書道 絵師。 データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム

榊原匡章 散文詩『伊勢神宮』、随想『豊受神宮』、随想『病院の同輩』「勢陽」30作品

書道 絵師

一 各藩の絵師 愛媛における近世絵画の幕開けは戦国争乱が収まり、幕藩体制による伊予八藩成立のころからである。 松山・今治・宇和島・大洲など各藩の築城、藩邸の造営など新しい建設時代の要請に基づき召し抱えられた絵師たちを中心に展開していく。 江戸時代も中期以降は長年の平和と各藩の文治政策による学芸の隆盛、産業の発展にともない、文人画の勃興、写生派の台頭などで町絵師も出現、藩外との交流も活発となり、次第に画流も多様多彩となる。 だが、当初は、なんといっても藩の絵師が中心となり新時代を切り開いていく。 1 松山藩の絵師 松山藩初代の絵師は松本山雪である。 彼は松山松平初代の藩主定行に見いたされ、その転封に伴い松山入りをする。 定行は戦国争乱の世を生き抜いた武将であり、彼の父は徳川家康の同母弟に当たるいわゆる親藩で幕藩体制下における四国周辺の鎮として当地に配置される。 彼は戦国武将であるとともに高い教養をもつ文化人でもあり、幕府のそうした期待と任地住民の衆望に応え、以後、当地の産業・文化発展に力を尽くし、近世松山文化の基を開く。 その定行が松山転封に際し是非必要な人物とし山雪をわざわざ召し連れるには、よほど彼の人物・力量にほれ込んだものと思われる。 山雪もまた、その懇請に応え、藩初代の絵師として松山に住みつき、愛媛近世絵画の劈頭を飾る巨匠として輝かしい業績を残す。 山雪のころ、松山藩の絵師制度はまだ確立されておらず、極く軽い身分で藩の用を承るとともに一般の求めにも応じる至極自由な立場のようであった。 当時彼の待遇は「二人扶持」であり、彼の跡を継ぐ山月は初め「五人扶持」、のち「八人扶持」となる。 三代目の絵師豊田随園に到り初めて「百石六人扶持」の士分となり、ようやくそのころに至って藩の御絵師制度は確立される。 こうした待遇・身分は、各藩の事情によってさまざまだが、一応藩お抱えの絵師ともなれば公認された専門絵師であり、藩の用だけでなく、それぞれ地域における斯道の最高権威として指導的な役割を果たす。 以後、松山藩では初代山雪のあとその養子山月が継ぎ、三代豊田随園、四代武井周発、五代豊田随可、六代荻山常人、七代荻山養弘、八代阿倍晴洋と狩野派の絵師が受け継ぎ、途中遠藤広古・広実父子二代の大和絵系住吉派の絵師が加わる。 松本山雪 山雪の遺作は県内はもとより全国各地に散在し、また馬の名手といわれ、彼の名は広く知られている。 だが、その出生・画歴については不明の点が多く、今治出身とか、松山生まれなどさまざまな伝承も手伝い、幻の絵師ともいわれてきた。 ところが、最近、伊予画人研究会矢野徹志らの調査により、「松本家系図」が発見され、その家系・出生が明らかになった。 それによると、彼の出生は近江。 その父は紀州藩士で、浪人して藤堂高虎に仕え再び浪人する。 山雪の代に至って松山藩主松平定行に随行し、画御用を勤めるとある。 松山における彼の住所は市の郊外南土居にあり、村人はそこを松本庵という。 その近く万福寺境内に彼の墓があり、岨嶺山雪居士覚霊の戒名と延宝四年(一六七六)霜月二三日の没年月日が銘記されている。 「松本家系図」の「松本山雪恒則延宝四年一一月二三日卒行年九六歳」とも一致する。 ただ、この行年九六歳には疑点もあるようだが、相当の長寿であったことは間違いない。 彼は別号を岨嶺といい、また心易ともいう。 彼の画歴について、京狩野二代目の当主で同名の狩野山雪に師事との説もあるが、その山雪は松本山雪より若年であり、その説はどうも疑わしい。 だが、同名の故もあって両者の作がしばしば混同され、幻の絵師といわれてきたことは師弟の関係というより、むしろその作風・力量が似ていることの証左でもあろう。 山雪が松山入りの年、ちょうど桃山画壇の大御所狩野山楽が没している。 その家系を受け継ぐ狩野山雪は当時四五歳、松本山雪は五四歳(松本家系図)である。 彼がどういう関係で狩野に入門したのかはわからないが、年下の山雪よりも当時華々しい活躍を続けていた山楽の影響を多分に受け、その正統の山雪にも劣らぬ画技を身につけ、その一門中で抜群の活躍をしているところを定行に見込まれたものと思われる。 彼の代表作に、東京国立博物館蔵の「宮島図屏風」「牧馬図屏風」、愛媛県指定文化財の「製茶風俗図屏風」(武智圭邑氏蔵)、松山市指定の「墨馬図屏風」(二神一正氏蔵)、などがあり、その他個人所蔵の「瀟湘八景図屏風」、「楼閣山水図屏風」、「唐人故事図屏風」、「釈迦三尊図」、「武将図」などその力量と画域を示す優作も多い。 これらの作を通じ、その描写力の確かさ、構成の力強さ、画域の広さなど当時における狩野の正統を受け継ぐ絵師であることを十分にうなずかせる。 さらに、彼の作によく見る点景の人物・動物・樹木などの生き生きとした表情、豊かな写実の傾向は、桃山から徳川初期へ移行する狩野派の時流を先取りし、同派の先端を行く気概をさえ感じさせる。 彼晩年の作には狩野を越え階体から草体へ雪舟・如拙・周文らに近い室町様式への復帰と精神性を加味した、一種純化の傾向が目立ってくる。 彼は馬の名手といわれ、名馬の産地奥州にまで足をのばしたといわれるだけに、その生態描写はまことに見事である。 山雪のやせ馬ともいい、あばら骨もあらわに無気味なまでに真迫力に富む作、また、時には足が短く頭の大きい不格好だが愛嬌に富む県内産の野間馬そっくりな姿など、馬のあらゆる姿態を活写し親しまれている。 彼の愛用した印章が今も揃って残り、県指定の文化財となっている。 その中の一顆に、「御免筆」の文字を刻んだ印章がある。 その印につき、「松本家系図」は次のように述べている。 「松本山雪藤原恒則ハ勢州桑名ヨリ来ル伊予国浮穴郡土居村ニ住ス 勅命ニ依リ上京シテ御所ニ参内シ馬ノ画ヲカク 其妙ナルヲ御感有テ肩ノ印御免筆ノ綸旨ヲ頂戴シ 其後御免筆卜云フ御印ヲ絵ノ肩ニ押ス」と。 この印章につき、従来は、山雪が藩御用以外に筆を執る時、藩主より特に許されたいわば許可証のような役割をもつものと解釈されていたが、この記述により、その由来とともに彼の画歴が一層明確となる。 つまり、松山といういわば僻地に在りながら、当時中央画壇で活躍中の有力作家を差し置き、御所に召されて絵御用を勤めるということは、彼こそ狩野の正系を受け継ぐ最有力の作家であること、また、その力量と人物を見抜いて松山に召し連れた藩主定行の烱眼、その山雪を初代絵師とする以後の松山藩絵師への影響なども推察するに難くない。 松本山月 山月は通称を佐次之丞、半輪斉と号し、山雪の跡を受け、松山藩二代目の絵師となる。 慶安三年(一六五〇)生まれ、享保一五年一月二八日没、享年八一歳。 その墓は山雪とならび万福寺の境内にあり「帰本昭光院山月居上位」とその没年月日が刻まれている。 「松本家系図」では山雪の嫡子となっているが、その年齢差などから養子という説が有力である。 山雪はその若い後継者によほど目をかけ、身辺離さず指導したとみえ、藩主定行隠棲の東野御殿へしばしば親子揃って参上し、公のお茶の相手を勤めたとか、その襖絵は親子の合作という伝承もあり、彼の画風は正に山雪直伝である。 山雪が没した時彼は二五歳、若年ながらも藩の御用を勤め、貞享元年、三四歳で三の丸藩邸に「松竹梅図」を描き画名ますます高く、名実ともに山雪の後継者と称賛される。 彼の代表作に万福寺蔵「大涅槃図」、讃岐金刀比羅宮蔵「野馬図屏風」、重信町松本敬康氏蔵「野馬図屏風」等があり、その他の遺墨にも山雪に劣らぬ画境・力量を示す作も多いが、どうも山雪の盛名におされ、影のうすい感は免れない。 山雪・山月らの活躍した江戸初期における中央画壇の状勢をここで少々考察してみたい。 元信を始祖とする狩野派は、桃山時代に至り信長・秀吉らの英雄主義的風潮に乗り、永徳の雄渾な画風が大いにもてはやされ画壇の支配勢力となる。 それに続き、さらに華麗さを加えた山楽の装飾画風が一世を風靡する。 ところが豊臣氏の滅亡、徳川氏の制覇による政権の交代で、秀吉に寵用された山楽は豊臣の残党とみなされ暫く影をひそめる。 だが、やがてその窮境を脱し、徳川方には新鋭の探幽を差し向け、朝廷には孝信を、自身は京にとどまり本家のいわゆる京狩野を形成する。 江戸に向かった探幽は清新瀟洒な画風で新時代を風靡し幕府の御用絵師となり、鍛冶橋狩野を形成する。 それにならい他の狩野派絵師たちも活躍舞台を江戸に求め、尚信は木挽町狩野、安信は中橋狩野、岑信は浜町狩野と幕府の奥絵師四家を形成し、以後の中央画壇に不動の地歩を固める。 さて、京にとどまりいわゆる京狩野を形成した山楽は、舞台の中心が江戸に移るとともに新時代の潮流からは取り残された姿となる。 彼の華々しい活躍で一世を風靡した桃山様式に代わり、探幽の確立した清新瀟洒な画風が新味をもって迎えられ、時流は大きく変わってくる。 山楽の流れをくむ山雪の画業も愛媛の絵画に新風を吹き込み、さらに御所にも出仕し中央画壇でも輝かしい業績を残すが、それもやがて時流におされ、御本家の山楽と同じ運命をたどることとなる。 彼の跡を継いだ山月も、画業をよく守り藩絵師として活躍するが、新味に乏しく、時流におされ、藩でもやがて新鮮な江戸狩野の流れを導入することとなる。 即ち三代目の絵師豊田随園の登場である。 豊田随園 随園は常之とも号し、山雪・山月の後を受け松山藩三代目の絵師となる。 彼の生年ははっきりしないが享保一七年(一七三二)、山月の没後二年目に没しており、その活躍年代は山月とほぼ同年であり、ある時期は二人そろって活躍していたものと思われる。 随園は江戸奥絵師の浜町狩野に籍を置き、松本岑信随川の教えを受け、師の一字を賜り随園と号し、同門の後見役を勤めた有力者である。 また彼の別号常之は師随川の父狩野常信から受けたとの説もある。 彼の経歴につき『古今記聞』は次のように伝えている。 「小児の時は餅など売りて家中の長屋などを徘徊して賤しき者なりと。 この小児たりし時より画を好みて反古塵紙などを与ふれば画を書く。 その風説凡ならず、其親画をならわし、終に召し出され、狩野家の後見台命を蒙りたる者也。 希世の名画といふべし。 随の字は狩野家にて賜はりし字のよし。 」 彼の遺作は多くないが、某家所蔵の「花鳥人物図屏風」などには、明らかに探幽様式を受け継ぐ常信あたりの作風をうかがわせ、描写対象を簡潔にしぼり、余白を多く残す画面構成に一種の情趣を盛り込み、山雪様式とは全く違う新しい息吹を感じさせる。 武井周発 随園の後を受け、藩四代目の絵師を継ぐのは武井周発である。 周発は元禄七年(一六九四)押川由貞の四男として生まれ、初め作之丞と称し、後半三郎と改め、常美と号す。 正徳五年(一七一五)武井家の養子となり、二年後二四歳で藩主定直の次小姓となる。 つづいて藩主定英・定喬に仕え、元文元年(一七三六)四三歳の時周発と名乗り、藩絵師となり一〇石三人扶持を給せられる。 明和七年(一七七〇)有医格となり、随園の孫豊田随可に藩絵師を継がせ、同年九月三日、七七歳で没す。 墓は菩提寺の味酒町の長久寺にある。 周発が継いだ武井家は随園の親戚に当たり、彼の絵の手引、特に江戸の浜町狩野随川門下での修業も随園の推挙によるものと思われる。 彼の遺墨は今もかなり多いが、その中に最大傑作は長久寺旧蔵の「日蓮上人一代記」であろう。 惜しいことにその記念碑的な大作は戦災のため灰燼に帰し、今は昭和二年松山城で開かれた「伊予古美術展」の図録によりその面影をうかがう外ない。 縦九尺二寸、横一丈二尺という、その巨大さにも彼がこの作にかけた異常な気迫がうかがわれる。 一条の雲が渦巻き状をなし、その中央に五重塔と女神、神将を配し、それを背にして日蓮が坐す。 画面の左上から上人の歩んだ波乱の生涯、即ち「辻説法、佐渡流罪、竜の口の受難、蒙古襲来」等の一代記が展開する。 この画面構成には「一遍上人絵伝」や「蒙古襲来絵詞」など絵巻の図様や密教の「曼荼羅」の組み合わせを想像させるものがあり、平安・鎌倉・室町を経て形成された日本絵画様式の集約が見られ、それを鳥瞰する周発の力量がうかがい知れる。 その他多くの遺墨にも、随園に似た江戸狩野の緊密な構想、明るく瀟洒な色感がうかがわれ、なかなかの健筆である。 もう一つ彼の功績として特筆すべきものは、彼七二歳の著『武井周発自伝』である。 画業一筋の彼の歩みと歴代藩主や狩野家とのかかわり合いなど、当時の藩絵師の実態を克明に記録したものであり、愛媛の美術資料としてはもとより、全国的にも珍しい地方藩絵師の実態を余すところなく記述した名著である。 豊田随可 随可は常令とも号し、幼少より祖父随園の影響を受け、周発と同じ浜町狩野随川甫信門下で修業、能画のほまれ高く、周発の後を受け藩五代目の絵師となる。 寛政四年(一七九二)七二歳で没す。 『武井周発自伝』『古今記聞』など彼に関する古記録をみると、その剛直な性癖、奇行振りが伝えられ、その奇行のため狩野本家にとがめられ、祖父随園は師より受けた随の字を返上せざるを得なかったという。 また随可は他に抜きんでた才能、何事にも屈しない剛直な性格の持ち主である。 ある時、主君の側近衆がそれを心憎く思い、明月の夜、狭い縁側に莞席を敷き、今宵は月もよし、縁に出て月を賞せよと誘う。 随可はそれにつられ、空を眺めつつ莞席の端に出て、たちまち庭に転落する。 しかし、倒れながらも彼は頭をささえ、「良き月よのう、貴公達がすすめるのもごもっとも」と平然という。 また、その前置に「絵は至極の上手也、然れ共随園よりは少し劣れりと見えたり」と少々皮肉ってもいる。 当時、同年輩の墨竹の名手蔵沢の奇行も有名で、それと併称、諸芸の達人として明月上人、蔵山和尚とともに記述されている。 