ラ カンパネラ 解説。 リストのラ・カンパネラについてこの曲のよさ、特徴、どのように感じるか...

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ラ カンパネラ 解説

フランツ・リストはアダム・リストとマリア・アンナ・リストの一人息子として、1811年10月22日にライディングに生まれた。 ライディングは当時オーストリア支配下のハンガリー帝国内の領地だったが、第一次世界大戦後の1921年以降はオーストリア帝国ブルゲンラント州に属する。 リストは1822年にこの生地を離れて以降、再びハンガリーの地に定住することはなかった。 しかもエステルハージ侯爵家に仕えていたドイツ系両親の下に育ったリストがハンガリー語を学ぶことはなく、生涯を通してその言語を理解することはなかった。 また、後にリストが《ハンガリー狂詩曲》などでハンガリー固有の民謡として借用した旋律は、ロマ(ジプシー)のものだった。 こうした血筋上の矛盾、言語の無理解、文化の根本的誤解にもかかわらず、リストは当時から(そして恐らくは)今日に至るまで、「ハンガリーの作曲家」とみなされてきた。 その最大の理由はリスト本人が「ハンガリー人」と自称し、またそのことを誇りに思っていたことに求められるだろう。 リストがペストを訪れる度に「祖国」から受けた熱狂的歓迎、そして国王に匹敵するほどの英雄的扱いと数々の褒章も、「ハンガリーの国民的英雄」としてのリストを着々と作り上げてきたのである。 しかしだからと言って、民族的には確かにドイツ系のリストを「ドイツ人作曲家」と評することもまた違和感がないわけではない。 ヴィーン、パリ、ヴァイマル、ローマの各都市に一定期間居を構え、生涯を通してヨーロッパ全土を活動の場としたリストは、真の意味で「ヨーロッパ人」であり、西洋音楽史上もっともコスモポリタンな芸術家のひとりであったことに異論はないだろう。 ライディング、ヴィーン時代(1811-23年) エステルハージ家のアイゼンシュタットの邸宅に仕えていた頃、実務家のほかチェロやヴァイオリンの奏者としても活躍していたアダムは、当時の宮廷楽長ヨーゼフ・ハイドン(1732-1809)、そしてその後任のヨハン・ネポムク・フンメル(1778-1883)とも知り合っていた。 自身の音楽的素養から息子の並外れた才能に早くから気づいたアダムは、6歳になったリストにピアノを習わせ、1820年11月には9歳になったばかりのリストを初めての公開演奏会に出演させた。 そのときの演奏曲目はベートーヴェン(1770-1827)の弟子、フェルディナント・リース(1784-1838)のピアノ協奏曲 変ホ長調だった。 この頃アダムは、1819年からヴァイマル宮廷楽長を務めていたフンメルに息子を師事させたいと考えていたが、高額なレッスン料など金銭的な理由からそれを断念した。 同地でチェルニーに学んだ14ヵ月間でリストはピアノ演奏の基本的技術を徹底的に身につけ、フンメル、リース、イグナーツ・モシェレス(1794-1870)などの同時代人の作品に加えて、J. バッハ(1685-1750)からベートーヴェンに至るまでの幅広いレパートリーを習得していった。 ミュンヘン、アウクスブルク、シュトゥットガルト、ストラスブルクなどの各都市で演奏会を行いながらパリを目指したその道のりは、およそ半世紀前のモーツァルト親子の演奏旅行を彷彿とさせるものがある。 一家のパリ移住の第一の目的は息子をパリ音楽院に入学させることだったが、前年に院長に就任したばかりのルイージ・ケルビーニ(1760-1842)の外国人には門戸を開かないとの方針により、リストは門前払いに遭った。 こうしてリストは以降、ピアノを独学で学ぶことになった。 しばらくしてリストはピアノ製造業者のエラールから7オクターヴの最新式ピアノを贈呈され、同社と契約を結んだ。 その内容はコンサート・ツアーでエラールのピアノを使用する代わりに、エラールが楽器の運送費を負担するというものだった。 このエラール社の後押しもあって、リストは1824年から4年の間、イングランド、フランス、そしてスイスを巡る演奏旅行を展開した。 作曲家としてのデビューは1824年に出版された《ディアベッリのワルツにもとづく変奏曲》で、当時リストは13歳だった。 それは総勢50人にものぼる作曲者の合作で、リストの曲は第24変奏として組み入れられた。 また翌年の6月20日、マンチェスター行われた演奏会では、リストのフル・オーケストラの作品、《ニュー・グランド序曲》が初演された(しかし現在ではその曲はリスト自身による管弦楽化ではない、あるいは、少なくとも他人の手助けを大いに得て完成に至ったものと考えられている)。 また同年10月17日、14歳の誕生日をむかえる5日前には、パリのオペラ座でオペラ作曲家としてのデビューも果たした。 一幕物のイタリア・オペラ《ドン・サンシュ》は、リストが生涯を通して完成させた唯一のオペラである(序曲には先の《ニュー・グランド序曲》が転用された)。 また1826年にはリスト個人の記念すべき第一作、《すべての長短調の課題のための48の練習曲》が出版された。 リスト自身による《48の練習曲》というタイトルにもかかわらず、実際に創作、出版されたのは12曲のみで、その後も数が増えることはなかった。 12曲は調に基づく規則的な配列を成していて、ハ長調を起点に平行短調を加えながら五度圏を逆回りに、すなわちフラット系の調を3度下行で進んでいく。 いずれも特定のテクニック問題に焦点を当てる練習のための練習曲で、リストが10代初めにヴィーンで師事したチェルニーのほか、ピアニスト、ピアノ教育者、作曲家として名を馳せていたヨハン・バプティスト・クラーマー(1771-1858)の影響を強く感じさせる。 これらの12曲は言うまでもなく、1837年にはピアノの鍵盤を制限なく活用する超人的技巧を要求する第二稿《24の大練習曲》(実際には12曲)の、そして1851年には伝統的な「練習曲」の範疇を大幅に超えるあのエポックメーキングな《超絶技巧練習曲》として世の中に送り出されることになる最終稿の初稿である。 1827年8月、イングランドの演奏ツアーから戻った直後、父親のアダムが亡くなった。 当時若干15歳の少年リストにとって、この死はあまりにも早かった。 リストは演奏会ツアーはもちろんのこと、音楽家としてのキャリアから引退しようと真剣に考えた。 実際1830頃までのおよそ3年間のリストの消息についてはほとんど記述されることがないが、ジェラルディン・キーリングの調査によって27年から30年までの間にリストが度々演奏会に出演していることが明らかにされている(Keeling 1986)。 