは、かこつかたなく、かなしさもあ、はれさも、思ひやるかたなくて、御所へまゐりたれば、かたへには、御修法の壇(だん)こぼちて出づるかたもあり。 あなたこなたに人はゆ行きちがへども、しめじめと、ことさら音もなく、南殿(なんでん)の灯籠(とうろ)も消たれにけり。 春宮(とうぐう)の行啓は、いまだあかきほどにや、二条殿へなりぬれば、しだいに人の気はいもなくなりゆくに、初夜すぐる程に、六波羅、御とぶらひに参りたり。 北は富小路おもてに、人の家の軒に松明(たいまつ)ともさせて並(な)みゐたり。 南は京極おもての篝(かがり)の前に、床子(しやうじ)に尻(しり)かけて、手のもの二行にならみゐたるさまなど、なほゆゆしく侍りき。 夜もやうやうふけゆけども、かへらむ空もおぼえねば、むなしき庭にひとりゐて、むかしを思ひつづくれば、をりをりの御面影(おんおもかげ)ただいまのここちして、何と申しつくすべき言(こと)の葉(は)もなく悲しくて、月を見れば、さやかにすみのぼりて見えしかば、 くまもなき月さへつらきこよひかな くもらばいかにうれしからまし 釈尊入滅のむかしは、日月も光をうしなひ、心なき鳥獣(とりけだもの)までも、うれへたる色にしづみけるにと、げにすずろに、月にむかふながめさへ、つらくおぼえしこそ、われながら、せめての事と、思ひしられ侍りしか。 一一九 むなしき煙 七月十七日、終日御所にたたずみ、遠くからでも御棺を拝みたく思うたが叶わず、夜に入って御出棺、はだしで御葬送のあとを追い、遂に追いおくれて、夜明けがた、遙かに火葬の煙を拝す。 十八日、伏見の御所に参り、遊義門院の御悲嘆を思いやりながらも、お目にかかるつてはなく、そのまま帰る。 夜もあけぬれば、たちかへりても、なほのどまるべき心ちもせねば、平中納言のゆかりある人、御葬送奉行と聞きしに、ゆかりある女房を知りたる事侍りしをたづねゆきて、「御棺(おくわん)を、遠(とほ)なりとも、いま一度(いちど)みせ給へ」と申ししかども、かなひがたきよし申ししかば、思ひやるかたなくて、いかなるひまにても、さりぬべきことやと思ふ。 こころみに、女房のきぬをかづきて、日くらし御所にたたずめども、かなはぬに、すでに、御格子(みかうし)まゐる程になりて、御棺(おくわん)のいらせ給ひしやらん、御簾(みす)のとほりより、やはらたたずみよりて、火の光ばかり、さにやとおぼえさせおはしまししも、目もくれ心もまどひて侍りしほどに、ことなりぬとて、御車よせまゐらせて、すでに出でさせおはしますに、持明院殿の御所、門(もん)まで出でさせおはしまして、かへりいらせおはしますとて、御直衣(おんなほし)の御袖にて、御涙を払はせおはしましし御気色、さこそと悲しく見まゐらせて、やがて京極おもてより出でて、御車のしりにまゐるに、ひぐらし御所に候ひつるが、事なりぬとて御車のよりしに、あわてて、はきたりし物も、いづ方へかゆきぬらん、はだしにて、はしりおりたるままにて参りしほどに、五条京極を西へやりまはすに、大路(おほぢ)にたてたりしたけに御車をやりかけて、御車のすだれ、かたかたおちぬべしとて、御車副(みくるまぞひ)のぼりて、なほしまゐらするほど、つくづくと見れば、山科の中将入道そばにたたれたり。 すみぞめの袖もしぼるばかりなる気色、さこそと悲し。 ここよりやとまる、ここよりやとまると思へども、立ち帰るべき心ちもせねば、しだいにまゐるほどに、物ははかず、足はいたくて、やはらづつゆく程に、みな人には追ひおくれぬ。 藤の森といふほどにや、男ひとりあひたるに、「御幸さきだたせおはしましぬるにか」といへば、「稲荷の御まへをば御通りあるまじき程に、いづかたへとやらん、まはらせおはしましてしやらん。 こなたは人も候ふまじ。 夜ははや寅になりぬ。 いかにしてゆき給ふべきぞ。 いづくへゆき給ふ人ぞ。 あやまちすな、送らん」といふ。 むなしく帰らんことの悲しさに、なくなく、ひとりなほまゐる程に、夜のあけしほどにや、ことはてて、むなしきけぶりのすゑばかりを見まゐらせし心の中、今まで世にながらふべしとや思ひけん。 伏見殿の御所さまを見まゐらすれば、この春、女院の御かた御かくれのをりは、二御方(ふたおんかた)こそ御わたりありしに、このたびは女院の御かたばかりわたらせおはしますらん御心の中、いかばかりかと、おしはかりまゐらするにも、 露消えし後のみゆきのかなしさに むかしにかへるわがたもとかな かたらふべきとぐちもさしこめて、いかにといふべきかたもなし。 