彼の遺墨は少なく、詳しくはわからないが、若書きは極度に様式化された筆法で生気に乏しく、晩年になるに従い軽妙洒脱、表情も豊かで生気を帯び、彼の本領を発揮したようである。 彼の活躍したころは山雪から既に一世紀を経た江戸時代も中期である。 初期に確立された「探幽様式」は彼の没後、狩野派の絶対的な権威となり、それを安易に模倣する粉本主義を生み、多くの功罪を残すこととなるが、おそらく随可もその粉本主義の洗礼を初期には強く受けていたのであろう。 しかし、彼の晩年は、ちょうど新しい実証主義が芽生えたころであり、絵画の世界も応挙の写生派、大雅・蕪村を中心とする南画の勃興があり、松山藩でも蔵沢の墨竹がもてはやされるなど、新たなリアリズムに対する覚醒が画業に反映したのではなかろうか。 随可の後、狩野系の絵師は木挽町狩野常信の門人荻山常人(文政四年=一八二一没)が引き継ぐ。 だが、ちょうどそのころ、住吉派の遠藤広実も起用され、藩の絵師も狩野・住吉両派の併立となり、さらに南画の勃興、写生派の台頭で、当地の画壇もようやく多彩、活況を呈してくる。 遠藤広古 松山藩の絵師は初代の山雪以来明治に至るまで、代々狩野派の絵師が引き継ぐ。 ところが、その途中、大和絵系の絵師、遠藤広古・広実父子二代が加わっている。 朝廷や幕府は別として、一地方の藩でこうした両派の併用は異例といえよう。 江戸時代も中期となり、ようやく文芸興隆の時に、藩におけるこうした両派の併用は、当地の文化に一層の多彩さをそえ、大いに歓迎されたものと思われる。 平安以来の日本伝統絵画を大和絵といい、その主流を土佐派、その一支流に住吉派がある。 土佐派一五代光則の弟広通(如慶)が、中絶していた住吉派を再興し、江戸に移って幕府の奥絵師となる。 それより四代を経た住吉広守門下の俊英が遠藤広古である。 広古は寛延元年(一七四八)江戸に生まれ、広起ともいい、蝸盧と号す。 寛政のころ松山藩絵師となり、文政七年一一月一七日、七七歳で没す。 彼の遺作は今もかなり多く、花鳥人物を得意とし、狩野の筆法を取り入れた気宇広大な力強い作から、大和絵の正統をひく緻密な表現まで画域は広いが、あくまでも住吉派の格調高い本格派である。 遠藤広実 広実は天明四年(一七八四)生まれ、幼名を古致、通称を伴助といい、住吉家五代広行の教えを受けて、父の跡を継ぎ松山藩絵師となる。 文久二年五月二六日、七九歳で没す。 江戸の住吉派は伝統的な大和絵を基礎に早くから狩野の筆法を加え新様式を確立している。 ところが、広実のころ、つまり江戸時代も後期に入ると伝統的な大和絵・狩野派を圧して、写生派の円山・四条派や南画など新傾向の活動が活発になる。 広実はその時代感覚を積極的に取り入れ、住吉派の正統に清新瀟洒な画境を加え、同派の第一人者といわれ、愛媛の絵画史に独自の生彩を放つ。 広実の弟子に桂心・桂丹がおり、その子広賢は住吉宗家を継ぎ八代当主となる。 2 大洲藩の絵師 肱川の清流に面し風光明媚な大洲地方は、古来文化の香り高く、小京都といわれてきた。 しかも、代々の藩主は自ら絵をたしなみ、諸芸に秀で、特に三代藩主泰恒、その子文麗はいわゆる殿様芸の域を脱し、中央画壇でも高名の画人であった。 やがてその流れをくむ藩の絵師若宮養徳らが出現して、当地人士に大きい影響を与え、伊予八藩の中でも特異な文化圏を形成していった。 そうした気風は明治以後にも及び、日本洋画の先駆中川八郎・中野和高らを送り出す。 加藤泰恒 泰恒は大洲加藤家三代の藩主。 明暦三年(一六五七)生まれ、正徳五年(一七一五)七月九日五九歳で没す。 泰経・泰常ともいい、遠江守・乗軒・傑山と号す。 木挽町狩野常信に付いて狩野の正統を身につけ、花鳥・人物・山水いずれもよくしたが、特に仏画・武者絵を得意とする。 当時、三百諸侯のうち、豊後日出の城主(豊臣俊長)とともに画道の両雄とうたわれ、絵画はもちろん武術・禅学・能楽・和歌・書道・易学・天文地理・茶道・香道にも通じ、文武両道に達した明君と慕われる。 宝暦ころの筆録『温故集』に「宝永二年彼四九歳の時、参勤の途次、京都に立寄り和歌の師大納言清水谷実業から献上画の内勅を受け、沐浴斎戒して『富士に鷹図』の三幅対を描き東山天皇に献上」とも述べられている。 彼の遺墨は、今も大洲地方に多く残され、その謹直な描法、格調高い画風が珍重されている。 加藤文麗 泰都文麗は泰恒の六男、宝永三年(一七〇六)大洲に生まれる。 正徳三年彼八歳の時、江戸に上り、父泰恒の叔父旗本泰茂の跡を継ぎ、幕府の直臣とし職務に精励、従五位下伊予守に任じられる。 絵は父と同門の木挽町狩野三代周信について学ぶ。 宝暦六年四九歳で隠居、入道し号を予斎といい、以後画道に専念。 天明二年(一七八二)三月五日、七七歳で没す。 文麗は江戸の画壇で名声高く、谷文晃も彼の指導を受け文朝と号す。 他にも多くの門弟があり、安永七年、七三歳の時、その弟子たちにより出版された『文麗画選』は当時の数少ない画手本であり、彼画業の特質をうかがう好資料である。 その序文の一節に「先生致仕後は、唯、画を楽しみとし神境に至った。 描くところは山水・草木・花鳥・人物あらゆるものを筆にしたが、中でも最も人物を得意とした。 しかしその作画ぶりは、筆をなめ、思を積み、日を重ねて後成るのではなく、すべて一払の際に絵を成した。 これを得る者は珠玉にも比した」とあり、その練達振りをたたえている。 大洲藩歴代の藩主が絵をよくし、また藩中に多彩な画人を生むのも多くは彼の感化によるという。 彼の遺墨も大洲地方を中心に随分多く、今もその軽妙洒脱な筆触、格調高い画境を賞し秘蔵するものが多い。 若宮養徳 養徳は宝暦四年(一七五四)もと若宮村の紺屋幸右衛門の次男に生まれ、幼少より絵を好み、長州藩絵師文流斎洞玉について学び、一〇代藩主泰済に登用され藩絵師となる。 その後藩命により江戸に上り、木挽町狩野七代養川惟信門下に学び、師の二字をいただき、養徳惟正と号す。 文流斎は先師の号を受け継ぐという。 天保五年(一八三四)五月六日八一歳で没す。 彼の遺作は多く、中でも名刹如法寺本堂三室の大襖絵二八枚の龍・松竹梅・山水図、並びに同寺蔵の十六羅漢図、加藤家菩提寺曹渓院の布袋図大幅、彼の菩提寺西光寺本堂襖絵の雲龍、西大洲西方寺襖絵の獅子図等がよく知られ、その他民間所蔵の遺墨も多い。 それらを通じ、彼の画風は単に狩野派だけでなく緻密な仏画から北画・大和絵・南画さらに民画の大津絵風のものまで随分と幅広く、しかも健筆である。 だが、彼も狩野の絵師、その粉本主義から脱し自身の画境に徹し切れないきらいもある。 彼の子に晴徳がおり同じく木挽町狩野栄信に学び、跡を継いで藩絵師となる。 その子勝鵾幼少のため、門人勝流が養子となり藩絵師を継ぐ。 勝鵾成人後やはり木挽町狩野に学ぶが、維新の動乱にあい同門も閉鎖、高弟橋本雅邦らと一時流浪。 後狩野を脱し新傾向の四条、大和絵風を試みる。 晩年は大坂に行き、蒔絵等も試みるが、明治四〇年没し、子なく若宮家は断絶する。 彼の門人には西条藩絵師となる小林西台はじめ大橋英信・宿茂徳鄰・稲沢直正・金井南岳・菅田清惟など多くの画人がおり、幕末の愛媛美術に及ぼした影響は大きい。 3 今治藩の絵師 関ヶ原の戦功により伊予半国の領主となった藤堂高虎は慶長七年(一六〇二)今治に築城を始め、現在の城下町今治の基を開く。 今治生まれの松本山雪は、その藤堂高虎に見いだされ藩初代の絵師となる、というのが従来の通説であるが、どうも先に山雪の項でふれたごとく今治藩と山雪は直接のかかわりはないようである。 従って、今治藩の絵師はそれより時代が下り、松平三代藩主定陳が、木挽町狩野常信の弟子富元守供を江戸より招き藩絵師としたことに始まる。 続いて、同門の野村常林(了貞とも号し、伊勢山田の人)が招かれ二代目の絵師を継ぐ。 その守供・常林らの指導を受け、さらに藩命により狩野晏信門下に学んだ能島邑義(一七一二~七六)がその後を受け三代目の絵師となり、その子能島典方(一七四一~一八二九)がやはり狩野典信に学び四代目絵師を継ぐ。 つまり、今治藩は初期二代にわたり江戸より招請の絵師により狩野派を移植する。 そこに育った能島父子がそれを受け継ぎ狩野の流れは連綿と続く。 ここまでは松山・大洲両藩と余り変わらぬ状況だが、その後五代目に至り、当時の在野系、つまり写生派の絵師山本雲渓が跡を受ける。 今治藩の場合、絵師に対する待遇も軽く、かなり自由が許され、その画流・格式などには、余りこだわらなかったようである。 当時の武家社会では、桃山以来の伝統で、幕府はもとより各藩の絵師も狩野が主流で不動の組織をもち、他派のくい入る余地を与えなかった。 王朝以来の古い伝統をもつ大和絵は別格として、他の新興画流が民間でどれほど支持を受けようとも、藩の絵師は別というのがいわば当時の通例であった。 その常例にこだわらない今治藩の見識もさることながら、それを平気でやってのける雲渓という絵師の人物・画業も異彩を放っている。 山本雲渓 雲渓は安永九年(一七八〇)いまの越智郡大西町に生まれ、通称を雲平、諱を邑清、字を好徳という。 寛政一〇年ころ大坂に出て医術を修め、かたわら円山派の巨匠森狙仙について絵を学ぶ。 その後今治に帰り御典医、藩の絵師を兼ね両道で活躍し、文久六年(一八六一)五月二八日八二歳で没す。 彼の祖先は河野氏であり、彼より一〇代前天正のころ山本と名乗り、九代前の当主は了菴と号し医術に長じ名声高く、代々庄屋を勤めながら医術にも関心深い家系であった。 したがって、彼の大坂遊学は医術修業のためであろうが、絵の方も狙仙門下の俊英とうたわれ、余技の域を脱し両道の達人となる。 今治に帰省後も御典医となり、名医といわれ、藩外からの診察を請う者も多く、医療費を請求しないことからも、門前市をなしたという。 また藩絵師としての活躍も目ざましく、猿の名手の盛名はもとより、狩野派・南画あらゆる技法を駆使し洒脱放逸、前人未踏の画境を確立する。 彼の人物・性癖についての逸話も多く、その無欲恬淡、天衣無縫の奇行振りが多く語り伝えられている。 猿の名手といわれるだけに、彼の遺墨はさすがに猿が多い。 一本描といわれる精密な毛描きの描法は師匠ゆずりの特技であるが、絵はただ技法の伝授だけでは成り立たない。 彼もまた師にならい山中で三年猿と起居を共にし、つぶさにその生態を観察したという。 彼のもつ精細な観察力は、おそらく当時の医学書から学びとったのであろう。 西欧写実への開眼がなければ、あの神技といわれる独自の精密描写は不可能であったろう。 その点では、彼は正に写生派の最先鋭といえよう。 だが、彼は、単なる同派の外形描写からは脱却し、描く対象の鳥・獣・人物のあらゆるものに成り切り、それと共に遊ぶ奔放自在の境を楽しんでいる。 さらに、彼の遺墨で特筆すべきものに絵馬がある。 当時における絵馬は貴賤貧富を問わず、上下和楽の大衆芸術である。 今治地区の一五社には、今も彼の絵馬が二七点も残っており、東・中予の各社にも、彼の絵馬は圧倒的に多い。 しかも大作・力作が多く、独自の力強い描法でこれまた圧倒的な迫力をもつ。 彼は、藩の絵師としてあらゆる要請に応じると共に、町絵師としても大衆の与望に生きる人気作家であり、彼の融通無礙の生きざまが、これらおおくの絵馬によっても一層明瞭にうかがわれる。 沖 冠岳 冠岳について、『今治市誌』には「沖庸という、今治風早町に生まれる。 幼より絵を好み、山本雲渓に師事、狩野の画法を善くし、長じて後は多く江戸に住す……」と略記されている。 だが出身は土佐との説もあり、その生年もはっきりしない。 字を展親、冠岳は号であり、冠翠、冠岳樵人、蠖堂の別号もある。 明治三年奉納の浅草観音堂「四睡図」(豊干、寒山・拾得と虎がともにねむる図)の大作は広く世に知られ、今治地方の社寺に残る多くの絵馬も郷土人士に親しまれ、その盛名は雲渓と並び称せらる。 明治九年(一八七六)七月没す。 彼の遺墨は随分多く、その画域も幅広い。 絵馬などにみる狩野の筆法を加味した雄渾な作風から、晩年に多い花鳥の清新典雅な写生画に至るまで、いずれも師雲渓の画系を受け継ぐものといえようが、さらにそれを脱皮し、独自の画風で一家をなすというべきであろう。 彼が絵に志した時期は、江戸文化の最後のやまといわれる文化文政の終わりから、いよいよ幕末に突入の時代である。 かつて威勢を誇った狩野派も昔日の面影はなく、関西一円を風靡した反俗超脱の南画思潮もようやく沈静気味の時、沈南蘋の影響を受けた新様式の写生画、西洋の画風を採り入れ、より現実的な関東南画の風潮が新味をもって迎えられる時代であった。 彼が今治といういわば僻地に在りながら、どうして新時代の潮流をかぎわけ、江戸へ行くことになったか、その事情はよくわからない。 だが、彼の幅広い交友、特に江戸における著名な小山・文晁の高弟たちとのダイナミックな交友関係から推しても、東予人特有の水軍魂というべきか、その積極姿勢によるものと思われる。 ともあれ、彼は現実逃避の関西南画よりも、合理的で積極性に富む関東南画にひかれ、そこに身を挺し、あの透徹した精密描写、しかも装飾性に富む独自の画風を確立し、江戸で盛名をはせることになったといえよう。 4 宇和島藩の絵師 慶長一九年(一六一四)、仙台藩主伊達政宗の長男秀宗が宇和島一〇万石に封ぜられる。 以後、宇和島は南予の中心とし、伊予八藩の中でも特異な文化圏を形成する。 松山・今治・西条の三親藩はすべて交通至便、肥沃な土地の瀬戸内沿岸に分布し、小松の小藩を除いては、宇和島・吉田・大洲・新谷の四外様大名は、いわば僻地の宇和海沿岸段々畑地帯であり、その配置を見ても徳川幕府の大名統制策の巧妙さがうかがわれる。 仙台の伊達本家は徳川にも対抗し得る戦国大名の雄であり、その血を引く宇和島藩伊達家も伊予八藩きっての外様の雄藩である。 それが南予の風土、独自の気骨と結びつき、明治維新における倒幕の急先鋒となったごとく、他藩に見られる中央指向の穏健さに対し、一種反骨の革新気風がみなぎっている。 