共演者にはアンリ・ベルティーニ(1798-1876)、ポーランドのアルベール・ソヴィンスキ(1805-80)といった若手のピアニスト兼作曲家の名前があり、なかでもリストより一歳年上のドイツの名手ルードヴィヒ・シュンケ(1810-34)とは頻繁に同じ舞台に立っていた。 にもかかわらず1828年、パリで奇妙な噂が囁かれた。 10月23日付のパリの新聞『ル・コルセール』は、前日に17歳の誕生日をむかえていたリストの死亡を伝えたのだった。 その3日後、『ラ・コディティエンヌ』紙が直ちにリストの消息を伝えて人々に安堵を与えたが、この時期父の死の影響で体調を損ねていたとする定期刊行紙もある(『オプセルヴァトゥール・デ・ボザール』)。 そのようななか、1830年、パリにおいて7月革命が勃発した。 この動乱に激しい衝撃を受けたリストは、4頁のスケッチを書き記した。 そこには「交響曲」のタイトルのほか、「7月27、28、29日、パリ」の日付、構想のメモ、それにわずかな譜が記されている。 このいわゆる《革命交響曲》は、ベートーヴェンの《ウェリントンの勝利》Op. 91をモデルにしたと指摘されることもあるが、若干4頁の「スケッチ」は、実際には言葉による単なる殴り書きとでも表現すべきもので、それが作品として完成するには程遠いのが現実だった。 しかしここで重要なのはリストがオーケストラ作品創作の意図をすでに18歳の時点で抱き、その後も計画遂行のために繰り返し奮闘を続けていったということだろう。 事実これらの構想は1850年代になって、交響詩の一部として結実することになるのである。 この革命の年の12月5日、パリの音楽界にはもう一つの革命が起こった。 ベルリオーズ(1803-69)の《幻想交響曲》初演である。 この初演でいち早くベルリオーズの才能を確信したリストは、この並外れて難解で独特な作品のピアノ編曲に取り組んだ。 そしてベルリオーズの作品をできる限り多くの人々に知らせるという目的のもと、リストは編曲譜出版の費用を自ら負担し、1834年11月にヴィーンのシュレジンガー社から出版させるに至った。 実際、初演からほぼ12年後の42年10月になるまで、パリ以外のオーケストラで演奏されることのなかった《幻想交響曲》は、リストの編曲スコアを通して多くの音楽家たちに知られるようになっていった。 その一例は、リストの編曲譜を用いて書かれたシューマン(1810-56)の「ベルリオーズ《幻想交響曲》」の分析的批評(1835年、『音楽新報』掲載)である。 オリジナルのスコアを見ずに、これほど大々的な批評を書いてみせたシューマンの音楽的洞察力には驚かされるが、同時に、そのシューマンが頼りにしたリストのピアノ編曲譜がどれほど精緻に作られたものであったかにも注目せずにはいられない。 ベルリオーズの斬新な管弦楽書法、そして音楽と詩的なものとの融合の理念は、その後のリストの創作に大きな影響を与えてゆくことになる。 しかしリストが芸術家として影響を受けた人物はベルリオーズだけではなかった。 1831年に初めて耳にしたニコロ・パガニーニ(1782-1840)の超絶技巧とその効果もまた、演奏家、さらには作曲家としてのリストに決定的な影響を与えることになった。 リストはパガニーニがヴァイオリンでやってみせた技をピアノの楽器でも成すべく、以後「毎日4-5時間(3度、6度、オクターヴ、トレモロ、反復、カデンツァ等々)の練習」(1832年5月2日付、ピエール・ヴォルフ宛の書簡)に励むようになった。 リストが20代を過ごした1830年代のパリは、間違いなくヨーロッパ文化の中心地だった。 以前は貴族階級に限られていたサロンには、詩人、作家、画家、音楽家などあらゆる領域の一流芸術家たちが集い、互いに刺激を与え合った。 そこには文学者のシャトーブリアン、デュマ、ゴーティエ、ジラルダン、ハイネ、ユゴー、サンド、また音楽家のアルカン、ベッリーニ、ヒラー、マイヤーベーア、ロッシーニなどが出入りし、やがてリストもその華やかな社交界の一員となった。 そして21歳の1832年末、リストは7歳年上のマリー・ダグー伯爵夫人(1805-76)と出会った。 44年に関係を解消するまでに、二人の間にはブランディーン(1835-62)、コジマ(1837-1930)、ダニエル(1839-59)の3人の子供が生まれている(ダグー夫人は1835年に伯爵と離婚したが、リストと婚姻関係を結ぶことはなかった)。 また1830年代初頭、リストは芸術・学問・産業の三位一体の上に成り立つ新しい社会秩序を唱えるサン=シモン主義に傾倒し、その後、リストの美的価値観の形成に極めて大きな影響を及ぼすことになるフェリシテ・ド・ラムネー神父(1782-1854)と出会った。 彼らとの接触から、音楽が指導的役割を果たす革命社会の教義を見出し、芸術は社会的・宗教的使命を持つという確信を持つに至ったリストは、1835年初夏、6週にわたって『ガゼット・ミュジカル』誌に大々的なエッセイ、「芸術家の立場と彼らの社会的地位について」を掲載した。 そこで展開した、音楽の使命は社会の芸術を高めることにあるという考えは、当時多くの音楽家の共感を得た。 30年代のパリはヴィルトゥオーソ・ピアニストたちが華やかな活動を展開した時期でもあった。 ピアニストたちの技の競い合いが頻繁に開催され、また公開演奏会ではそうしたピアニストたちよる連弾が度々披露された。 ピアノ産業が拡大し、家庭への普及が急速に進んだ。 より大きく、そしてより良く改善された最新型の楽器が毎年のように発売された。 ・・・わたしのピアノでもってオーケストラを圧倒する効果、・・・わたしは他のどの楽器でもそのような効果を生み出すことはできないと感じた」(1837年2月20日付、ダグー夫人宛の書簡)。 この時代、演奏会のプログラムが人気オペラのファンタジーや技巧的作品で占められることは当たり前だった。 その一方で、大衆の理解が及ばないシリアスな作品が取り上げられることはほとんどなく、とりわけ「難解」の代名詞ともなっていたベートーヴェンの後期作品が公開の場で演奏されることはごく稀だった。 しかしリストは1836年6月、それまで演奏不可能と考えられていたベートーヴェンの《ハンマークラヴィーア・ソナタ》Op. 106をパリの演奏会で取り上げた。 一音たりとも加えられていなかった。 ・・・抑揚は何一つ削除されていなかった。 テンポは決して変えられていなかった。 リストは未だ理解されていない作品を理解できるようにすることにおいて、彼が未来のピアニストであることを証明してみせた」(『ガゼット』、1836年6月12日掲載)。 