上皇 皇后 さま。 上皇 (天皇退位特例法)

今後、上皇さま、上皇后さまにお目にかかることは可能か。令和突入

上皇 皇后 さま

皇居宮殿表御座所で公務を行う 2003年(平成15年)2月 撮影 (昭和8年)に(現・東京都)宮城(現・)内の産殿にて、・夫妻の(二男五女のうち)第5子かつ第1皇男子として誕生。 姉に(照宮成子内親王)、、(孝宮和子内親王)、(順宮厚子内親王)、弟に(義宮正仁親王)、妹に(清宮貴子内親王)がいる。 1952年(昭和27年)に規定に基づき18歳で。 現:黒田清子)の二男一女の3人の子女をもうける。 1989年(昭和64年)1月7日に実父であるの に伴いし、第125代に即位。 しかし、2015年(平成27年)に施設訪問の一部を(当時)およびに引き継いだ。 の施行により、(31年)限りで、0時の皇太子徳仁親王の第126代天皇即位に伴い、 となる。 譲位に伴うが行われたのは、からへの譲位以来202年ぶりである。 明仁は、歴代天皇の中で最初に譲位した より数えて、59人目である。 譲位時の年齢は85歳であり、歴代天皇の中で最高齢で譲位した。 上皇となって以降は、上皇后の美智子とともに私的な日本各地への訪問や芸術鑑賞などをして日々を過ごす。 現在、上皇である明仁は、天皇や皇族とともに皇室を構成している。 存命中の男性皇室構成員としては最年長であり 、退位特例法により、を有しない唯一の(天皇以外の)男性皇室構成員となった。 科学者として [ ] としても知られ、の的研究者であった。 に属して自ら研究して書いた28編(2018年時点)を同学会誌に発表。 1992年(平成4年)には『 』誌に「"Early cultivators of science in Japan"(邦訳例:日本における科学の早期開拓者たち)」という題で寄稿した。 また2000年(平成12年)、2008年(平成20年)、2016年(平成28年)には、日本国外の雑誌『 Gene』に第一著者として論文が掲載されている。 魚類学における業績は各国で評価され、において以下に記述する役職に就いている。 1980年(昭和55年)、の外国会員。 1986年(昭和61年)、同協会。 リサーチ・アソシエート。 ロンドン動物学会名誉会員。 自然科学研究所永久名誉会員。 この他にも1998年(平成10年)には英国(ロイヤル・ソサエティ)からチャールズ2世メダルを受賞、2007年(平成19年)の欧州5か国訪問では名誉学員に列せられた。 また長年のハゼの分類学的研究に対する貢献を称え、新種のハゼの一種の命名に、1992年(平成4年)には Platygobiopsis akihito と 、2005年(平成17年)には 、2007年(平成19年)にはハゼの新属に Akihito と 、彼の名を織り込んだがなされた。 皇族および天皇としての国際親善とは別に、魚類研究での外国との交流もあり、皇太子時代に問い合わせに応答したの魚類学者にを毎年送っている。 であるは、1971年(昭和46年)8月26日の仲間内の食事会にて「この前、皇太子殿下(=明仁親王)にに行った。 皇太子殿下のに対する造詣はたいしたもの。 立派に、が務まる。 としてはどうか知らないが、としては一流だ。 」と述べている。 発見したハゼ [ ]• キマダラハゼ: Astrabe flavimaculata Akihito et Meguro• シマシロクラハゼ: Astrabe fasciata Akihito et Meguro• ヒメトサカハゼ: Cristatogobius aurimaculatus Akihito et Meguro• コンジキハゼ: Glossogobius aureus Akihito et Meguro• クロオビハゼ: Myersina nigrivirgata Akihito et Meguro• ミツボシゴマハゼ: Pandaka trimaculata Akihito et Meguro 来歴 [ ] 幼少時代 [ ] 1934年(昭和9年)、誕生翌年に母親のに抱かれる継宮明仁親王(当時) (昭和8年)午前6時39分、宮城(現、)内の産殿にて誕生。 、の(両親夫妻の間にもうけられた2男5女・7人の子女のうち)第5子にして初の皇子(第一皇男子)であった。 称号「 継宮」(つぐのみや)、名前「 明仁」(あきひと)。 これは父、昭和天皇による命名で、いずれも3年(1870年2月3日)のの即位に際して発せられた『』より「…立極垂統、列皇相承、 継之述之…宜 明治教以宣揚惟神之大道也…(「極(皇位)」を立て「統(皇統)」を垂れ、列皇(歴代天皇)は相承し、之を継ぎ之を述べ…よろしく治教を明らかにし以て「惟神(かんながら)」の大道を宣揚すべき也)」に出典を求め、命名されたものである。 お印の「榮(えい)」は文字で、「草花が盛んに茂る様子」を意味する。 昭和天皇の子女として4人続けて女子の誕生を経た後の次期皇位継承者になる男子の誕生ということもあって、国内の沸き立ち方は並々ならぬものがあり、作詞、作曲で奉祝歌『皇太子さまお生まれなつた』まで作られた。 1936年(昭和11年)3月29日、の伝統的慣習に基づき、将来の天皇になるべくして皇太子明仁親王は満2歳で両親の元を離れ、構内ので東宮傅育官によって養育される。 当初は週に一度の日曜日には宮中に参内して両親と面会する機会もあったが、1か月を過ぎる頃から日曜日も東宮仮御所で過ごすようになった。 1940年(昭和15年)にに入学。 就学時代は院長の下で教育を受け、、信国鉄蔵を師としてを練成した。 1941年(昭和16年)12月8日、自身の学習院初等科2年次在学時に、日米開戦。 学習院初等科5年次の1944年(昭和19年)、の戦火の拡大により、初めはのに、後に、湯元の南間ホテルに。 当地で翌1945年(昭和20年)8月15日に、他の疎開児童らとは別室にてラジオでの父帝によるを聴き、終戦を迎えた。 終戦後に帰京。 1946年(昭和21年)10月から1950年(昭和25年)12月まで、父、昭和天皇の「の思想と習慣を学ばせる」という新しい皇太子への教育方針に従い、の著名な女性の者にして教徒の(日本では「ヴァイニング夫人」として知られている)がとして就き、その薫陶を受ける。 1949年(昭和22年)6月27日には、ヴァイニングとともにの設置されたを訪問して連合国軍最高司令官と面会した。 このときマッカーサーは「殿下は落ち着いて、まことに魅力的なお方だった」と好印象を持ったといわれる。 また、西洋で流行していたのリバーシ(現在の)を与えられ、父、昭和天皇とたびたび対戦して知恵を磨いた。 1950年(昭和25年)、学習院高等科2年の際に馬術部の主将となる。 1951年(昭和26年)10月、学習院高等科のに参加。 学友とは前半別行程で、20日夜に青森行きの夜行列車で出発。 青森県内を回った後の26日、岩手県で修学旅行に合流、29日に帰京した。 成年以降 [ ] (昭和27年)、皇居、表北ノ間でと皇太子明仁親王の成年式が挙行された。 同日、に叙され、を授けられる。 (昭和28年)から同年までの半年余りにわたり、人生初の外遊。 12か国および、を歴訪。 同年、(1952年2月6日:父の国王の崩御により即位)のへ父帝、のとして各国王族らと共に参列。 この時の地位はであったが、昭和天皇名代の格式が加わっていたため、応接する諸国では天皇としての応対を行った。 後年、2007年(平成19年)の訪欧前の会見においては、このことを回想して名代の立場の重さを思い、相手国を慮る趣旨の発言を行っている。 しかしこの外遊の結果(皇太子という身分とはいえ特別待遇されることはなく)、の単位が不足して進級できずやむを得ず中途退学したものの、長年の学友たちと学年が異なることを回避するため、以後は聴講生として学業を継続する。 欧米訪問からの帰国直後の同年12月に、の感染を診断される。 この時、などの特効薬が発見されており、それの投与による治療を受け、1957年(昭和32年)までにほぼ治癒した。 このことは長らく公にされていなかったが、2009年(平成21年)3月に行われた、第60回結核予防全国大会の挨拶にて、自ら明かした。 1957年(昭和32年)8月19日、避暑で訪れていたのでのトーナメントで会長(当時)であったの長女、と出会い、テニスを通して交際を深めた。 職員の作品展に『女ともだち』と題した彼女のを出品した。 しかし、「皇太子が積極的に正田美智子との結婚を考えている」ということが分かると、皇室内外からの反対もあった。 昭和天皇のを務めたの著作『』には、「『のご縁談についてからとは怪しからん』と母、が、の両親王妃と共に昭和天皇に訴えた」という内容の記述がある。 1959年(昭和34年)1月14日にが、同年4月10日に皇太子明仁親王と正田美智子のが執り行われた。 以降では初の皇族、華族以外からの(将来の)であり、また成婚に至る過程が報道されたこともあって、市民からは熱烈に歓迎され、国民的な「」が起る。 成婚のは盛大に行われ、多数の国民から祝福を受けた。 2人の成婚の様子を生中継放送で視聴するために、当時高価であったも一般家庭に普及し始めた。 また婚礼を祝して『』が作曲された。 同年7月15日に、皇太子妃美智子の第一子懐妊が発表された。 1960年(昭和35年)2月23日に第1子、第一男子 (ひろのみや なるひと)が誕生。 3月には妹、が、明仁親王の学友だったと結婚した。 同年9月22日から同年10月7日にかけて、妃美智子を伴って夫妻で日米修好100周年記念のためを16日間にわたり訪問した。 1965年(昭和40年)11月30日、第2子、第二男子 (あやのみや ふみひと)が誕生。 1969年(昭和44年)4月18日、第3子、第一女子 (のりのみや さやこ)が誕生。 1987年(昭和62年)、皇太子夫妻としての最後の外国訪問(アメリカ合衆国、にて) 沖縄県訪問に際して [ ] の()が実現して3年後の1975年(昭和50年)、に際し、父、昭和天皇も期の皇太子時代に行啓した沖縄県に立太子後、初めて訪問。 海洋博の写真を収めた書籍『海 その望ましい未来』、海洋博の記録映画『公式長編記録映画 沖縄海洋博』にも開会式・閉会式に親覧した皇太子および同妃の姿が収録される。 この沖縄県訪問については複数の事件もあった。 同年7月17日、皇太子妃美智子を伴い夫妻でに献花のため訪問したところ、その場に潜んでいた過激派2人(沖縄解放同盟準備会メンバーの知念功とのメンバー)から1本を投げつけられる()。 同日夜、皇太子は「における県民の傷跡を深く省み、平和への願いを未来へつなぐ。 」と県民の心情を思う異例の談話を発表している。 なお、この皇太子夫妻訪沖については同事件の犯人の所属する組織など以外にも、各種政治団体が「訪沖阻止」などを叫んで全国で集会や、(全学連)・県学連などによる1000人単位のなどを行ったほか、沖縄入りした皇太子および同妃の自動車に空き瓶などを投げつけるなどのテロ(犯人はで逮捕)に及んだが 、皇太子および同妃に怪我などはなく、つつがなく予定を終了した。 皇太子は当時より沖縄に関心をよせ を研究し、琉歌8首を発表している。 1976年(昭和51年)1月18日の海洋博閉会式にも揃って出席している。 1987年(昭和62年)にも、を前に病臥した父・昭和天皇(昭和天皇が在位中の天皇として史上初めて沖縄を訪問する予定だった)の名代として沖縄を訪問し、同年10月24日、南部戦跡の平和祈念堂で「先の大戦で戦場となった沖縄が、島々の姿をも変える甚大な被害を被り、一般住民を含むあまたの尊い犠牲者を出したことに加え、戦後も長らく多大の苦労を余儀なくされてきたことを思う時、深い悲しみと痛みを覚えます」との天皇のことばを代読した。 当時のは「お言葉に接し、感動胸に迫るものがあります。 これで、ようやく沖縄の戦後は終わりを告げたと思う。 」と談話を発表した。 天皇即位以降 [ ] 1989年(昭和64年)1月7日、父・昭和天皇の崩御を受け、直ちに歴代3位の年長となる55歳で第125代天皇に即位 (現行の皇室典範により、「践祚〈せんそ〉」と「即位〈そくい〉」が統合されたため、従前の「践祚」に相当)。 同日、の儀式()を執り行い、翌、元号法に基づき「平成」に改元された。 に執り行われたでは「国民とともに日本国憲法を守り、国運の一層の進展と世界の平和、人類福祉の増進を切に希望してやみません」との「」を発した。 が明けた1990年(平成2年)のに際して、()から()へが運ばれるなど大掛かりな準備が行われ、同年11月12日に中心儀式であるが執り行われた。 祖父の及び父のとも即位の礼をで挙行しており(即位礼紫宸殿の儀)、()の地で即位した初めての天皇となる。 同日、即位の礼「祝賀御列の儀」としてでのパレードが行われ、皇居からまでの4. 7kmの道のりを、約12万人の市民が埋め尽くし平成時代(1989年1月8日 — 2019年4月30日)の天皇と皇后を祝福した。 同年11月22日・23日、皇居内でが執り行われた。 1992年(平成4年)10月、政府の招待で同国を訪問する。 でに渡ったのは歴代天皇で初の出来事であり 、生前の昭和天皇が希望していたことであったが 、当時の中国()だったは回顧録で「天皇訪中はでのの対中制裁の突破口という側面もあった」と明かしている。 1999年(平成11年)に即位10周年を迎え、同年11月20日に「」が開催され、同日夜にはで祝賀の声に応えた。 この折に、は即位10年記録集『道』を刊行している。 1993年(平成5年)には、父の昭和天皇が実現できなかった行幸を自身の在位中で果たした。 この折には皇后美智子(当時)とともに、予定になかったの慰霊碑への訪問を行った。 2003年(平成15年)までに、47の日本全国の巡幸を達成した。 2009年(平成21年)11月12日、主催の「」・民間主催の「」が執り行われた。 2009年(平成21年)12月15日、(後の)と会見。 この会見の申請が、慣例の1か月前を切って行われたことから騒動となり、・が記者会見で政府・政権・を批判する発言を行った()。 