童貞 を プロデュース。 松江哲明『童貞。をプロデュース』10周年を通して見える社会とカルチャーの変化

『童貞。をプロデュース』問題に見るドキュメンタリーの危うさ

童貞 を プロデュース

2007年に公開されて以降の10年間、池袋シネマ・ロサで8月になると公開されてきたドキュメンタリー映画『童貞。 をプロデュース』。 監督を務める松江哲明さんは『童貞。 をプロデュース』のあとも、精力的に作品を作り続け、最近ではテレビ東京系列で放送された『山田孝之のカンヌ映画祭』や『映画 山田孝之3D』も話題になり、でも。 そしてこの夏、『童貞。 をプロデュース』が公開10周年を迎え、ついに池袋シネマ・ロサでの連続公開を終えることになったという。 DVD化されておらず、劇場でしか観ることのできないこの作品の、貴重な上映機会を前に、松江哲明監督にインタビュー。 『童貞。 そして、10年残るドキュメンタリーを作ってしまった監督の胸中とは……? 童貞という言葉がポジティブに使われるようになった 「 ひとつのモノを見る視点というか、文化になってきているのかな、というのは感じます。 それこそ、チェリーさんなんていうサイトが出てくるくらいですからね……。 2016年の興行収入ランキング1位の『君の名は。 』や、このあいだ公開された『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』の主人公なんてまさに童貞じゃないですか。 ああいうキャラクターを主人公に添えた映画を、東宝が作るようになった。 『モテキ』だってそうですよね。 『童貞。 をプロデュース』は、最初ガンダーラ映画祭という映画祭に出品するために作ったんですが、そういうイベントで上映する規模の作品でさえ、最初は、タイトルがダメだと言われましたからね。 だから、 かつては童貞という言葉は今ほどポジティブなものではない、むしろネガティブなものでしたし、この10年での大きな変化を感じます」 童貞とは性体験の有無のことではない 「うーん……そう言った方が今はモテるからじゃないですか? 童貞って単に性体験の有無だけではなく、精神年齢だったり、性経験を経ずに生きてきた経験値のことだと思います。 アニメが好きな人や、オタクと言われた人たちが一般化してきたこととも近いものがある気がします。 ちょうどこのあいだ沼津に行ったら、アニメキャラクターのTシャツを着て、人形を連れている男性が堂々と一人で入店し、食事をしていたんです。 観光地だけでなく、そんな大人、池袋や秋葉原に行けば、今は普通にいますよね。 僕が幼い頃は、宮崎勤のショックが大きくて、 自分の趣味を人に見せるのはヤバイことっていう認識が強かったんですよね。 ~』の広がり方 「最初は下北沢の小さいギャラリーで、しまださんの持ってるプロジェクターで上映して、40人~50人くらいで酸欠になりそうになりながら見ていたんです。 それが池袋のシネマ・ロサで2週間やることになり、3週間になり、今度は渋谷のユーロスペースでやることになって。 その後毎年、シネマ・ロサでやってもらって、しかも動員数字的には毎年伸びている。 この10年間で『童貞。 をプロデュース』自体も一般化していったように思いますね。 毎年、初めて見に来てくれる人も多いんです。 最初はそんな広がるつもりで作っていないものが、どんどんと広がっていった。 始まりは映画祭用のインディペンデント映画ですが、10年やるって、ある意味メジャー映画ですよね(笑)」 上映終了に「正直、ホッとしている」 「一番複雑なのは、しまださんがもういないってことなんですよね。 しまださんが作ったのは、否定的な意味ではなく、閉じた世界だった。 しまださんはレフリーや興行師のような役割で、みんなを焚き付けて、戦わせていったんです。 僕だけじゃなく、山下敦弘くんや村上賢司さんが、競作の形であの映画祭のために作品を作って、だからこそ変なものができた。 『童貞。 をプロデュース』はそういった閉じた世界だからこそ、出来上がった作品なんです。 でも、しまださんが亡くなった時に、 もう閉じた世界にいることはできないんだな、と覚悟をしたんです。 もう、僕はそういう世界にずっといることはできない。 それなら、自分の知らない世界の人と、面白いものを作ろうと思って、わかりやすい言い方をすれば世界を広げていきたいと思ったんです」 山田孝之という焚き付け役 「別にしっかりしろ、とかちゃんと生きろとか言いたいわけじゃないんです。 単純に、僕がこの国に殺されたくないんです。 仲間たちのように死にたくない。 同じところにい続けても閉じていく一方だということが分かったので、僕は移動をし続けた。 同じことをやり続けてると、40歳や50歳になってガタがきてしまうんですよ。 サブカルに限らず、凄い人って 新しい人と新しいことをやり続けて、世界を広げ続けているんですよ。 僕もそれがしたかったし、そうしなきゃ過去に作ったものも殺してしまうような気がしたんです。 だから、移動をし続けているけど、それは端から見たら裏切り者に見えるかもしれない。 逆に、新しい場所で僕がつまらないものを作ったら、それは終わりだ、と思ってやっています」 大ヒットよりも、社会にどんな球を投げて爆発させるか 「作品って、社会に出るものですからね。 でも、社会に認められるためにモノを作るという発想は僕には理解できないんです。 この時代に、大ヒット作なんて作る自信はないです。 制作者としてそれはマズいと分かってるんですが、未だに数字だけで作品を考える人と話をしてるとどこか合わないな、と思ってしまいますね。 それよりは、 社会にどんな球を投げて、爆発させるかを考えていきたいんです。 テレビの『日本はスゴい!』みたいな番組を見て普段モヤモヤしていた人が、僕の作品を見て、少しスッキリして欲しい。 それは僕が若い頃に見たものに救われてきたからです。 あの頃は深夜に変な番組がたくさんやっていましたから。 そういう番組が減ったからこそ、僕が作れているのかな、と思っています。 これからも場所を変えながら球を投げていくつもりです。 『童貞。 をプロデュース』は、10年前に投げて、自分の予想以上に爆発した球だったんだと思います」 『童貞。 をプロデュース』は8月25日(金)より31日(木)まで池袋シネマ・ロサにて、一週間限定レイトショー。 あわせて読んでみたら.