昼は我々を先導する雲の柱、そして夜は我々に光を与える火柱、それによって我々は常に先へと進むことができるのです。 その暗さと輝きが等しく、我々が辿るべき道しるべとなるのです。 それら各々が永続的な戒律であり、不可謬な啓示なのです」(1852年12月2日付、ヴィルヘルム・フォン・レンツ宛の書簡)。 ピアニストの青年時代から編曲家、指揮者、作曲家、校訂者そして教師として活躍した晩年に至るまで、リストはある特定の作品ではなく、ベートーヴェンのおよそすべての作品に取り組むことになる。 1830年代後半、リストはダグー夫人とともにしばしばパリの喧騒を離れて、イタリアやスイスへ旅行に向かった。 1835年に滞在したジュネーヴでは後の《巡礼の年 第1年 スイス》の初稿が仕上がった。 1837年にジョルジュ・サンド(1804-76)のノアンの別荘に3ヶ月滞在した際には、リストのために用意されたエラールのグランドピアノを用いて、ベートーヴェンの交響曲第5-7番やシューベルト(1797-1828)の歌曲のピアノ2手用編曲を次々と完成させた。 前者は「ベートーヴェンの名を芸術において神聖である」という有名な序文とともに1840-43年にかけて極めて豪華な装丁でヴィーン、パリ、ライプツィヒの各地で出版され、後者もまたヨーロッパの様々な地域の複数の出版社から販売される大人気商品となった。 その後リストと夫人はイタリアに向かった。 「器楽を声楽には匹敵しない二次的なものとみなす」同地の人々に失望の念を抱いたと綴ったリストだったが、この歴史的な地での滞在は決して無駄ではなかった。 イタリア各地で触れた文化や芸術作品に深い感銘を受けたリストは、この時期、後の《巡礼の年 第2年 イタリア》をはじめとする重要な作品の初稿を次々と仕上げていたからである。 またピサの聖堂で見たフレスコ画、「死の勝利」(1355年頃の作)に直接の着想を得て、《死の舞踏》の草稿を残した。 ヴィルトゥオーソ・ピアニスト時代(1839-47年) 1839-47年の間にリストが空前絶後の規模と内容で展開したいわゆる「ヴィルトゥオーソ・ピアニスト時代」の演奏旅行では、西はイベリア半島、東はモスクワ、そしてアイルランド、イギリスからトルコまでのヨーロッパ中を駆け巡り、週に3~4回のペースで合計1000回以上もの演奏会に姿を現した。 ミラノやサンクト・ペテルブルクでは3000人以上の聴衆を前に演奏し、ベルリンでは1841-42年にかけての10週間に21回の演奏会を開催しておよそ80もの曲を披露した。 「リストマニア Lisztomania」(ハイネによる造語)と呼ばれる熱狂が巻き起こったのはまさにそのベルリンにおいてである。 ピアニスト時代のリストは、現代のピアノ・リサイタルの原型を作り出したことでも知られている。 例えばすべてのプログラムを暗譜で演奏すること、バッハからショパン(1810-49)という当時の現代曲までの幅広いレパートリーに取り組むこと、舞台上に設置するピアノの位置、音響効果のためにピアノのふたを開けて演奏することなどが挙げられる。 この時期、ヴィルトゥオーソ・ピアニストたちによる演奏会プログラムの花形は、何といっても当時人気のオペラ編曲だった。 確かに、シリアスなベートーヴェン作品を取り上げることもあった。 しかしそれらが演奏されたのはベルリン、ハンブルクそしてミュンヘンといった洗練された大都市の聴衆の場に限定されていたし、そうした都市においても、聴衆の趣味を反映した《月光》、《テンペスト》などの中期作品が主体だった。 リストは聴衆の意向に沿うようにしていた。 いやむしろ、そのように対応することが不可避の時代だったのである。 早くも1840年頃には、こうした大衆の趣味と自身が理想とする芸術信条のギャップにリストは苦悩する胸の内を見せていた。 しかしそれでもやはり、ヴィルトゥオーソ・ピアニストとしての演奏旅行は続いていった。 匿名で多額の寄付を差し出したその女性をリストが探し出し、お礼を伝えたのが二人の出会いだった。 リストはその後、トルコへの演奏旅行を行ったが、36歳の誕生日を1カ月後に控えた1847年の9月、ウクライナ南部の都市オデッサでの舞台に現れたのを最後に、リストはピアニストとしての活動に終止符を打った。 そして数ヵ月後の1848年2月には、かつてゲーテやシラーなどの古典主義文化の都として栄えたドイツ東部のヴァイマルに宮廷楽長として赴任、それから13年余りにわたって同地に定住することとなる。 ヴァイマル宮廷楽長時代(1848-61年) 1848-61年のヴァイマル時代が、リストの人生において最も生産的な時期であったことに、今日の多くの研究者が同意している。 その芸術活動は指揮、教育、批評などさまざまな領域にも及び、創作においては12曲の交響詩や2曲の標題交響曲、ピアノ協奏曲、ピアノ・ソナタロ短調、《グラン・ミサ曲》などの大作が数多く生み出された。 また1850年代初頭には、ヴィルトゥオーソ・ピアニスト時代に書かれたピアノ曲の改訂稿を次々と完成させていった。 例えば《超絶技巧練習曲》、《パガニーニ練習曲》、《ハンガリー狂詩曲》、《巡礼の年 第1年、第2年》,そして《詩的で宗教的な調べ》などである。 かつてドイツ古典主義の都として栄えたヴァイマルに定住するというリストの決意は、宮廷楽長の地位にあったフンメルの後継者というだけでなく、文豪たちの後継者という意識に動機づけられたものでもあった。 ゲーテやシラーの死後、ドイツ国内における文化の中心としての地位が危ぶまれていたヴァイマルに、リストは自身の手でもう一度かつての盛隆を取り戻そうという意欲を持っていた。 リストの使命は偉大なヴァイマル古典主義の遺産を引き継ぎながらも新しいヴァイマルの建設を達成させることであり、このことは宮廷楽長としての活動に明確に反映されてゆく。 1849年の「ゲーテ生誕100周年祭」、1850年の「ヘルダーとゲーテの祭典」、1857年の「ゲーテとシラーの記念碑除幕式」などリストが指導した宮廷主催の記念祭のプログラムは、ベートーヴェンの第9交響曲、《合唱幻想曲》、《エグモント序曲》、シューマンの《ファウストからの情景》、《マンフレッド序曲》など、ヴァイマル古典主義文芸と音楽の統合を成し遂げた先駆者たちの創作で占められることになった。 ヴァイマル時代にリストが取り組んだ作品は、古典から現代まで実に幅広いレパートリーに及んだ。 なかでも未だ正当な評価を得られずにいたベルリオーズ、ヴァーグナーの最大の理解者として、リストは両者の作品を積極的に取り上げていった。 