2011年(平成23年)3月16日、()の発生とそれに伴う被害に鑑み、国民および被災者に対し異例のを放送した。 2019年 平成31年 4月30日 2016年(平成28年)7月13日、や『』が、天皇の位を生前に(次期皇位継承者)に譲る「生前()」の意向を、宮内庁関係者に示したと一斉に報道。 諸報道によれば、天皇として「に定められた象徴としての務めを十分に果たせる者が天皇の位にあるべきだ」と考えており、「数年内の譲位を望んでいる」とされ 、「天皇自身が広く内外に『お気持ち』を表わす方向で、調整が進められている」とされた。 しかし、宮内庁の次長(当時、現・宮内庁長官)は、報道を受け、各社の取材に対して「そうした事実は一切ない。 陛下は憲法上のお立場から、皇室典範や皇室の制度に関する発言は差し控えてこられた。 」と報道内容を否定した。 8月8日、約11分間のビデオを通じて、自ら個人の「お気持ち」を『 』として表明。 自身が即位後、日々、天皇として望ましい在り方を模索して今日に至ったが、高齢になったため、全身全霊で象徴としての務めを果たしていくことが難しくなってきたと案じていることへの国民の理解を求めた。 2017年(平成29年)12月1日開催のにおいて、天皇退位の日が2019年(平成31年)4月30日に決定した。 同8日、政府は同日付での退位をした()。 2019年(平成31年)2月24日、主催の「」が、皇后美智子との成婚60周年を迎えた同年4月10日には「」が開催された。 在位中の2019年(平成31年)4月1日、に基づき新元号「令和」が公表され、に署名し、した。 なお、新元号が政府より事前発表されるにあたり、この影響で日本の業界では新規案件で元号を使用した機能の受注については、新規元号発表までは見合わせるか、のみか、2018年(平成30年)までとするかで動きが分かれた。 カレンダー業界は印刷発行と販売に多大なる影響が出ることを危惧していた。 退位の日である2019年(平成31年)4月30日の午後5時から、としてが皇居宮殿正殿松の間で行われ、これが天皇としての最後の公務となった。 の規定により、明仁はこの日を以って退位し、翌5月1日午前0時にとなり、自身の第1皇男子である皇太子徳仁親王が第126代天皇に即位した。 同時にの規定により、「平成」から「令和」にされた。 これにより2019年は、「平成31年(1月1日-4月30日)」と「令和元年(5月1日-12月31日)」という2つの元号が存在することとなった。 上皇として [ ] 「」も参照 第三条 前条の規定により退位したは、 上皇(読み:じょうこう)とする。 上皇のは、とする。 上皇のに関する事項の登録、及びについては、天皇の例による。 上皇に関しては、前二項に規定する事項を除き、(第2条、第28条第2項及び第3項並びに第30条第2項を除く。 )に定める事項については、の例による。 2017年(平成29年)6月9日の本会議での議決により『』が成立し、7日後の16日に公布された。 2019年(平成31年)4月30日に同法が完全に施行され、天皇の地位と職務は全て皇太子徳仁親王へと引き継がれた。 天皇退位特例法施行にともない、宮内庁には上皇との機関として「上皇職」が設置された。 明仁は、満85歳で上皇となって以降、天皇在位中とは異なり公的な場に姿を見せることは少なく、上皇后の美智子とともに私的な日本各地への訪問や芸術鑑賞などで日々を過ごす。 86歳となった同年は、前年まで(祝日)であったが、退位後は平日となり、翌年(令和2年)より第126代天皇・徳仁の誕生日であるが新たな天皇誕生日となった。 (令和2年)、妻の上皇后美智子、天皇徳仁と皇后雅子および他の皇族らと共に、皇居での新年一般参賀に参加。 退位後に初めて公の場で姿を見せた。 は同年、上皇が29日午後6時半ごろ、私的外出ののち吹上仙洞御所に戻って約1時間後に倒れたと発表した。 意識はしばらくして戻り、翌30日に宮内庁病院で頭部検査と専門医による診察を受けたが、症状の原因となる所見は見られず、当面は経過観察を続けるとした。 また同庁によると、上皇が倒れた際に上皇后が非常ブザーで侍医を呼んだ。 上皇はいびきのような息づかいだったが、侍医の診察開始から間もなく意識を回復したという。 夕食を取らずにそのまま就寝した。 30日朝は通常通り朝食をとったという。 2019年(令和元年)7月にはのため立っていられず、かがみ込む症状があった。 宮内庁は、上皇の最近の体調に問題はなかったとし、仙洞仮御所(旧:高輪皇族邸)への引越準備に加え、ハゼ科魚類の研究や上皇后との日課の散策、読書などをして静かに過ごしているという。 同年に、上皇后と共に仮住居である仙洞仮御所()に引っ越す。 及びの格式については、天皇と同様としている。 従って、上皇のに当たってはが執行され、が造営されることになっている。 2020年3月31日、上皇上皇后夫妻が転居した、にある仙洞仮御所(旧:)正門 年譜 [ ]• 1933年(昭和8年)12月23日午前6時39分、宮城(現・皇居)内産殿にて誕生。 昭和天皇、香淳皇后第5子にして初の皇子(第1皇男子)。 1940年(昭和15年)に初等科に入学。 1944年(昭和19年)、の戦火の拡大により疎開。 1952年(昭和27年)11月10日、皇居仮宮殿表北ノ間にて並びに成年式。 同日、大勲位に叙され、菊花大綬章を授与される。 1959年(昭和34年)• 1月14日、正田美智子との納采の儀(婚約)。 4月10日、皇太子明仁親王と正田美智子の結婚の儀。 1960年(昭和35年)2月23日に第1子、第1皇男子 浩宮徳仁親王誕生。 1965年(昭和40年)11月30日、第2子、第2皇男子 礼宮文仁親王誕生。 1969年(昭和44年)4月18日、第3子、第1皇女子 紀宮清子内親王誕生。 1975年(昭和50年)、沖縄県訪問。 沖縄国際海洋博覧会に出席。 起こる。 1989年(昭和64年/平成元年)• 1月7日午前6時33分、昭和天皇崩御。 直ちに第125代天皇に即位。 最初の儀式・剣璽等承継の儀に臨む。 「」最後の日。 1月8日、「」に改元。 1月9日、即位後朝見の儀。 即位後初めて「おことば」を発する。 2月24日、昭和天皇斂葬の儀。 新宿御苑において国葬・大喪の礼に臨む。 1990年(平成2年)• 11月12日、皇居宮殿正殿にて即位の礼の中心的儀式・挙行。 祝賀御列の儀。 11月22日・23日、の中心的儀式・大嘗宮の儀斎行。 1991年(平成3年)2月23日(31歳)、皇太子徳仁親王の立太子の礼挙行。 1992年(平成4年)10月、中華人民共和国訪問。 1999年(平成11年)、在位10年を迎える。 11月20日、「御即位十年をお祝いする国民祭典」開催。 2000年(平成12年)• 6月16日、香淳皇后崩御。 7月25日、皇淳皇后斂葬の儀。 2005年(平成17年)11月12日、紀宮清子内親王とが結婚。 内親王(黒田清子)。 2009年(平成21年)、在位20年を迎える。 11月12日、政府主催の「御在位二十年記念式典」・民間主催の「御即位二十年をお祝いする国民祭典」開催。 2011年(平成23年)3月16日、に関し、ビデオメッセージを放送。 2016年(平成28年)• 7月13日、NHKなどが、明仁が「」を望んでいると報道。 8月8日、退位報道に関し、ビデオメッセージ(『』)公表。 退位の意向をにじませる。 2017年(平成29年)• 6月9日、成立。 6月16日、公布。 12月1日、皇室会議において、退位の日が2019年(平成31年)4月30日に決定。 2019年(平成31年/令和元年)• 在位30年を迎える。 2月24日、政府主催の「天皇陛下御在位三十年記念式典」が、美智子との成婚60周年を迎えた同年4月10日には「天皇陛下御即位三十年奉祝感謝の集い」が開催された。 4月1日、新元号「令和」公表。 元号を改める政令公布。 4月30日、皇居宮殿正殿にて挙行。 天皇退位特例法が施行され、この日限り退位。 「平成」最後の日。 5月1日午前0時、皇太子徳仁親王が第126代天皇に即位。 「」に改元。 明仁は上皇となる。 2020年(令和2年)1月2日、退位後初めて一般参賀に姿を見せる。 逸話 [ ] 皇太子時代の撮影所見学、1953年(昭和28年)• 1953年(昭和28年)6月2日の英国女王戴冠式への台臨のために同年3月30日から同年10月12日まで外遊、人生初の外国渡航。 出発の際には、皇居からまで、小旗を持った100万人もの国民の祝賀を受けたという。 また、テレビ開局以来初の大規模イベントとなり、各放送局が実況中継した。 (社所属、速度19ノット、排水量1万5395トン)に乗船した。 も2年前に同船でハワイに向け出帆し世界旅行に出ている。 イギリスでは、で敵対国であった記憶は未だ褪せておらず、(昭和28年)のでの () に参列した際は13番目の席次(前列中央の座席で、隣席は王子)を与えられたが、女王との対面まで長時間待機させられた。 また女王は、日本の皇太子と握手は交わしたが視線は交わさなかった。 ただその4日後ののエプソム競馬場でのダービー観戦でエリザベス2世女王(当時:27歳、皇太子明仁親王は19歳)から彼女の隣席に誘われ、幾分か会話を重ねた。 その中で、かつて(日本の年間)の時代に女王の祖父国王が、(皇太子明仁親王の父親である)昭和天皇の(その当時の明仁親王とほぼ同じ年頃に)の折に歓迎した話などを振り返り、(で敵対し途絶えていた)戦後においての日英両国での皇室間交流が再開したとされる。 半年にわたって外遊した結果、単位不足で進級できず留年を回避するため、学習院大学政治学科をやむなく中途退学し、その後は聴講生として大学に在籍し続けた。 聴講生となって以降は例外なく皇族としての特権なども許容されず、クラブ活動にも原則として参加できなかった。 宮内庁は、学歴を「学習院大学教育ご」としている。 なお学習院高等科出身者以外の政治学科同級生にから現役進学した後の初代会長がいる。 島村は1956年(昭和31年)3月にとなり、39年5か月後の1995年(平成7年)8月にで初入閣しての認証を受けている。 1959年(昭和34年)4月10日の結婚の儀の記念切手では、4種のうち10円と30円で皇太子妃と一緒の肖像 が発行された。 また切手はから皇室と正田家に「皇太子御成婚記念切手帖」が献上されている。 皇太子時代の1960年(昭和35年)に、の市長により寄贈された水系原産のを日本に持ち帰り、の研究所に寄贈した。 これは当時の貧しい食糧事情を思ってのことであったが、国内で異常繁殖したブルーギルはの水生昆虫や魚卵・仔稚魚を捕食して日本固有のを破壊する結果となった。 2007年、で開かれたで「の中のブルーギルは50年近く前、私が米国より持ち帰り、水産庁の研究所に寄贈したものであり、当初、食用魚としての期待が大きく、養殖が開始されましたが、今、このような結果になったことに心を痛めています 」と異例の(を意味する)発言を行い、会場では驚きの声が上がった。 この発言は本人の意向によりなされたもので、当初の原稿はより謝罪の色合いの強いものであったが、「ここまで謝罪する必要はないのでは」との地元からの意見もあり、式典前に改められていた。 天皇即位後 [ ]• 父の昭和天皇崩御にあたり、4億2800万円を納めた。 また、皇居のある千代田区にはを納めている。 1991年(3年)にの際には、被災地を見舞い、床に膝をついて直接被災者らと同じ姿勢で言葉を交わしたが、天皇が一般国民と対面して会話をする際に「床に膝をつく」という行為は史上初めてであった。 これはと夫妻ともに昭和期の皇太子時代から行っているものだったが、その後の被災地の見舞いでも続けられ、平成に入ってからは他の皇族もこれに倣っている。 2008年(平成20年)9月8日、の被災地を見舞うためのの折、被害が甚大であった被災当時の(現・山古志)を視察。 その後、山古志の被災者と懇談し、励ましの言葉をかけた。 また、中越地震発生4日後に救出された男児(当時2歳)が無事に成長していることを知り、その成長を喜んだ。 2002年(平成14年)2月20日、の師・が死去。 その夜、皇后美智子の伴奏に合わせて演奏を行い、故人を偲んだ。 2005年(平成17年)6月28日、訪問の際には当初の予定に含まれていなかった「韓国・朝鮮人慰霊碑(追悼平和塔)」に皇后美智子を同伴で立ち寄った。 これは天皇の配慮だったとされている。 2008年(平成20年)11月8日、先代の同様、「創立150周年記念式典」に皇后美智子と共に夫妻で出席し「」を述べた。 2011年(平成23年)3月11日発生の()については前述のように、異例の「ビデオメッセージ」を全日本国民向けに送ったほか、各地の避難所を皇后美智子と共に巡幸啓している。 2013年(平成25年)4月15日、即位後初めて定例の静養や公的行事ではない1泊2日の私的旅行として皇后美智子と共ににある「」に行幸啓した。 同年7月にはに行幸した。 その後、年2回程度私的旅行が行われている。 2014年(平成26年)5月にはなど、同年9月には、2015年(平成27年)6月にはの北原尾 、同年7月には福島県の復興公営住宅、2016年(平成28年)11月には 、2017年(平成29年)9月にはの、生地などを巡幸している。 2010年(平成22年)1月2日、東京都千代田区・皇居における国民へ向かって新年一般参賀での「お言葉」 人物に関するもの [ ]• 高校生時代のエピソードとして、「 銀ブラ事件」が有名である。 3年の試験が終わった日、学友の、と3人で周りの人間を出し抜き、東京・の町をぶらついた。 高級「花馬車」で橋本の交際関係であった女性と合流し、皆で所持金を出し合い、一杯99円のを飲み、洋菓子屋「」でとを楽しんだが、ほどなく発見される。 連れ出した学友は、警察と皇室関係者に厳しく叱責されたという。 上述のをはじめとする高等科時代のエピソードを基に、同級生だったが皇太子に捧げて書いた 小説が『』(1956年)である。 