絵画の分野においても、中央からの狩野派移植も見られず、土佐大和絵系画人の影響を受けた三好応山・応岸父子等の、地域に根ざした風土色が目立つ。 その傾向は明治以後現代にも及び、村上天心・高畠華宵・畦地梅太郎等、特異な個性派画人を送り出すが、依然として今も反中央の在野意識は強いようである。 その後、徳川の世となり徳川方にはばかって、その画像は粗末に扱われ、現存するものは少ないが、この画像はそれら現存するもののうち最も優れた作である。 秀吉の側近伊勢の国安濃津の城主富田右近将監知信が描かせ、秀吉の文書起草に従事した鹿苑寺(金閣)の西笑承兌和尚の賛がある。 知信の没後、その嗣子である富田信高が宇和島一〇万石に封ぜられ、亡父菩提のため正眠院(いまの金剛山大隆寺)を建立し、この画像が寄進されたものと推測される。 信高改易後もその寺に伝わり、弘化四年(一八四七)に当時の藩主伊達宗城に献上、以後伊達家の所有となり、昭和一〇年四月三〇日国の重要文化財に指定される。 顔や手の部分を特に小さく表し、大和絵の技法を加味した威風堂々の作柄は凡庸でなく、作者は不詳であるが、当時の狩野派の有力作家の手になるものと推定され、秀吉画像中の白眉というべきである。 この作は愛媛美術の流れとは直接の関係はないが、長く宇和島に保存され地域の人々にも親しまれ、教科書にもしばしば掲載された著名な作であり、ここに特記する。 大内蘚圃 蘚圃は宇和島藩士野田某の子で大内氏を継ぐ。 通称を平三郎といい、幼少にして円山派森狙仙の門に入り、動物画を得意とする。 同門の今治藩絵師山本雲渓より一六歳年長である。 『南予遺香』に、彼は、「常に酒を嗜み、飲めば則ち諧謔百出頗奇行に富めり」とある。 天保一三年(一八四一)七九歳で没す。 彼の遺墨は少なく、その全容をはかりかねるが、猿に関しては師狙仙の精密描写の技法を受け継いだが、雲渓の円熟味とはまた違って、より鋭く個性的で、円山派写生の尖鋭振りがうかがわれる。 三好応山 通称三郎兵衛といい、応山と号す。 寛政四年(一七九二)宇和島本町に生まれ、家は代々町頭役、並びに紺屋頭取を勤む。 幼少より絵を好み、土佐の大和系画人春日鉄山について学び、人物画を得意とする。 二子あって長男に家業を譲り、次弟応岸に画業を継がせ分家させる。 嘉永二年(一八四九)一〇月二日、五八歳で没す。 彼の遺墨は宇和島地方にかなり多く、伊吹八幡の絵馬「高砂図」「神宮皇后図」などもよく知られ、おおらかで練達した大和絵風の画技がうかがわれる。 三好応岸 通称を又八郎といい、応岸と号す。 天保三年(一八三二)宇和島本町に応山の次男として生まれる。 幼少より絵を好み、父応山について学び、長じて応岸と号し別家する。 伊達宗徳侯の知遇を得て、しばしば絵の用命を受け、特に「月下の山犬」は絶賛を博し、三度も揮毫したという。 明治四二年(一九〇九)八月二日、七八歳で没す。 応岸の弟子に静岸がおり、応山・応岸の流れを受け、一層の土俗性を強めた画風で地域の人々に親しまれている。 5 その他の藩絵師 小林西台 西条藩は旧河野氏の血を引く外様の一柳家改易の後を受け、親藩の松平家が寛文一〇年(一六七〇)三万石に封ぜられ、以来明治まで連綿と続く。 その松平家は、徳川御三家のうち紀州家の血を引く関係で、藩主は領地西条には赴任せず、江戸定府という伊予八藩の中別格の親藩であった。 その西条藩の絵師小林西台は、寛政六年(一七九四)、藩士小林滝蔵の子として江戸に生まれる。 一七歳で九代藩主頼学のお守役となり、三六歳で御絵師を命じられ、翌年剃髪し分煕と改名、天保六年四二歳の時、藩主の西条入りのお供をし、翌年江戸に帰り文郷と改名、嘉永七年(一八五四)二月九日、六一歳で没す。 良休・鳴春・岳陽など別号も多い。 彼は西条藩絵師であり、当然伊予の画人というべきだが、江戸に生まれ、江戸に住み、一度だけ西条を訪ねたわけで、伊予との関連はまことに薄い。 松山の山雪初め今治の雲渓など他の藩絵師たちは、修業の期間中こそ京・大坂・江戸に住み、その影響下で育つが大半は伊予の地に住み、その風土になじんだ画業の形成がうかがわれる。 ところが、西台にはほとんどそれが見られず江戸狩野そのままの瀟洒な画風を伝える異色の伊予画人というべきであろう。 彼の遺墨は西条地方を中心にかなり多い。 それらをつぶさに見て歩いた久門正雄氏は、彼の作を「温雅・清潔・正直な絵である。 正直ということは或いは小心な点もあるかも知れず、また野心的ではないかも知れぬ、が、ともかく正直で、おのが画統を正しく素直に守り、その道にだけ技を磨き、他流に心を配ったり、新機軸を出そうなどとは考えなかった」と、見事にその特質をついている。 正にその通り、彼の作はいずれも流麗、練達で、狩野の筆法を誠実に踏襲している。 だが、その中にも時流である写生派の影響がかなり色濃く感じられる。 同時代の今治の画人雲渓は、その写生派を大胆に取り入れ、その先鋭らしい冒険を試みているが、西台は、それを素直に採り入れ破綻を見せないところに両者の対比がうかがわれる。 西台の子小林朴宇も絵をよくし、父の跡を受け西条藩絵師となる。 森田南涛 南涛は文化五年(一八〇八)小松藩士森田森蔵の三男に生まれ、一九歳で江戸に上り、春木南湖の門下で学び、山水・花鳥に長ず。 三八歳で小松藩絵師となり、明治五年(一八七二)没す。

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中国の絵画

書道 絵師

『葡萄図』時代 絵画の歴史は、文明の発生とともに、世界各地で自然発生的に始まった。 中国においてもにはと呼ばれる、幾何学文、人物文、動物文などの絵画を表したが製作されている。 また、「岩画」と呼ばれる、自然の岩壁に描かれた絵画もあるが、これらは原始美術の段階にとどまっており、後の中国絵画に直接つながるものではない。 ・・・には、やなどの文様に絵画的表現がみられる。 器物の装飾や墓室の荘厳を離れて、独立した絵画作品がつくられるようになるのは・時代からである。 ただし、漢時代の絵画として現存するものは、墳墓出土の帛画(絹絵)や画像石などに限られている。 画史には漢時代の画家の名前も記録されているが、これらの画家の作品は残っていない。 に入ると、(4世紀)の画家・(こがいし)の伝承作品はいくつか残っており、その画風をしのぶことができるが、現存する顧愷之画はオリジナルではなく、後世の模本である。 以後、時代までの鑑賞絵画の現存作品はほとんどが模本であり、オリジナルの絵画はなどの辺境の地に残された石窟寺院の壁画や、地下で保存されてきた墓室の壁画といったものに限定されている。 中国の絵画はその多くが絹や紙のような脆弱な素材に描かれている。 加えて、度重なる王朝の交替やそれに伴う戦乱によって、古画の多くが失われた。 画巻などの鑑賞用の小画面の絵画の他に、宮廷の殿舎や仏教寺院の壁画のような大画面の絵画も多数存在したが、これらは建物と運命を共にし、古いものは残っていない。 中国絵画史を大観的に見れば、中唐(8世紀)までは人物画・着色画が主体であり、・が主要なジャンルになっていくのはそれ以降のことである。 水墨による山水画は文人(儒教的教養と道徳とを身に付けた、知識階層の人々)によって愛好された。 こうした文人によって制作され享受された絵画を 文人画という。 文人画は時代・11世紀頃からジャンルとして確立し、時代には画壇の主流となった。 時代末の(とうきしょう)は、唐時代以来の山水画の歴史を、 北宗画(職業画家系)と 南宗画(文人画系)という2つの流れに分類したうえで、南宗画すなわちが優れたものであり、北宗画すなわち職業画家の山水画は学ぶ価値のないものだとした。 画家・書家であるとともに高級官僚でもあった董其昌の理論の影響力は大きく、文人画を優位に置き、古画の学習を重んじる風潮は次の時代にも続いた。 一方で、清時代にはそうした粉本主義に反発し、独自の個性的な画風を追求した画家たちも多数存在した。 中国絵画の受容 [ ] 『廬山観瀑図』()清時代 中国では、絵画に対する独自の考え方があった。 晩唐(9世紀)の(ちょうげんえん)の『 』は、中国絵画史の古典であるが、この本の巻一「論画六法」(「画の六法を論じる」)において、張はこう述べている。 「古より画を善くする者、衣冠貴冑、逸士高人にあらざるはなし。 (中略)閭閻鄙賤のよくなす所にあらざるなり」。 つまり、「絵画とは、生まれ育ちがよく、人格高潔な君子のたしなむものであって、身分のいやしい者には優れた絵は描けない」ということである。 このように、絵画には、それを描く人の人品が反映するという伝統的な考え方があった。 また、同書巻一で張彦遠は、言葉を表現材とする「記伝」や「賦頌」には絵画とは異なり「容」「象」などといった「形」を表現する機能が欠けているとの認識を語り、陸機の「物を宣ぶるに言よりも大なるは莫く、形を存するに画よりも善きは莫し」と言と画との異なる点を指摘した文を引用している。 これらの言葉に象徴されるように、古く中国では絵画は基本的に「形」「象」「容」といった客観世界の事物の形象、映像を描写再現する「存形」の芸術であるとみなされていたようである。 中国には「 詩画一如」「 書画同源」という伝統的な考え方がある。 すなわち、「詩」と「絵画」とは切り離せない密接なものであり、「書」(書法)と「絵画」とは本来同じ根から発しているという考えである。 中国において詩と絵画を比較して両者の間に類縁性、同質性を認めるこのような考え方が確立し広く浸透するのは宋代であるが、宋代以前にも詩と絵画を比較しつつ両者の同質性を指摘する文も少なからず存在した。 ただし、「絵画」「書道」「文学」という、本来異なる芸術を同一ジャンルに属するもののようにみなす伝統的絵画観に対しては批判的意見もある。 (日本人の中国絵画研究者)は、こうした伝統的絵画観には「絵画の理解と分析を永く誤らせた」負の部分があり、それが「(中国の)絵画史を近代の学から離反させた遠因ともなっている」と述べている。 中国絵画は周辺国の文化にも強い影響を与えてきた。 中でも日本では、為政者、僧侶、文人、茶人らによって中国絵画が愛好され、多くの中国絵画が輸入されてきた。 しかしながら、古い時代に日本に輸入され愛好されてきた中国絵画は必ずしも絵画史の本流の作品ではなく、特定の地域や作風のものに偏っており、このことが日本における中国絵画受容のあり方を特異なものにした。 日本で「唐絵」として珍重された宋・元時代の中国絵画の中には、中国の画史には名前さえ出てこない無名の地方画家の作品や、禅僧の余技画などが多数含まれている。 前出の鈴木敬は「日本に伝存した〔中国画の〕遺品の種類が極度に偏っていること、日本人のみが中国画を理解できる唯一の外国人であるという自負が、日本人による研究を狭小なものにし、視野狭窄に陥れた」と指摘している。 第二次大戦後は、欧米においても中国絵画の研究が盛んになり、中国、日本、欧米の研究者らによる国際的な研究が進みつつある。 の中国美術研究者・オズワルド・シレン(1879 - 1966年)は、1956年に大著 Chinese Paintingを出版している。 これを嚆矢として、のシャーマン・E・リー(1918 - 2008年)やジェームズ・ケーヒル(1926 - 2014年)らが中国絵画研究に大きな業績を残した。 アメリカにはいくつかの大規模な中国絵画コレクションがあり、中でもにある前出のシャーマン・E・リーのコレクションと、のにあるローレンス・シックマン(1907 - 1988年)のコレクションが名高い。 中国における伝統的絵画観 [ ] 『』(部分、元時代)(台北故宮博物院) 絵画の効用 [ ] 『』の著者・(9世紀)は、同書の巻一「叙画之源流」(「画の源流を述べる」)において、絵画の効用を次のように述べている。 夫れ画なるものは、教化を成し、人倫を助け、神変を窮め、幽微を測り、六籍と功を同じくし、四時と幷(なら)び運(めぐ)る。 天然に発し、述作によるにあらず。 (大意)絵画というものは、人を正しい道に教え導き、世界の神秘を見通し、儒教の六つの古典と同じ功があり、四季とともにめぐるものである。 自然に発するものであって、人の作為によるものではない。 このように、絵画には勧戒(勧善懲悪)の社会的効用があると考えられていた。 詩書画一致 [ ] 中国においては、長い歴史のなかでさまざまな分野の芸術が栄えたが、中でも南北朝時代(六朝)の書、唐時代の詩、宋時代の絵画はその頂点をなしている。 中国の絵画は書とともに、その内容、形式、表現方法の点で、他の文化圏とははっきり異なった独特の発達をとげてきた分野である。 中国の伝統的価値観では、造形芸術を代表する分野は「書」と「画」であり、今日、世界的に評価の高いや仏像彫刻などは、美術というよりは工芸品の範疇に属するものであった。 そもそも、「美術」という漢語自体が、近代以降、日本から中国へ逆輸入された語であり、近代以前の中国で「美術」に相当する語は「書画」であった。 中国絵画は文学や書との縁が深く、山水画の余白や画巻の巻末に絵の内容と関連する詩や文章(題賛、題跋)が書き付けられていることがしばしばある。 西洋の絵画観では、絵画の余白に詩や文を書き込むということは、絵画の表現を詩や文が補っているということになり、造形芸術としての絵画の純粋性の放棄ということになりかねないが、中国の伝統絵画は西洋絵画とは全く異なった歴史的・文化的背景、異なった原理に基づいて制作されている。 中国には「 詩書画三絶」という言葉があり、詩作、書道、絵画の3つに通じていることは文人の理想であった。 中国の文人には、親しい友人の旅立ちや再会など、機会あるごとに詩を作り、贈り合う習慣があった。 