1849年5月のドレスデン蜂起で指名手配となり、当時チューリヒに亡命中だったヴァーグナーに代わって、リストは1849年2月に《タンホイザー》の上演、そして翌50年8月には《ローエングリン》の初演に漕ぎつけた。 この初演がヨーロッパ中の注目を集めたことは言うまでもない。 パリ文学界からはジュール・ジャナン(1804-74)やジェラール・ド・ネルヴァル(1808-55)が、ブリュッセルからは音楽批評家のフランソワ=ジョゼフ・フェティス(1784-1871)が、またロンドンからは音楽著述家のヘンリー・コールレイ(1808-72)、そしてドイツ各地からも多くの音楽家、文化人が駆けつけた。 その後各地の新聞雑誌にこの初演に関する報告や批評記事が掲載された。 さらに1853年にヴァイマル宮廷劇場で開催された「ヴァーグナー祭」では、20日余りの間に《さまよえるオランダ人》が3回、《タンホイザー》が2回上演された。 また、リストの功績は作品の演奏に限ったことではなかった。 フランス語によるヴァーグナー作品の紹介と考察、『ローエングリンとタンホイザー』(1851年)、またドイツ語で書かれたエッセイ、「さまよえるオランダ人」に「ラインの黄金」(共に1854年)、そしてオペラの器楽部分を中心とするピアノ編曲の作成や出版なども、同様に大きな役割を果たしていった。 他方のベルリオーズも、リストの献身的な支援を受けた。 1852年、55年、56年の3度にわたり、リストはヴァイマル宮廷で大規模な祭典、「ベルリオーズ週間」を催した。 そこでは作曲者自身も登場し、《幻想交響曲》に《イタリアのハロルド》、《ロメオとジュリエット》に《ファウストの劫罰》、《ベンヴェヌート・チェッリーニ》(初演)、そしてオラトリオ《キリストの幼時》など、ベルリオーズのほぼすべてのオーケストラ作品が取り上げられた。 ドイツの聴衆がベルリオーズ作品を知るに至ったのは、この祭典を通してである。 リストのこうした活動によってドイツの人々はベルリオーズ、そして亡命中だったヴァーグナーの作品をヴァイマルと同一視するようになり、ヴァイマルは新音楽のフォーラムとなったのである。 しかしリストの活動はやがてヴァイマルに限ったものではなくなっていった。 宮廷楽長としての任務を遂行する傍らで、リストはドイツ各地で開かれた音楽祭の監督やゲスト指揮者としても積極的な活動を展開していった。 例えば1852年の「バレンシュテット音楽祭」、53年の「カールスルーエ音楽祭」、56年にヴィーンで開かれた「モーツァルト生誕100周年記念祭」、そして57年にアーヘンで開催された「第35回低地ライン音楽祭」などが挙げられる。 当時ライン地方は、ゲヴァントハウスの指揮者を経てケルン音楽院の院長に就任したフェルディナント・ヒラー(1811-85)の影響力が浸透した保守的な地盤で知られていたが、リストは伝統的プログラムにはしないことを条件に、監督を受諾した。 事実「音楽祭」はベートーヴェン、J. バッハ、シューマン作品のほか、ヴァーグナー、ベルリオーズ、そしてリスト自身の交響詩やピアノ協奏曲を含む前衛プログラムで注目を集めることとなった。 こうした活動が多忙を極めるなかでも、1850年代のリストは驚くべき数の作品を完成させていった。 なかでも注目すべきは、リストが1854年2月に西洋音楽史上初めて用いた「交響詩Symphonische Dichtung」のジャンル名称を冠した12曲の作品である。 交響詩とは何らかの詩的素材にインスピレーションを得て創作された純粋器楽による標題音楽で、各曲に個別タイトルが付けられ、「テンポと拍子が変化する単一楽章」(リスト自身の表現)のオーケストラ作品である。 標題音楽の定義はしばしば誤解されてきたが、リストの理念は18世紀後半に興隆した描写音楽とは明確に区別されねばならない。 なぜならリストの音楽はある特定のストーリーを追ったり、情景を描写したりするものではなく、あくまで理念的なレベルで詩的素材に依拠するものだからである。 以下はヴァイマル時代に完成し、出版された交響詩12曲の概要である。 初稿は「序曲」、改訂稿では一時、「瞑想交響曲」のタイトル。 ヴァイマル宮廷の委嘱。 創作の由来、タッソの人生、ゲーテとバイロンの詩の説明的序文 3 《前奏曲》 オートランの詩に基づく合唱曲《四大元素》(未出版)の導入曲として創作開始。 ラマルティーヌの詩、「前奏曲」の説明的序文 4 《オルフェウス》 グルックのオペラ《オルフェーオとエウリディーチェ》の導入曲として創作開始。 神話、ルーヴルの壺、人間社会の理想についての説明的序文 5 《プロメテウス》 ヘルダーの劇『解放されたプロメテウス』による合唱曲の導入曲として創作開始。 神話、苦悩と救済についての説明的序文 6 《マゼッパ》 曲の前半は《超絶技巧練習曲》第4番、後半は《労働者の合唱》(1848年)の主題転用。 ユゴーの詩(最終連)とバイロンの詩、「マゼッパ」からの抜粋 7 《祝祭の音》 ザイン=ヴィットゲンシュタイン侯爵夫人との結婚を見込んで創作。 (タイトル以外なし) 8 《英雄の葬送》 1830年の《革命交響曲》の構想に由来。 作品の由来についてと、英雄の哀歌についての説明的序文 9 《ハンガリア》 《革命交響曲》の構想に由来。 ピアノ曲《ハンガリー風英雄行進曲》(1840年)の拡大版。 (タイトル以外なし) 10 《ハムレット》 1856年冬に観劇した「ハムレット」の「前奏曲」として創作。 (タイトル以外なし。 但しスコアに「オフィーリアを暗示して」の指示) 11 《フン族の戦い》 カウルバハのフレスコ画にインスピレーションを得て創作。 キリスト教軍とフン族の対照性についての説明的序文 12 《理想》 《革命交響曲》の一部に由来。 一時は「3部の交響曲」として計画。 (シラーの詩句の順序を変えて、スコアの各セクションに引用を配置) また交響詩とほぼ同時期に、リストは2曲の標題交響曲、《3人の性格描写によるファウスト交響曲》と《ダンテ交響曲》を完成させた。 リストがゲーテの『ファウスト』とダンテの『神曲』を題材にした作品の創作を計画したのは1830年代後半のパリ時代のことで、それから4半世紀以上の年月を経た50年代半ばになって、その野望がようやく結実したことになる。 1850年代後半までにヴァイマルは現代音楽のメッカとなり、リストは進歩的芸術家としての名声を確固たるものとしていた。 ピアノや作曲をリストに師事するために、あるいはベルリオーズ、ヴァーグナー、リストに代表される現代音楽の演奏を聴くために、若い音楽家たちがヨーロッパ各地からやってきた。 リストの邸宅「アルテンブルク荘」には多くの優秀な生徒が集まり、新音楽の発信地となっていった。 