同作は発売前からマスコミに取り上げられ、映画化もされた。 一方、戦後の日本において、戦争のイメージがなく、若く清新な「新生日本」にふさわしいともてはやされた皇太子の実像が、学友たちの権力争いの道具となり宮内庁職員らの窮屈な支配に諦めを抱く存在として描かれたことで、その人気は結婚によるミッチー・ブームが起こるまで陰りを見せた。 背景にはと呼ばれた民主化に逆行する風潮への批判があり、のとは国会でこの小説を取り上げ、枠に嵌められる皇太子の状況への同情と落胆を語り、宮内庁への批判を展開した。 経済学者の元教授は学習院初等科からの同級生で、特に中等科時代に親しく交流したという。 には皇太子時代に5回参拝しているが、即位後は親拝していない。 一方で靖国神社の元であるには、宮司就任前に「靖国のこと、頼みます」と声をかけている。 「お好きなは?」との質問については、「各局の競争が激しいので…」などと回答するのが普通である(これは父・昭和天皇も同様であった)。 ただし、皇太子時代には好きなテレビ番組として『』()を挙げたことがある。 他に即位後のでに「『』を見ましたが、絵をかくのは大変そうですね」と声をかけた。 皇居がある千代田区は、2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)に伴うの対象外地域であったが、「国民と困難を分かち合いたい」とする天皇の意向により、皇居は停電時間に合わせ電源を落とした。 計画停電の実施が終了した後も計画停電発表終了まではこの「自主停電」は続けたという。 2016年現在使用しているとされる2代目インテグラ(写真は同型北米仕様車)• 1953年、皇太子はにおいて学友の所有するを運転している。 この車は、当時最先端のであった。 このドライブでは、車の所有者の学友が助手席に座り、護衛または侍従が後部座席に収まり、皇太子が実際に運転している。 2018年(平成30年)時点、プライベートで運転するのは1991年(平成3年)製のグレーの(4ドア仕様・)。 皇居内を移動する際に運転しており、現在は一般公道を走行することはないという。 法令に基づき、2007年(平成19年)以降3年ごとに高齢者講習を受講の上運転免許を更新しているが、2016年の更新を最後にする意向である。 の基地においてのコクピットに座ったこともあり、写真が残されている。 またビクトリアからまではこの空軍機で移動した。 同機の機長だったデーブ・アダムソン中佐とは2009年(平成21年)のカナダ訪問の際に再会し、「あなたのことはよく覚えています」と旧交を温めていた。 日産自動車(主に旧プリンス自動車)とのかかわり [ ] 1954年(昭和29年)、妹・(右)と、皇太子のの前にて 成婚前にはしばしば、成婚後もしばらくの間、愛車でドライブを楽しんでおり、国産車では1954年に献上された(現:)の(後年、日産自動車に返還され現存)以降、 天皇に即位後に乗り換えた・まで、通算9台のプリンス車を用いた。 その中にはプリンスの試作1900ccエンジンを先行搭載したや、「」の後席スペースを100mm延長した特注車も含まれていた。 なおこのグロリアのストレッチ仕様車は、標準車のスペースでは「私はよいのですが美智子が…」という皇太子妃への気配りにより特別生産された。 その他、プリンスが納入した公用車については、同様に妃への気配りから「サイドシル(車体側面・ドア部分の敷居)をもっと低くできないか」(乗り降りをしやすくするため)という質問も出している。 プリンス側では、後席シート座面を低く下げ、天井内張りの厚みを薄くすることで乗り降りのしやすさを改善した。 発言 [ ]• 「さきに、及びの定めるところによってしましたが、ここに「」を行い、を内外に宣明いたします。 このときに当たり、改めて、御父の、いかなるときも、国民と苦楽を共にされた御心を心として、常に国民の幸福を願いつつ、日本国憲法を遵守し、としてのつとめを果たすことを誓い、国民の叡智とたゆみない努力によって、我が国が一層の発展を遂げ、国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄与することを切に希望いたします」• 1990年 平成2年 11月12日、にて。 「で、と規定されています。 この規定と、国民の幸せを常に願っていたの歴史に思いを致し、国と国民のために尽くすことが天皇の務めであると思っています。 天皇の活動の在り方は、時代とともに急激に変わるものではありませんが、時代とともに変わっていく部分もあることは事実です」• 1998年(平成10年)12月18日、に際する記者会見にて。 「私自身としては、の生母がのの子孫であるとに記されていることにとのゆかりを感じています。 2001年(平成13年)12月18日、誕生日に際する記者会見にて。 この発言は内外の興味を強く引き、においても大々的に報道された。 も参照。 「私にとってはを紐解くということはの血を受けている者として心の痛むことでした。 しかし、それであればこそ沖縄への理解を深め、沖縄の人々の気持ちが理解できるようにならなければならないと努めてきたつもりです。 の人々にそのような気持ちから少しでも力になればという思いを抱いてきました」• 2003年(平成15年)12月18日、誕生日に際する記者会見にて。 母方の祖母・妃が島津家の出身である。 島津家を藩主とするはの後、現在の沖縄県にあたるを実質的に支配した歴史がある。 「やはり、になるということではないことが望ましいですね」• 2004年(平成16年)10月28日、秋の園遊会にて、教育委員のの「日本中の学校にを掲げ、を斉唱させるのが私の仕事です」という発言に対して。 「のを契機として事実に基づかない言論も行われ、心の沈む日も多くありました」- を受けて• 2004年(平成16年)、誕生日に際する文書回答より。 「日本はの初めからまでほとんど平和な時がありませんでした。 この過去の歴史をその後の時代とともに正しく理解しようと努めることは日本人自身にとって、また日本人が世界の人々と交わっていく上にも極めて大切なことと思います」• 「皇室の中で女性が果たしてきた役割については、私は有形無形に大きなものがあったのではないかと思いますが、(中略)私のに対する考え方は、天皇およびは、国民と苦楽を共にすることに努め、国民の幸せを願いつつ務めを果たしていくことが(中略)、皇室の伝統ではないかと考えているということです」• 以上、2005年(平成17年)12月19日、誕生日に際する記者会見にて。 「これからのの在り方については関係者が十分に議論を尽くして、日本の人々が自分の国と自分の国の人々を大切にしながら世界の国の人々の幸せに心を寄せていくように育っていくことを願っています。 戦前のような状況になるのではないかということですが、戦前と今日の状況では大きく異なっている面があります。 (中略)1930年から1936年の6年間に要人に対する襲撃が相次ぎ、または総理経験者4人(、、、)が亡くなり、さらに総理1人()がかろうじて襲撃から助かるという、異常な事態が起こりました。 そのような状況下では議員や国民が自由に発言することは非常に難しかったと思います。 先の大戦に先立ち、このような時代のあったことを多くの日本人が心にとどめ、そのようなことが二度と起こらないよう日本の今後の道を進めていくことを信じています。 」- 在日外国報道協会代表質問「改正に伴いの表現を盛り込むことが、戦前の国家主義的な教育への転換になるのでは」に対して。 2006年(平成18年)6月6日、および訪問前の記者会見にて• 「残念なことは、は生活を始めたばかりで、風邪をひくことも多く、私どもと会う機会が少ないことです。 (中略)いずれ会う機会が増えて、打ち解けて話をするようになることを楽しみにしています」• 2006年(平成18年)12月20日、誕生日に際する記者会見にて。 「が病気の今、家族が皆で、支えていくのは当然のことです。 私も、も、将来重い立場に立つ、皇太子妃の健康を願いつつ、2人の力になっていきたいと願っています」• 2008年(平成20年)12月23日、誕生日に際する文書回答にて。 「下の天皇の在り方と下のの在り方を比べれば、日本国憲法下の天皇の在り方の方が天皇の長い歴史で見た場合、伝統的な天皇の在り方に沿うものと思います」• 「2人のそれぞれの在り方についての話し合いも含め、何でも2人で話し合えたことは幸せなことだったと思います。 はまじめなのですが、面白く楽しい面を持っており、私どもの生活に、いつも笑いがあったことを思い出します。 (中略)結婚によって開かれた窓から私は多くのものを吸収し、今日の自分を作っていったことを感じます。 結婚50年を本当に感謝の気持ちで迎えます。 以上、2009年(平成21年)4月8日、結婚満50年に際する記者会見にて。 「今日の世界は決してな状態ではあるとはいえません。 明るい面として考えられるのは、がより透明化し、多くの人々が事実関係が共有できるようになったことです。 も、それが行われた当時は今と違って、皆が拉致を事実として認識することはありませんでした。 このため拉致が続けられ、多くの被害者が生じたことは返す返すも残念でした。 それぞれの家族の苦しみはいかばかりであったかと思います」• 「の制度にかかわることについては、の論議にゆだねるべきであると思いますが、将来のの在り方については、とそれを支えるの考えが尊重されることが重要と思います。 2人は長年私と共に過ごしており、私を支えてくれました。 天皇の在り方についても十分考えを深めてきていることと期待しています」• 以上、2009年(平成21年)11月11日、即位20年に際する記者会見にて。 「 公務の 負担の軽減は、公的行事の場合、公平の原則を踏まえてしなければならないので、十分に考えてしなくてはいけません。 今のところしばらくはこのままでいきたいと考えています。 私が病気になったときには、昨年のように皇太子と秋篠宮が代わりを務めてくれますから、その点は何も心配はなく、心強く思っています」• 2012年(平成24年)12月23日、誕生日に際する記者会見にて。 「戦後、のは、平和とを、守るべき大切なものとして、を作り、様々な改革を行って、今日の日本を築きました。 を立て直し、かつ、改善していくために当時の我が国の人々の払った努力に対し、深い感謝の気持ちを抱いています。 また、当時ののの協力も忘れてはならないことと思います」• 「という立場にあることは、孤独とも思えるものですが、私はにより、私が大切にしたいと思うものを共に大切に思ってくれる伴侶を得ました。 が常に私の立場を尊重しつつ寄り添ってくれたことに安らぎを覚え、これまで天皇の役割を果たそうと努力できたことを幸せだったと思っています」• 以上、2013年(平成25年)12月23日、誕生日に際する記者会見にて• 「天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。 また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。 しかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。 天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。 更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては、重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き、その後喪儀に関連する行事が、1年間続きます。 その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。 こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります」• 2016年 平成28年 8月8日、「」にて。 「明年4月に結婚60年を迎えます。 結婚以来は、常に私と歩みを共にし、私の考えを理解し、私の立場と務めを支えてきてくれました。 また,を始め私とつながる人々を大切にし、愛情深く3人の子供を育てました。 振り返れば、私は成年皇族として人生の旅を歩み始めて程なく、現在の皇后と出会い、深い信頼の下、同伴を求め、爾来この伴侶と共に、これまでの旅を続けてきました。 天皇としての旅を終えようとしている今、私はこれまで、象徴としての私の立場を受け入れ、私を支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝するとともに、自らも国民の一人であった皇后が、私の人生の旅に加わり、60年という長い年月、皇室と国民の双方への献身を、真心を持って果たしてきたことを、心から労いたく思います」• 2018年(平成30年)12月20日、誕生日に際する記者会見にて• 「今日をもち、としての務めを終えることになりました。 ただ今、を代表して、の述べられた言葉に、深く謝意を表します。 、これまでの天皇としての務めを、国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たことは、幸せなことでした。 を受け入れ、支えてくれた国民に、心から感謝します。 明日から始まる新しいの時代が、平和で実り多くあることを、と共に心から願い、ここに我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります」• 2019年 平成31年 4月30日、にて。 中では一貫して「日本」を「 にほん」と読んでいる。 なお、は2016年から「にっぽん」と読むようになった。 病歴 [ ]• 2003年(平成15年)1月に、の手術を受けて回復した。 2008年(平成20年)12月に、を発症したが回復した。 2011年(平成23年)11月に、との治療を受けて回復した。 