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「童貞。をプロデュースの現実」vs.「加賀賢三氏の現実」はあり得ない

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をプロデュース』問題についてドキュメンタリーの作り手が共有すべき問題として取り組んできました。 昨年12月17日に松江哲明監督から、加賀氏に会って話をするので第三者として取材して欲しいという依頼を受け、12月26日、30日、31日に行われた加賀氏と、カンパニー松尾氏、直井卓俊氏、松江哲明氏の公開を前提とした対談に取材に入りました。 取材後、編集委員の川上拓也が記事を執筆し、「続報『童貞。 をプロデュース』問題 当事者同士の対談—そこから見えてきたもの」としてまとめました。 そして本来は行う必要はありませんが、被害者である加賀賢三氏、また対談に参加した三者にとっても繊細な内容であるため、記事の対談部分のみ確認して頂くために原稿をお送りしました。 その後、カンパニー松尾氏と松江哲明氏の「当該分の発言を確認したい」という要望に応えて、現場で録音した音声データもお送りしています。 この対応も本来必要ありませんが、三者が最低限納得できる形で掲載するという編集方針で対応しました。 その理由について、松江氏は本誌に「社会性」「公益性」が感じられない、この問題を本誌の経済活動に利用されたくない、と。 直井氏は原稿に問題を解決しようとする意志を感じない、客観性や社会性を感じないとおっしゃいました。 カンパニー松尾氏は理由を述べていません。 公開を前提とした場での取材に対する掲載拒否を受け入れる理由はありません。 しかしながら、本誌はこれまで特集「撮られる者たちの眼差し」を組み、ドキュメンタリーの倫理観、被写体、取材対象者に対する敬意について考えてきました。 三者が取材対象者である以上、掲載して欲しくないという思いを無下にしていいのか?という葛藤がありました。 しかし、その思いも21日に公開された松江哲明氏のnoteの記事によって打ち砕かれました。 をプロデュース』問題 当事者同士の対談—そこから見えてきたもの」を公開します。 このまま掲載を行わなければ、年末に行われた当事者同士の事実確認や加賀氏への謝罪が意味のないものになってしまいます。 カンパニー松尾氏、直井卓俊氏の対談の取り扱いついては現在編集部で協議しており、結論が出た段階で改めて声明を出すつもりです。