さのみ、まよふべきにもあらねば、その夕がたかへり侍りぬ。 一二〇 天王寺参籠 遊義門院が素服を召された事を聞くにつけても、昔嵯峨院崩御の時の自分が思い出されてたまらなく悲しいので、心をまぎらそうと、天王寺に参る。 そこでは又、遊義門院の御悲しみが思い出される。 御素服(おんそふく)めさるるよし、うけたまはりしかば、むかしながらならましかばいかにふかくそめまし、後嵯峨院御かくれのをりは、御所に奉公せしころなりしうへ、故大納言おもふやうありてとて、御素服の中に申しいれしを、「いまだをさなきに、大かたのはえなき色にてあれかし」などまで、うけたまはりしに、そのやがて八月に、わたくしの色を着て侍りしなど、かずかず思ひ出でられて、 墨染の袖はそむべき色ぞなき おもひはひとつおもひなれども かこつかたなき思ひのなぐさめにもやとて天王寺へ参りぬ。 釈迦如来転法輪処など聞くもなつかしくおぼえて、のどかに経をも読みて、しばしは、まぎるるかたなくて候はんなど思ひて、ひとり思ひつづくるも悲しきにつけても、女院の御かたの御思ひ、おしはかりたてまつりて、 春きせしかすみの袖に秋ぎりの たちかさぬらん色ぞかなしき 一二一 御四十九日 御四十九日に伏見の御所に参る。 伏見上皇もおいでになっていると聞いて、上皇がまだ東宮であられた昔の事などが思い出される。 後深草院の御病中、御身代りに立ちたいと祈願したのに叶わなかった。 それにつけて、三井寺の証空の昔話が思い出され、定業は神仏の力も叶わぬものと思いつづけながら伏見の御所から帰る。 父の死が秋であったのに、また院の崩御が同じく秋であるにつけても、冥途の御旅が思いやられる。 御四十九日も近くなりぬれば、また都にかへりのぼりつつ、その日は、伏見の御所にまゐるに、御仏事はじまりつつ、おほく聽聞せし中に、わればかりなる心のうちはあらじとおぼゆるにも悲し。 ことはてぬれば、めんめんの御布施どものやうも、けふとぢめぬる心ちして、いと悲しきに、ころしも長月のはじめにや、露も涙も、さこそあらそふ御事なるらめと、御簾(みす)のうちも悲しきに、持明院の御所、このたびは又おなじ御所とうけたまはるも、春宮にたち給ひて、角殿(すみどの)の御所に御わたりのころまでは見たてまつりし古(いに)しへも、とにかくに、あはれに、かなしきことのみ色そひて、「秋しもなどか」と、おほやけ、わたくし、おぼえさせ給ひて、かずならぬ身なりともと、さしもおもひ侍りしことのかなはで、いままで浮世(うきよ)にとどまりて、七つの七日(なぬか)にあひまゐらする、われながら、いとつれなくて、三井寺の常住院の不動は、智興内供(ちこうないぐ)が限りのやまひには、証空阿闍梨(しやうくうあざり)といひけるが、「主坊(しゆぼう)恩おもし、かずならぬ身なりとも」といひつつ、晴明(せいめい)にまつりかへられければ、明王(みやうわう)、命(いのち)にかはりて、「汝は師にかはる、われは行者(ぎやうじや)に代らん」とて、智興もやまひやみ証空も命(いのち)のびけるに、君の御恩、主坊(しゆぼう)の恩よりも深(ふか)かりき。 申しうけし心ざしなどしも、むなしかりけん。 苦(く)の衆生(しゆじやう)にかはらんために、御名(おんな)を八幡大菩薩と号すとこそ申しつたへたれ。 かずならぬ身にはよるべからず。 御心ざしの、なほざりなるにもあらざりしに、まことの定業(ぢやうごふ)は、いかなることも、かなはぬ御事なりけり、など思ひつづけて、かへりて侍りしかども、つゆまどろまれざりしかば、 かなしさのたぐひとぞきく虫のねも おいのねざめの長月の頃 ふるきをしのぶ涙はかたしく袖にもあまりて、父の大納言身まかりしことも、秋のつゆにあらそひ侍りき、かかる御あはれも又秋のきりとたちのぼらせ給ひしかば、なべて雲井もあはれにて、雨とやなり給ひけむ、雲とやなり給ひけん、いとおぼつかなき御たびなりしか。 いづかたの雲ぢぞとだに尋ねゆく などまぼろしのなき世なるらん 一二二 母の形見 大集経書写の費用を弁ずるため、まず母の形見の手箱を売る。 さても大集経、いま二十巻、いまだ書きたてまつらぬを、いかがして、この御百日の中にと思へども、身のうへの衣なければ、これをぬぐにもおよばず、命をつぐばかりのこと、もたざれば、これをさりてとも思ひたたず、思ふばかりなく、なげきゐたるに、我が二人の親のかたみにもつ、母におくれけるをり、「これにとらせよ」とて、平手箱(ひらてばこ)の、鴛鴦の丸(まる)をまきて、具足金(ぐぞくがね)まで同じもんにてし入れたりしと、又梨地(なしぢ)にせんきひしを高蒔(たかまき)にまきたるすずりぶたの、中には嘉辰令月(かしんれいげつ)と、手づから故大納言の文字(もじ)を書きて、かねにてほらせたりし硯となり。 