2012年(平成24年)3月に、のバイパス手術を受けて回復した。 栄典 [ ] ()員としての紋章 日本の栄典 [ ]• 高祖父:(第121代天皇)• 高祖母:(、明治天皇生母)• 曾祖父:(第122代天皇)• 曾祖母:(・典侍、大正天皇生母)• 祖父:(第123代天皇)• 祖母:(・第四女子)• 父:(第124代天皇)• 母:(第一王女)• 伯父:(第3代当主)• 伯父:()• 叔母:(伯爵夫人)• 叔母:(伯爵夫人)• 叔父:(、) 上皇の男系直系 [ ]• 皇子皇孫は皇位継承権を有する男系男子のみ記載。 代数は皇統譜による。 は歴代に算入していない。 誕生時の 生年月日 現在 ( なるひと ) 親王 2月23日(60歳) 浩宮 ( ひろのみや ) (第1子) 第126代 小和田雅子と結婚。 后妃: 子女:1女 1人。 親王 11月30日(54歳) 礼宮 ( あやのみや ) 第2皇男子(第2子) (あきしののみや)当主かつ(順位第1位) 川嶋紀子と結婚。 后妃: 皇嗣妃 子女:1男2女 3人。 内親王 4月18日(51歳) 紀宮 ( のりのみや ) 第1(第3子) と結婚。 黒田家に降嫁し 以後、 (姓読み:くろだ)。 子女:無し。 皇孫 [ ] 1男3女の孫がいる。 世界各国訪問歴 [ ] 皇太子親王時の各国訪問 年 出国月日 帰国月日 訪問地 同行者 備考 1953 03月30日 10月12日 (立寄り) (立寄り) (立寄り) (立寄り) (立寄り) (立寄り) (立寄りした国は合計13国カ国) 英女王戴冠式参列、天皇 1960 09月22日 10月 07日 皇太子妃 日米修好100年記念 11月12日 12月 09日 (立寄り) 皇太子妃 国際親善(名代) 1962 01月22日 02月10日 皇太子妃 国際親善(名代) 11月 05日 11月10日 皇太子妃 国際親善(名代) 1964 05月10日 05月17日 (立寄り) 皇太子妃 国際親善(名代) 12月14日 12月21日 皇太子妃 国際親善(名代) 1967 05月 09日 05月31日 皇太子妃 国際親善(名代) 1970 02月19日 02月28日 (天皇名代) 皇太子妃 国際親善 1971 06月 03日 06月12日 (立寄り) (立寄り) 皇太子妃 国際親善(名代) 1973 05月 06日 05月23日 皇太子妃 国際親善 10月11日 10月22日 (立寄り) (立寄り) 皇太子妃 国際親善 1975 02月20日 02月28日 (立寄り) (立寄り) 皇太子妃 ネパール国王戴冠式参列 1976 06月 08日 06月25日 (名代) (立寄り) 皇太子妃 国際親善 1978 06月12日 06月27日 (立寄り) 皇太子妃 ブラジル移住70周年記念式典参列 1979 10月 05日 10月14日 (名代) (立寄り) (立寄り) 皇太子妃 国際親善 1981 02月27日 03月 07日 (立寄り) (立寄り) 皇太子妃 国際親善 07月26日 08月 02日 (立寄り) 皇太子妃 英皇太子結婚参列 差遣 1983 03月10日 03月25日 (名代) (立寄り) (立寄り) (立寄り) 皇太子妃 国際親善 1984 02月25日 03月 08日 (名代) (立寄り) (立寄り) 皇太子妃 国際親善 1985 02月23日 03月 09日 (名代) (立寄り) (立寄り) 皇太子妃 国際親善 06月 01日 06月15日 (名代) 皇太子妃 国際親善 1987 10月 03日 10月10日 皇太子妃 国際親善 在位中の外国訪問 年 出国 帰国 訪問地 同行 1991年 平成3 09月26日 10月 06日 皇后 国際親善 各国からの招待 1992年 平成4 10月23日 10月28日 皇后 国際親善 中国からの招待 1993年 平成5 08月 06日 08月 09日 皇后 国王の参列 09月 03日 09月19日 (立寄り) 皇后 国際親善 各国からの招待 1994年 平成6 06月10日 06月26日 皇后 国際親善 アメリカからの招待 10月 02日 10月14日 (立寄り) 皇后 国際親善 両国からの招待 1997年 平成9 05月30日 06月13日 (立寄り) (立寄り) 皇后 国際親善 両国からの招待 1998年 平成10 05月23日 06月 05日 (立寄り) 皇后 国際親善 両国からの招待 2000年 平成12 05月20日 06月 01日 (立寄り) (立寄り) 皇后 国際親善 両国からの招待 2002年 平成14 07月 06日 07月20日 (立寄り) (立寄り) 皇后 国際親善 両国からの招待 2005年 平成17 05月 07日 05月14日 (立寄り) 皇后 国際親善 ノルウェーからの招待 06月27日 06月28日 皇后 平和祈念 戦没者慰霊 2006年 平成18 06月 08日 06月15日 (立寄り) 皇后 国際親善 シンガポールからの招待 タイ国王即位60年記念式典臨席 2007年 平成19 05月21日 05月30日 皇后 国際親善 各国からの招待 2009年 平成21 07月 03日 07月17日 皇后 国際親善 カナダからの招待 ハワイ州皇太子明仁親王奨学金財団50周年記念行事 2012年 平成24) 05月16日 05月20日 皇后 女王即位60周年の記念午餐会招待 2013年 平成25 11月30日 12月 06日 皇后 国際親善 インド政府からの招待 2015年 平成27 04月 08日 04月 09日 皇后 戦没者慰霊 平和祈念 パラオ国の招請 2016年 平成28 01月27日 01月30日 皇后 国際親善 フィリピン政府からの招請 戦没者慰霊 平和祈念 2017年 平成29 02月28日 03月 06日 (立寄り) 皇后 国際親善 ベトナム政府からの招請 戦没者慰霊 平和祈念 タイ国前国王の弔問 著書 [ ]• 『ともしび 皇太子同妃両殿下御歌集』編、婦人画報社、1986年(昭和61年)12月• 『道 平成11年〜平成20年 天皇陛下御即位二十年記念記録集』宮内庁編、日本放送出版協会、2009年(平成22年)9月、• 『道 平成21年〜平成31年 天皇陛下御即位三十年記念記録集』宮内庁編、NHK出版、2019年(平成31年)3月、• 『天皇陛下 科学を語る』監修、朝日新聞出版、2009年10月• (図版)• (解説)• Text• 論文『ハゼ科魚類の進化』を所収(他に第2版で、ハゼ亜目魚類の項目を共同執筆)、益田一ほか編。 『日本の淡水魚』 、1989年(平成元年)11月、• (類の項目を執筆)、川那部浩哉、水野信彦編・監修• (ハゼ亜目魚類の項目を共同執筆)、中坊徹次編 脚注 [ ] 注釈 [ ] []• 「元号を改める政令」は翌8日より施行。 代数はによる。 天皇の譲位は (14年)の以来202年ぶりのことである。 8人10代にわたり実在した(女帝)の一人で、に次ぐ2人目の女性天皇。 後者は2006年7月21日、DVDが発売されている(より、定価5250円)。 開会式で宣言を読み上げる姿はテレビ中継もされ(7月19日、)、後年ドキュメンタリー番組にもそのまま使用された(『映像でつづる復帰30周年』)• 後期にあたる1817年5月7日(旧暦:14年)のからへの譲位以来、天皇譲位は例がなかった• 『』2009年4月号によれば、宮内庁から服装の変更申し出により、原案から皇太子は背広から、皇太子妃は洋装から和服に変更されている。 実物と同様の物品がで所蔵されている。 『週刊朝日』2004年12月3日。 ただし、南部は「どうやら、久邇さまが陛下にお願いしていたようです」と『週刊朝日』に述べており、天皇の発言は南部を宮司に推挙した(天皇の従兄)からの依頼によるものとしている。 出典 [ ] []• 吉田 伸弥『天皇への道 明仁陛下の昭和史』(1991年、読売新聞社)p277• 吉田 伸弥『天皇への道 明仁陛下の昭和史』(1991年、読売新聞社)p316-317• 瀬畑 源『象徴天皇制の形成過程:宮内庁とマスメディアの関係を中心に』第II部第4章p141• 2016年1月29日閲覧。 第三条第二項「上皇の敬称は、陛下とする。 2男5女のうち第5子• :(昭和54年法律第43号)2項「元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。 小川真由美 2019年4月30日. gooニュース. 2019年5月2日時点のよりアーカイブ。 2019年5月2日閲覧。 日本経済新聞 日本経済新聞社. 2019年5月1日. 2019年5月27日閲覧。 第二十二條 天皇、皇太子及び皇太孫の成年は、十八年とする。 1989年:()• 第四條 天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する。 宮内庁. 2012年6月11日閲覧。 宮内庁. 2009年6月11日閲覧。 産経ニュース 産業経済新聞社. 2015年9月15日. 2015年12月9日閲覧。 読売新聞社 : p. 2015年11月30日. の2015年12月12日時点におけるアーカイブ。 2015年12月9日閲覧。 女性皇族も含めた存命中の最年長の皇族は。 【なっとく科学】皇居の自然 1 皇居に残る豊かな『』夕刊2018年10月18日(3面)。 Science 258 5082 : 578. October 1992. Gene 259 1-2 : 5-15. December 2000. なお、共著者に自身の次男で総裁のの名前もある。 Gene 427 1-2 : 7-18. December 2008. 文仁親王の所属はとなっている。 Gene 576 2-1 : 593—602. February 2016. 文仁親王の所属は、およびとなっている。 Japanese Journal of Ichihyology 38 4 : 349-355. 1992. の2012年3月16日時点におけるアーカイブ。 The Raffles Bulletin of Zoology 53 2 : 231-235. 2005. の2006年10月16日時点におけるアーカイブ。 (2019年3月17日)2019年9月5日閲覧。 Meguro=目黒勝介• 『良子皇太后』 ネスコ、1993年。。 AERA dot. 2019年4月19日. 2020年1月11日閲覧。 平成から令和へ. 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皇后雅子

上皇 皇后 さま

1940年(昭和15年)頃の正田美智子 (昭和9年)、会長の・冨美((昭和56年)に富美子と改名した)夫妻のとして(現・東部)ので誕生。 、を経て、(昭和16年)に雙葉学園に。 (昭和19年)、のため、の乃木高等女学校附属小学校(現・)、の館林南(現・)、(昭和20年)5月には、の軽井沢第一国民学校(初等科5年に、同年9月まで) とを繰り返し、にて終戦を迎えた。 雙葉学園を受験する際、本郷区大和郷の旧居に、一時在住したこともある。 小学生時代の性格は、担任の回想では「真面目な女子児童」、「活発で勝ち気だった」、「神経質な性格だった」とされていて、が得意な女子だった。 また、・・、も習っていた。 (昭和22年)3月、雙葉学園雙葉小学校をするが、当時はに在住しており通学に不便なことからへ入学する。 (昭和28年)3月、を卒業。 中高時代も成績はトップクラスで、当時の愛称はのであったのようなだったことから「 テンプルちゃん」や 「 ミッチ」「 ミチ」 と呼ばれていた。 (昭和32年)文学部外国語外国文学科(現・英語英文学科専攻)を首席で卒業。 在学中はクラスの福祉委員(ウェルフェア・メンバー)委員長 、プレジデント(全学自治会会長)としても活動していた。 ではとして答辞を読んだ。 自身は進学も希望していたが、両親の意向もあり家庭に入る。 クラブ活動では部・英語劇クラブ・テニス部に所属していた。 テニスでは在学中に新進トーナメントに優勝して、学生ランキングの第4位にランクインした。 昭和29年度(1954年度)の記念の主催の感想文では2位に入選した。 のは、『ゴーズワージーのフォーサイト・クロニエル』( by )。 大学卒業後にの習得をしながらのの研究を続けていた。 同年8月、ので開催されたのトーナメント大会にて当時だったと出会う。 にちなんだ「テニスコートの出会い」として知られる。 その後もテニスを通して交際を深めたといわれる。 明仁親王は正田美智子(当時)のを「女ともだち」と題して職員のに出品したが、「には旧・から選ばれるのが当然」と考えられていた時代であり、誰も彼女を「お妃候補」とは思わなかったようである。 (昭和33年)、にて開催された「聖心世界同窓会第1回世界会議」の日本代表として出席し、各国に訪問旅行する。 同年11月27日、皇太子明仁親王と正田美智子のが(議長:・)においてで可決された。 同日、両親の正田英三郎と富美子夫人とのにて、から明仁親王の魅力について問われ「とてもご誠実で、ご立派で、心からご信頼申し上げ、ご尊敬申し上げて行かれる方だというところに魅力を感じ致しました」と回答。 これは当時の流行語にもなった。 また第一印象について「ご清潔な方」とした。 皇太子明仁親王と正田美智子の巨大な写真がデパートに飾られる・「美智子さまぬりえ」が発売されるなどの が起こる。 結婚への反発 [ ] 1955年ごろの呉竹寮。 「(将来のとなる)は「(後の)か(以上)といった特定の旧に属する女性から選ばれる」ということが習わしとされており、「から妃を迎える」ということが考えられなかった時代で、(昭和33年)の正田美智子の結婚は、旧皇族・旧華族らに強く反対された。 旧皇族出身で姑ともなる(当時)は夏に、の に、、らを招き、「 東宮様の御縁談について平民からとは怪しからん」と当時の侍従と数時間懇談し、妃の変更を訴えたとされる。 