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『童貞。をプロデュース』強要問題の“黙殺された12年”を振り返る 加賀賢三氏インタビュー<2019年12月12日追記あり> | ガジェット通信 GetNews

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いつ削除されるかもわからないけれど、とりあえず現時点ではでその様子が確認できる。 加賀さんが出演した第一作の『』を観て、そのいくらか後に梅沢さんを主人公にした『2』も観て、それから10年前の池袋シネマロサで現在の編集版『』を2回観たと思う。 それから当時、この作品に関するブログや記事も結構読んでいたと思う。 それだけこの作品は当時の、そして今の、私に重要な問題意識を残したということである。 その辺りは、1号目『論』と2号目『童貞論』にまとめてあって、基本的な考え方はそこに詰まっているんじゃないかと思う。 再読してないのでわからないが。 まあそれはいいとして、今回は童貞的自意識の話とかよりも、先日の一件によって、ドキュメンタリが提出する現実について思いをはせることになった。 というのも、『』が提出した問題のなかで、当時の私は童貞考察の部分しか考えていなかったのを思い出した。 これは必ずしも『』に限った話ではないが、『あんにょんキムチ』からずっと、松江監督は確固たるドキュメンタリ論を展開していると考えられるからである。 今回の騒動は、まさにその論に基づいた作品づくりの結果でもあるからだ。 ちなみに、私は舞台挨拶には行くつもりはなかったが、今回の上映期間中に再観賞するつもりではあった。 個人的には残念だが、仕方がないことでもあるし、今後の展開に期待する方向で考えたい。 『』の主題である。 松江監督はデビュー作である『あんにょんキムチ』から今まで、この『ドキュ嘘』で語られるようなことを念頭に置きながら、ドキュメンタリ作品をつくり続けていると思う。 『ドキュ嘘』が否定するのは、「フィクションとは違ってドキュメンタリは、実際に起きている現実をそのまま映すものである。 だからそれは真実を映す鏡であるに違いない」という素朴で純情な認識だ。 しかしそれを否定するからといって、ドキュメンタリは「嘘である」と言い切るわけでもない。 そこに映った事実の一側面を浮かび上がらせるのがドキュメンタリなのであって、だからこの作品のタイトルは、「嘘をつく」に留まる。 つまり嘘は悪ではない。 嘘はどうしても映り込むだろうし、あるいは積極的に嘘を投入していくことで事実を浮かび上がらせることもできるのである。 ただ、ドキュメンタリの場合は、作品を構成する素材が現実に存在しているものである。 私たちが生活を営むこの世界と地続きのものである。 まさにそれが、今回のような一件を引き起こしやすくなる要因ではある。 そこで描かれる世界にアクセスするためには、観賞という手段しかない。 制作者であれ、出演者であれ、ひとつの作品がすでに出来上がった以上は、全ての人間は観賞という形でしか作品の世界に接触することはできない。 もちろん、ドキュメンタリの場合はその作品に登場する人物も、扱われる事件も実在するし、だからそれら作品の構成素材自体に直接接触することはできるはずだ。 しかし、結果的に作品に描かれる世界には、その作品の「鑑賞」なくしては触れることができない。 フィクションのいちジャンルであるというのはそういう意味だ。 だから「観賞」は、当事者としてその作品の世界に飛び込む行為となる。 観賞という行為を介すことによって、作品に描かれる世界は「現実」となる。 作り話である小説に心打たれるのは、それが現実として鑑賞者に迫るからだ。 基本的に観賞は、安全圏から他人事のように眺めるということではない。 