一期(いちご)はつくるとも、これをば、失はじと思ひ、いまはの煙にも共(とも)にこそと思ひて、修行に出でたつをりも、心ぐるしきみどり子を跡にのこす心ちして人にあづけ、かへりては、まづとりよせて、二人の親に逢ふ心ちして、手箱は、四十六年の年をへだて、硯は三十三年の年月をおくる。 名残いかでかおろかなるべきを、つくづくと案じつづくるに、人の身に命にすぎたるたから何かはあるべきを、君の御ためにはすつべきよしを思ひき。 いはんや有漏(うろ)のたから、つたゆべき子もなきに似たり。 我が宿願(しゆくぐわん)成就せましかば、むなしくこの形見は人の家のたからとなるべかりき。 しかじ、三宝に供養して君の御菩提にも回向し、二親のためにもなど思ひなりて、これをとり出でて見るに、年月なれし名残は、物言ひ笑ふことなかりしかども、いかでか、かなしからざらむ。 をりふし、あづまのかたへよすがさだめてゆく人、かかる物をたづぬとて、三宝の御あはれみにや、思ふほどよりも、いと多くに、人とらむといふ、思ひたちぬる宿願(しゆくぐわん)、成就しぬる事はうれしけれども、手箱をつかはすとて、 ふたおやの形見と見つる玉くしげ けふわかれゆくことぞかなしき 一二三 大集経たてまつ納 この段には欠文があり、精しく解し得ないが、大集経の残り二十巻を東山双林寺のあたりで書写し、これを春日神社本宮の峰に納めた事が主文である。 九月十五日より東山(ひんがしやま)双林寺(さうりんじ)といふあたりにて、懺法(せんぽふ)をはじむ。 さきの二十卷の大集経まで、 〔以下脱落ト思ハル〕 をりをりも昔をしのび今をこふる思ひ、忘れまゐらせざりしに、今は一すぢに過去聖霊成等正覚(くわこしやうりやうじやうとうしやうかく)とのみ、ねてもさめても申さるるこそ、宿縁もあはれに、われながらおぼえ侍りしか。 清水山(きよみづやま)の鹿のねは、わが身の友と聞きなされ、まがきの虫の声々は、涙こととふと悲しくて、う後夜(ごや)の懺法(せんぽふ)に、夜ふかくおきて侍れば、東よりいづる月影の西にかたぶくほどになりにけり。 てらでらの後夜(ごや)も行ひはてにけるとおぼゆるに、双林寺のみねに、ただひとり行ひゐたるひじりの念仏のこゑすごくきこえて、 いかにしてしでの山路を尋ねみむ もしなきたまのかげやとまると かのひじりやとひて、れうし水むかへさせに横川(よかは)へつかはすに、東坂本(ひんがしさかもと)へゆきて、我は日吉(ひよし)へまゐりしかば、むばにて侍りしものは、この御社にて神恩をかうぶりけるとて、つねにまゐりしに具せられては、 〔ここより又かたなにてきりてとられ侯。 返す返すおぼつかなし。 〕 いかなる人にかなど申されしを聞くにもあはれはすくなからんや。 深草の御墓へ奉納したてまつらむも、人目あやしければ、ことさら、御心ざしふかかりし御事、思ひいでられて、春日の御社へまゐりて、本宮のみねに納めたてまつりしにも、嶺の鹿のねも、ことさらをりしりがほにきこえ侍りて、 みねの鹿野原のむしの声までも おなじ涙の友とこそきけ 一二四 父の三十三回忌 嘉元二年、父の三十三回忌を営む。 亡父が夢にあらわれて歌道に精進せよと激励する。 さても、故大納言身まかりて今年(ことし)は三十三年になり侍りしかば、かたのごとく仏事などいとなみて、れいのひじりのもとへつかはしし諷誦(ふじゆ)に、 つれなくぞめぐりあひぬる別れつつ 十(とを)づつみつに三つあまるまで 神楽岡(かぐらをか)といふ所にて、けぶりとなりし跡を、たづねて、まかりたりしかば、旧苔(きうたい)露深(つゆふか)く道をうづみたる木の葉が下を分けすぎたれば、石の卒塔婆(そとば)、形見がほにのこりたるもいとかなしきに、さてもこのたびの勅撰には、もれ給ひけるこそかなしけれ。 我(われ)世にあらましかば、などか申しいれざらむ。 続古今よりこのかた、代々の作者(さくしや)なりき。 また我が身のむかしを思ふにも、竹園(ちくゑん)八代の古風、むなしくたへなむずるにやと、かなしく、最期終焉(さいごしゆうえん)の言葉など、かずかず思ひつづけて、 ふりにけるなこそをしけれ和歌の浦に 身はいたづらにあまのすて舟 かやうにくどき申して帰りたりし夜、むかしながらのすがた、我(われ)もいいにしへのここちにて、あひむかひて、このうらみをのぶるに、「祖父久我の大相国は『落葉がうへのつゆの色づく』言葉をのべ、我(われ)は、『おのが越路も春のほかかは』と、いひしより代々の作者(さくしや)なり。 