題画詩(絵画の内容を表した詩)は詩の重要なジャンルであり、山水画や花鳥画には、しばしば同じ画面上に題画詩が書かれ、詩書画の3者が一体となって鑑賞された。 北宋の文人(そしょく)は、(唐の画家・詩人)の画を「味摩詰之詩、詩中有画;観摩詰之画、画中詩有 王維の詩を味わって読むとその中には画があるようで、王維の画をよくよく観るとその中には詩があるかのようだ 」と評した。 蘇軾はまた「少陵の翰墨は無形の画、韓幹の丹青は 語らざる詩」と言っている。 「少陵」は唐代の詩人・の号、は唐代の画家、「丹青」(赤と青)は絵画を意味し、前述の蘇軾の言葉は「杜甫の詩は無形の画であり、韓幹の絵は無言の詩である」という意味である。 また蘇軾は「画を論じるに形似を以てするは、見児童と隣す。 」と述べ、絵画は「形」や「物」にとらわれるのではなく「意」や「情」をこそ表現するべきだとした。 これに対し、は詩と絵画の関係を論じて「画は物外の形を写すも、物の形の改まざるを要する」と言い、絵画とは対象物の「形」を超えた「形」を描くものであるが、対象物の「形」を写し損なってはならないとし、「形似」の重要性を指摘している。 一方では、蘇軾は「形似」を超えたところに詩画の価値を見出そうとしており、「形似」を完全に否定しているのではなく「形似」のみに固執することを否定しているに過ぎないと述べる。 また、中国では「 書画同源」ということがしばしば言われる。 中国の文人にとって、書(文字)と絵画とは、絹(または紙)、墨、筆という同じ用具を使って制作する「線の芸術」であり、文人画家は書の筆法をもって墨竹、墨梅などの絵画を制作した。 (べいふつ、宋)、(ちょうもうふ、元)、(じょい、明)、(とうきしょう、明)のように、画家としても書家としても高名な人物は数多い。 張彦遠は『歴代名画記』の中で「書と画とは同体異名であり、そもそも文字の起源は象形、つまり画であった」 と言っている。 元時代の文人画家・趙孟頫は「書画同源」を明確に主張し、こう述べている。 「石は飛白の如く、木は籀(ちゅう)の如く、竹を写しては書の八法に通じるべし」。 「飛白」とはかすれた線を用いる書体の一種、「籀」とは大篆(だいてん)とも称する、古代の金石文にみられる書体のことで、「石を描くときは飛白のようなかすれた線で描き、木を描くときは大篆のような線で描き、竹を描くときは『はね』『払い』などの書の八法を用いるべきだ」ということである。 「画の六法」と気韻生動 [ ] 中国絵画においては伝統的に「 気韻生動」ということが重視されている。 「気韻生動」とは南北朝時代・の(しゃかく)が著書『』において唱えた、画の「六法」(りくほう)の第1番目に出てくる語で、「気韻」は「生命力」「人を感動させる力」「すぐれた精神」「風格」などと訳されている。 この「六法」は、後世の絵画制作や画論にも強い影響を与えた。 謝赫のいう「六法」とは、「気韻生動」「骨法用筆」「応物象形」「随類賦彩」「経営位置」「伝移模写」(伝模移写とも)の6つである。 「骨法用筆」とは、描法や運筆がしっかりしていること、「応物象形」、「随類賦彩」、「経営位置」とは、それぞれ、物の形を正しく写すこと、ふさわしい色彩を施すこと、構図や構成がしっかりしていることであり、「伝移模写」とは伝統に学ぶことを指す。 つまり、絵画においては運筆、形体、彩色、構図がしっかりしていることや古典に学ぶ姿勢も大切であるが、そのうえに「気韻」が生き生きとしていなければならないということである。 「六法」のうち2番目の「骨法用筆」以降は実際の絵画制作にかかわる具体的な指針であるが、1番目の「気韻生動」のみは何を指しているのかが曖昧で、「気韻」に関してはさまざまな解釈がある。 なお、以上のような「書画同源」「気韻生動」を中国絵画の特質として過度に強調することに対しては懐疑的な意見もある。 「気韻生動」という句自体の意味について、謝赫自身は何も説明していない。 古原宏伸は、「気韻」に代わるべき新しい用語や概念が生み出されないまま、「気韻」という曖昧でいわくありげな語が後世に拡大解釈され、新たな意味が付加されたものであろうという。 中国絵画の特質 [ ] 夜景図の例 『秉燭夜遊図』 中国絵画と西洋絵画の表現方法の相違 [ ] 中国絵画は、空間や光の捉え方、表現方法の点で、西洋絵画とは根本的な相違がある(本節でいう「中国絵画」「西洋絵画」とは、19世紀以前の伝統的な画法によるそれらを指す)。 西洋のルネサンス以降の絵画は、とに基礎があった。 透視図法(線遠近法)は、画家の視点を一点に定め、画面の中の特定の一点(消失点)に向けてすべての線が収斂し、近くのものは大きく、遠くのものは小さく描く技法である。 明暗法とは、画中の事物を照らす光源(たとえば窓から入る陽光)を特定し、光の当たる面は明るい色で、陰になる部分は暗い色で描く技法である。 一方、中国の画家たちは、人物や自然を観察して、それを画面に表すという点では西洋の画家と同じだが、表現のしかたが異なっていた。 中国絵画にも遠近表現はあり、北宋の画家・(かくき)はそれを「 三遠の法」といった。 「三遠」とは 高遠(仰角視)、 平遠(水平視)、 深遠(俯瞰視)の3つをいうが、中国の山水画では、近景の岩は俯瞰視、遠景の山は仰角視で描くなど、同じ1枚の絵の中に複数の異なった視点が共存することが珍しくない。 西洋絵画では、海、川、湖などの水面を描く場合、水面に映る樹木、山、船などの投影像を目に見えたとおりに描くのが普通である。 しかし、中国絵画ではこうした水面への反映を描き込むことはまれである。 中国絵画では影を描く習慣がなく、事物の色彩は固有色をもって表され、事物の光の当たっていない側を暗い色で描くという習慣もなかった。 西洋絵画で夜景を描く場合、照明の当たっている部分以外は暗く描くのが普通だが、中国絵画の夜景は昼間の光景と同じ色(固有色)で表され、それが夜景であるということは夜を示す事物、たとえば、月、燈火、ろうそくの火などを画中に描き込むことによって表現した。 中国の画家にとって、絵画とは、自然を目に見えたそのままに再現することではなく、対象の本質を描くことであった。 元時代の文人画家・は「画は意を表現するものだ」と言ったが、この「意」とは、対象の本質にほかならない。 画家は、水面に映る投影が実態のないものであり、本質的でないと考えれば、あえてそれを描かなかったのである。 人物画については「伝神」ということが言われる。 この「神」はGodの意味ではなく、人物の内面的性格、精神という意味であり、人物画は人物の外見を似せて描く(写貌)だけでなく、その内面を写す(伝神)ものでなければならないとされる。 (中国絵画)伝・『韓熙載夜宴図』(部分) 夜の室内という設定だが、光源は不明。 陰影や明暗の表現はなく、人物・事物は固有色で描かれる。 文人画 [ ] 中国の文化、特に宋時代以降の文化は、文人、士人、(したいふ)と呼ばれる人々がリードした文化であった。 中国絵画史、特に宋時代以降のそれは、文人・士大夫が自ら筆をとり、享受した絵画、すなわち文人画が重要な位置を占める。 文人とは、儒教的価値観を基盤にした教養と道徳を身に付けた知識層のことである。 そのなかで、高級官僚の地位にある人々を士大夫と尊称した。 彼らは官吏登用試験である科挙に合格したエリート層であって、一般庶民とははっきり区別されていた。 むろん、文人画家以外に、宮廷画家や民間の職業画家も存在したが、明末の董其昌(とうきしょう)のような理論家は、文人画を上位に置き、職業画家の絵画は、たとえ技巧の点で優れていても、文人画よりは一段価値の下がるもの、学ぶ価値のないものと見ていた。 こうした文人画の主流は、ジャンル的には山水画であり、技法的には絹(または紙)に墨一色で描かれた水墨画であった。 山水画 [ ] (水墨山水画)謝縉『雲陽早行図』() 中国絵画のジャンルには山水画、花鳥画、人物画、走獣画、道釈画(宗教絵画)などがあるが、長い中国絵画史のなかで特異な位置を占めるのが山水画である。 「山水画」は、字義どおりには「山」と「水」(川や湖水)を描いた絵画という意味であるが 、英語ではlandscape painting すなわち「風景画」と訳されている。 西洋の伝統的な絵画観では、絵画のジャンルの中で歴史画や宗教画、すなわち、聖書、古代神話、歴史上の事件などを題材にして構想された絵画がヒエラルキーの上位にあり、静物画、風景画などは下位のジャンルであった。 ルネサンス期においては、歴史画などの背景として風景が描かれることはあっても、風景自体が完成画の主題となることは考えられなかった。 これに対して中国絵画においては、山水画、それもモノクロームの水墨山水画の占める位置が非常に大きい。 ただし、中国絵画は最初から水墨山水が主体だったわけではない。 唐時代までの絵画は人物画が中心で、山水画も「青緑山水」という彩色画であり、水墨画はむしろ後発の技法であった。 南朝のの(そうへい)には『画山水序』という著作があり、南北朝時代にはすでに山水というジャンルがあったことがわかるが 、山水画が中国絵画のヒエラルキーの上位に位置づけられるのは宋時代のことである。 宋時代以降、文人士大夫(ぶんじんしたいふ)、すなわち、儒教的教養を備え、科挙に合格したエリート官僚が中国文化の主たる担い手となったことは、山水画の隆盛と大きく関係している。 中国の文人には伝統的に老荘思想に基づく隠逸への志向があった。 文人にとっての山水画とは、単なる風景画ではなく、彼らが理想とした、俗世間を離れた理想郷を表したものであった。 アメリカの中国絵画研究者は、著書『中国山水画の誕生』の序文において「中国の山水画家は、ただたんに自然の外観や目に見える姿を描写しているのではなく、自然に内在する生命と自然を支配する調和をも描写しているのである」「中国の山水画は、岩や木、あるいは山や川ということばをとおして語られた中国人の人生観そのものにほかならない」と述べている。 山水画には山や川だけでなく、しばしば点景人物や楼閣が描かれる。 そうした人物の多くは旅人であり、独り舟を浮かべる漁師であり、あるいは侍者を伴った高士である。 画中に描かれる楼閣は、画中の道を歩む高士の向かう目的地と、そこでの風雅な生活を暗示する。 山水画にしばしば描かれる漁師は単なる労働者ではなく、隠者の象徴としての意味があり、何ものにもとらわれない自由な境地を表している。 俗世間を離れ、静かな山水に囲まれて詩作にふけり、琴を弾じ、友と酒を酌み交わし清談(俗世間と離れた高尚な議論)にふける生活は、文人士大夫の理想とするものであった。 中国絵画理解のための基本語彙 [ ] 工筆花鳥画の例 呂紀『杏花孔雀図』(明時代) (以下に説明した語句については、本文解説中では注釈を省く。 丹青(たんせい) - 字義は「赤と青」のことであり、転じて「色彩」「絵画」の意で用いられる。 用筆と用墨 - 唐末・五代の山水画家(けいこう)は、自著『筆法記』において、「自分は、呉道子の用筆と項容の用墨の長所を取り入れて、自己の山水画様式を確立した」という意味のことを述べている(呉道子と項容はいずれも唐代の画家)。 ここでいう「筆」とは筆線、線描のことであり、「墨」とは水墨の「にじみ」や「ぼかし」を生かした技法のことを指す。 工筆画と写意画 - 主として、花卉画について用いられる概念である。 工筆画は主として彩色画で、対象の輪郭線を精密に描き、その内側を彩色で埋めていく方式である。 対する写意画とは、対象の外形を精密に再現しようとするものではなく、対象の「意」(本質、精髄)を描こうとするもので、色彩を用いる場合もあるが、水墨技法を主体とする。 一例として、蘭の葉を描く場合、工筆画であれば葉の表側、裏側を精密に描写するが、写意画では葉のねじれている部分で描線が途切れてしまう場合がある。 写意の花卉画の名手としては徐渭(じょい、明)、陳淳(明)などが知られる。 白描(はくびょう) - 墨一色で描く技法の一種であるが、「水墨画」とは異なり、もっぱら線描(輪郭線)のみをもって描写する技法。 白描画の名手としては呉道玄(唐)、李公麟(宋)などが知られる。 界画(かいが) - 楼閣、船などを定規を用いて正確に描写した画のこと。 定規が墨で汚れないように、筆に断面半円形の筒をかぶせて定規に当て、線を引く。 元の郭忠恕、明の王振鵬などが名手として知られる。 鉤勒填彩(こうろくてんさい) - 対象の輪郭線を描き(鉤勒)、その中を彩色で埋める(填彩)画法。 没骨(もっこつ) - 上述の鉤勒填彩とは対照的に、輪郭線を用いず、面によってものの形を表す技法。 溌墨(はつぼく) - 水墨画の技法の一つだが、具体的にどのような技法であるかについては諸説ある。 「溌」は「墨を注ぐ、はね散らす」ということで語義どおりには大量の墨を注いで描く技法ということになる。 『唐朝名画録』には王墨という人物が溌墨技法で作画したエピソードが紹介されている。 王墨とは「墨の王さん」という意味で、本名ではなく、他書では「王黙」「王洽」と表記している。 王墨は素性不明の人物だが、酔った勢いで、筆の代わりに手足を使って墨をこすりつけたりして、偶然にできた墨の形から山水や風雨を描き出し、その見事さは神業のようであったという。 このエピソードによれば、墨を注いで偶然生じた形をもとに山水樹木などを描く技法ということになる。 破墨(はぼく) - 『歴代名画記』に「破墨」の語があり、王維がこの技法を使用していたことがわかるが、具体的技法や「墨を破る」の語義については諸説あり明確でない。 また、上述の「溌墨」としばしば混同される。 一般的には、淡墨と濃墨の両方を用いて変化をつける技法と解釈されている。 焦墨(しょうぼく) - 水気の少ない、黒色の濃い墨を指す。 