こうしてリストの前衛芸術の活動にはヴァイマルを中心に多くの支持者や崇拝者がいたが、しかし同時に、ライプツィヒやケルン、そしてヴィーンといった保守的な土地を中心に、強力な反対者がはるかに多く存在した。 1850年代初頭に勃発したいわゆる保守派と進歩派の間の音楽論争は「未来音楽 Zukunftsmusik」をキーワードに、新聞や雑誌など音楽ジャーナリズムの場で展開されていった。 50年代半ばにリストの交響詩が公の場で演奏されるようになると、保守派陣営の攻撃は一層戦闘的になり、リストの弟子や取り巻き、支持者たちによる応戦もますます激しさを増していった。 こうした論争でリスト支持派の文筆面の前衛部隊としてとりわけ不可欠な役割を担ったのは、1834年にシューマンが創刊した『音楽新報』の編集長を引き継いだ音楽批評家で音楽史家のフランツ・ブレンデル(1811-68)と、同じく批評家のリヒャルト・ポール(1826-96)である。 リストの芸術的理想とその普及活動を全面的に支持した彼らは、ジャーナリズムを使ったそのプロパガンダ戦略に大きな役割を果たすことになった。 ローマ時代(1861-68年) 1861年8月17日にヴァイマルを離れてローマに移住したリストは、しばらくの間、教会音楽の創作と宗教生活に没頭した。 この時代に完成した主要な作品には2曲のオラトリオが挙げられる。 ひとつはヴァイマル時代の1857年に創作を開始した《聖エリーザベトの伝説》で、1862年に完成したのち、バイエルン王国のルートヴィヒ2世に献呈された。 このハンガリーの王女エリーザベトを扱うオラトリオは、65年8月にペストで初演された。 また聖書とカトリックの典礼文、そして中世のラテン語聖歌をテクストに用いた《キリスト》も同じくヴァイマル時代の1853年頃に構想され、何年にも及ぶ推敲と改訂の末、66年になってようやく完成に至った大規模編成の大作である。 それはリストが後に、「自身の音楽的遺言であり信仰告白」と呼んだように、リストの宗教作品の総括的創作に位置付けられる。 この時期、リストは多くの苦難に襲われていた。 ザイン=ヴィットゲンシュタイン侯爵との離婚を長年にわたり申し立てていた侯爵夫人だが、ローマ教皇への直訴も結局認められることはなく、リストとの結婚も生涯叶わなかった。 1859年に若干20歳の息子、ダニエルを亡くしていたリストだったが、62年にはさらに、26歳の長女のブランディーヌも失う。 そして57年にリストの高弟ビューローと結婚した次女のコジマは、62年にヴァーグナーと知り合い、二人は間もなく同棲するようになった。 ビューローとの離婚が成立する1870年までに、ヴァーグナーとコジマの間には3人の子供が生まれた。 こうした関係に苦悩したリストは、ヴァーグナーとの結婚後にコジマがプロテスタントに改宗したという事実に、さらに心を痛めた。 リストは65年5月、54歳の時に下級聖職者の位を授かるほど、篤信なカトリック教徒であった。 それでも、リストの芸術活動が止むことはなかった。 自作の初演や弟子たちの演奏会が行われる度に、ペスト、パリ、そしてドイツの各地に出向き、精力的な活動を続けていた。 また1867年からは「マスタークラス」と呼ばれるピアノ・レッスンが始まった。 同地の一番弟子となったジョヴァンニ・ズガンバーティ(1841-1914)のほか、後に作曲家としても大成するエドヴァルド・グリーグ(1843-1907)が完成したばかりのピアノ協奏曲イ短調の手稿譜を携えて訪れた。 ヴァイマル=ブダペスト=ローマの三分割時代(1869-86年) ピアノ教師としての活動は、その後リストの音楽生活において時間、内容ともに極めて大きなウエートを占めていくことになる。 例年5月頃から夏にかけてはヴァイマル、晩秋からはローマ、2-3月にはペストでレッスンを行うのが三都市巡りのパターンだった。 あらゆるレッスンが無償で行われたリストの下には、アルトゥール・フリードハイム(1859-1932)、モーリツ・ローゼンタール(1862-1946)、エミール・フォン・ザウアー(1862-1942)、アレクサンドル・ジローティ(1863-1945)、オイゲン・ダルベール(1864-1932)など、19世紀末から20世紀前半に世界で活躍することになる一流ピアニストたちが集まった。 リスト最晩年の弟子のひとり、アウグスト・ゲレリヒ(1859-1923)が残した日記によると、レッスンは毎回2時間から2時間半程度で、通常は午後3時半か4時ごろから行われていた。 そこで実際に指導を受けるのは数人の生徒で、それぞれが一曲ずつを演奏してリストからコメントを得ていたという。 しかしその場には常にかなりの数の生徒が聴講していて、ゲレリヒのようにメモをとっている者もいた。 リストのレッスンを実際に受けたことは一度もないものの、マスタークラスの常連聴講者だったのはフェーリクス・ヴァインガルトナー(1863-1942)である。 マスタークラスで3都市をめぐる忙しい生活を送っていたリストだが、1875年11月にはハンガリー王立音楽院(後のリスト音楽院)の初代院長に就任した。 リストはカリキュラムの立案に際し、すべての作曲専攻の学生がピアノを学ぶこと、そしてピアノ専攻者が作曲を学ぶことを求めた。 また入学の許可レベルは極めて高度に設定され、受験者にはフル・オーケストラのスコア・リーディングや即興演奏の能力に関する試験が課せられることになった。 ピアニストとしても作曲家としても頂点を極めたリストならではの発案である。 こうした教育者としての活動がますます多忙を極めるなかでも、作曲家としてのリストは健在だった。 晩年になってもリストの創作意欲は依然衰えることはなく、数々のピアノ曲が生み出された。 7曲からなるツィクルス《巡礼の年 第3年》(1877-82)には、印象派和声を先取りし、ラベル(1875-1937)やドビュッシー(1862-1918)に影響を与えたことで知られる〈エステ荘の噴水〉や、全音音階が前面に出された〈心を高めよ(スルスム・コルダ)〉などが含まれている。 また1885年には、《無調のバガテル》(自筆譜には「メフィスト・ワルツ第4番」と記されている)と題する小品を作曲した。 そこでは調性が完全に根絶されているわけではなく、その「無調」概念はシェーンベルク(1874-1951)のものとは異なるが、しかし少なくともある特定の調に基づくものではない。 1908年に弦楽四重奏曲 第2番の終楽章でシェーンベルクが敢行した調性の崩壊よりも20年以上も前に、リストが無調に足を踏み入れようとしていたことは注目に値する。 