外祖父兵部卿隆親は、鷲の尾の臨幸(りんかう)に、『けふこそ花の色はそへつれ』と詠み給ひき。 いづかたにつけても、すてらるべき身ならず。 具平親王よりこのかた家ひさしくなるといへども、わかのうらなみたえせず」などいひて、たちざまに、 なほもただかきとめてみよ藻鹽草 人をもわかずなさけあるよに とうちながめて、たちのきぬとおもひて、うちおどろきしかば、むなしきおもかげは、袖のなみだにのこり、言の葉は、なほ夢のなくらにとどまる。 一二五 人丸御影供 人丸の墓に七日間通夜して夢想を蒙る。 それは嘉元二年十月頃の事であろうが月日は不明。 嘉元三年三月八日、人丸御影供を行う。 これよりことさらこの道をたしなむ心もふかくなりつつ、このついでに、人丸のはかに七日まゐりて、七日といふ夜、通夜(つや)して侍りしに、 契りありて竹の末葉にかけし名の むなしきふしにさてのこれとや このとき一人の老翁、夢にしめし給ふ事ありき。 この面影をうつしとどめ、このことの葉を記し置く。 人丸講(ひとまろかう)の式(しき)と名づく。 先師の心にかなふ所あらば、この宿願成就せん、宿願成就せば、この式を用ゐて、かのうつしとどむる御影(みえい)のまへにしておこなふべしとおもひて、はこの底に入れて、むなしくすぐし侍るに、又のとしの三月八日、この御影(みえい)を供養して、御影供(みえいぐ)といふ事をとりおこなふ。 一二六 父のかたみ 嘉元三年五月、後深草院の一周忌の近づくにつけ、大乗経五部の写経の残り二部を思い立ち、その費用に当てるため、父の形見の硯を売る。 かくて五月のころにもなりしかば、故御所(こごしよ)の御(おん)はてのほどにもなりぬれば、五部の大乘経の宿願すでに三部は果(はた)しとげぬ。 今二部になりぬ。 あすをまつべき世にもあらず。 二つの形見を一つ供養したてまつりて、父のを殘しても、なにかはせむ。 いく世のこしても、中有(ちうう)のたびに伴なふべきことならずなど思ひよりて、又これをつかはすとて思ふ、ただの人の物になさむよりも、わがあたりへや申さましと思ひしかども、よくよく案ずれば、心の中の祈請(きせい)、その心ざしをば人しらで、世にすむちからつきはてて、今はなき跡のかたみまで、あすか河にながしすつるにやと思はれんことも、よしなしとおもひしほどに、をりふし、筑紫(つくし)のしよきやうといふ者が、鎌倉より筑紫(つくし)へくだるとて、京に侍りしが、聞きつたへて、とり侍りしかば、母の形見はあづまへくだり、ちちのは、にしの海をさしてまかりしぞ、いとかなしく侍りし。 するすみは涙のうみに入りぬとも ながれむすゑにあふせあらせよ などおもひつづけて、つかはし侍りき。 一二七 御一周忌 嘉元三年五月に大品般若経の写経を始め、これを聖徳太子の御墓に参納して七月の初めに帰京。 七月十六日、後深草院の御墓に参り、更に伏見の御所で行われた御一周忌に参る。 さてかの経を、五月の十日あまりのころより思ひたち侍るに、このたびは、河内のくに、太子(たいし)の御墓(おんはか)近き所に、ちとたち入りぬべき所ありしにて、また、大品般若経(だいぼんはんにやきやう)廿卷を書き侍りて、御墓へ奉納し侍りき。 七月のはじめには、みやこへかへりのぼりぬ。 御(おん)はての日にもなりぬれば、深草の御はかへまゐりて、伏見殿の御所へまゐりたれば、御仏事はじまりたり。 しやくせんの僧正、御導師にて、院の御かたの御仏事あり。 むかしの御手をひるがへして御身づかららあそばされける御経といふことをききたてまつりしにも、ひとつ御思ひにやと、かたじけなきことの、おぼえさせおはしまして、いとかなし。 つぎに遊義門院の御布施(おんふせ)とて、憲基法印(けんきほふゐん)の弟、御導師にて、それも御手のうらにと、きこえし御経こそ、あまたの御事の中に、みみにたち侍りしか。 かなしさも今日(けふ)とぢむべき心ちして、さしもあつく侍りし日影も、いと苦しからずおぼえて、むなしき庭にのこりゐて候ひしかども、御仏事はてしかば、還御(くわんぎよ)いしいしとひしめき侍りしかば、たれにかこつべき心ちもせで、 いつとなく乾くまもなき袂かな 涙もけふをはとこそきけ 持明院の御所、新院、御聽聞所(みちやうもんどころ)にわたらせおはします、御透影(おんすきかげ)見えさせおはしまししに、持明院殿は、御色(おんいろ)の御直衣ことに黒く見えさせおはしまししも、今日(けふ)をかぎりにやと悲しくおぼえ給ひて。 