渲染(せんせん) - 填彩のように平面を一様に塗るのではなく、水気を多く含んだ墨または色をにじませて濃淡を表す技法。 (しゅんぽう) - 「皴」の原義は「ひび」「しわ」のことだが、転じて中国画において山や岩の輪郭や表面のごつごつ、ざらざらとした感触を表す画法のこと。 以下に例示するようなさまざまな種類がある。 斧劈皴(ふへきしゅん) - 皴法のうち、斧で断ち割ったような硬い感じを表すもの。 筆を画面にしっかり押し付け、斜め下方に引くようにして表す。 披麻皴(ひましゅん) - 麻皮皴(まひしゅん)ともいい、「麻の繊維をほぐしたような皴法」という意味。 五代・北宋の江南山水画(董源など)において、山の輪郭を複数の線を重ねて描き、柔らかい感じを出すために用いられている。 雨点皴(うてんしゅん) - 雨粒が土塀に次々と当たって、土塀の色を変えていくような感じを表すもので、逆筆(下から上へ)の短いタッチを重ねていくもの。 北宋山水画の代表作である『谿山行旅図』(北宋・范寛)に用いられている。 折帯皴(せったいしゅん) - 順筆で水平に筆を動かした後、下方に直角に払うもので、元末四大家の倪瓚(げいさん)の山水画に効果的に用いられている。 米点(べいてん) - 北宋の米芾(べいふつ)・米友仁父子の創始とされる技法で、輪郭線を描く代わりに、筆の腹を使い、横長の楕円形の点を描き連ねて山などを表す技法。 点苔(てんたい) - 岩上の苔、山上の樹木などを表すために細かい点を打つ技法。 擦筆(さっぴつ) - 半渇きの筆を側筆でこすりつけるようにして描く技法。 上述の皴法と併せて「皴擦」(しゅんさつ)ともいう。 三遠法(さんえんほう) - 北宋の郭煕(かくき)の『林泉高致』にみえるもので、高遠、平遠、深遠の3つの遠近法を指す。 高遠は山を麓から見上げてその高さを表すもので、仰角視にあたる。 平遠は近くの山から遠くの山を望み見るもので、水平視にあたる。 深遠は「山の前から山の後を窺うもの」で、やや難解であるが、俯瞰視と解釈するのが一般的である。 花卉翎毛画(かきれいもうが) - 「卉」は草、「翎」は鳥の羽、「毛」は獣の毛の意味で、全体として草花鳥獣画という意味。 仕女図(しじょず) - 仕女とは宮中に仕える女性の意だが、「仕女図」は「美人図」とほぼ同義。 折枝画(せっしが) - 字義は「折り取った枝」の意だが、「折枝画」とは、花木の全体の姿ではなく、一つの枝のみをクローズアップして画題としたもの。 道釈画(どうしゃくが) - 道釈人物画ともいう。 または関係の人物(羅漢など)を描いた宗教画をさす。 (三遠)『早春図』中央・高遠、左奥・平遠、右奥・深遠 主な画史・画論書 [ ] 中国では、南北朝時代以降、各時代にさまざまな画史や画論書が著された。 以下にその代表的なものをいくつか挙げる。 『古画品録』 - 南斉・(しゃかく、5世紀後半)の著。 本書の序にある「画の六法(りくほう)」は著名で、六法の第一に挙げられた「気韻生動」という考え方はその後の中国絵画に多大な影響を与えた。 『』 - (ちょうげんえん、815頃 -? 年)の著。 大中元年(847年)の序があり、会昌元年(841年)までの絵画を対象にしている。 著者による絵画論と、太古以来、会昌元年に至る372名の画人伝とを集成した全10巻の大著で、中国絵画史研究に必須の文献である。 『唐朝名画録』 - 唐・朱景玄(787頃 -? 年)の著。 122名の画家を「神、妙、能、逸」の4品等に区分して論評する。 中でも呉道玄(呉道子)については「神品の上」に位置するものとして絶賛している。 『図画見聞誌』(とがけんもんし) - 北宋・郭若虚(生没年不明)の著。 『歴代名画記』が会昌元年(841年)までの絵画を対象にしていたのを引き継ぎ、同年から北宋の熙寧7年(1074年)までの画家730人の評伝を載せる。 『画継』 - 南宋・鄧椿(生没年不明)の著。 『歴代名画記』、『図画見聞誌』を継いで、熙寧7年(1074年)から南宋の乾道3年(1167年)までの画家119人の評伝を載せる。 『宣和画譜』 - 北宋8代皇帝・徽宗の収集絵画目録。 先史時代の絵画 [ ] 彩文土器 旧石器時代(馬家窯文化) 時代の概観 [ ] 中国の絵画の歴史は、漢代や魏晋南北朝から説き起こす場合もある。 鈴木敬は、主著『中国絵画史』において「中国の絵画史を何れの時、時代から叙述すべきかは、著者の絵画観と史的認識にかかわっている」と述べている。 世界各地の先史文明にみられるような自然発生的な絵画表現は、四大文明の1つである中国文明においてもみられる。 現代の中国にあたる地域では、ヨーロッパにみられるような旧石器文化にさかのぼる壁画は発見されていないが、新石器時代には彩文土器(彩陶)が作られ、筆と絵具を用いた絵画的表現が始まっていた。 彩文土器 [ ] 彩文土器は、土器の表面に幾何学文、人物文などを描いたもので、黄河流域や西北部の甘粛地方を中心に中国各地で出土する。 最初期の土器には筆描きによる装飾はいまだ見られず、彩文土器が現れるのは新石器時代中期以降である。 彩文土器を伴う文化としては、黄河中・上流域では(・)、甘粛地方では(または甘粛仰韶文化、・)、黄河下流域では(・)がある。 仰韶文化は(西安郊外)を標識遺跡とする半坡類型(4000年BC頃)と廟底溝遺跡(河南省)を標識遺跡とする廟底溝類型(3300年BC頃)に分かれる。 半坡遺跡は彩文土器で知られるが、出土した土器の大半は粗陶で、彩文土器は全体の5%ほどであった。 甘粛地方のは、馬家窯類型(3000年BC頃)、半山類型(2600年BC頃)、馬廠類型(2200年BC頃)に分けられ、彩文土器の出土を特色とする。 黄河下流域の大汶口文化(4000 - 2300年BC頃)は山東省泰安市の大汶口遺跡を標識遺跡とし、初期には紅陶が中心だが、彩文土器もある。 岩画 [ ] また、制作年代は必ずしも明らかでないが、、、などでは、自然の岩壁に彩色や線刻を施した「岩画」が発見されている。 岩画はおもに中国西北部・西南部などの辺境に遺存しており、甘粛省の黒山岩画、雲南省の滄源崖画などが著名である。 新疆、甘粛などの西北部の岩画が刻画主体であるのに対し、雲南など西南部の岩画は彩色が主体である。 ただし、これらの岩画は素朴な作風のものであり、後の中国絵画に直接つながる要素は見出せない。 殷〜戦国時代の絵画 [ ] 時代の概観 [ ] 歴史時代に入って、(商)、(西周)、については、広大な宮殿建築を飾った壁画や帝王の肖像画などの存在が史書には記されているが、それらの実物は残っていない。 この時代の文物として残るものは基本的に出土品であり、青銅器などの装飾に絵画的表現がみられるが、独立した絵画の遺品はほとんどないのが実状である。 この時代を象徴する文物である殷周の青銅器の表面を覆い尽くすように表された文様は、龍、鳳凰、鳥など、架空のもの、実在するものを含めた動物をモチーフにした、奇怪で神秘的なものである。 これらの青銅器の多くは祭器であり、祭政一致の奴隷制社会であった当時において、これらの器は重要な意味をもっていた。 戦国楚墓の帛画 [ ] の作品としては、にある楚の墓から、副葬品の帛画(はくが、絹布に描かれた絵)2点が出土している。 この帛画は死者の魂が天に昇ってに至ることを祈念するための幡(はた)として制作され、墓室に副葬されたものである。 2点の帛画は別々の墓から出土したもので、『人物龍鳳図』および『人物御龍図』と名付けられている(以上の題名は参考文献によって若干異なる)。 前者は横向きに立つ女子の頭上に様式化された龍と鳳を描き、後者は男子が龍に乗る姿を描く(「御龍」の「御」は馬などを操る意)。 これらの図は死者の魂が霊獣である龍鳳に導かれて天すなわち仙界に上る様子を表したものである。 この帛画の人物や霊獣は、墨の線で描かれたうえに着色されており、絹・墨・筆という道具を用いた絵画としては中国で最古の遺品である。 秦漢の絵画 [ ] 馬王堆帛画 時代の概観 [ ] この時代には青銅器、陶器、漆器などのさまざまな文物があるが、絵画の遺品はあまり多くない。 唐・(ちょうげんえん)の『』には何人かの漢代画人の名が登場するが 、これらの画家たちの作品は現存せず、漢代絵画の実態をうかがうことのできる遺品は、帛画、漆絵、墓室壁画、画像石・画像磚(せん)などの出土品である。 画像石・画像磚は、墓室や祠堂などの壁面を浮彫や線刻画で飾っていたもので、磚は土を焼いたもの(材質的には瓦と同じ)である。 漢代画像石・画像磚の遺品は多数あるが、山東武梁祠画像石(などの故事を表す)や四川の画像磚の『弋射収穫図』(よくしゃしゅうかくず)などが著名である。 長沙にある前漢の(ばおうたい)一号墓からは、彩色の帛画や、彩絵を伴う木棺が出土している。 馬王堆漢墓出土品 [ ] 肉筆画の遺品としては、馬王堆一号墓から出土した帛画(絹絵)がある。 これは軑侯利蒼(たいこうりそう)という人物の妻の墓の棺蓋に置かれていたもので、縦約2メートル、横約90センチの縦長の画面に、上から天界、人間界、冥界を表す。 天界の部分には太陽と月があり、人間界の部分には双龍が璧(へき、玉器の一種)にからんだ図を左右対称的に表し、これらの間には天界へ昇ろうとする軑侯利蒼の妻の姿を表す。 同墓から出土した4重の木棺にも黒漆地や朱漆地に雲気文や霊獣文を表した彩画がある。 画像石・画像磚 [ ] 絵画に類する遺品として、画像石・画像磚がある。 画像石は、地下の墓室や地上の祀堂の壁面を構成していた石材に浮彫や線刻で画像を表したもので、各地から出土するが、山東、河南、四川の各省からの出土が比較的に多い。 画像磚は、画像石と同様の用途のもので、磚、すなわち土を焼いて作った煉瓦質のものである。 これも各地から出土するが、四川省出土のものが著名である。 制作年代は画像石、画像磚ともに後漢時代に集中している。 画像石では山東省嘉祥県の武氏祠の歴史故事を浮彫にしたものが著名である。 画像磚では四川成都出土の、当時の生活状況を素朴なタッチで描いた『弋射(よくしゃ)・収穫図』が知られる。 これらの作品では、個々のモチーフは的確に描写されているが、モチーフの配置のしかたは並列的、説明的で、立体的な空間表現はあまり意識されていない。 司馬金龍墓漆画 時代の概観 [ ] 魏晋南北朝は華南・華北の双方で多くの勢力が興亡した動乱の時代であったが、文化的には実りの多い時代であった。 絵画の分野では、東晋の(こがいし、4世紀半から5世紀初の人)をはじめ、著名な画家や理論家が出た。 仏教はからを経由して、後漢時代(紀元1世紀)には中国に渡来していた。 南北朝時代には造寺造仏が盛んとなり、などの都市には多くの仏教伽藍が軒を連ねた。 しかし、当時の木造寺院はすべて姿を消し、それらを飾っていた壁画も現存していない。 当時の仏教遺跡として残るのは破壊をまぬがれた辺境の石窟寺院で、甘粛省敦煌の、西域のにはこの時代の壁画が残っている。 この時代には寺院や墓室の壁画などの大画面の絵画に加え、鑑賞用の画巻形式の絵画が制作されるようになった。 顧愷之は人物画、山水画に優れ、『論画』等の著作を残した理論家でもあり、後世への影響が大きい。 他に(そうふこう)、陸探微(りくたんび)、張僧繇(ちょうそうよう)などの画家の名が今日に伝わり、この時代に至ってようやく、個々の画家の名前とともに絵画史が語られることになる。 ただし、現存する顧愷之画はすべて後世の模本であり、その他の画家については画史に名前とエピソードが残るのみで、作品については模本や伝承作品さえも現存しない。 この時代には謝赫(しゃかく)の『古画品録』、宗炳(そうへい)の『画山水序』などの画論が著され、宗教や歴史から独立した芸術分野として絵画が論じられるようにもなった。 『古画品録』の序文にある画の「六法」(りくほう)、なかでもその第一番目の「気韻生動」という概念は、中国絵画制作・鑑賞の基本原理として、後世まで大きな影響を与えた。 主要な画家 [ ] 顧愷之(生没年不明)は、東晋の画家。 の出身で、生没年には諸説あるが、4世紀後半から5世紀初めにかけて活動した。 真蹟は残っていないが、『女史箴図巻』(じょししんずかん、)、『洛神賦図巻』などの伝承作(後人の模本)がある。 人物画のほか、山水画もよくしたと伝えるが、顧愷之の山水画とされるものは残っていない。 伝・顧愷之画は線描が主体で色彩は淡い。 彼の線描は後世の画論書において「春蚕吐糸」(しゅんさんとし、春の蚕の吐く糸)、あるいは「高古遊糸描」などと評された。 彼は理論家でもあり『画論』などの著書がある。 陸探微(生没年不明)は、の人で、南朝の宋のからの時代(5世紀)に活動した。 顧愷之とともに「顧陸」と称され、謝赫の『古画品録』(「画の六法」を説いた書物)では「第一品」とされている。 当代の一流画家で、人物画をよくしたというが、作品は伝わらない。 張僧繇(生没年不明)は、6世紀頃の南朝・梁の人。 作品は現存しない。 各種の画題を描いたが、中でも仏教画を得意とした。 以下に述べる「画竜点睛」の故事で知られる画家である。 張僧繇は、金陵の安楽寺に4匹の白龍の絵を描いたが、龍に瞳を描かなかった。 「瞳を入れると龍が飛び去ってしまうからだ」と張は言ったが、人々は本気にしなかった。 そこで張が2匹の龍の瞳を描き入れると、たちまち稲妻が起こって壁をこわし、2匹の龍は飛び去ってしまった。 しかし、張が瞳を入れなかった残り2匹の龍はそのまま壁に残っていたという話である。 その他の絵画作品 [ ] 南京西善橋磚築墓(なんきんせいぜんきょうせんちくぼ)は、南朝の墓の墓室の南北の壁に表されたものである。 画題は『高逸図』とされ、樹木の間に思い思いのポーズで座す8人の人物(南壁・北壁各4人)を描く。 これらの人物は竹林の七賢人と栄啓期の計8人である。 