この曲は完成直後にリストの弟子によってヴァイマルで初演されたが、出版は1955年まで待たねばならなかった。 このほか晩年のピアノ小品の多くは、極度の半音階法、増三和音、曖昧な調性、不協和音などの実験的傾向に満ちている。 4度和声に基づく《メフィスト・ワルツ 第3番》の冒頭は、シェーンベルクの《室内交響曲 第1番》(1906 年)を思い起こさせる。 リストは70歳を超えても、音楽祭や作曲家集会に出席するためにヨーロッパの各地に赴いた。 最晩年の1886年春にも、リストはローマ時代の弟子でイングランド在住のウォルター・ベーチ(1842-88)の手配により、ロンドンを訪問した。 そこでは盛大な晩餐会のもてなしを受け、ヴィクトリア女王にも謁見した。 パリ経由でヴァイマルに戻ったリストは2か月後にはルクセンブルクを訪れ、7月19日には生涯最後となるピアノ演奏を披露した。 そしてその夜、夜行列車でバイロイトへと移動した。 ヴァーグナーの死後、祝祭劇場の上演の一切をヴァーグナー夫人のコジマが仕切るなか、リストは23日には《パルジファル》を、そして25日は《トリスタンとイゾルデ》のバイロイト初演に聴き入った。 しかしその2日後から体調をひどく壊したリストは、同月31日、永遠の眠りについた。 19世紀を生き抜いたヨーロッパの芸術家フランツ・リストの生涯がここに閉じた。 フランツ・リストはアダム・リストとマリア・アンナ・リストの一人息子として、1811年10月22日にライディングに生まれた。 ライディングは当時オーストリア支配下のハンガリー帝国内の領地だったが、第一次世界大戦後の1921年以降はオーストリア帝国ブルゲンラント州に属する。 リストは1822年にこの生地を離れて以降、再びハンガリーの地に定住することはなかった。 しかもエステルハージ侯爵家に仕えていたドイツ系両親の下に育ったリストがハンガリー語を学ぶことはなく、生涯を通してその言語を理解することはなかった。 また、後にリストが《ハンガリー狂詩曲》などでハンガリー固有の民謡として借用した旋律は、ロマ(ジプシー)のものだった。 こうした血筋上の矛盾、言語の無理解、文化の根本的誤解にもかかわらず、リストは当時から(そして恐らくは)今日に至るまで、「ハンガリーの作曲家」とみなされてきた。 その最大の理由はリスト本人が「ハンガリー人」と自称し、またそのことを誇りに思っていたことに求められるだろう。 リストがペストを訪れる度に「祖国」から受けた熱狂的歓迎、そして国王に匹敵するほどの英雄的扱いと数々の褒章も、「ハンガリーの国民的英雄」としてのリストを着々と作り上げてきたのである。 しかしだからと言って、民族的には確かにドイツ系のリストを「ドイツ人作曲家」と評することもまた違和感がないわけではない。 ヴィーン、パリ、ヴァイマル、ローマの各都市に一定期間居を構え、生涯を通してヨーロッパ全土を活動の場としたリストは、真の意味で「ヨーロッパ人」であり、西洋音楽史上もっともコスモポリタンな芸術家のひとりであったことに異論はないだろう。 ヴァイマル=ブダペスト=ローマの三分割時代(1869-86年) ピアノ教師としての活動は、その後リストの音楽生活において時間、内容ともに極めて大きなウエートを占めていくことになる。 例年5月頃から夏にかけてはヴァイマル、晩秋からはローマ、2-3月にはペストでレッスンを行うのが三都市巡りのパターンだった。 あらゆるレッスンが無償で行われたリストの下には、アルトゥール・フリードハイム(1859-1932)、モーリツ・ローゼンタール(1862-1946)、エミール・フォン・ザウアー(1862-1942)、アレクサンドル・ジローティ(1863-1945)、オイゲン・ダルベール(1864-1932)など、19世紀末から20世紀前半に世界で活躍することになる一流ピアニストたちが集まった。 リスト最晩年の弟子のひとり、アウグスト・ゲレリヒ(1859-1923)が残した日記によると、レッスンは毎回2時間から2時間半程度で、通常は午後3時半か4時ごろから行われていた。 そこで実際に指導を受けるのは数人の生徒で、それぞれが一曲ずつを演奏してリストからコメントを得ていたという。 しかしその場には常にかなりの数の生徒が聴講していて、ゲレリヒのようにメモをとっている者もいた。 リストのレッスンを実際に受けたことは一度もないものの、マスタークラスの常連聴講者だったのはフェーリクス・ヴァインガルトナー(1863-1942)である。 マスタークラスで3都市をめぐる忙しい生活を送っていたリストだが、1875年11月にはハンガリー王立音楽院(後のリスト音楽院)の初代院長に就任した。 リストはカリキュラムの立案に際し、すべての作曲専攻の学生がピアノを学ぶこと、そしてピアノ専攻者が作曲を学ぶことを求めた。 また入学の許可レベルは極めて高度に設定され、受験者にはフル・オーケストラのスコア・リーディングや即興演奏の能力に関する試験が課せられることになった。 ピアニストとしても作曲家としても頂点を極めたリストならではの発案である。 こうした教育者としての活動がますます多忙を極めるなかでも、作曲家としてのリストは健在だった。 晩年になってもリストの創作意欲は依然衰えることはなく、数々のピアノ曲が生み出された。 7曲からなるツィクルス《巡礼の年 第3年》(1877-82)には、印象派和声を先取りし、ラベル(1875-1937)やドビュッシー(1862-1918)に影響を与えたことで知られる〈エステ荘の噴水〉や、全音音階が前面に出された〈心を高めよ(スルスム・コルダ)〉などが含まれている。 また1885年には、《無調のバガテル》(自筆譜には「メフィスト・ワルツ第4番」と記されている)と題する小品を作曲した。 そこでは調性が完全に根絶されているわけではなく、その「無調」概念はシェーンベルク(1874-1951)のものとは異なるが、しかし少なくともある特定の調に基づくものではない。 1908年に弦楽四重奏曲 第2番の終楽章でシェーンベルクが敢行した調性の崩壊よりも20年以上も前に、リストが無調に足を踏み入れようとしていたことは注目に値する。 この曲は完成直後にリストの弟子によってヴァイマルで初演されたが、出版は1955年まで待たねばならなかった。 このほか晩年のピアノ小品の多くは、極度の半音階法、増三和音、曖昧な調性、不協和音などの実験的傾向に満ちている。 4度和声に基づく《メフィスト・ワルツ 第3番》の冒頭は、シェーンベルクの《室内交響曲 第1番》(1906 年)を思い起こさせる。 リストは70歳を超えても、音楽祭や作曲家集会に出席するためにヨーロッパの各地に赴いた。 