又、院御幸ならせおはしまして一つ御聽聞所(みちやうもんどころ)へいらせおはしますを見まゐらするにも、御あとまで、御栄えひさしく、ゆゆしかりける御事かなとおぼえさせおはします。 一二八 亀山院御悩 嘉元三年七月二十一日亀山法皇御病気重きにより嵯峨殿へ御幸。 作者は般若経の残り二十巻を書写のため九月十日頃熊野に出立。 この程よりや、又法皇御なやみといふ事あり。 さのみ、うちつづかせおはしますべきにもあらず。 御悩(ごなう)は常のことなれば、これをかぎりと思ひまゐらすべきにもあらぬに、かなふまじき御ことに侍るとて、すでに嵯峨殿の御幸と聞ゆ。 こぞ、ことしの御あはれ、いかなる御事にかと、およばぬ御ことながら、あはれにおぼえさせおはします。 般若経の残り廿巻を今年かきをはるべき宿願、年ごろ熊野にてと思ひ侍りしが、いたく水こほこほらぬさきにと思ひたちて、なが月の十日頃に熊野へたち侍りしにも、御所の御ことは、いまだおなじさまに承(うけたまは)るも、つひにいかがきこえさせおはしまさむなどは思ひまゐらせしかども、こぞの御あはればかりは嘆かれさせおはしまさざりしぞ、うたてき愛別(あいべち)なるや。 一二九 那智の写経 九月二十余日の頃、那智の御山で写経をする。 写経も終りに近づいた頃、夢を見る。 亡き父が傍にいて夢の中の事を一々説明してくれる。 夢には去年崩御せられた後深草院、現存の遊義門院が姿を現わされなさって作者に好意を御示しになる。 夢想の扇が枕に残っている。 帰京して亀山院の崩御を聞く。 やがて年が改まり嘉元四年(徳治元年)となる。 例(れい)のよひあかつきの垢離(こり)の水をせむ方便になずらへて、那智の御山にて、この経をかく。 なが月の廿日あまりのことなれば、みねのあらしも、ややはげしく、滝のおとも涙あらそふ心ちして、あはれをつくしたるに、 物おもふ袖の涙をいくしほと せめてはよそに人のとへかし かたみののこりをつくして、しやうゑ、いしいしと営(いとな)む心ざしを、権現も納受し給ひにけるにや、写経の日かずも残りすくなりしかば、御山をいづべきほども近くなりぬれば、御名残もをしくて、夜もすがら拝みなどまゐらせて、うちまどろみたるあかつきがたのゆめに、故大納言のそばにありけるが、「出御(しゆつぎよ)のなかば」と告ぐ。 見まゐらすれば、鳥襷(とりだすき)を、浮織物(うきおりもの)に織りたる柿の御衣をめして、右のかたへちとかたぶかせおはしましたるさまにて、我は左のかたなる御簾よりいでて向ひまゐらせたる。 証誠殿(しようじやうでん)の御社に入りたまひて、御簾(みす)をすこしあげさせおはしまして、うちゑみて、よに御心よげなる御さまなり。 又「遊義門院の御方も出でさせおはしましたるぞ」と告げらる。 見まゐらすれば、白き御はかまに、御小袖ばかりにて、西(にし)の御前(ごぜん)と申すやしろの中に、御簾(みす)それも半(はん)にあげて、白き衣(きぬ)二つ、うらうへよりとりいでさせおはしまして、「二人のおやのかたみを、うらうヘヘやりし心ざし、しのびがたくおぼしめす、とりあせて賜ぶぞ」とおほせあるを、賜はりて、本座にかへりて、父大納言にむかひて、「十善のゆかをふみましましながら、いかなる御宿縁(ごしゆくえん)にて、御不具(おんかたは)はわたらせおはしますぞ」と申す。 「あの御不具(おんかたは)は、いませおはしましたる下に御腫物(はれもの)あり。 この腫物(はれもの)といふは、われらがやうなる無知の衆生を、多くしりへ持たせ給ひて、これをあはれみ、はぐくみおぼしめす故なり。 またくわが御あやまりなし」と言はる。 また見やりまゐらせたれば、なほおなじさまに、心よき御顔にて、「ちかくまゐれ」とおぼしめしたるさまなり。 たちて御殿のまへにひざまづく。 白き箸(はし)のやうに、もとは白々(しろじろ)とけづりて、すゑには竹柏(なぎ)の葉、二つある枝を、二つ取りそろへて賜はるとおもひて、うちおどろきたれば、如意輪堂(によいりんだう)の懺法(せんぽふ)始まる。 何となくそばをさぐりたれば、白き扇の、檜(ひ)の木(き)の骨(ほね)なる一本あり。 夏などにてもなきに、いと不思議に、ありがたくおぼえて、とりて道場に置く。 このよしを語るに、那智の御山の師、備後(びんご)の律師(りし)かくたうといふもの、「扇(あふぎ)は、千手(せんじゆ)の御体(おんたい)といふやうなり、かならず利生(りしやう)あるべし」といふ。 