鑑賞者は常に集中力を持って当事者性を持つ努力を強いられるし、あるいは他人事として鑑賞されることを想定して作られる作品は、一般的に駄作とされる。 鑑賞者はまさに当事者としてこれらの出来事を体験することになる。 作品の力のみによって鑑賞者に当事者性を持たせることができるという意味で、これは優れたドキュメンタリだったと思う。 そしてもちろん、それは優れたフィクションであることをも意味している。 しかし当然のことながら、観賞という行為を介さない限りアクセスできない現実であり、ビデオカメラなくしては立ち上がらない現実である。 だから、のビデオカメラがないまま、この作品内で起きた出来事を眺めたら、それは『』に描かれた世界を作らないし、また別種の現実が起きているはずだ。 松江監督のビデオカメラなしで、同じ出来事を目撃・体験したのが、加賀賢三氏であるのは言うまでもない。 その場に居合わせる人はおそらく、作品の延長線上の人物として彼らを捉えることになるだろう。 ドキュメンタリはフィクションではあるが、私たちが暮らすこの世界のうえに「別の世界」を作りあげる類のフィクションだからだ。 しかし、フィクションの宿命である「作品の提示する世界には、観賞以外にアクセスする手段はない」に則て考えるならば、舞台挨拶の場で起きることは、作品のある位相とはズレた、また別の現実である。 上映後の舞台にドキュメンタリの出演者があがるということ自体、こうした極めてあいまいな場を用意する。 加賀さんとのやり取りのなかで、松江監督が放った「俺は今この場ではそういう話はしない」という発言は、観賞以外の方法で、作品の外から『』の世界に触れることへの拒否だったのだと思う。 それは作家としては当然の態度だろう。 ただ、とはいえ松江監督や加賀さんの人間関係や社会生活上の問題としては、それは大問題であり、監督としてではなく、人間としてどうこの問題に接するのかという問題は突きつけられて然るべきだろう。 つまり「加賀賢三の現実」と「の現実」の勝負にはなり得ない。 「加賀賢三の現実」が、事実としてどうだったのかを重視するならば、それは「の現実」と「加賀賢三の現実」の戦いに過ぎない。 そちらの方は事実の検証なり法廷闘争なりで戦うことになるだろうが、加賀さんがもしも「の現実」と戦うのならば、加賀さんはなんらかの形で作品を作らなければならないのである。 そしてそう考えると、舞台挨拶上で引き起こされたあの一連の騒動そのものが、「加賀さんが作品として提出した現実」なのではないか、と思えてくる。 ただ、そのショックは、『』という映像作品の強さの証明でもあることは考えておかなければいけない。 上に述べたように、もちろん原理的には延長でもなんでもなく、別モノではある。 そうではなく、感覚的に、延長線上に感じるような実感が、いま、どれだけの人に共有されるだろうか、ということ。 言い換えれば、これは松江監督があの物語をどこまでリアルガチだと思わせたかったのかという話だし、『』がなぜドキュメンタリとして制作されなければならなかったのかという話でもある。 おそらくは、ドキュメンタリの文法を駆使するのに長けているから、というのが実制作上の理由だろう。 その手法を徹底的に駆使することでしか立ち上がらない世界ではある、たしかに。 ただ、私が気になるのはむしろ、ドキュメンタリの手法を用いることで、あの作品がこれだけのプロップスを集めたという、その現象が気になるのである。 そしてこれはなんとなくなのだが、おそらく的な感性と無関係ではないと思う。 『』制作時期に照らせば、とか言った方がいいんだろうけれども。 つまり、当事者意識の話だ。 andoh3.

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