最晩年の1886年春にも、リストはローマ時代の弟子でイングランド在住のウォルター・ベーチ(1842-88)の手配により、ロンドンを訪問した。 そこでは盛大な晩餐会のもてなしを受け、ヴィクトリア女王にも謁見した。 パリ経由でヴァイマルに戻ったリストは2か月後にはルクセンブルクを訪れ、7月19日には生涯最後となるピアノ演奏を披露した。 そしてその夜、夜行列車でバイロイトへと移動した。 ヴァーグナーの死後、祝祭劇場の上演の一切をヴァーグナー夫人のコジマが仕切るなか、リストは23日には《パルジファル》を、そして25日は《トリスタンとイゾルデ》のバイロイト初演に聴き入った。 しかしその2日後から体調をひどく壊したリストは、同月31日、永遠の眠りについた。 19世紀を生き抜いたヨーロッパの芸術家フランツ・リストの生涯がここに閉じた。 ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。 本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。 ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。 神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。 若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。 これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。 また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。 その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。 が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。 1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。 ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。 また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。 やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。 晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。 生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。 リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。 また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。 更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。 (1811年10月22日ショプロン近郊ライディング[現オーストリア、ブルゲンラント州 — 1886年7月31日バイロイト]) ハンガリー出身で、国際的に活躍したピアニスト、作曲家。 1831年に圧倒的な超絶技巧を誇るヴァイオリニスト、ニコロ・パガニーニ 1782-1840 の演奏を聴き、ピアノ音楽のパガニーニとなることを決意。 そして、リストは19世紀の最も前衛的なピアノ・ヴィルトゥオーゾとして国際的に活躍した。 リストのピアノ音楽は高い演奏技術と深い音楽表現の両方が求められるため、ピアノ曲の中でも屈指の難曲が多い。 超絶技巧を要する代表的な作品に〈マゼッパ〉や〈鬼火〉を含む《超絶技巧練習曲集》 第2版、1851年刊 、〈ラ・カンパネラ(鐘)〉を含む《パガニーニ大練習曲》 第2版、1851年刊 がある。

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ラ・カンパネラ

ラ カンパネラ 解説

リストが「ラ・カンパネラ」を扱った作品は4曲存在なかで、『パガニーニによる大練習曲』第3番は、最も演奏される機会のある曲です。 作曲家の紹介:フランツ・リスト ハンガリーの作曲家,19世紀を代表するビルトゥオーソの一人。 超絶的な技巧を持つ当時最高のピアニストで「ピアノの魔術師」と呼ばれ、どんな曲でも初見で弾きこなした。 母はオーストリア人。 エステルハージ家の執事だった父に7歳からピアノを習い,9歳のとき各地で公開演奏会を開く。 1821年にウィーンに出,チェルニーにピアノを,サリエリに作曲を学び,翌1822年ウィーンでピアノ奏者として正式デビュー。 ワーグナーと結婚する)。 1865年カトリックの聖職位を受け修道院に入るが1869年ワイマールに戻る。 多彩な作品を書き,2つのピアノ協奏曲(1849年,1861年),《ハンガリー狂詩曲》,《超絶技巧練習曲》(1851年),《巡礼の年》3巻(1849年,1854年,1877年),単一楽章の《ピアノ・ソナタ・ロ短調》(1853年)などのピアノ曲は有名。 また,《前奏曲(レ・プレリュード)》(1848年),《タッソー》(1849年)など12曲の交響詩でその創始者とされ,標題音楽の発展に重要な役割を果たした。 ほかに,《ダンテ交響曲》(1856年),《ファウスト交響曲》(1857年)など。 無調(無調音楽)の書法を含む晩年のピアノ作品は生前には発表されなかったが,その先見性で後世の注目を集めた。 ・名前:フランツ・リスト ・出身:ハンガリー ・時代区分:ロマン派 ・生年月日:1811年10月22日 ・没年月日:1886年7月31日(74歳没) ・職業:作曲家、ピアニスト ・代表曲:愛の夢 ラ・カンパネラ 交響詩第3番「レ・プレリュード」 ハンガリー狂詩曲 ピアノ協奏曲第1番 巡礼の年 パガニーニによる大練習曲 2つの演奏会用練習曲 超絶技巧練習曲S. ボレットは神童として知られ、12歳でカーティス音楽院に入学、ゴドフスキーに師事もしている。 ヴィルトゥオーゾ・ピアニストの直系の後継者としてリストやラフマニノフなどロマン派音楽を得意とした。 特にリストは全集も録音しており、ベヒシュタイン・ピアノを使った独特の音色を持ち、リスト弾きとしての名声を確立。

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リストの「ラ・カンパネラ」は、弾くのは難しいですか?