夢の御おもかげも、さむるたもとに残りて、写経、をはり侍りしかば、ことさら残しもちまゐらせたりつる御衣(おんぞ)、いつまでかはと思ひまゐらせて、御布施(ふせ)に、泣く泣くとりいで侍りしに、 あまたとしなれしかたみのさよ衣 けふをかぎりとみるぞかなしき 那智の御山に、みな納めつつ帰り侍りしに、 夢さむる枕に残る在明に 涙ともなふたきのおとかな かの夢の枕なりし扇を、いまは御かたみともと、なぐさめてかへり侍りぬるに、はや法皇崩御なりにけるよし、うけたまはりしかば、うちつづかせおはしましぬる世の、御あはれも、有為(うゐ)無常(むじやう)の、なさけなきならひと申しながら、こころうく侍りて、我のみ消(け)たぬむなしきけぶりは、立ちさるかたなきに、年もかへりぬ。 一三〇 大菩薩の御心ざし 徳治元年三月初旬、奈良から京都へ上る途中、石清水八幡宮に参拝して遊義門院の御幸にめぐりあう。 文中の記事によれば、作者は三月七日に八幡宮に通夜、翌八日、門院は八幡宮に奉幣し更に狩尾神社に御参拝あり、作者はその折、門院からお言葉をかけられて感泣し、翌九日門院京都へ還御と聞き、女房兵衛佐を介して門院に桜を献じ、帰京せば直ちに御所へ参らんと申す。 九日門院還御。 作者はなお三日間参籠し、十二日頃帰京して兵衛佐に歌を贈る。 やよひはじめつかた、いつも年のはじめには、まゐりならひたるも忘られねば八幡(やはた)にまゐりぬ。 むつきのころより奈良に侍りしが上(のぼ)るたよりなかりしかば、御幸とも誰かはしらん。 れいの猪(ゐ)の鼻(はな)よりまゐれば、馬場殿あきたるにも、すぎにしことおもひいでられて、宝前(ほうぜん)を見まゐらすれば、御幸の御しつらひあり。 「いづれの御幸にか」と、たづねききまゐらすれば、遊義門院の御幸といふ。 いとあはれに、まゐりあひまゐらせぬる御契(おんちぎり)も、こぞみし夢の御面影(おんおもかげ)さへ思ひいでまゐらせて、こよひは通夜して、あしたも、いまだよに、(によ)くわんめきたる女ばうの、おとなしきが所作するあり。 たれならんとあひしらふ。 得選(とくせん)おとらぬといふ者なり。 いとあはれにて、何となく御所さまの事、たづねきけば、「みな昔の人はなくなりはてて、わかき人々のみ」といへば、いかにしてか、たれともしられたてまつらんとて、御宮めぐりばかりをなりとも、よそながらも見まゐらせんとて、したためにだにも宿(やど)へも行かぬに、「ことありぬ」といへば、かたかたにしのびつつ、よに御輿(みこし)のさまけだかくて宝前(はうぜん)へ入らせおはします。 御幣(ごへい)のやくを、西園寺の春宮権大夫(とうぐうごんのだいぶ)つとめらるるにも、太上入道殿の左衛門督(さゑもんのかみ)など申しし頃のおもかげも通ひ給ふ心ちして、それさへあはれなるに、けふは八日とて、狩尾(とがのを)へ如法(によほふ)御参りといふ。 あじろこし二つばかりにて、ことさらやつれたる御さまなれども、もし忍びたる御参りにてあらば、誰とかは知られたてまつらん、よそながらも、ちと御姿(おんすがた)をもや見まゐらすると思ひてまゐるに、又かちよりまゐるわき人二三人ゆきつれたる。 御やしろに参りたれば、さにやとおぼえさせおはします御うしろを見まゐらするより、袖の涙はつつまれず、たちのくべき心ちもせで侍るに、御所作、はてぬるにや、たたせおはしまして、「いづくよりまゐりたるものぞ」と仰(おほ)せあれば、すぎにしむかしより語り申さまほしけれども、「奈良のかたよりにて候」と申す。 「法花寺よりか」など仰(おほ)せあれども、なみだのみこぼるるも、あやしとやおぼしめされんと思ひて、言葉すくなにてたち帰り侍らんとするも、なほ悲しくおぼえて候(さぶら)ふに、すでに還御(くわんぎよ)なる。 御なごりもせんかたなきに、おりさせおはします所のたかきとて、えおりさせおはしまさざりしついでにて、「肩をふませおはしましておりさせおはしませ」とて、御そばちかくまゐりたるを、あやしげに御覧(ごらん)ぜられしかば、「いまだ御幼(おんおさ)なく侍りし昔は馴れつかうまつりしに、御覧(ごらん)じわすれにけるにや」と申しいでしかば、いとど涙も所せく侍りしかば、御所さまにも、ねんごろに御たづねありて、「今はつねに申せ」など仰(おほ)せありしかば、見し夢も思ひあせられ、すぎにし御所(ごしよ)にまゐりあひまゐらせしもこの御社ぞかしと思ひいづれば、かくれたる信(しん)のむなしからぬをよろこびても、ただ心をしる物は涙ばかりなり。 