しかし11月の皇室会議では、猛反対をした一人であった秩父宮妃勢津子も賛成し、全員一致で可決した。 旧皇族の は、明仁親王と正田美智子の婚約発表が行われた同年11月27日付の日記に、「 朝からよい晴にてあたたかし。 もうもう朝から御婚約発表でうめつくし、憤慨したり、なさけなく思ったり、色々。 日本ももうだめだと考へた」と記している。 ただ、この結婚に理解を示した義理の姪の配偶者(伊都子の夫梨本宮守正王の兄が久邇宮邦彦王であり香淳皇后の父)であるの意向もあり、伊都子は以後は表立って批判することはなくなった。 皇太子妃時代 [ ] 1987年(昭和62年)10月、訪時に夫妻と (昭和34年)、皇太子明仁親王と結婚する。 同日の成婚パレードには、沿道に53万人もの市民が集まった。 お印は夫妻の出会いの場だったにちなんでとした。 晴れがましい成婚・民間での祝福ムードとは対照的に、であることや選に漏れた他の候補者に北白川肇子など元皇族の令嬢がいたことなどの理由から、一部の・女官に受け入れられず、元皇族・元華族の婦人らからもさまざまな非難を受けたとされる。 美智子妃は1969年に、昭和天皇の侍従に対し「(香淳皇后は)出身として以外に自分に何かお気に入らないことがあるのか」と尋ねたという。 一方、もと内親王であり、美智子妃の義理の姉にあたるより自宅のホームパーティーに招待されるなど、好意的な旧皇族も存在した。 またパレードの際には暴漢が馬車を襲撃 して取り押さえられる事件が起こった。 (昭和35年)に第一子・第一男子が誕生した。 出産後、、より「ごくろうさまでした。 しっかり、静養するように」と労いの言葉をかけられた。 また、後の第126代天皇となる浩宮徳仁の命名は祖父・昭和天皇が行った。 親王の存在は美智子妃の心の支えとなった。 美智子妃は当時、側近である東宮侍従に「どのようなときでも皇太子としての義務は最優先であり、私事はそれに次ぐもの」との言葉を語っている。 同年 - 、より数えての百周年を記念し、より招待され訪米。 にも招待され、大統領夫妻と会談した。 この折、浩宮は出生後7か月となっていたが伴わず、側近に躾の方針を示したメモ・通称「ナルちゃん憲法」を与えて養育を委ねる。 (昭和38年)に前後し、週刊誌を中心に虚偽・報道協定違反の報道が相次いだ。 1963年3月4日に第二子懐妊が報じられたが、同年3月10日の香淳皇后の還暦祝いを欠席し、同11日にが美智子妃の生い立ちを書いた、雑誌『平凡』連載の小説『美智子さま』の連載と単行本発行中止を宮内庁がに申し入れ、連載は中止された。 直後の3月22日にに緊急入院、と診断され翌23日の午後にの処置手術が行われた。 全国紙各紙は美智子妃の不調を週刊誌報道や小説問題と関連づけ、『平凡』ほか雑誌をバッシングしたが、胞状奇胎がストレスで起こることはなく、小説の内容は東宮御所筋から得ていたと小山は証言しており、対立する宮内庁側からの圧力とされる。 このとき流産の件をある宮妃に責められることがあったため、その後も心身の疲労から体調が回復せず、同年4月より葉山御用邸にて約3か月間ひとりで静養する事態となった。 7月8日から皇太子・皇孫浩宮とともに軽井沢で過ごしたあと、9月1日に帰京し、9月13日の(山口国体)から、段階的に公務に復帰した。 (昭和36年)夏頃、キリスト教に心酔していることに昭和天皇が激怒し、美智子妃が「絨毯の上にひれ伏して謝ったが、天皇のお怒りは容易に静まらなかった」と『文藝春秋』が報じた。 (昭和39年)皇太子明仁親王と共に にて (昭和40年)、第二子・第二男子誕生。 (昭和44年)、皇太子明仁親王との第三子・第一女子誕生。 苦労の多い美智子妃にとって、唯一の娘である紀宮の存在は大きな心の支えとなったとされる。 1977年(昭和52年)から10年間は、毎年2人で陵墓・史跡訪問を含む小旅行を行なっていた。 これら子女の出産にあたり、皇室の慣習である宮中御産殿での出産や、制度、傅育官制度を廃止した。 (昭和59年)、となる結婚25周年の会見で「夫婦としてお互いに何点をつけるか」との問いに対し、皇太子が「点数をつけることはできないが努力賞ということで」と答えたのを聞いて、美智子妃は「私も差し上げるのなら、お点ではなく感謝状を」と答え、同席していた記者たちからも感嘆の声があがった。 (昭和61年)3月、のを受ける。 このため同時期に予定されていた訪米は翌年に延期、訪は中止になった。 手術の際も夫・皇太子の公務の妨げとなることを好まず、中止の判断は極限まで下されなかった。 退院の際、玄関前で皇太子の胸に顔をうずめる姿がみられた。 晩年の昭和天皇一家の写真にて、嫁・美智子妃が腰を悪くしていた姑・香淳皇后の体を支えている写真が複数公表されている。 とはともにを観戦した姿も目撃・報道された。 また次男の文仁親王と長女の清子内親王はと関係が深く、孫のようにかわいがられていたといわれる。 皇后時代 [ ] 2009年(平成21年)7月10日、訪問時(、) (昭和64年)、義父のが崩御し夫の明仁親王即位に伴い、皇太后となった姑のを引き継ぎ立后する。 即位・立后後の記者会見においては、皇太子となり東宮仮御所にて独立する長男の徳仁親王について「時たまでよろしいから、を聴かせにいらしてくださると、うれしいと思います」とのコメントを発している。 (平成5年)10月20日、満59歳のににて倒れる。 同年の『』1993年8月号には「皇室の危機-『菊のカーテン』の内側からの証言」として、「宮内庁職員・大内糺」を称する人物による記事が掲載されていた。 のまとめによれば、その中で大内を名乗る人物は、天皇夫妻をやに比して、「華美で風な生活を送り、よりもに親和性が高く(元々、皇后がではなくの出でもあることから)、国民の望むの主としてふさわしくない」という批判をし、それを皮切りに『週刊文春』などにも平成の皇后に対するバッシング記事が掲載された。 宮中の最高権力者の一人となった皇后への、守旧派の「最後の反撃」と国民の「漠たる反感」が背景とされる。 このため皇后は精神的な苦痛からとなった。 これに対し、およびの関係者宅に何者かが銃弾を撃ち込む騒動が起き、このショックと皇后がを熱心に行ったことで事態は沈静化したが、前代とは違う形のが明らかになったとされる。 翌年に回復し「どの批判も、自分を省みるよすがとしていますが、事実でない報道がまかり通る社会になって欲しくありません」とのコメントを発表している。 (平成6年)10月20日、を迎える。 (平成7年)1月31日、天皇と共に夫妻でによる発生後のを見舞い(行幸啓)、同市の菅原市場にその日から自ら切って持参した黄色と白のを供えた。 この水仙は関係者によって永久保存処置が取られ、同市内で展示されている。 被災地の避難所を訪問し、被災者一人一人に声をかけ、時には手を握り、時には抱きしめて被災者の労をねぎらう様子が大きな反響を呼ぶ。 また、一人の病身の被災者のために自ら布団を敷いた。 (平成10年)、・で開催された「(IBBY)」に際してによる講演を行い、に触れ、の妃の吾妻における入水の物語などを引いて、成婚以来の胸中を語った。 (平成14年)、IBBYの本部がある・で開催されたIBBY50周年記念大会に、IBBYとして出席し祝辞を述べた。 これが唯一の単独での海外公務となっている。 (平成14年)、皇后の満68歳の誕生日に際し宮内記者会の質問に対する文書ご回答で、次のようにについてコメントした。 「の訪問により、一連の拉致事件に関し、初めて真相の一部が報道され、驚きと悲しみとともに、無念さを覚えます。 なぜ私たち皆が、自分たち共同社会の出来事として、この人々の不在をもっと強く意識し続けることができなかったかとの思いを消すことができません。 今回の帰国者と家族との再会の喜びを思うにつけ、今回帰ることのできなかった人々の家族の気持ちは察するにあまりあり、その一入(ひとしお)の淋しさを思います。 」 (平成17年)、降嫁前の記者会見では子供たちに対する思いを語り、が優しく、よく励ましの言葉をかけてくれたこと、が細心な心配りを忘れない一方で自分が真実を見失わないようにも注意していたということ、清子内親王誕生の折には曇りなき晴天に朝から吉兆を感じたこと、清子内親王のおおらかでのどかな性格などを回想しつつ語った。 婚礼の朝には、民間へ降嫁する愛娘を気遣い、抱きしめて励ましたという。 (平成19年)、体調を崩し腸壁から出血。 性のものと診断された。 通常の公務と並行して療養した結果、病状は回復したと発表された。 同年5月21日からは、天皇とともに訪問の途についている。 8月8日にはでの静養を中止し、天皇とともにの被災地を訪問。 (平成21年)、米国・の戦没者慰霊碑に礼をして。 しかしながら、(平成20年)で皇后も74歳の高齢となり、健康上の理由から公務軽減が検討された。 (平成23年)3月30日、 天皇とともに夫妻で、同年3月11日発生のによるの被災者約290人が避難している()を訪問し(行幸啓)、膝をつきながら、一人ひとりを親しく激励した。 (平成27年)7月29日、皇后は6月末ごろから胸の痛みを訴え、その頻度が週に数回程度から徐々に増えてきたため、同月24日に24時間の心電図検査を受けた。 その結果、心臓の筋肉に血流が不足する心筋虚血を疑う所見がみられたという。 は29日、心筋虚血の疑いがあるため、同年8月9日に、で精密検査を受診すると発表した。 同病院で冠動脈の状態をCT検査で確認し、治療を受け、以後体調は安定している。 上皇后時代 [ ] (平成28年)に国民に向けたビデオメッセージとして全国放送された「」の録画収録の際には、その場にも同伴した。 (平成29年)にが成立、202年ぶりとなる天皇 が実現することとなった。 これにより夫・が2019年(平成31年)4月30日で退位し、翌(元年)5月1日に長男の皇太子徳仁親王が第126代天皇に即位することに伴い、皇太子徳仁親王妃雅子が立后した。 美智子の称号は「 (じょうこうごう)」となった。 前皇后の称号については、夫帝の生死に関わらず歴史的に用いられてきた「 (こうたいごう)」、あるいはその略称である「 太后(たいこう)」の称号を用いるべきであるとする反対意見もあったが、「退位したが健在にもかかわらず、(皇室史上においても)崩御により夫と死別した未亡人というイメージが強い皇太后の称号を使用することは避けるべき」という見解が出たため、新称号を創設する運びとなった。 上皇后となって1ヶ月が経過した後、2019年(令和元年)6月8日にで心臓の検査を受けた。 この検査はの手術を受けるために行われた血液検査において、心不全の診断指標であるBNP値が上昇していたことから実施された。 専門医による診断の結果、中等度の三尖弁逆流症、軽度の僧帽弁逆流症及び不整脈の所見が認められた。 その後、上皇との同伴で京都府での「孝明天皇山陵及び明治天皇山陵に親謁の儀」を済ませた後の6月16日に右眼の白内障手術を、6月23日に左眼の白内障手術を受けた。 (令和2年)、夫の上皇明仁、天皇徳仁と皇后雅子および他の皇族らと共に、での新年一般参賀に参加。 上皇后となって以降、初めて公の場で姿を見せた。 同年3月31日、上皇と共に仮住居となる(高輪仙洞仮御所)に引越した。 年譜 [ ]• (昭和9年)10月20日、(現・)のにて誕生。 (昭和14年)、に入園()。 1939年(昭和14年)、に編入園()。 (昭和16年)、に入学。 (昭和19年)、乃木高等女学校附属小学校(現・)に編入学()。 館林南国民学校(現・館林市立第二小学校)に編入学。 (昭和20年)5月、軽井沢第一国民学校(現・軽井沢町立東部小学校)に編入学。 (昭和22年)3月、雙葉学園雙葉小学校を卒業。 (昭和28年)3月、を卒業。 (昭和30年)3月、を卒業。 (昭和32年)、文学部外国語外国文学科(現・英語英文学科英語英文学専攻)を卒業。 (昭和34年)、(当時)と成婚。 同日付でを受章。 (昭和64年)、義父の崩御。 皇太子明仁親王のによる第125代天皇に伴い皇后冊立(立后)。 (令和元年)、の退位に伴い(による)、となる。 外国訪問 [ ] 単独訪問 [ ] (昭和62年)上皇(当時:皇太子)と共に アメリカ・、にて• (平成14年) - 、 旅行。 (IBBY)、・州政府からの招待により、同準州州都でIBBYの本部があるで開催される「国際児童図書評議会創立50周年記念大会」に同会のとして出席のため。 (平成26年) - 、 訪問。 元・の王妃であるが12月5日に死去し、12月12日に首都行われる葬儀に参列するため。 