ラ カンパネラ 解説

今までいろんな人の話を聞いてきましたし、中学生で演奏した(そして緊張のせいで崩壊した……)演奏も聴きました、 そのうえで出た結論でいいますと、 「個人差があるのでやってみないとわからない」 以上です……。 これがたとえばそうですね、 ベートーヴェンの悲愴の第3楽章くらいにポイントとテクニックがハッキリしている曲ですと、 「この人なら弾くことはできそうだ」「この人なら音楽性まで入れられそうだ」「この人には今は無理」 とわかるパターンが多いのですが、 この曲はそうはいかないようです。 結局跳躍が苦手な人にとってはいつまでたっても苦手な曲、 跳躍が得意な人にとっては下手すれば悲愴の3楽章より得意になる可能性すらある (という人が1名いました……中学生で) という状態です。 質問者さま、ないしはこの曲を弾かれる方がこの曲を得意とするかが現段階の情報ではわかりませんし、 曲自体のまとまりは分かりやすい部分がありますので、 跳躍レベルのほかはある程度のテクニック(最初の方が詳しいですね)で弾けるわけで、 結局得意不得意というレベルになるでしょう。 やってみないとわからない、その状態だと思います。 ちなみに私は不得意です……。 実際コンクール会場でほかの先生とお話ししたとき、 「この曲私得意だしそれほど難しくないからやってみたら」と言われたことがありますが、 1度やって見事にコケて、その原因が跳躍にあることが分かってしまっている私としては 「なんでこの曲が楽なんだろう」という状態で終わってしまっています……。 <補足> うーん…… 進行状況と得意不得意によりますよね…… 私は4歳から始めていますが、 先生の方針で古典派をミッチリ叩き込まれるレッスン+ロマン派はシューベルトとシューマン(ショパンは中学校までは1個もやってない) でしたので、 この曲を弾こうと思ったのは大学を出てから 笑 なのですが、 それですらコケましたので…… 弾けると思ったら中学生でもやるでしょうし、 通常は大学に入るよりは前に挑戦するでしょうか。 中3~高1程度かなぁ? 私は、4歳からピアノをはじめて、14,5歳まで続けましたが(なぜかはっきり覚えていない)、カンパネラを弾こうとはぜんぜん思わなかったね。 愛の夢は発表会で弾いたけど。 佐藤彦大さんが、全音のピアノピースで愛の夢とカンパネラが両方Eなのはおかしすぎる、愛の夢はDでカンパネラがFでも全然おかしくないと言ってたけど、同感です。 佐藤さんも跳躍の難しさは言っていたし、実際弾いてみると、私は手も小さいので終わりの頃は手が痛くなってきますね。 まあ、正直私はあまのじゃくなので、人々が弾きたがるような有名曲はあんまり関心がないのだけれど、いずれカンパネラを人前で弾いてみたいなと思うことはありますね。 素人の世界じゃちょっとした目標ですし。 先生にみてもらうよう頼んでみてもいいけど「まだ早い」といわれそうな感じはする。 ぶっちゃけ、現行「ラ・カンパネラ」は「簡単」ですよ。 基礎が 出来ていれば。 バッハ・インヴェンション1番やモーツァルト・ピアノソナタK. 545 の方が難しいのでは?と言うのは言い過ぎとして、バッハ・インヴェンション を全曲完成させること、もしくは、モーツァルト・ピアノソナタ例えば K. 332よりは明らかにラ・カンパネラの方が容易ですね。 実は私もこの曲を取り上げたのは最近です。 と言っても1年以上 前かな。 やはりミーハー曲として嫌っていました。 でも5分以内と言う発表会があって、5分以内じゃまともな曲は 弾けない、いやラ・カンパネラがあるか、難しいと言われているけれど ピアノの会では大して上手くない人がバンバン弾いていたな、じゃ と取り上げました。 初見で完璧に弾けた、と言いたいところですけれど、この曲は 跳躍があってやたら高い音とか何の音か初見では分からない音が ある。 そこで、まず跳躍を上手く避けるように左手で取ったり運指を考え ました。 次に跳躍の音を覚えました。 そうしたらあっさり弾けました。 この曲、技巧的難所は同音連打だけじゃないですか?それも 大した事がない。 トリルを弾きながらメロディを弾いたりオクターヴ下 の音を弾いたり、半音階それに続く速い所アルペジオなんかが問題 になって来るレヴェルの人はハノンに戻ってやり直してください。 その頃、もっと難しい曲もやっていて、先生に「ラ・カンパネラって 簡単な曲ですね~」と言ったら、どんな曲も表現は難しいし、あまり 簡単と言うと反感を買うからやめた方がいい、とたしなめられました。 でも表現上、ショパン・ノクターン9-2より難しいとは考えられないし ラ・カンパネラは「基礎が出来ていれば」「技巧上は」簡単な曲です。 --- 人気があるんですね~この曲。 現在流通している版の「ラ・カンパネラ」は、今の私なら簡単、 とは言わないまでも全く難しい曲とは思いません。 但し演奏会で上がってミスタッチボロボロになる可能性は あります(笑)。 5歳からピアノを習ったとしたら、中学生位に弾く曲じゃないですか? 実際、大学のピアノの会では流行曲でした。 大学は勿論音大では ありません。 エース級はもっと難しい曲を弾いて、中程度の人が バンバンこの曲を弾いていました。 つまり、アマチュアのピアノの会のエース級でない中くらいのレヴェルの 大学生が楽に弾ける程度、と言う事になります。

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