パガニーニによる大練習曲。 ピアノ曲で超絶技巧の難易度MAXの曲10選をご紹介!最高難度の曲とは?

リスト パガニーニ大練習曲S.141

パガニーニによる大練習曲

1つは、「 音の多さ」が挙げられるのではないでしょうか。 楽譜を見た瞬間に、音符が多すぎるのを見ると、ああこれは難曲そうだと感じますよね。 さらにテンポが速い曲だと、指の速い動きも要求されてくるのでたくさん練習しなければならない、と思うでしょう。 2つ目に、 音が飛びすぎる曲は難曲である、と感じます。 さらに、オクターブ以上の音域をおさえなければならない曲も弾きづらいですね。 どちらのケースも、手が大きくなければ弾きこなすのに困難です。 最高難度の曲ともなると手が大きくても不可能ではと思える曲もあり、最適な練習方法を見出さなければならない、といったところでしょう。 そして3つ目。 テクニックだけではなく、表現力が求められる楽曲でしょうか。 ピアノにおいて、表現力はいくらテクニックがあっても練習だけではカバーしきれない部分がありますよね。 こちらではこれらのことを元に、超絶技巧のピアノの難易度MAXの難しい曲を10曲選び、ご紹介していきます。 こういった難曲を弾けるようになることには一体どんな価値があってどんなメリットがあるでしょうか。 1つには、やはり自分の技術向上、ということが挙げられます。 難しい曲を弾けるようになることによってさらに自分のテクニックが磨かれ、さらなる上を目指していける、という点ですね。 こういった難曲に挑戦しよう、というからにはある程度テクニック、腕に自信がある方々でしょう。 難易度の高い曲を弾きこなせれば自分にとって明らかにプラスになりますよね。 また、難しい曲を弾ける、ということは単純にかっこいい!ということにもなります。 こういう曲を披露する場というのはある程度人が集まっているようなところ、発表会であったり演奏会であったりするのでしょうが、難しい曲をさらっと弾けたらかっこいい、と絶賛されそうですよね。 ショパンのエチュードは難易度がそこそこ高く、革命のエチュードや木枯らしのエチュードなど、発表会などでも弾いた、という方は多いでしょう。 12の練習曲op10はあのリストでさえ、初見では弾けず練習を要した、と言われるほどです。 しかしこの、ただでさえ難しい曲を、ゴドフスキーがさらに編曲、最高難度とも言われる曲にしてしまったのです。 こちらでご紹介している動画はその中でも第47番「おふざけ」と題された曲ですが、これは黒鍵(op10-5)と蝶々(op25-9)の旋律を同時に弾くアレンジにしている、というまさに「意味不明」、なんていうことをしてくれたんだ、ともいえる超難関な曲へと進化しています。 この曲を弾けたらさぞかしかっこいいのでしょうね。

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パガニーニによる超絶技巧練習曲 第6番『主題と変奏はどんくらい難...