明仁との訪問 [ ] 皇太子妃時代 [ ] 親王時の外国訪問 年 出国 帰国 訪問地 同行 備考 1953 03月30日 10月12日 (立寄り) (立寄り) (立寄り) (立寄り) (立寄り) (立寄り) (立寄りした国は合計13カ国) 英女王戴冠式参列、天皇 1960 09月22日 10月 07日 皇太子妃 日米修好100年記念 11月12日 12月 09日 (立寄り) 皇太子妃 国際親善(名代) 1962 01月22日 02月10日 皇太子妃 国際親善(名代) 11月 05日 11月10日 皇太子妃 国際親善(名代) 1964 05月10日 05月17日 (立寄り) 皇太子妃 国際親善(名代) 12月14日 12月21日 皇太子妃 国際親善(名代) 1967 05月 09日 05月31日 皇太子妃 国際親善(名代) 1970 02月19日 02月28日 (天皇名代) 皇太子妃 国際親善 1971 06月 03日 06月12日 (立寄り) (立寄り) 皇太子妃 国際親善(名代) 1973 05月 06日 05月23日 皇太子妃 国際親善 10月11日 10月22日 (立寄り) (立寄り) 皇太子妃 国際親善 1975 02月20日 02月28日 (立寄り) (立寄り) 皇太子妃 ネパール国王戴冠式参列 1976 06月 08日 06月25日 (名代) (立寄り) 皇太子妃 国際親善 1978 06月12日 06月27日 (立寄り) 皇太子妃 70周年記念式典参列 1979 10月 05日 10月14日 (名代) (立寄り) (立寄り) 皇太子妃 国際親善 1981 02月27日 03月 07日 (立寄り) (立寄り) 皇太子妃 国際親善 07月26日 08月 02日 (立寄り) 皇太子妃 英結婚参列 差遣 1983 03月10日 03月25日 (名代) (立寄り) (立寄り) (立寄り) 皇太子妃 国際親善 1984 02月25日 03月 08日 (名代) (立寄り) (立寄り) 皇太子妃 国際親善 1985 02月23日 03月 09日 (名代) (立寄り) (立寄り) 皇太子妃 国際親善 06月 01日 06月15日 (名代) 皇太子妃 国際親善 1987 10月 03日 10月10日 皇太子妃 国際親善 皇后時代 [ ] 在位中の外国訪問 年 出国 帰国 訪問地 同行 1991年 平成3 09月26日 10月 06日 皇后 国際親善 各国からの招待 1992年 平成4 10月23日 10月28日 皇后 国際親善 中国からの招待 1993年 平成5 08月 06日 08月 09日 皇后 国王の参列 09月 03日 09月19日 (立寄り) 皇后 国際親善 各国からの招待 1994年 平成6 06月10日 06月26日 皇后 国際親善 アメリカからの招待 10月 02日 10月14日 (立寄り) 皇后 国際親善 両国からの招待 1997年 平成9 05月30日 06月13日 (立寄り) (立寄り) 皇后 国際親善 両国からの招待 1998年 平成10 05月23日 06月 05日 (立寄り) 皇后 国際親善 両国からの招待 2000年 平成12 05月20日 06月 01日 (立寄り) (立寄り) 皇后 国際親善 両国からの招待 2002年 平成14 07月 06日 07月20日 (立寄り) (立寄り) 皇后 国際親善 両国からの招待 2005年 平成17 05月 07日 05月14日 (立寄り) 皇后 国際親善 ノルウェーからの招待 06月27日 06月28日 皇后 平和祈念 戦没者慰霊 2006年 平成18 06月 08日 06月15日 (立寄り) 皇后 国際親善 シンガポールからの招待 タイ国王即位60年記念式典臨席 2007年 平成19 05月21日 05月30日 皇后 国際親善 各国からの招待 2009年 平成21 07月 03日 07月17日 皇后 国際親善 カナダからの招待 ハワイ州皇太子明仁親王奨学金財団50周年記念行事 2012年 平成24) 05月16日 05月20日 皇后 女王即位60周年の記念午餐会招待 2013年 平成25 11月30日 12月 06日 皇后 国際親善 インド政府からの招待 2015年 平成27 04月 08日 04月 09日 皇后 戦没者慰霊 平和祈念 パラオ国の招請 2016年 平成28 01月27日 01月30日 皇后 国際親善 フィリピン政府からの招請 戦没者慰霊 平和祈念 2017年 平成29 02月28日 03月 06日 (立寄り) 皇后 国際親善 ベトナム政府からの招請 戦没者慰霊 平和祈念 タイ国前国王の弔問 皇子孫 [ ] 皇子女 [ ] 夫のとの間に、2男1女の3子を出産しもうける。 誕生時の 生年月日 現在 ( なるひと ) 親王 2月23日(60歳) 浩宮 ( ひろのみや ) (第1子) ( 第126代) 小和田雅子と結婚。 后妃: 子女:1女 1人。 親王 11月30日(54歳) 礼宮 ( あやのみや ) 第2皇男子(第2子) (あきしののみや)当主かつ(順位第1位) 川嶋紀子と結婚。 后妃: 皇嗣妃 子女:1男2女 3人。 内親王 4月18日(51歳) 紀宮 ( のりのみや ) 第1(第3子) と結婚。 黒田家に降嫁し 以後、 (姓読み:くろだ)。 子女:無し。 皇孫 [ ] 1男3女の孫がいる。 (昭和10年)頃の正田一家。 右から父・英三郎、兄・巌、美智子、母・富美子。 高祖父: - 創業者。 祖父: - 創業者。 議員、会長、()理事長、勲三等・。 祖母: 正田きぬ - 正田醤油社長・文右衛門の長女。 弟・卓治は会長。 父: - 日清製粉。 母: 正田富美子 - ・副島家出身。 常務理事・副島綱雄の長女、(現・)生まれ。 妹・ 恵美子(社長・の夫人)• 弟: - 日清製粉グループ本社取締役会長、監査役、取締役。 夫人は・の孫。 叔父: - 数学者。 6代総長、学長、。 従兄: - 名誉教授、教授。 従兄: - 東京大学助教授、専務。 従兄: - 学長。 瑞宝中綬章。 系譜 [ ]• 『正田貞一郎小伝』9 - 21頁によると、• 「のであるの伝えるところによれば、正田家の祖先はの生田隼人 となっている。 年間、生田義豊はに謁し、新田、徳川の郷土に関する旧記由緒を上申して知行を受け、命により生田を正田と改めた。 後世、世良田にいた正田家の人が館林に移ってとなり、これが館林における正田家の始まりである。 それは、、のころといわれ、四代を経て正田文右衛門と称し、以後累代これをした。 正田家は代々「米文」ののもとにを家業とし、上州および近郊きっての富商であった。 「米文」の名声ははいうまでもなく、方面まで聞こえていた。 のころ( - )にはの職にあり、を許されていた。 元年()7月に生まれた文右衛門(3代目)は正田家「中興の祖」といわれている。 文右衛門は6年()を辞め、を始めたという。 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』(、)385-386頁によると、• 「そもそも正田家のルーツは館林の在。 郷土史家によれば「正田家の祖先はの孫、の重臣、生田隼人 までいきあたる」というが、入手した文献で確認できるのは、300年前の庄田六三郎(2年没)からである。 この六三郎が館林における正田家の始祖である。 四代を経て正田文右衛門という人物が登場し、庄田を正田にあらため以後代々、正田家の当主は文右衛門をするに至っている。 は「米文」の屋号で代々を営んでいたようで、深川や堂島のを動かす、近郊きっての豪商だったと伝えられる。 大繁盛したであったが、6年、の曾祖父にあたる三代目文右衛門は突然家業をやめ、「亀甲正」という商号で新しくを始めたという。 正田家の系図 [ ] 文右衛門 3代目 美智子の高祖父、美智子の祖父の祖父 旧正田邸跡地の公園。 (2007年) 皇后が家族とともに、出生から結婚までの半生を過ごした正田邸は、昭和初期に皇后の父である正田英三郎が構え、によって建設された洋館である。 竣工当時は、比較的シンプルなデザインであったが、重層的な増築により屋根などの装飾が複雑に重なり、天窓などのの要素も加えられた。 近世イギリスのの英国風の屋根や、当時流行した木組みを表面に見せる北欧ののデザインは典型的な上流邸宅としても建設された。 邸内は客室兼書斎の中央にが備わっており、居間にはなどもあり、和室なども存在した。 約70年間保存されてきた貴重な建造物であったが、(平成15年)3月に老朽化を理由に解体された。 (平成16年)8月26日に、「旧正田邸跡地」「皇后美智子の生家跡」とされ、のちに自由公園であるが建設された。 現在では、公園用地としてが運営している。 公園名は、皇后が聖心女子学院高等科時代に作った詩である「ねむの木の子守歌」にちなんで名づけられた。 旧正田邸の門扉を模した正門、正田邸にあった庭石などがあり、暖炉の煙突をモチーフにしたガス灯などが配されている。 園内には、皇后がで詠んだ、、や、皇后のであるなどが植えられている。 また、皇太子妃時代に、イギリスから贈られた薔薇も、初夏と秋に咲いている。 栄典 [ ] 日本 [ ]• (宝冠大綬章) - 外国 [ ]• : オーストリア共和国勲章 -• : レオポルド勲章 -• : エレファント勲章 -• : シバの女王勲章 -• : -• : 大公ヴィータウタス勲章 -• : ナッサウ家金獅子勲章 -• : ラム・クラウン勲章 -• オヤイランニャ勲章 -• ビレンドラ・ビール・ビクラム・シャハメダル• : オランダライオン勲章 -• : -• : ガブリエラ・シラン勲章 -• : 白鷲勲章 -• : ソード・セントジェームス勲章 -• : -• イザベラ・カトリック勲章 -• チャールズ3世勲章 -• : セラフィム勲章 -• : 救い主勲章 -• : -• :ウイサム・アラウアイト勲章 名誉役職 [ ]• 名誉総裁 :1989年(昭和64年)1月7日 — 2019年(平成31年)4月30日• 名誉総裁• 国際児童図書館名誉会員 著作 [ ] 和歌・発言集 [ ]• 『ともしび-皇太子同妃両殿下御歌集』 編、、12月• 『瀬音-皇后陛下御歌集』 、4月、 / 新装版 、• 『あゆみ-皇后陛下お言葉集』 侍従職監修、、10月、• 改訂版 3月、/増訂版 3月、• 『道--天皇陛下御即位十年記念記録集』 宮内庁編、日本放送出版協会、10月 / 新装版 、• 『道--天皇陛下御即位二十年記念記録集』 宮内庁編、日本放送出版協会、9月、• 『道--天皇陛下御即位三十年記念記録集』 宮内庁編、、3月、 児童関連楽曲・書籍 [ ]• 『はじめての やまのぼり』絵・武田和子 至光社 、• 『 』 Denon、(作詞した「ねむの木の子守歌」を収録)• 『愛のゆりかご 日本の子守歌』 中目徹編、東亜音楽社、(楽譜、19曲目に作詞曲を収録)• 『どうぶつたち The Animals :詩集』 選・英訳:皇后美智子、絵:、すえもりブックス、、• 『ふしぎなポケット The Magic Pocket :まど・みちお詩集』 選・英訳:皇后美智子、絵:安野光雅、すえもりブックス、、• 『橋をかける--子供時代の読書の思い出』 すえもりブックス、 / 特装版、、• 『バーゼルより--子どもと本を結ぶ人たちへ』 すえもりブックス、、(第2版) 作詞 [ ]• ねむの木の子守歌(作曲:)• 、()と()、()の競作でシングルレコードとして発売。 やをはじめ多くの歌手にカバーされている。 逸話 [ ] 少女時代 [ ]• 非常に優れたの持ち主で、学生時代にはの選手などに選ばれることが多かった。 この当時は勝気な性格であったと伝えられる。 学生時代に学校において出会った人のたちに深い思いを寄せており、一人ひとりの顔と名前を今なお鮮明に思い出すことができるという。 天皇に関するもの [ ]• (平成21年)に皇居の宮殿石橋の間で行われた「天皇陛下御即位二十年に際しての天皇皇后両陛下の記者会見」での自身の発言より。 「戦後()により、天皇のご存在が『象徴』という、私にとっては不思議な言葉で示された(昭和22年)、私はまだ中学に入ったばかりで、これを理解することは難しく、何となく意味の深そうなその言葉を、ただそのままに受け止めておりました。 に上がって50年がたちますが、『象徴』の意味は、今も言葉には表し難く、ただ、陛下(=自身の夫)が『国の象徴』また『国民統合の象徴』としての在り方を絶えず模索され、そのことをお考えになりつつ、それにふさわしくあろうと努めておられたお姿の中に、常にそれを感じてきたとのみ、答えさせていただきます。 皇后に関するもの [ ]• (平成14年)、自身の68歳の誕生日に際しての宮内記者会の質問に対する文書での回答 より。 「皇后の役割の変化ということが折々に言われますが、私はその都度、の開国期に、激しい時代の変化の中で、皇后としての役割をお果たしになったのお上を思わずにはいられません。 「御服装も、それまでの五衣や袿袴に、皇室史上初めて西欧の正装が加えられ、宝冠を着け、お靴を召されました。 そのどちらの御服装の時にも、毅然としてお美しいことに胸を打たれます。 外国人との交際も、それまでの皇室に前例のないことでした。 新しい時代のにもたずさわられ、日本初期の留学生、、、始め一人一人の上に、当時の皇后様のお気持ちが寄せられていたと思われます。 皇室におけるとの関係も明治の時代に作られました。 「欧化思想とそれに抗する思想との渦巻く中で、日本の伝統を守りつつ、広く世界に御目を向けられた昭憲皇太后の御時代に、近代の皇后のあり方の基本が定まり、その後、、がそれぞれの時代の要請にこたえ、さらに沢山の新しい役割をお果たしになりました。 どの時代にも皇后様方のお上に、歴代初めての体験がおありになり、近年では、香淳皇后の、皇后のお立場での外国御訪問が、皇室史上例のない画期的なことでございました。 先の時代を歩まれた皇后様方のお上を思いつつ、私にも時の変化に耐える力と、変化の中で判断を誤らぬ力が与えられるよう、いつも祈っています。 」 女性皇族に関するもの [ ]• 2002年(平成14年)10月20日、自身の68歳の誕生日に際しての宮内記者会の質問に対する文書での回答 より。 「これからの女性皇族に何を望むかという質問ですが、人は皆個性を持っていることであり、どなたに対しても類型的な皇族像を求めるべきではないと思います。 それぞれの方らしく、御自分の求める女性像を、時と思いをかけて完成していっていただくことが望ましいのではないでしょうか。 そして皇室の長い間のしきたりであり、また、日本人のしきたりでもある御先祖のお祀りを皆して大切にし、これまでどおり、それぞれのなさり方で陛下をお支えになって下されば、私は大層心強く思います。 」 成婚に関するもの [ ]• (昭和30年)- (昭和31年)ごろ、・の小料理店「井上」2階にて、独身時代のと見合い風の対面をしている(同店女将・井上つる江談。 その後、皇太子妃時代の• に嫁ぐ際、お印が白樺に決まると、実家の庭にから取り寄せたその苗木を自ら植えた。 成婚に際してはのが「」を作曲した。 この曲はのちに長女のが民間家庭へする際、からへ出発するを送迎するためにも演奏された。 国民から盛大な歓迎と祝福を受けたが、このことに関し(16年)の誕生日に次のように発表した。 「私は今でも、昭和34年のご成婚の日のお馬車の列で、沿道の人々から受けた温かい祝福を、感謝とともに思い返すことがよくあります。 