壁は小さい磚(煉瓦)を積み上げて築かれたもので、磚の表面に浮き出した線によって図柄が表されている。 各磚の側面には番号が振られており、磚を窯で焼いた後、番号順に組み立てたものである。 図柄は簡素だが、人物や樹木を表す線は流麗である。 司馬金龍墓漆画(しばきんりゅうぼしつが)は、郊外にあるというの貴族の墓から出土したもの。 木製の屏風を4段に区切り、色漆で人物を描いたもので、今も当時の色彩が残る。 図柄が残るのは屏風全体のごく一部のみではあるが、北魏時代の漆工芸の資料として貴重であるだけでなく、当時の彩色絵画の遺品としても貴重である。 (とんこうばっこうくつ)は4世紀半ばの開窟であるが、現存する壁画は5世紀以降のもので、唐を経て北宋時代まで壁画制作は続いている。 北朝に属する壁画は、最古の様式を示す275窟()のシビ王本生図(ほんじょうず)のほか、257窟(北魏)の鹿王本生図、428窟()の薩埵太子本生図(捨身飼虎図)、285窟(西魏)の得眼林故事などがある。 これらの絵画では、「鉄線描」という肥痩や打ち込みのない線と濃い隈取りが用いられている。 薩埵太子本生図に表される山や樹木の描法は素朴で、山や樹木と人物の大きさの比例は考慮されていない。 様式的には中国伝統様式よりもインドの影響が濃い。 章懐太子(李賢)墓 宮女図 時代の概観 [ ] 短命王朝のを経て、時代には国際色豊かな文化が花開き、後世に名を残す詩人、書家、画家を多数輩出した。 (呉道子)をはじめ、多くの画家の名が伝わるが、この時代の絵画も原本の伝わるものは少なく、墓室壁画や工芸品の装飾などを除くと、唐時代の絵画とされるものの大多数は後世の模本である。 呉道玄(7世紀末から8世紀半ば)は盛唐期、に重用され、後世「画聖」と呼ばれた伝説的画家である。 人物画、仏画に優れ、自在な線描を駆使し、両京(と洛陽)の多数の寺院に壁画を描いたことが記録に残り、数々の伝説的エピソードを残すが、その真蹟は現存しない。 山水画が主要なジャンルとなる宋以降と異なり、この時代においては人物画が主体であった。 山水画は南北朝時代には存在していたが、唐代に至って独立したジャンルとして発展した。 山水画では(りしくん)・(りしょうどう)の父子、(おうい)が著名である。 明時代の董其昌(とうきしょう)は、山水画を南宗画(文人画系)・北宗画(職業画家系)の2つの流れに分けて論じ、李父子を北宗画、王維を南宗画の祖とみなした。 李父子は青緑山水画の名手とされ、詩人でもある王維は文人画・水墨山水画の祖とされているが、王維画の真蹟は現存せず、彼を水墨山水の祖とするのは後世の誤りだとする説もある。 この時代には多くの画論が書かれたが、なかでも晩唐の張彦遠(ちょうげんえん)の『歴代名画記』は、現存作品の乏しい唐時代以前の絵画史を知るうえで貴重な資料で、現代に至るまで多くの研究者により引用されている。 主要な画家(人物画系) [ ] (7世紀末 - 8世紀前半)は、呉道子(ごどうし)とも呼ばれ、唐時代を代表する伝説的な画家である。 画名はきわめて高いが、真蹟として確実なものは現存していない。 玄宗の時代に宮廷画家として活動し、人物、仏画、山水、花鳥のいずれもよくした。 線描に優れ、彼の描いた人物は「呉帯当風」(呉の描いた人物の帯は風になびくようだ)と称された。 当時、洛陽と長安の寺院には呉道玄による壁画が300面もあったという。 画史類には呉道玄の画業に関するいくつかのエピソードが紹介されている。 そのひとつは、彼がある寺院の壁に描いた地獄図に関するもので、その地獄の様子があまりにもおそろしいので、屠殺業者や漁師が因果応報(殺生の罪で来世に地獄に堕ちること)を恐れ、商売替えをしたという。 (生没年不明)は初唐、7世紀に活動した宮廷画家。 父の閻毗は隋に仕えた画家、兄の閻立徳も画家で、父、兄とともに建築関係の仕事にも携わっていた。 閻立本の真蹟は残らないが、伝承作(後人の模本)として『歴代帝王図』()、『歩輦図』()がある。 『歴代帝王図』は隋のまでの13人の帝王の肖像を描いた図巻である。 (生没年不明)は、初唐末から盛唐に活動した西域出身の画家。 (ホータン)の出身。 父の尉遅跋質那(うっちばつしつな)も隋に仕えた画家であった。 尉遅乙僧は寺院の壁画などを描いたというが、その作品は現存しない。 作風は西域風で、その線描は「屈鉄盤糸」(曲げた鉄やからんだ糸)と称された。 (生没年不明) - 盛唐の画家。 京兆(長安)の人。 開元期に史館画直という役職にあった。 人物画、特に仕女(宮廷美人)や嬰児(子ども)の絵をよくした。 伝承作品に『虢国(かくこく)夫人遊春図』など。 また、張萱の原画を北宋・が模写した『搗練図』が伝わる。 周昉(生没年不明) - 中唐(8世紀後半)の画家。 長安の人。 人物画、特に豊満な唐美人図を得意とした。 伝承作品に『調琴啜茗(せつめい)図』『揮扇仕女図』など。 (生没年不明) - 盛唐の画家。 長安の人。 画馬で知られ、伝承作品には、玄宗の愛馬を描いた『照夜白図』がある。 明皇幸蜀図 張彦遠の『歴代名画記』に「山水の変は呉に始まり二李に成る」 とある。 これは、「唐時代の山水画の変革は呉道玄に始まり、李思訓・李昭道父子によって完成された」ということで、李父子によって着色山水画の技法が完成したことを意味する。 (651頃 - 718年)は唐の宗室の出身。 右武衛大将軍という地位にあり、「李大将軍」と呼ばれた。 伝承作品に『江帆楼閣図』などがある。 (生没年不明)は李思訓の子で、伝承作品に『春山行旅図』などがある。 明末に山水画を「南宗画」「北宗画」に分けて論じた董其昌は、李父子を北宗画の祖、後述の王維を南宗画の祖と規定している。 李父子の山水画は、精緻に描き込まれた青緑山水であったことが文献から知られる。 ただし、前述の李父子の伝承作品『江帆楼閣図』、『春山行旅図』はいずれも後代の模本ないし擬古作で、唐代の李父子の作風をどの程度伝えているかは不明である。 唐時代の着色山水画の画風については、日本のに伝来する『騎象奏楽図』(楽器の琵琶に描かれたもの)の背景からわずかに窺える。 蔵(旧蔵)の『山水屏風』は、日本のの作品であるが、李思訓らの青緑山水画の画風を伝えるものとされている。 (699 - 759年または701 - 761年)は唐を代表する詩人の1人で、画家でもあった。 字は摩詰(まきつ)。 官位が尚書右丞であったため、王右丞とも呼ばれる。 字の摩詰は仏教の『』に登場する(維摩詰)に由来する。 「詩中に画あり、画中に詩あり」とは、北宋の文人・蘇軾が王維について述べたものである。 董其昌の南北二宗論において、王維は南宗画、すなわち文人画系の水墨山水画の祖と位置づけられている。 ただし、画家としての王維の真蹟は現存せず、董其昌がどのような作品に基づいて王維を上述のように位置づけたかは判然としない。 王維の伝承作品としては『輞川図』(もうせんず)、『雪渓図』がある。 『輞川図』は王維が母親の菩提寺の壁面に描いたもので、原本の壁画は現存しない。 『輞川図』の模本は多数流布しているが、古原宏伸によれば、これらの模本は11世紀頃の様式を伝えるもので、原本との間には断絶があるという。 その他の絵画作品 [ ] 伝・展子虔『遊春図』 遊春図 - 北京故宮博物院蔵の着色画。 この作品は落款はないが、隋時代の画家展子虔(てんしけん)の作に帰されている。 中央を流れる河の左右両岸を貴人が散策する様子を表す。 この作品では水平線の位置が曖昧であり、画面右上の山岳は山を下から上へ平面的に積み上げていくような描写で、遠近表現は未熟である。 唐時代頃の模本とみなされているが、隋唐期の青緑山水の作風を今日に伝える遺品として貴重である。 明皇幸蜀図 - 台北蔵の青緑山水画。 画題は玄宗皇帝がを避けて長安から蜀へ向かう様子を表したもの。 現存する作品は北宋以降の模本で、明末の擬古作とする研究者もいる。 墓室壁画 [ ] 唐代の墓室壁画としては、にある以下の3つの王族の墓のものが著名である。 懿徳太子()墓は神龍元年(705年)、(李仙蕙)墓と章懐太子()墓は神龍2年(706年)のものである。 これらの墓の墓室や墓道の壁面には武官、文官、宮女など多数の人物像が描かれている。 唐時代の鑑賞絵画の原本がほとんど残らないなかにあって、これらの壁画は、作者不明ではあるが、制作年代が明確な唐時代のオリジナル作品として貴重であり、当時の服装や風俗を知るうえでも有用である。 永泰公主墓の宮女群像や章懐太子墓の打馬毬図(ポロのような馬上競技の図)はよく知られる。 五代・宋の絵画 [ ] 李迪『楓鷹雉雞図』(北京故宮博物院) 時代の概観 [ ] 宋時代は中国絵画史のピークであるとともに転換期でもあった。 唐時代までの絵画の主流は人物画であり、着色画であった。 こうした伝統的絵画は、以後の時代にも引き続き制作されるが、宋時代にはとの様式が確立され、なかんずく山水画が中国絵画を代表するジャンルとなった。 五代から北宋にかけては、山水における北方山水画と江南山水画、花鳥画における黄氏体と徐氏体(諸説あるが、前者は「富貴」、後者は「野逸」とされる)などの様式が確立し、各分野の絵画は筆法、構図などの面で大いに進歩し、後世に影響を与える多くの大家を輩出した。 山水画においては唐時代まで主流であった青緑山水画も引き続き制作されたが、この時代には士大夫の絵画としての水墨による山水画が主流となった。 唐末・五代の山水画家として、江南では(とうげん)、(きょねん)、華北・中原では(けいこう)、(かんどう)の名が伝わるが、現存する彼らの作品はほとんどが模本か伝承作品である。 やや時代が下って北宋の初期から中期にかけての山水画家としては(りせい)、(はんかん)、(かくき)らが著名である。 北方と南方の風土の差は画家たちの画風にも影響を与えた。 荊浩らが描く北方の山水は、切り立った稜線とごつごつした岩肌が目立ち、これに対して、董源らによる江南の山水は、湿潤な大気に霞む穏やかな風景を描き出している。 この時代には文人士大夫、すなわち儒教的教養のある支配階級が、絵画の享受および制作の主たる担い手となった。 北宋末には、書家としても知られる(べいふつ)とその子の(べいゆうじん)の父子がある。 米芾は書家としては宋の四大家に数えられ、画家としては米法山水の創始者として知られる。 米法山水とは、堅い輪郭線を用いず、楕円形の墨点を重ねて形態や濃淡を表すものである。 宋時代を代表する文学者・書家である(そしょく)も文人の余技として古木竹石などを描いている。 五代のとには宮廷画院が設置されたが、宋朝も画院()の制度を設け、画院の画家には待詔、祗候などの職位を与えて画業を奨励し、多くの宮廷画家が活躍した。 北宋末の皇帝は、為政者としては無能であったが、文化の振興、画院の改革に尽し、自らも筆を執って書画をよくした。 北宋時代の画家としては他に白描(墨の輪郭線のみによる描法)の人物を得意とした(りこうりん)が著名である。 南宋時代は前後の時代と異なり、文人画家よりも宮廷画院の画家が活躍した時代で、彼らによる、装飾性の豊かな花鳥画や、余白の美を生かした山水画が盛行した。 こうした画院特有の作風を院体という。 山水では李成・郭煕らの主山を中心に据える構図に替わり、主たる景物を画面の片側に寄せて描く様式が盛行した。 この様式は(ばえん)、(かけい)によって大成された。 院体の花鳥画は北宋の黄筌らの黄氏体(諸説あるが、輪郭線と彩色主体の描法とされる)の影響を受け、(りてき)らの名手を生んだ。 南宋の画院系の著名画家としては、他に山水画の(りとう)、減筆体の人物画で知られる(りょうかい)などがいる。 荊浩と関同 [ ] とは唐末から五代にかけての山水画家である。 唐時代までの中国絵画は彩色画が中心であり、山水画も青緑山水が主流であって、水墨の山水画が盛んになるのは宋時代以降のことである。 荊浩と関同は水墨山水を描いた初期の画家であり、後世への影響が大きかったが、彼らの作品の原本は現存しない。 荊浩は河南沁水の人(本籍については異説もある)で、字を浩然といった。 彼は『筆法記』という画論を書いており、次のような言葉を残している。 「呉道子の画山水には筆あれども墨なく、項容には墨あれども筆なし。 吾は二子の長ずる所を采(と)りて一家の体を成すべし」。 すなわち、唐代の名画家・呉道子には線描の美はあるが水墨の美はなく、項容(中唐の画家)には水墨の美はあっても線の美はない。 自分は両者の良いところを採って、自分の画風を確立する」ということである。 関同は、『宣和画譜』『図画見聞誌』に「長安の人」とあるが、出身地は不明とする史料もある。 荊浩に学んだということ以外、詳しい経歴はわからない。 荊浩については『匡廬図』(きょうろず、台北故宮博物院)、関同については『秋山晩翠図』、『山谿待渡図』(ともに台北故宮博物院)などの伝承作品がある。 いずれも水墨山水で、中国北方の険しい岩山を描いたものである。 董源と巨然 [ ] は、10世紀頃の鍾陵(江西南昌)の人で、字を叔達といった。 五代の南唐に仕え、後宛副使という職位にあったという。 董源は後述の巨然とともに「董巨」と併称され、江南山水画の祖とされている。 現存する董源の伝承作品としては、画巻では『夏景山口待渡図巻』(遼寧省博物館)、『瀟湘図巻』(北京)、『夏山図巻』()、掛幅では『寒林重汀図』(日本・)、『龍宿郊民図』(台北故宮博物院)がある。 うち、『夏景山口待渡図巻』と『瀟湘図巻』は、もとは同じ画巻の一部であったものが分かれたものとみられる。 以上の伝承作品は、いずれも真蹟ではなく後人の模本とみなされている。 董源と並び称される (10世紀頃)の出身は、鍾陵()とも江寧()ともいう。 彼はの開元寺の画僧で、伝承作品は『秋山問道図』(台北故宮博物院)のほかいくつかあるが、真蹟とみなされるものはない。 