かちなる女房の中に、ことに初めより物など申すあり。 問へば、兵衛佐(ひやうゑのすけ)といふ人なり。 つぎの日、還御(くわんぎよ)とて、その夜は、御神楽・御てあそび、さまざまありしに、くるるほどに、桜の枝を折りて、兵衛の佐のもとへ、「この花ちらさむさきに、都の御所へたづね申すべし」と申して、つとめては、還御(くわんぎよ)よりさきに、いで侍るべき心ちせしを、かかるみゆきにまゐり会ふも、大菩薩の御心ざしなりと思ひしかば、よろこびも申さんなど思ひて、三日とどまりて、御やしろに候(さぶら)ひてのち京へのぼりて、御ふみをまゐらすとて、「さても花はいかがなりぬらん」とて、 花はさてもあだにやかぜのさそひけむ 契りし程の日かずならねば 御返し、 その花はかぜにもいかがさそはせん 契りしほどはへだてゆくとも 一三一 かたみの面影 後深草院の御三周忌が近づき遊義門院は伏見の御所に御幸なされた。 七月十五日早朝、作者は深草の法花堂に参り、新しく描かれた後深草院の御映像を拝む。 その夜、御映像は伏見の御所に移され給う。 そののち、いぶせからぬほどに申しうけたまはりけるも、昔ながらの心ちするに、七月のはじめのころより、すぎにし御所の御三(おんみ)めぐりにならせおはしますとて、伏見の御所にわたらせおはしませば、何となく、御あはれもうけたまはりたく、いまは残る御形見もなければ、書くべき経はいま一部なほ残り侍れども、ことしはかなはぬも心うければ、御所の御あたり近く候(さぶら)ひて、よそながらも見まゐらせんなど候ひしに、十五日のつとめては、深草の法花堂へまゐりたるに、御影(みえい)の新しく作られさせおはしますとて、すゑまゐらせたるを拝みまゐらするにも、いかでか浅くおぼえさせおはしまさむ、袖の涙もつつみあへぬさまなりしを、供僧(ぐそう)などにや、ならびたる人々、あやしくおもひけるにや、「ちかくよりて、みたてまつれ」といふもうれしくて、まゐりてをがみまゐらするにつけても、涙の残りはなほありけりとおぼえて、 露消えしのちのかたみのおもかげに 又あらたまる袖の露かな 十五日の月、いとくまなきに、兵衛の佐のつぼねにたち入りて、むかしいまのこと思ひつづくるも、なほあかぬ心ちして、たちいでて、みやうじやう院どののかたざまに、たたずむほどに、「すでにいらせおはします」などいふを、何事ぞと思ふほどに、けさ深草の御所にて見まゐらせつる御影(みえい)入らせおはしますなりけり。 案(あん)とかやいふ物にすゑまゐらせて、召次(めしつぎ)めきたるもの四人して、かきまゐらせたり。 仏師にや、墨染のころもきたるもの奉行して二人あり。 又あづかり一人、御所侍(さぶらひ)一二人ばかりにてつき、かみおほひまゐらせて入らせおはしましたるさま、夢のここちして侍りき。 十善万乗(じふぜんばんじよう)のあるじとして、百官にいつかれましましける昔はおぼえずしてすぎぬ。 太上天皇の尊号をかうぶりましましてのち、つかへたてまつりしいにしへをおもへば、しのびたる御ありきと申すにも、御車寄せの公卿、供奉(ぐぶ)の殿上人などはありしぞかしと思ふにも、まして、いかなる道に独り迷ひおはしますらんなど思ひやりたてまつるも、今はじめたるさまに悲しくおぼえ侍るに、つとめて、万里(まで)の小路(こうぢ)の大納言師重のもとより、「ちかきほどにこそ、よべの御あはれいかがききし」と申したりし返事に、 虫のねも月も一つにかなしさの 残るくまなき夜半の面かげ 一三二 御三周忌法要 徳治元年七月十六日、後深草院御三周忌が伏見の御所で営まれ、伏見上皇はかねてから御幸になっている。 上皇は十六日夕還御。 作者はしばらく御所近いところにとどまり、久我前内大臣と和歌の贈答をする。 追記として遊義門院に扇を献上した事を記す。 十六日には御仏事とて、法花の讃嘆(さんだん)とかやとて、釈迦・多宝二仏、ひとつ蓮台におはします。 御堂(みだう)いしいし御供養あり。 かねてより、院御幸もならせおはしまして、ことにきびしく、庭もうへも雑人(ざふにん)はらはれしかば、墨染のたもとは、ことにいやと、いさめらるるも悲しけれど、とかくうかがひて、あまだりの石のへんにて聴聞(ちやうもん)するにも、むかしながらの身ならましかばと、いとひすてし古(いに)しへさへ恋しきに、御願文(ごぐわんもん)終るより、懺法(せんぽふ)すでに終るまで、すべて涙はえとどめ侍らざりしかば、そばに、ことよろしき僧の侍りしが、「いかなる人にて、かくまでなげき給ふぞ」と申ししも、なき御かげの跡までも、はばかりある心ちして、「おやにて侍りしものにおくれて、このほど忌(いみ)あきて侍るほどに、ことにあはれにおもひまゐらせて」など申しなして、たちのき侍りぬ。 