パガニーニによる大練習曲

概要 [ ] の『』やの中から6曲を抜粋し、ピアノに編曲したものである。 初版は非常に演奏困難な技術を多く要求される事で知られ、13度の和音や、非常に早いパッセージで連続する10度の和音等、手の大きさそのものを要求する部分も多いが、改訂版ではそれらの大部分は削除された。 一般に演奏されるのは改訂版であり、初版を『パガニーニによる超絶技巧練習曲』、改訂版を『パガニーニによる大練習曲』(単に『パガニーニ練習曲』ということもある)と呼んで区別される。 『』は特に抜粋されて演奏されることが多く、リストの曲の中でもっとも有名な作品の一つである。 楽曲 [ ]• 140 パガニーニによる超絶技巧練習曲 (1838年版)• の『パガニーニのカプリスによる練習曲』Op. 10 第2曲の再編曲)• 141 パガニーニによる大練習曲 (1851年版) 原曲は『ラ・カンパネッラ』以外は初版と共通。 第1番は原曲は第5・6番で、「」と俗称される。 原曲より1オクターブ低い音域で主題が始まるが、これは左手の練習を目的としたためである。 前後に第5番の前奏(楽譜では「前奏曲」と表記されている)と後奏が加えられた。 第2番は第17番を元に作られたのための練習曲である。 曲の進行は原曲に忠実で、和音による味付けや中間部の対旋律が追加された。 が印象的。 第3番は『』を参照のこと。 6曲中、この曲だけが原曲から主題のみを取った自由な編曲となっていることについて、福田弥はパガニーニの協奏曲第2番が1851年まで出版されなかったことを理由に挙げている。 第4番は第1番に基づくが、特徴的な記譜法で書かれている。 テンポが速い上に上昇・下降とも1オクターブを越えるため、同音連打の部分で指替えができない。 頻繁に両手が交差し、場合によっては同じ音域を両手を重ねるようにして演奏する必要がある。 第5番は第9番に基づき、「狩り」と独自のタイトルを付けて作られた曲である。 6曲の中でも比較的良く知られている。 主題はやの響きの模倣である。 第6番の原曲は第24番。 進行は原曲に忠実で、最終変奏が多少拡大された程度である。 この曲集の終幕にふさわしい華麗な変奏曲である。 なおリスト以外にも、、など多数の作曲家が奇想曲第24番の主題を基にした変奏曲を書いている。 初版 [ ] 初版の『パガニーニによる超絶技巧練習曲』はリストの数ある曲の中でも難曲とされる。 CD時代に入ると録音は複数存在するほか、とがこの曲集を演奏した。 改訂版との違いは第3番と第4番で顕著である。 第3番は、主題の取り入れ方・曲の進行が全く違っている。 まず、改訂版の特徴である右手の大きな跳躍が前半には無い。 また、左手には手の大きさが要求される和音が繰り返し登場する。 後半では改訂版には見られないヴァイオリン協奏曲第1番の主題が現れ、曲の拍子が8分の6拍子から4分の4拍子に変化し、曲の終盤まで連打と跳躍のテクニックがさまざまな形で、両手について要求されるようになる。 では構造上、連打に鍵盤が追いつかず音が繋がってしまう為、指定の速度での演奏は不可能となる(作曲当時にはまだアップライトピアノは存在していなかった)。 第4番は2つの異なる稿が存在する(成立は同時期)が、第2稿の難易度は第1稿をはるかに上回る。 両者は改訂版(Vivo)よりもかなり遅めのテンポ(Andante quasi Allegretto)をとる。 第1稿では、広いポジションをとる両手のアルペジオや跳躍、特徴的な指づかいが目に付く。 改訂版では両手の交差で取る単音アルペジオは、第1稿では両手のユニゾンになっている。 第2稿では曲全体が第1稿のアルペジオを応用し、両手でそれぞれ重音アルペジオを演奏することになる。 また後半部分で、主題を和音の両手交差による大跳躍を組み込みながら繰り返しているため、曲自体が少し長くなっている。 初版を録音したピアニスト [ ]• - 録音に使用したピアノはオウガストフォレスター。 初の映像による収録。 - ピアノは。 理由は「スタインウェイだと演奏効果が高くなりすぎて和音がつぶれてしまうから」だという。 関連作品 [ ] 『』、『』 - いずれも「ラ・カンパネッラ」の主題を使用。 両作品ともパガニーニによる大練習曲以前に作られたもので、前者はリストがカンパネラの主題を用いた最初の作品である。 備考 [ ] 前述の通り、初版を『パガニーニによる超絶技巧練習曲』、改訂版を『パガニーニによる大練習曲』と呼んで区別するが、実際はピアノリサイタル等のテレビ番組で 大練習曲を演奏する際に誤って 超絶技巧練習曲とクレジットされることもあり 、初版と改訂版の区別がされていないことがある。 はこの作品を二度に渡って改訂している。 第1-5曲は異同がないが、第6曲は曲尾が完全に書き換えられてしまっており、本人の「自由編曲」との断り書きがある。 初版を録音したり演奏したりするピアニストは、少ないがいる。 書き換えられた版の演奏はあまり試みられない。 脚注 [ ].