東宮妃として、あの日、民間から私を受け入れた皇室と、その長い歴史に、傷をつけてはならないという重い責任感とともに、あの同じ日に、私の新しい旅立ちを祝福して見送ってくださった大勢の方々の期待を無にし、私もそこに生を得た庶民の歴史に傷を残してはならないという思いもまた、その後の歳月、私の中に、常にあったと思います」。 結婚の儀当日から授けられた守り刀は、(昭和30年)に、刀剣では最初の保持者()に認定された刀工の作。 ・の守り刀も彼の作である。 家庭・育児に関するもの [ ]• 成婚時に「殿下にお料理を作って差し上げたい」と希望し、新造の奥公室に小さなを設置。 のちに幼少期の浩宮徳仁親王、礼宮文仁親王、紀宮清子内親王らの離乳食やもこの厨房で自ら作ったこともある。 皇室の慣習である宮中御産殿での出産や、乳母制度、傅育官制度を廃止。 3人の子をすべて自らの手で育てた。 とりわけ浩宮徳仁親王は誕生に際し、が発給されたことでも知られ、「乳が足りない際には(乳母を立てず)人工栄養で育てるよう」指示がなされた。 なお、のちの礼宮文仁親王、紀宮清子内親王の誕生の際には(母親学級に参加する際の警備上の問題などもあって)、母子手帳の発給を受けることはなかった。 いわゆる「ナルちゃん憲法」に関して、皇后自身は「書き溜めたメモの溜まったものに過ぎない」としている。 祭祀・公務などに関するもの [ ] (平成17年)12月、の一般参賀にて天皇と共に• 天皇の際には、ほぼ常に妻として同行している(行幸啓 )。 そのときの服装は、訪問地に縁のある花をあしらった帽子や、同様の意味合いを持つ色の服を着るなどの配慮をしている。 例えば(平成19年)の訪欧時には、各国の国旗の色をあしらった服や、コサージュを着用した。 の、の、のが行ってきた(皇后御親蚕)を継承している。 においてから飼育され続けてきたの品種「」の飼育中止が検討されたとき、これを残すことを主張して同種を救った。 小石丸は今日では全国で飼育されるに至り、各種美術品の修復にも用いられている。 養蚕によって作られた絹糸で、皇后のドレスを仕立てたこともある。 近年では、眞子内親王・佳子内親王が養蚕を手伝っており、たちの着物に仕立てられたという。 特徴ある活動としては、児童への図書普及への取り組みが挙げられる。 (平成10年)、で開催された「」におけるビデオによる基調講演「子供時代の読書の思い出」 では、の妃・の吾妻における入水の物語などを引いて、成婚以来のその胸中を語り世界中に大反響を呼んだ。 またこの講演では、幼少のころに家族から聞かされた童話としての『』を取り上げ、大人になってからもよく思い出される作品であると紹介した。 講演内容は『橋をかける』という題名で、各国にて出版された。 には、で開催されたIBBY50周年記念大会に、名誉総裁として出席し祝辞を述べた。 なお、その時の祝辞は、『より-子どもと本を結ぶ人たちへ』という題名で出版されている。 皇后が単身日本国外に行啓した史上最初の例である。 戦没者慰霊の地に赴き、を詠んでいる。 他の妃・皇孫に対するもの [ ]• 自身の嫁にあたるは同じく・旧以外の出身であり、彼女に対してそれまでの自分の経験を話し、助言をしていると言われている。 彼女の(当時)との婚約が内定した際には、「またひとつ宝物が増えました」との感想を発表している。 の際には、皇太子妃雅子(当時)にの指輪を贈った。 この指輪は自身の結婚の際、姑のから贈られたものであった。 また、の結婚の際には、にの指輪を贈った。 (平成18年)2月、秋篠宮妃紀子の第三子懐妊時には、友人に秋篠宮および同妃が、一人で悩んでいる天皇の胸中を思って懐妊を決断したのだろうという、天皇への思いを語ったとされる。 また、紀子妃がでが必要なことが分かると、それを心配する言葉を寄せた。 無事に自身の4人目の孫にあたるが誕生すると、祖母の皇后は白いベビーシューズを携えて見舞いに訪れた。 このベビーシューズはで大切に保管されていたとみられ、悠仁親王の1歳の誕生日写真においてソファ脇の机に飾られていた。 また、同年の誕生日においては、との面会や彼女の「着袴の儀」を楽しみにしている旨を発表。 なお、この年を境に、コメント・会見の際に「敬宮(読み:としのみや)」と呼ばずに「愛子(読み:あいこ)」と呼んでいる。 その他 [ ] 1987年(昭和62年)、と皇太子妃美智子(当時)• 間の交流を持つのディクソン社からというバラを献呈されており、皇居の庭にも植えられている。 ほかにというバラが皇后冊立後4周年記念に献呈されたが、「プリンセス・ミチコ」の方がフロリバンダの品種として優れており「美智子さまの薔薇」と言えばこちらを指すのが一般的である。 皇太子妃時代、庶民からの羨望の気持ちを込めて「同じ服は二度と着ない」などとも いわれて [ ]いたが、実際には丁寧に管理され、時には仕立て直しなどをして繰り返し着用しているという。 公務の際は、洋装に日本独自のもの(佐賀錦など)をあしらったり、国内では訪問先の・花などを身につけたり、を意識した配色の衣服を着用するなどの気配りを見せている。 そのファッションセンスは、日本のみならず世界的にも高く評価されており、皇太子妃時代の(昭和60年)・(昭和63年)、皇后時代の(平成2年)の三度、国際ベストドレッサー賞を受賞している。 らがデザイナーとして知られる。 (平成4年)に、において開催された秋の(、通称:べにばな国体)の開会式臨席の際、暴漢が発煙筒を投じたところ、とっさに片手を挙げ身を挺して隣にいた天皇をかばうなど 、常に天皇を気遣っている。 音楽に造詣が深く、学生時代からが得意とされる。 訪問の際の音楽会では、即興での『』の伴奏を弾いた。 自宅でじかに演奏に接したのは、あれだけ想いの深い演奏をするは日本にはいない、もしピアニストになっていたら自分には出番がなかっただろう、と最大級の讃辞を送っている。 またピアニスト・の演奏を愛し、(平成8年)に田中が急逝したときには深い悲しみを表している。 このほかも得意としており、ハープを演奏する写真も撮影されている。 2009年(平成21年)の訪問時に訪れたの小児病院では、子どもたちを前に、子育てのとき子どもたちに歌って聞かせた「」(作詞、作曲)を歌唱した。 (昭和33年)、ピアノを演奏する皇后美智子(正田美智子)• (平成11年)、父・の死去に伴い、五丁目(通称「池田山」)の生家正田邸がの対象になった際は、を放棄。 正田邸跡地は小公園「」になっている。 元・宮内庁担当記者のは、皇太子妃時代の記者会見で彼女がクッキーを手作りすることを疑う質問をすると、次の機会で記者らに手作りクッキーを出して笑顔で勧めたり、明仁皇太子の語学に関する話題で不用意な発言をし気まずくなった板垣をかばい、彼のタバコに火をつけながらフォローする言葉をかけてくれて、母校の聖心で「あっ、やばい! 」などと下世話なかけ声をかけながらをするという皇后の人柄を、聡明でユーモアがあると好意的に評した。 板垣は夫妻の訪問時に、明仁皇太子に美智子妃の報道に関する相談を受けたこともある。 発言 [ ] 成婚前・皇太子妃時代(昭和) [ ]• 「とてもご誠実で、ご立派で、心からご信頼申し上げ、ご尊敬申し上げて行かれる方だというところに魅力を感じ致しました」 - (昭和33年)11月27日、婚約決定記者会見での明仁親王評。 「難しいこともたくさんありましたし、辛いこともあります。 いつになったら慣れるのか見当がつきません。 (中略)時には八方ふさがりのような気持ちになることもあります」 - (昭和35年)4月11日、結婚一周年の記者会見で。 「わたくしも差し上げるのならお点ではなく、感謝状を」 - (昭和59年)4月10日、銀婚記者会見にて。 明仁親王の「点数をつけることはできないが努力賞ということで」をふまえ。 皇后時代(平成) [ ]• 「平成初めての大会にあたり、(昭和22年)以来、42年の長い年月にわたって名誉総裁の責務をお果たしになったに、わたくしどもの深い感謝をお奉げしたいと思います」 - (平成元年)5月31日、平成元年全国赤十字大会にて。 「皇室も時代と共に存在し、各時代、伝統を継承しつつも変化しつつ、今日に至っていると思います。 この変化の尺度を量れるのは、に連なる方であり、配偶者や家族であってはならないと考えています。 伝統がそれぞれの時代に息づいて存在し続けるよう、各時代の天皇が願われ、御心をくだいていらしたのではないでしょうか。 きっと、どの時代にも新しい風があり、またどの時代の新しい風も、それに先立つ時代なしには生まれ得なかったのではないかと感じています」「(皇室観について)私の目指す皇室観というものはありません。 ただ、陛下のお側にあって、全てを善かれと祈り続ける者でありたいと願っています」 - 以上、(平成6年)10月20日、還暦文書回答にて、「皇后美智子が天皇とともに皇室に新風を吹き込んだ」という指摘に対して。 「国民の叡智がよき判断を下し、国民の意志がよきことを志向するよう祈り続けていることが、皇室存在の意義、役割を示しているのではないかと考えます」 - (平成7年)10月20日、誕生日の文書回答にて• 「常に国民の関心の対象となっているというよりも、国の大切な折々に、この国に皇室があってよかったと、国民が心から安堵し喜ぶことのできる皇室でありたいと思っています」 - (平成8年)10月20日、誕生日の文書回答にて。 「不思議な波が、私たちの少し前で何回かとまり、左手の子供たちが、心配そうにこちらを見ておりましたので、どうかしてこれをつなげなければと思い、陛下のお許しをいただいて加わりました」 - (平成10年)10月20日、誕生日の文書回答にて、長野パラリンピックでのウェーブ参加に関して。 「どの時代にも皇后様方のお上に、歴代初めての体験がおありになり(中略)先の時代を歩まれた皇后様方のお上を思いつつ、私にも時の変化に耐える力と、変化の中で判断を誤らぬ力が与えられるよう、いつも祈っています。 これからの女性皇族に何を望むかという質問ですが、人は皆個性を持っていることであり、どなたに対しても類型的な皇族像を求めるべきではないと思います」 - (平成14年)10月20日、誕生日の文書回答にて。 「は、私が何か失敗したり、思いがけないことが起こってがっかりしているときに、まずそばに来てドンマーインと、のどかに言ってくれる子どもでした」 - (平成17年)10月20日、誕生日文書回答にて、数日後に控えた清子内親王の降嫁を前に。 「の公務復帰については、専門医の診断を仰ぎながら、妃自身が一番安心できる時を待って行われることが大切だと思います。 あせることなく、しかし、その日が必ず来ることに希望をもって、東宮妃も、またも、それまでの日々、自分を大切にして過ごしてほしいと祈っています」 - (平成18年)10月20日、誕生日の文書回答にて• 「(かくれみのを用いて)混雑する駅の構内をスイスイと歩く練習をし、その後、学生のころよく通った神田やの古本屋さんに行き、もう一度長い時間をかけて本の立ち読みをしてみたいと思います」 - (平成19年)5月14日、欧州諸国歴訪前の記者会見にて、「身分を隠し好きなところで一日を過ごすとしたら」という問いに対し。 「皇太子妃の健康についての質問ですが(中略)妃は皇太子にとり、また、私ども家族にとり、大切な人であり、『妃の快復を祈り、見守り、支えていきたい』という、私の以前の言葉に変わりはありません」• 「このごろと一緒にいて、もしかしたら愛子と私は物事や事柄のおかしさの感じ方が割合と似ているのかもしれないと思うことがあります。 周囲の人のちょっとした言葉の表現や、話している語の響きなど、『これは面白がっているな』と思ってそっと見ると、あちらも笑いを含んだ目をこちらに向けていて、そのようなとき、とても幸せな気持ちになります。 思い出してみると、眞子や佳子が小さかったころにも、同じようなことが、たびたびありました」 - (平成20年)10月20日、誕生日の文書回答にて。 「このたびも私はやはり感謝状を、何かこれだけでは足りないような気持ちがいたしますが、心を込めて感謝状をお贈り申し上げます」 - (平成21年)4月8日、結婚50周年記者会見にて。 先の25周年記者会見での発言をふまえ• 「東宮もも孫としてのおそばで過ごす機会をたびたびにいただき、また成人となってからは、陛下をお助けするなかでそのお考えに触れ、日々のお過ごしようをつぶさに拝見し、それぞれの立場への自覚を深めてきたことと思います。 これからも二人がお互いを尊重しつつ、補い合って道を歩み、家族も心を合わせてそれを支えていってくれることを信じ、皇室の将来を、これからの世代の人々の手にゆだねたいと思います」 - 2009年(平成21年)11月11日、天皇即位20年に際する記者会見にて• 「これがですか」 - (平成25年)、・でのLOVE展にて• 「80年前、私に生を与えてくれた両親はすでに世を去り、私は母の生きた齢(とし)を越えました。 嫁ぐ朝の母の無言の抱擁の思い出とともに、同じ朝『陛下と殿下の御心に添って生きるように』と諭してくれた父の言葉は、私にとり常に励ましであり指針でした。 これからもそうあり続けることと思います」 - (平成26年)、皇后誕生日に際し、80年のを迎えて 譲位(上皇明仁の退位)に関して [ ]• 「があり、現在のお気持ちのにじむ内容のお話が伝えられました。 私は以前より、皇室の重大な決断が行われる場合、これに関わられるのはに連なる方々であり、その配偶者や親族であってはならないとの思いをずっと持ち続けておりましたので、やともよく御相談の上でなされたこの度の陛下の御表明も、謹んでこれを承りました。 ただ、新聞の一面に『生前退位』という大きな活字を見た時の衝撃は大きなものでした。 それまで私は、歴史の書物の中でもこうした表現に接したことが一度もなかったので、一瞬驚きと共に痛みを覚えたのかもしれません。 私の感じ過ぎであったかもしれません。 」- (平成28年)、82歳の皇后誕生日に際しての宮内記者会の質問に対する文書回答 より。 「の御譲位については、多くの人々の議論を経て、この6月9日、国会でが成立しました。 