御幸の還御(くわんぎよ)は、こよひならせおはしましぬ。 御所さまも御人すくなに、しめやかに見えさせおはしまししも、そぞろにものかなしくおぼえて、かへらん空も覚え侍らねば、御所ちかき程になほやすみてゐたるに、久我のさきのおとどは、同じ草葉(くさば)のゆかりなるも、わすれがたき心ちして、時々申しかよひ侍るに、ふみつかはしたりしついでに、かれより、 都だに秋のけしきはしらるるを いくよふしみの有明の月 問ふにつらさのあはれも、しのびがたくおぼえて、 秋をへてすぎにしみよもふしみ山 またあはれそふ有明のそら 又たちかへり、 さぞなげに昔をいまと忍ぶらむ ふしみのさとの秋のあはれに まことや、十五日は、もし僧などにたびたき御ことやとて、あふぎをまゐらせし包み紙に、 おもひきや君が三とせの秋の露 まだひぬ袖にかけん物とは 一三三 結び 「問はず語り」全五巻を結ぶ文である。 作者はここに、「問はず語り」が書かれたのは、自分の思いを空しく散らしてしまうに忍びず、せめて書き纏めて見たい情にせまられて書いたのだ。 もとより形見として後の世に遺そうなどとは思わない、と言っている。 その思いというのは、後深草院に対する思慕の情と、それにまつわる数奇な愛欲関係の体験、それから生じた我が身の沈淪、引いては久我家の没落を嘆く思いが一つ、いま一つは巻四以下の諸国修行の思いである。 深草の御(み)かどは、御かくれの後、かこつべき御事どもも、あとたへはてたる心ちして侍りしに、こぞの三月八日、人丸の御影供(みえいぐ)をつとめたりしに、ことしのおなじ月日、御幸にまゐりあひたるもふしぎに、見しむば玉の御面影(おんおもかげ)も現(うつつ)におもひあせられて、さても宿願のゆく末、いかがなりゆかんとおぼつかなく、年月(としつき)の心(こころ)の信(しん)も、さすがむなしからずやとおもひつづけて、身のありさまをひとりおもひゐたるも、あかずおぼえ侍るうへ、修行の心ざしも、西行が修行のしき、うらやましくおぼえてこそおもひたちしかば、そのおもひをむなしくなさじばかりに、かやうのいたづらごとを、つづけ置き侍るこそ。 のちのかたみまではおぼえ侍らぬ。 〔本云。 ここより又かたなして、きられて候。 おぼつかなういかなることにかとおぼえて候〕.

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枕草子(52)上の御局の (九四段)

御簾よりなかば出でて

古文の小式部内侍が大江山の歌の事の 問題について質問です 本文 和泉式部、保昌が妻にて、丹後に下りけるほどに、京に歌合ありけるに、小式部内侍、歌よみにとられてよみけるを、定頼中納言、たはぶれに小式部内侍に、 「丹後へつかはしける人は参りにたりや。 」 と言ひ入れて、局の前を過ぎられけるを、小式部内侍、御簾よりなかば出でて、直衣 のうし の袖をひかへて、 [大江山いくのの道の遠ければ まだふみもみず天の橋立] とよみかけけり。 思はずにあさましくて、 「こはいかに。 」 とばかり言ひて、返しにも及ばず、袖をひきはなちて、逃げられにけり。 小式部、これより歌よみの世おぼえ出で来にけり。 現代文 和泉式部が、 藤原 保昌の妻として丹後に下ったころに、京で歌合わせがあったときに、 娘の 小式部内侍が、歌合のよみ手として選ばれて、歌をよんだところ、定頼の中納言が、ふざけて小式部内侍に、 「丹後へ使いにやった人は、帰って参りましたか。 」 と 局の中に 声をかけて局の前をお過ぎになったのを、小式部内侍は、御簾から半分身を乗り出して、 定頼の中納言の 直衣の袖を引き止めて、 [大江山から生野を通って行く道は 都からは 遠いので、 丹後の 天橋立はまだ踏んでみたこともなく、 母からの 手紙も見ていません。 ] とよみかけた。 中納言は 思いがけずに驚いて、 「これはどうしたことか。 」 とだけ言って、返歌をよむこともできず、袖を引き離してお逃げになった。 小式部は、このときから歌人としての世の評判が立つようになったのである。 」とありますが、定頼がそうしたのは何故なのか とゆう問題がよく分かりませんでした 教えてくださいお願いします ><.

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