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パガニーニによる大練習曲とは

パガニーニによる大練習曲

楽曲解説 - パガニーニ大練習曲集 1851年版 S. 141 第5番 ホ長調 「狩り」 その技巧のあまりのすさまじさのために「悪魔に魂を売った」と言われたヴァイオリンのヴィルトゥオーゾ、パガニーニ(1782-1840)。 リストがその演奏を初めて聴いたのは、1832年、21歳の時であった。 そのとき、感激のあまり、自分は「ピアノのパガニーニになる!」と叫んだというのは、有名な逸話である。 この衝撃的な出会いは、ピアノ史上に革新的な作品を生み出すことになった。 1838~1839年にかけて作曲された《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》において、リストのパガニーニ研究の成果は一応の完成をみる。 しかし、ここで納得するようなリストではなく、1851年に大幅に手を加え、《パガニーニによる大練習曲》と名付けて改訂版を出版した。 リストはパガニーニの楽譜を、ただピアノ用に編曲したわけではない。 上述の宣言どおり、パガニーニがヴァイオリンという楽器で実現した高度なテクニックを、ピアノ独自の語法によって表現しようと試みている。 そこから新しい語法や技巧が編み出されることとなり、結果として非常に革新的で、類い稀な難易度の高さを誇る作品が生み出されることとなったのである。 さらに、《パガニーニによる大練習曲》への改訂においては、簡潔なテクニックによる表現の洗練が目指された。 この改訂により、各曲は「練習曲」から「キャラクター・ピース(性格小品)」へと、その装いを変化させている。 第5曲『狩り』(ホ長調)は、《24のカプリース》第9番を原曲とする。 初版に比べると、やはり《大練習曲》のほうが軽快な音楽となっている。 曲の中間部には、ピアノ史上比較的珍しい重音のグリッサンドが見られる。 「ピティナ・ピアノ曲事典」より 作曲家解説 - リスト,フランツ ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。 本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。 ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。 神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。 若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。 これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。 また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。 その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。 が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。 1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。 ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。 また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。 やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。 晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。 生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。 リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。 また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。 更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。 「ピティナ・ピアノ曲事典」より 演奏家解説 - メルジャーノフ,ヴィクトル ロシアのピアニスト・音楽教師。 ソ連邦時代から半世紀以上にわたって現役で演奏・教育活動に取り組むロシア・ピアノ楽派の最長老であった。 楽曲解説 - パガニーニ大練習曲集 1851年版 S. 141 第5番 ホ長調 「狩り」 その技巧のあまりのすさまじさのために「悪魔に魂を売った」と言われたヴァイオリンのヴィルトゥオーゾ、パガニーニ(1782-1840)。 リストがその演奏を初めて聴いたのは、1832年、21歳の時であった。 そのとき、感激のあまり、自分は「ピアノのパガニーニになる!」と叫んだというのは、有名な逸話である。 この衝撃的な出会いは、ピアノ史上に革新的な作品を生み出すことになった。 1838~1839年にかけて作曲された《パガニーニによる超絶技巧練習曲集》において、リストのパガニーニ研究の成果は一応の完成をみる。 しかし、ここで納得するようなリストではなく、1851年に大幅に手を加え、《パガニーニによる大練習曲》と名付けて改訂版を出版した。 リストはパガニーニの楽譜を、ただピアノ用に編曲したわけではない。 上述の宣言どおり、パガニーニがヴァイオリンという楽器で実現した高度なテクニックを、ピアノ独自の語法によって表現しようと試みている。 そこから新しい語法や技巧が編み出されることとなり、結果として非常に革新的で、類い稀な難易度の高さを誇る作品が生み出されることとなったのである。 さらに、《パガニーニによる大練習曲》への改訂においては、簡潔なテクニックによる表現の洗練が目指された。 この改訂により、各曲は「練習曲」から「キャラクター・ピース(性格小品)」へと、その装いを変化させている。 第5曲『狩り』(ホ長調)は、《24のカプリース》第9番を原曲とする。 初版に比べると、やはり《大練習曲》のほうが軽快な音楽となっている。 曲の中間部には、ピアノ史上比較的珍しい重音のグリッサンドが見られる。 「ピティナ・ピアノ曲事典」より 作曲家解説 - リスト,フランツ ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。 本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。 ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。 神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。 若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。 これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。 また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。 その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。 が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。 1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。 ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。 また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。 やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。 晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。 生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。 リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。 また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。 更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。 「ピティナ・ピアノ曲事典」より 演奏家解説 - グラフマン,ゲイリー アメリカ生まれのピアニスト。 彼はキャリアの途中で、右手薬指が動かなくなってしまい演奏ができなくなってしまいました。 その後カーティス音楽院等で教鞭を執っています。

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