長い年月、ひたすら象徴のあるべき姿を求めてここまで歩まれた陛下が、御高齢となられた今、しばらくの安息の日々をお持ちになれるということに計りしれぬ大きな安らぎを覚え、これを可能にして下さった多くの方々に深く感謝しております。 」 - (平成29年)、83歳の皇后誕生日に際しての宮内記者会の質問に対する文書回答 より。 「約30年にわたる、陛下の『天皇』としてのお仕事への献身も、あと半年程で一つの区切りの時を迎えます。 これまで『全身』と『全霊』双方をもって務めに当たっていらっしゃいましたが、加齢と共に徐々に『全身』をもって、という部分が果たせなくなることをお感じになり、政府と国民にそのお気持ちをお伝えになりました。 5月からはが、陛下のこれまでと変わらず、心を込めてお役を果たしていくことを確信しています。 「陛下は御譲位と共に、これまでなさって来た全ての公務から御身を引かれますが、以後もきっと、それまでと変わらず、国と人々のために祈り続けていらっしゃるのではないでしょうか。 私も陛下のおそばで、これまで通り国と人々の上によき事を祈りつつ、これからとが築いてゆくの安泰を祈り続けていきたいと思います。 「24歳の時、想像すら出来なかったこの道に招かれ、大きな不安の中で、ただ陛下の御自身のお立場に対するゆるぎない御覚悟に深く心を打たれ、おそばに上がりました。 そして振り返りますとあの御成婚の日以来今日まで、どのような時にもお立場としての義務は最優先であり、私事はそれに次ぐもの、というその時に伺ったお言葉のままに、陛下はこの60年に近い年月を過ごしていらっしゃいました。 義務を一つ一つ果たしつつ、次第に国と国民への信頼と敬愛を深めていかれる御様子をお近くで感じとると共に、(皇太子時代は将来の『象徴』)のお立場をいかに生きるかを模索し続ける御姿を見上げつつ過ごした日々を、今深い感慨と共に思い起こしています。 「皇太子妃、皇后という立場を生きることは、私にとり決して易しいことではありませんでした。 与えられた義務を果たしつつ、その都度新たに気付かされたことを心にとどめていく - そうした日々を重ねて、60年という歳月が流れたように思います。 学生時代よく学長が『経験するだけでは足りない。 経験したことに思いをめぐらすように』と云われたことを、幾度となく自分に云い聞かせてまいりました。 その間、との御姿からは計り知れぬお教えを賜り、陛下には時に厳しく、しかし限りなく優しく寛容にお導き頂きました。 3人の子ども達は、誰も本当に可愛く、育児は眠さとの戦いでしたが、大きな喜びでした。 これまで私の成長を助けて下さった全ての方々に深く感謝しております。 「陛下の御譲位後は、陛下の御健康をお見守りしつつ、御一緒に穏やかな日々を過ごしていかれればと願っています。 そうした中で、これまでと同じく日本や世界の出来事に目を向け、心を寄せ続けていければと思っています。 例えば、陛下や私の若い日と重なって始まるなどは、平成の時代の終焉と共に急に私どもの脳裏から離れてしまうというものではありません。 これからも家族の方たちの気持ちに陰ながら寄り添っていきたいと思います。 「先々には、仙洞御所となる今の東宮御所に移ることになりますが、かつて30年程住まったあちらの御所には、入り陽の見える窓を持つ一室があり、若い頃、よくその窓から夕焼けを見ていました。 3人の子ども達も皆この御所で育ち、戻りましたらどんなに懐かしく当時を思い起こす事と思います。 「赤坂に移る前に、ひとまず高輪の旧邸であったところに移居いたします。 昨年、何年ぶりかに宮邸を見に参りましたが、両殿下の薨去よりかなりの年月が経ちますのに、お住居の隅々まできれいで、管理を任されていた旧奉仕者が、夫妻2人して懸命にお守りして来たことを知り、深く心を打たれました。 出来るだけ手を入れず、宮邸であった当時の姿を保ったままで住みたいと、陛下とお話しし合っております。 「公務を離れたら何かすることを考えているかとこの頃よく尋ねられるのですが、これまでにいつか読みたいと思って求めたまま、手つかずになっていた本を、これからは1冊ずつ時間をかけ読めるのではないかと楽しみにしています。 読み出すとつい夢中になるため、これまで出来るだけ遠ざけていた探偵小説も、もう安心して手許に置けます。 ジーヴス も2、3冊待機しています。 「また赤坂の広い庭のどこかによい土地を見つけ、を作ってみたいと思っています。 こちらの御所に移居してすぐ、陛下の御田の近くに1畳にも満たない広さの畠があり、そこにマクワウリが幾つかなっているのを見、大層懐かしく思いました。 頂いてもよろしいか陛下に伺うと、大変に真面目なお顔で、これはいけない、神様に差し上げる物だからと仰せで、6月の大祓の日に用いられることを教えて下さいました。 大変な瓜田に踏み入るところでした。 それ以来、いつかあの懐かしいマクワウリを自分でも作ってみたいと思っていました。 「皇太子、天皇としての長いお務めを全うされ、やがて85歳におなりの陛下が、これまでのお疲れをいやされるためにも、これからの日々を赤坂の恵まれた自然の中でお過ごしになれることに、心の安らぎを覚えています。 「しばらく離れていた懐かしい御用地が、今どのようになっているか。 日本タンポポはどのくらい残っているか、その増減がいつも気になっている日本蜜蜂は無事に生息し続けているか等を見廻り、陛下が関心をお持ちの狸の好きなの木なども御一緒に植えながら、残された日々を、静かに心豊かに過ごしていけるよう願っています。 」 - (平成30年)、84歳の皇后として最後の誕生日に際しての宮内記者会の質問に対する文書回答 より。 出典・注釈 [ ] 注釈 [ ] []• ただし、それ以前にも民間出身の皇后は多数存在する。 皇族以外で初めて立后したのは、奈良時代の聖武天皇の后のである。 光明皇后は父親が、母親が県犬養橘三千代の、いずれも民間人の子である。 それ以降、公家から皇后・中宮を出す慣例ができた。 しかし、民間人の前例があるとはいえども、「庶民」から立后したのは上皇后美智子が初めてだと思われる。 非かつ非、旧以下の意。 ただし、実家の正田家はの孫の重臣の子孫と伝わっており、まで遡ると家格は決して低くない。 通常は避暑地として使用された秩父宮家の別邸。 午後2時半過ぎ、祝田橋付近で発生。 犯人は長野県長谷村(現)出身で卒業の19歳の浪人生。 走って馬車に接近、一発投石した。 石は外れたもののさらに馬車の幌部分に飛び乗り、護衛官に押さえつけられ引きずりおろされて警視庁に逮捕された。 この模様はそのままテレビで生中継された。 犯人はの東京に50日間拘留され、精神鑑定の結果、精神分裂症と診断され、であったこともあり保護観察処分となり釈放された。 ・の時代より改革が行われ、続く・も制度廃止(それまでの未婚で住み込みとりやめ、既婚女性に自宅からの通勤制で従事させるなど)・乳母は置いたがほぼで育てる・内親王を学齢まで手元で育てる等を行った。 皇太子明仁親王夫妻の改革もこれに続くものである(1977年(昭和52年):昭和天皇・香淳皇后への那須御用邸での記者会見より)。 帰国後、旧制に入学するも(昭和4年)に英三郎に嫁す(仲人は・)。 生田隼人は当主の代々名。 このビデオ講演は、(現)で、国民一般にも放送され、大きな反響を呼んだ。 では、皇后の講演全文を小冊子にして、社頭にて一般に頒布(はんぷ)している。 この時の様子はやも証言している [ ]。 出典 [ ] []• 第四条第二項「上皇后に関しては、に定める事項については、の例による。 歴代皇后125代総覧423頁• 2016年4月11日閲覧。 歴代皇后125代総覧424頁8行目• 歴代皇后125代総覧424頁5行目• 歴代皇后125代総覧424頁11行目• 歴代皇后125代総覧424頁12行目• 歴代皇后125代総覧424頁13行目• 歴代皇后125代総覧424頁14行目• 歴代皇后125代総覧424頁15行目• 歴代皇后125代総覧425頁1行目• 歴代皇后125代総覧425頁5行目• , p. TIME. 1959年3月23日. 2016年10月21日閲覧。 旧、皇籍離脱以前:妃伊都子、最後の皇太子妃で戦後は国籍となったの実母。 『美智子さまと皇族たち』(・1994年)44項~46項• あくまで猛反対した理由は「平民に対する差別的な意図」ではなく、「民間の女性が皇室という特殊な世界に嫁ぎ、務めを果たしていくことを危惧してのもの」であったとされる• 『』2009年3月9日 - (2009年4月16日アーカイブ分)• 2016年1月29日閲覧。 26-33• , p. 49 、『』1967年(昭和42年)11月13日。 34-40• 41-49• 文藝春秋 昭和62年1月号. 『』昭和57年12月3日号• 大内糺「皇室の危機-「菊のカーテン」の内側からの証言」『「皇室の危機」論争』宝島30編集部、、1993年11月、5-34頁。 196-199• この時の一連のエピソードは24年後のにて、時代における最後の国会での施政方針演説であった、「. 2019年1月28日. 」の冒頭部分で、内閣総理大臣()が取り上げた。 2019年6月25日閲覧。 『』2005年11月16日 [ ]• 宮内庁、 - (2008年10月20日アーカイブ分)• 『バザードラボ』2015年07月30日 09時39分• 後期にあたる(旧暦:14年)のからへの譲位以来• 宮内庁. 2019年6月26日閲覧。 朝日新聞. 2014年12月12日. 2014年12月22日閲覧。 『皇族 天皇家の近現代史』 小田部雄次 中公新書 2011• 2006年12月15日. 2015年7月14日閲覧。 2009年3月13日. 2015年7月14日閲覧。 2012年5月8日. 2015年7月14日閲覧。 (ウェブサイト、2013年12月 06日閲覧)• 2015年7月14日閲覧。 2016年2月4日閲覧。 2017年4月30日閲覧。 (元年)現在。 皇室典範(昭和二十二年法律第三号)「第十二条 皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる。 」の規定による。 Corbis Images. "In the picture are left to right , front row, Mrs. Fumi Shoda, her mother; Michiko; Telichiro, her grandfather; Emiko, her younger sister; and Hidesaburo Shoda, her father. Standing in back are left , Osamu, a younger brother; and Iwao, an elder brother. The engagement of the Crown Prince to a commoner breaks more than 2,000 years of Japanese tradition. November 27, 1958. University of Osaka. 2009年3月2日時点の [ ]よりアーカイブ。 『天皇陛下と皇后美智子さま 至高の愛の物語』(、)• blogspot. com. 2016年10月21日閲覧。 Sohanews2. vcmedia. 2016年10月21日閲覧。 S-media-cache-ak0. pinimg. com. 2016年10月21日閲覧。 Noticiasnippon. 2016年10月21日閲覧。 Kunaicho. 2016年10月21日閲覧。 1298. 2012年11月1日閲覧。 Getty Images 1996年10月22日. 2016年10月21日閲覧。 Blog-imgs-62. fc2. com. 2016年10月21日閲覧。 Blog-imgs-54. fc2. com. 2016年10月21日閲覧。 Enjoy. eastday. com. 2016年10月21日閲覧。 2016年10月3日時点のよりアーカイブ。 2016年10月2日閲覧。 Theroyalforums. com. 2016年10月21日閲覧。 emb-japan. 2016年10月21日閲覧。 Omsa. org. 2016年10月21日閲覧。 alamy. com. 2016年10月21日閲覧。 Static3. volkskrant. 2016年10月21日閲覧。 alamy. com. 2016年10月21日閲覧。 Theroyalforums. com. 2016年10月21日閲覧。 GOVPH. 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上皇さま、意識失い倒れる 一夜明けて美智子さまと朝食:朝日新聞デジタル

上皇 皇后 さま

上皇后美智子さまが8日、東京都文京区の東京大学医学部付属病院で乳がんの摘出手術を受ける。 上皇さまが同日午前、美智子さまを見舞うため同病院を訪れた。 上皇さまは午前9時半ごろに病院に到着。 出迎えた病院長らにあいさつをして、病院へ入った。 宮内庁によると、美智子さまの手術は同日午前中に始まり、4時間程度となる見通し。 午前9時50分ごろ、美智子さまは病室を出て、エレベーターで手術室のあるフロアに向かった。 エレベーターに乗り込む際、上皇さまと長女・黒田清子さんが見守ったという。 その後、上皇さまはいったん皇居に戻った。 手術後、美智子さまを見舞い、医師の説明を聞くため、再び病院に行くという。 美智子さまは今年7月に実施した健康診断を機に、検査を重ね、ステージ1の比較的早期の乳がんと診断された。 手術は東大病院の医師と、美智子さまの健康診断を10年以上担当してきた静岡県立静岡がんセンター乳腺外科の医師が協力して執刀する。 (長谷文).

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