董源は生前にはさほど高名ではなかったが、北宋末(12世紀)頃から急に著名になり、文人山水画の祖として扱われるようになった。 北宋末の文人画家・米芾(べいふつ)は、著書『画史』において、董源の画風を「平淡天真」であるとして高く評価した。 明末の文人画家・理論家として影響力の大きかった董其昌も南宗画(文人系の山水画)の祖として董源を高く評価している。 伝承作品にみる董源と巨然の画風は、江南の霞のかかったような湿潤な風景を描いたもので、披麻皴(ひましゅん)という、麻の繊維をほぐしたような筆致で山の稜線などを描くのが特色である。 (北宋)は著書『』で「董源・巨然の絵は、近くで見ると何が描いてあるのかわからないが、遠くから見ると物の形がわかる」と評している。 李成・范寛・郭煕 [ ] (10世紀)は長安の人で、字は咸熙(かんき)。 唐の宗室の出で、五代末・宋初の混乱を避けて山東営丘に移った。 李成は、後出の郭煕とともに「李郭」と併称される。 「董巨」(董源と巨然)が江南山水画の祖とされるのに対し、「李郭」は北方山水画の祖とされている。 李成の事績については、画史の類には多く記録されるが、真蹟は現存せず 、伝承作品も多くはない。 李成の画風について「墨を惜しむこと金のごとし」と評された。 北宋末の米芾は「李成の真蹟は2本しか見たことがないが、偽物は300本もある」と言っている。 現存する伝承作品には『晴巒蕭寺図』、『寒林図』(台北故宮博物院)、『読碑窠石図』()、『喬松山水図』(日本、)などがある。 (10世紀後半 - 11世紀前半)は、『谿山行旅図』(台北故宮博物院)の作者として知られる。 陝西華原の人で、字は中立という。 一説に本名は中立で、性格が寛大だったため、范寛と呼ばれたという。 職業画家であったとみられ、詳しい経歴は不明である。 当初李成画に学ぶが、それに飽き足らず、自然を師として研鑚を積み、自らの画風を築いたという。 『谿山行旅図』は、北宋山水画を代表する著名作で、近景の岩と道、中景の台地を画面下方に小さく表し、圧倒的な存在感をもつ遠景の主山が画面の大部分を占めている。 山を下方から見上げて、その高さを強調する手法、すなわち「高遠山水」の典型的作品である。 本図については、原本に忠実な写しとする説もある。 画面の右下、荷物を運ぶ驢馬の列の後方の樹葉にまぎれるように小さく「范寛」の署名があるが、この署名は書風が稚拙で、本図を范寛の真蹟とする決め手にはならない。 (1023頃 - 1085年頃)は北宋後期の宮廷画家で、河陽(河南省)の人。 字は淳夫。 神宗の熙寧年間(1068 - 1077年)に図画院芸学となり、後に翰林待詔直長という地位についた。 理論家でもあり、画論『林泉高致』(『林泉高致集』)の著作がある。 高遠(仰角視)・平遠(平面視)・深遠(俯瞰視)の三遠法は郭煕がこの書で述べているものである。 郭煕の『早春図』は、北宋山水画の真蹟として現存する数少ない作品の一つである。 この作品は、光や大気の存在が的確に表現され、1つの画面に前述の高遠・平遠・深遠の3つの視点が共存するなど、北宋山水画の1つの完成形を示すものである。 北宋後期の文人画家 [ ] (1018 - 1079年)北宋の文人画家。 梓州永泰(四川)の人。 湖州(浙江呉興)の太守という地位にあった。 もっぱら墨竹画を描いた。 (1036 - 1101年)は北宋後期の政治家、書家、詩人。 四川の人。 字は子瞻(しせん)、東坡居士と号した。 絵画は余技で、古木竹石などを描いた。 (1051 - 1107年)は、北宋後期の文人。 山西の人。 字は元章で、海嶽外史、襄陽漫士、鹿門居士などと号した。 徽宗に仕え、書画学博士であった。 画家、書家、収集家、鑑識家として知られる。 画家としては、子の米友仁とともに「米法山水」(楕円形の点描が特色)の創始者とされている。 ただし、米芾の書作品は真筆が残るが、絵画作品については確実な遺品はない。 (1086 - 1165年)は米芾の子で、字は元暉(げんき)、懶拙老人(らんせつろうじん)と号した。 太原の出身だが、のち潤州(江蘇)に移り住んだ。 父の米芾と異なり、専門画家に近い存在であった。 作品は『雲山図巻』など数点がある。 その他の北宋画家(山水画系) [ ]• 許道寧(きょどうねい、生没年不明) - 北宋の山水画家。 河間(河北)の人。 長安で薬屋の客寄せのために絵を描いていた。 伝承作品に『秋山蕭寺図巻』(日本、藤井斉成会有粼館)、『秋江漁艇図巻』()があり、作風は李成風である。 燕文貴(えんぶんき、生没年不明) - 北宋の宮廷画院に属した山水画家。 伝承作品に『江山楼観図巻』(大阪市立美術館)がある。 趙令穣(ちょうれいじょう、生没年不明) - 北宋の山水画家で、宋太祖5世の孫。 字を大年という。 「小景画」をよくした。 小景画の語義は諸説あるが、近景・中景・遠景を大観的に描いた山水画に対し、近景を中心にした狭小な空間を描いた山水画を指すとされる。 伝承作品に『秋塘図』(大和文華館)がある。 伝承作品に『煙江畳嶂図巻』()など数点がある。 郭忠恕(かくちゅうじょ、生没年不明) - 北宋における溌墨山水画の伝承者とされ、また界画を得意とした。 伝承作品として『雪霽江行図』(ネルソン・アトキンス美術館および台北故宮博物院)がある。 江参(こうしん、生没年不明) - 北宋末から南宋初の山水画家。 董源・巨然の江南山水画風を継ぐ数少ない画家の一人。 『林巒積翠図巻』(ネルソン・アトキンス美術館)、『千里江山図巻』の伝承作品がある。 花鳥画の「黄氏体」と「徐氏体」 [ ] 宋時代の花鳥画の画風には「黄氏体」と「徐氏体」があるといわれているが、これら両者の画風の具体的差異は必ずしも明らかではない。 黄氏体は五代の画家・(こうせん)とその一族の画風、徐氏体は同じく五代の画家・(じょき)とその一族の画風をさす。 北宋・郭若虚の『図画見聞誌』によれば、当時の花鳥画について「黄家は富貴」「徐熙は野逸」と評価されていた。 黄筌(903年頃 - 965年頃)は四川成都の人で、前蜀の宮廷画家、徐熙(生没年不明)は鍾陵(江西省)の人で、生涯仕官しなかった。 通説では黄氏体は輪郭線と彩色主体、徐氏体は没骨体といわれるが、黄筌の作品は『珍禽図』(北京故宮博物院)が残るのみ、徐熙の作品は残っておらず、両者の実際の作風の差は不明である。 文献に照らしても、両派の作風にさほどの差異があったとは考えがたい。 黄筌の子の黄居寀(こうきょさい)の作と伝えられる『山鷓棘雀図』(さんしゃきょくじゃくず、台北故宮博物院)は、北宋時代の作風を伝える。 徽宗とその他の花鳥画家 [ ] 趙佶(ちょうきつ、1082 - 1135年)は北宋8代皇帝である。 彼は為政者としては無能であったと評されるが、文化の振興には力を入れた。 各地から書画骨董を集め、『宣和画譜』などの宮廷所蔵品目録を作った。 また宮廷画院の充実を図ったことでも知られる。 彼は自らも書画をよくし、書は痩金体(そうきんたい)という独特の細く鋭い筆線による書体を使用した。 絵については『搗練図』(唐・張萱の原画の模写、ボストン美術館)、『五色鸚鵡図巻』、『』(日本個人蔵)などの伝承作品があるが、鈴木敬は徽宗の画には代筆画が多く、真作はおそらく現存しないであろうと述べている。 趙昌(ちょうしょう、生没年不明) - 北宋初期の花鳥画家。 四川広漢(剣南)の人。 没骨の折枝画を得意とした。 崔白(さいはく、生没年不明) - 北宋画院の画家。 濠梁(安徽)の人。 熙寧期(1064 - 1077年)に画院の芸学の地位にあった。 花鳥画をよくしたが、人物、山水も描いた。 代表作に『双喜図』(台北故宮博物院)がある。 呉元瑜(ごげんゆ、生没年不明) - 徽宗の絵画の師であった画家。 ただし、呉元瑜本人については、伝承作品もほとんどなく、画風も定かでない。 李公麟とその他の五代・北宋絵画 [ ] (活動期11世紀末 - 12世紀初) - の人。 字は伯時。 晩年、龍眠山に隠居したことから龍眠山人と号した。 (政治家、詩人)や(政治家、詩人、書家)と交友があった。 白描の人物画を得意とした。 父の李虚一は多数の古画を収蔵しており、公麟はこれらを模写した。 伝承作品として『孝経図巻』()、『五馬図巻』()などがある。 (しゅうぶんく、生没年不明) - 五代・南唐の宮廷画家。 金陵句容の人。 人物画、特に仕女図をよくした。 伝承作品に『瑠璃堂人物図』()、『重屏会棋図』(北京故宮博物院)がある。 韓熙載夜宴図(かんきさいやえんず)は、五代・南唐の画家・顧閎中(ここうちゅう)の作と伝えられる、彩色の風俗画巻。 計5つの場面からなる。 韓熙載は南唐の政治家で、100人もの妾妓を抱え、酒と女と音楽に溺れ、夜な夜な宴会を開いていたという。 南唐の後主・李煜(りいく)は韓の行動を怪しみ、乱行の真意を探るため、ひそかに画家の顧閎中を遣わし、顧が記憶した宴会の模様を絵画化したのが本図であるという。 画中画の山水画の様式や、画中に描かれている磁器の様式などから、現存本の制作年代は南宋以降とみられる。 張沢端『清明上河図』 馬遠、夏珪と南宋の山水画家 [ ] (ばえん、生没年不明)は南宋画院の山水画家。 籍は山西にあったが、銭塘(杭州)に住んだ。 字は遥父、号は欽山。 光宗・寧宗の時、画院待詔の地位にあった。 馬遠の家系には画家が多く、曾祖父、祖父、父、兄、子、伯父も画家であった。 斧劈皴(ふへきしゅん)を多用した山水を描いた。 後述の夏珪と共に「馬夏」と並称された。 画面を対角線で区切った半分のスペースに主たるモチーフを集中させ、残りの画面を余白として、観者の想像にゆだねる構図(辺角構図)は「残山剰水」「馬の一角」と称された。 ただし、これらの評語は必ずしも褒め言葉ではなく、大自然のごく一部しか描かれていないことを評するものともいう。 馬遠の作品は、余白の多いものばかりでなく、『西園雅集図巻』(ネルソン・アトキンス美術館)のように細部まで描き込まれたものもある。 その他の代表作に『十二水図』(台北故宮博物院)、『華燈侍宴図』(台北故宮博物院)など。 (かけい、生没年不明)は、南宋画院の山水画家。 銭塘(杭州)の人。 字は禹玉。 寧宗期(1194 - 1224年)の画院で待詔の地位にあった。 水墨山水をもっぱら描いた。 代表作に『渓山清遠図』(台北故宮博物院)、『江山佳勝図』、『長江万里図』(模本)などがある。 李唐(りとう、1050年頃 - 1130年頃)北宋末から南宋の画院画家。 河陽三城(河南孟県)の人。 徽宗の時に画院待詔の地位にあった。 焦墨を用いた山水画に特色がある。 代表作に『万壑松風図』(ばんがくしょうふうず)、『江山小景図』(ともに台北故宮博物院)などがある。 馬麟(ばりん、生没年不明)馬遠の子。 寧宗の嘉泰年間(1201 - 1204年)に画院祗候の地位にあった。 山水のほか、父と同様の辺角構図の花鳥画をよくした。 その他の南宋画家 [ ]• 劉松年(りゅうしょうねん、生没年不明)銭塘()の人。 紹熙年間(1190 - 1194年)の画院待詔。 代表作に『四景山水図』、『羅漢図』(台北故宮博物院)などがある。 李迪(りてき、生没年不明)孝宗・寧宗期の画院画家。 河陽(河南孟県)の人。 花鳥画をよくした。 梁楷(りょうかい、生没年不明) - 東平の人。 南宋になってからは銭塘に住む。 寧宗の嘉泰年間(1201 - 1202年)の画院待詔であった。 酒を愛し、性格は豪放で、自ら「梁風子」と称した(「風子」は「狂人」の意)。 減筆体(少ない筆のタッチで描く)の人物画に特色を発揮した。 代表作に『李白吟行図』(東京国立博物館)などがある。 蘇漢臣(そかんしん、生没年不明) - 開封の人。 北宋末から南宋初の宮廷画家。 人物、特に子供の絵を得意とした。 台北故宮博物院の『秋庭戯嬰図』はヤジロベエ遊びに熱中する姉弟を描いたもので、蘇漢臣の作と伝えられる。 揚無咎(ようむきゅう、1097 - 1169年) - 江西清江の人。 字は補之(ほし)。 梅花の絵を専門にした。 趙孟堅(ちょうもうけん、1199 - 1264年) - 宋朝宗室の出身で、厳州太守という地位にあった。 松竹梅蘭を主に描いた。 李嵩(りすう、生没年不明) - 銭塘(杭州)の人。 光宗、寧宗、理宗の画院で活動した。 人物を主に描くが、山水、花鳥画もある。 牧谿(もっけい、生没年不明) - 南宋末の禅僧。 理宗・度宗の時代に活動した。 臨安(杭州)長慶寺の僧で、俗姓は李(または薛)、法諱は法常で、牧谿は号。 禅僧の余技として山水、蔬果などを描いた。 日本において特に評価が高い。 代表作に『写生蔬果図鑑』など。 瀟湘臥遊図(しょうしょうがゆうず) - 乾道5・6年(1169・1170年)頃、舒城李生作の水墨山水画巻。 東京国立博物館蔵。 董源、巨然、米芾父子の系統を引く江南山水画の代表作として名高い。 李公麟の作と伝承されていたが、実際の作者は「舒城李生」で、舒城(地名)の李という姓の画家であることしかわからない。 『青卞隠居図』(上海博物館) 時代の概観 [ ] 時代は、中国絵画史の上では復古主義の時代であり、文人画の時代であった。 時代を代表する画家としては、初期には(ちょうもうふ)、中期から末期にかけては「 元末四大家」と称される(こうこうぼう)、(ごちん)、(げいさん)、(おうもう)がいる。 これら四大家の山水画は、後の明・清時代にも正統派絵画の規範とされた。 モンゴル人による征服王朝である元では、宮廷画家の活動の場であった画院の制度は廃止された。 人民はその出自によって、蒙古人、、漢人、南人などに序列分けされた。 蒙古人とはモンゴル人、色目人とはウイグル人などの西域の民、漢人とは金の遺民である華北の住民、南人とは華南の住民、すなわち南宋の遺民を指す。 すなわち、モンゴル人を最上に置き、多くの文人を輩出した江南の漢人は序列の最下位に置かれたのであった。 南宋遺民の画家たちは、こうした異民族王朝の圧政の下、押さえつけられた内面の不満を芸術の追求へと向けた。 元時代の文人画家たちは、中国絵画の伝統の継承に努め、南宋時代を飛び越えて、ひと時代前の五代・北宋の山水画を範とした。 その中には北方山水画の李成・郭煕を規範とする者と、江南山水画の董源・巨然を規範とする者がおり、前者を李郭派、後者を董巨派という。 李郭派は(しゅとくじゅん)や(とうてい)、董巨派は元末四大家がそれぞれを代表する画家たちである。 董源・巨然から元末四大家を経て明時代の呉派へと至る江南山水画の流れは、明末の董其昌によって体系づけられ、文人画の本流とみなされることとなった。 元代には他に、道釈人物画で知られる(がんき)、南宋院体画の流れを汲む(そんくんたく)のような画家もいるが、元代絵画の主流とはなっていない。 銭選と趙孟頫 [ ] (生没年不明、活動期13世紀後半 - 14世紀初)は浙江呉興の人で、元初の遺民画家である。 字は舜挙(しゅんきょ)。 遺民とは、モンゴル人の征服王朝である元朝に仕えることを拒否した人のことで、銭選は南宋の科挙には合格したが、元朝には仕えなかった。 銭選の絵はほとんどが着色画で、作風は復古的であり、画面構成は平面的・装飾的である。 山水画が多いが、人物画や花卉画もある。 代表作に『蘭亭観鵝図巻』(メトロポリタン美術館)など。 (1254 - 1322年)は湖州(浙江呉興)の人。 字は子昂(すごう)。 号は松雪道人(松雪老人)、水晶宮道人など。 宋の太祖の11代の孫という名門の出である。 夫人の管道昇と子の趙雍も画家であり、元末四大家の1人である王蒙は外孫にあたる。 詩、書、画のいずれもよくした。 絵は水墨山水画は李郭(李成・郭煕)に、青緑山水画は二李(李思訓、李道昭)に倣い、書は王羲之を学んだ。 元朝に仕え、官職は翰林院学士承旨に達した。 宋の王室の出でありながら、異民族王朝の元朝に仕えたということで、趙孟頫の人物については評価が分かれる。 代表作に『鵲花秋色図巻』(台北故宮博物院)、『幼輿丘壑図巻』(プリンストン大学美術館)などがある。 趙孟頫『鵲華秋色図』1295年(台北故宮博物院) 元末四大家 [ ] (1269 - 1354? 年)は江蘇常熟の人。 旧姓は陸で、後に黄家の養子となる。 字は子久で、大癡(だいち、「大馬鹿者」の意)、一峯道人などと号した。 若い時には仕官したこともあったが、ある事件に連座して投獄された後、仕官をあきらめて各地を放浪し、売卜(占い)で生計を立てたという。 本格的に絵を始めたのは50歳を過ぎてからのこととされる。 画論『写山水訣』がある。 絵の代表作には『』(台北故宮博物院)がある。 同図は長さ6メートルを超える画巻で、公望が晩年に隠棲した浙江富春郷の山水を描いたものであり、至正7年(1347年)から3年間をかけて完成した。 『富春山居図』を所持していた清時代の収集家・呉洪裕は、自らの死の直前に図を火にくべて燃やそうとしたが、焼失する前に絵は救い出された。 しかし、その際に巻頭の部分が損傷して切断された。 現在、浙江省博物館に所蔵される『剰山図』がその巻首部分であるという。 富春山居図「剰山図」 (1280 - 1354年)は浙江嘉興魏塘鎮の人。 字は仲圭で、梅花道人と号した。 元末四大家のうち他の3者は互いに交友があったが、呉鎮のみは他の文人と交わらず、孤高清貧の生涯を送った。 元末四大家の他の3者が水墨画・着色画の双方を描いたのに対し、呉鎮はもっぱら水墨の山水や墨竹を描いた。 絵は江南山水画の董巨(董源と巨然)に倣う。 代表作に至正元年(1341年)の『洞庭漁隠図』(台北故宮博物院)などがある。 (1301 - 1374年)は無錫の代々の富豪の家に生まれた。 初名は珽(てい)で、後に瓚に改めた。 字は元鎮で、雲林、荊蛮民、幻霞生などと号した。 瓚は早くに父を亡くし、長兄によって養育された。 長兄の没後は28歳で家督を継いだ。 家柄から、倪瓚の家には多数の書物や書画があり、文人との交友も多かった。 しかし、50歳を過ぎて、家財を売り払い、各地を転々と放浪する生活を20年近くも続けた。 典型的な画風は「蕭散体」(しょうさんたい)あるいは「一河両岸」と称されるもので、モチーフを絞り、余白の多い画面を特色とする。 近景に土手と数本の樹木や亭を描き、遠景に小さく山を配し、その間の中景を広い水面とする構図が典型的で、前述の「一河両岸」はこの構図に由来する。 代表作に至正15年(1355年)の『漁荘秋霽図』(上海博物館)、洪武5年(1372年)の『容膝斎図』(台北故宮博物院)などがある。 (1301または1308年 - 1385年)は湖州(浙江呉興)の人。 字は叔明で、香光居士、黄鶴山樵などと号した。 元末四大家の中では唯一官途につき、理問という下級官吏であった。 画風は倪瓚とは反対に、画面の下から上までモチーフを隙間なく積み上げ、細かく描き込むのが特色である。 元の滅亡後は明に仕えたが、胡惟庸の獄に連座し、獄死した。 代表作に至正26年(1366年)の『青卞隠居図』(せいべんいんきょず、上海博物館)などがある。 その他の元時代画家 [ ]• 高克恭(こうこくきょう、1248 - 1310年) - 字は彦敬(げんけい)、号は房山。 西域(新疆)籍の人で後にに移籍した。 主要な画家の大部分が江南から出ている元時代には珍しい、少数民族のウイグル系の人で、米芾父子に倣った山水画を描いた。 李衎(りかん、1245 - 1320年) - 官僚文人画家で、河北薊丘()の人。 竹石古木をよくした。 方従義(ほうじゅうぎ、生没年不明) - (江西)の人。 道教信者であったというが、人物については不明な点が多い。 粗放な筆致の水墨山水を描いた。 曹知白(そうちはく、1272 - 1355年) - 華亭()の人。 元代李郭派を代表する画人の一人。 柯九思(かきゅうし、1290 - 1343年) - 台州の人。 もっぱら画竹の名手として知られる。 朱徳潤(しゅとくじゅん、1294 - 1365年) - 河南(すいよう)の人(出身地は蘇州とも)で、に住んだ。 元代李郭派を代表する画人の一人。 唐棣(とうてい、1296 - 1364年) - の人。 元代李郭派を代表する画人の一人。 張渥(ちょうあく、生没年不明) - 出身はとも淮南(わいなん)ともいう。 白描の人物を得意とした。 代表作に『雪夜訪戴図』、『九歌図』などがある。 盛懋(せいぼう、生没年不明) - 元時代後期の職業画家。 浙江の人。 (おうべん、? - 1359年) - 浙江の人。 科挙に失敗した後、故郷の九里山に隠棲し、もっぱら梅花を描いた。 王淵(おうえん、生没年不明) - 杭州の人。 活動年代は至元から至正(1335 - 1367年)。 趙孟頫に師事した。 着色画、墨画ともにあるが、精緻な描線による花鳥画に特色がある。 『古木寒泉図』(台北故宮博物院) 時代の概観 [ ] (1368 - 1644年)の時代には、宮廷画家、在野の職業画家、文人画家など、出身地も出自も画風も異なる多数の画家たちが活動した。 元代には廃止されていた宮廷画院の制度が明代には復活し、この時代の特に前期には多数の宮廷画家が活動した(ただし、宋時代にあった「翰林図画院」という名称は使われておらず、明の画院機構については不明の部分が多い)。 それとともに、明代は文人画の時代でもあり、(ぶんちょうめい)、(とうきしょう)をはじめ、多くの文人画家を輩出している。 明代の絵画は、宮廷画家・職業画家を中心とした 浙派(せっぱ)と、文徴明(ぶんちょうめい)らの文人を中心とする (ごは)の対立構図として説明されるが、明時代中期以降は浙派が衰え、呉派すなわち文人画系が優勢となった。 なお、明時代の画派は複雑で、他に江夏派(こうかは)、院派などの分類を立てる場合もあり、いずれの派にも分類しがたい在野の職業画家も存在する。 他にこの時代の代表的な画家としては(とういん)、(きゅうえい)、(じょい)らがいる。 明末から清初にかけての動乱期には、(ごひん)ら、明末の奇想派と呼ばれる、個性的な画風をもった一群の画家たちがいた。 浙派の「浙」とは杭州の古名であり、同地で活動した(たいしん)を祖とみなし、これに続く宮廷画家・職業画家の一群を浙派と称する。 これに対して呉派(呉門派とも)とは明代中期以降、蘇州を中心に活動した文人系画家の総称である。 (しんしゅう)が呉派の祖とみなされ、文徴明とその親族や弟子らの一派も呉派に分類されている。 批評家の何良俊(かりょうしゅん)は、文徴明を高く評価し、画家を行家(こうか、職業画家)と利家(りか、素人画家)に分類し、利家すなわち文人の絵画を、職業画人の技巧的絵画よりも価値あるものとした。 批評家の高濂(こうれん)は、浙派末流の絵画を「狂態邪学」であるとして厳しく批判した。 このように文人画家を尊重し、職業画家をおとしめる価値観は、明末の董其昌によって、さらに理論化されている。 明末の文人官僚・書家・画家・理論家であった董其昌は、実作者としても理論家としても、後世への影響が大きい。 彼は唐時代以来の山水画の流れを北宗画(ほくしゅうが)と南宗画(なんしゅうが)の2つに分けて論じ、後者すなわち文人画家の系統を、前者すなわち職業画家の系統よりも上位に置く「 南北二宗論」「尚南貶北論」(しょうなんへんぼくろん)を唱えた。 董其昌のこうした二元的な分類方法には矛盾点も指摘されているが、彼の理論が後世の中国絵画に与えた影響は絶大で、明の滅亡から300年以上を経た現代に至るまで浙派と呉派、あるいは北宗画と南宗画といった分類概念が使用され続けている。 明時代の実態としては、文人も生活のために売画をせざるをえず、職業画家の中にも詩文をよくする者がおり、文人画家の職業画家化、職業画家の文人化が不可避に進んでいた。 また、董其昌自身の作品にも浙派(職業画家)の画法がみられるなど、生活実態の面でも、画風の面でも、文人画家と職業画家の区別は付けがたくなっていた。 明時代初期の画家 [ ] 長江デルタ地帯に位置する蘇州では手工業が発達し、江南の商業・文化の中心地となって、元末期には多くの文人がここに集まっていた。 至正16年(1356年)、は蘇州を根拠地とし、隆平府という名に改め、(後の明太祖・洪武帝)に対抗して江南の覇権を争った。 しかし、至正27年(1367年)に至って隆平府は陥落。 翌至正28年(1368年)、朱元璋が即位して国号を大明とし、元号を洪武とした。 猜疑心の強い性格であった朱元璋は、建国の功臣らを次々と粛清したことで知られる。 貧農の出で孤児であった朱元璋は文人を憎み、特に、最後まで明朝に抵抗した蘇州の文人には容赦なく、多くの文人、画人が刑死・獄死に追いやられた。 元末四大家の1人で、元初まで活躍していた王蒙は、胡惟庸の獄に連座して獄死した。 元末から明初にかけて活動した山水画家の趙原も刑死している。 明初の洪武年間には宮廷画院の存在は明確でなく、明の画院が本格的に形成されるのは後の永楽・宣徳年間(1403 - 1424年)になってからである。 以下に、元末から明初期に活動した主要な画家を掲げる(宮廷画家に分類される者については項を改めて述べる)。 趙原(ちょうげん、生没年不明) - 山東の人で、元末から明初に蘇州で活動した。 洪武帝の時に刑死している。 画風は元末四大家の王蒙に倣う。 王履(おうり、1332 -? 年) - 江蘇昆山の人。 『華山図』(全40図、紙本墨画、北京故宮博物院・上海博物館分蔵)で知られる。 本業は医学者で絵画は余技である。 51歳の時に陝西の名山・華山に登り、その感動を40枚の絵に描きとどめ、自跋を付した。 明代中期以降栄える呉派文人山水画の先駆として重要な作品である。 謝縉(しゃしん、生没年不明) - 江蘇呉県の人。 董源、巨然、王蒙に師法した山水画を残した。 夏㫤(かちょう、1388 - 1470年) - 「㫤」の漢字は、正しくは「日」の下に「永」である。 江蘇昆山の人。 画竹をよくした。 杜瓊(とけい、1396 - 1474年) - 江蘇呉県(蘇州)の人。 山水と詩文をよくした。 呉派の祖である沈周に影響を与えている。 劉玨(りゅうかく、1410 -1472年) - 呉派の祖である沈周に影響を与えた。 王紱(おうふつ、1362 - 1416年) - 無錫の人。 官に仕え中書舎人(主に能書が任命される)に任じられた。 元末四大家の倪瓚風の疎体の山水を描く。 姚綬(ようじゅ、1422 - 1495年) - 浙江嘉善の人。 画風は元末四大家の呉鎮に倣う。 明代の宮廷画家 [ ] (りざい)、(りんりょう)、(りょき)らの宮廷に仕えた画家を宮廷画家あるいは画院画家と称する。 ただし、宋代と異なり明代においては翰林図画院という名称の機関は設置されず、画家は宮中の仁智殿、武英殿などに属して、待詔(たいしょう)、供奉(きょうほう)などの官職を与えられた。 宋代の画院では画家には武官の官位が与えられたが、明代もこれに習って、画家には錦衣衛(近衛軍)の指揮、鎮撫、総旗などの官位が与えられることが多かった。 たとえば、呂紀は武英殿待詔で錦衣衛指揮であった。 明初の洪武年間には宮廷画院の存在は不明確であり、記録や画家自身の記した款記から画院の存在が明確になるのは永楽年間(1403 - 1424年)からである。 明代の宮廷画院については、史料が乏しく、その機構、性格、成立時期、存続期間など、不明の部分が多い。 前述の、画家に対する錦衣衛の官職任命についても、なぜ任命されたのかを含め、よくわかっていない。 この時期の宮廷画家としては(へんぶんしん)、李在、(しゅうぶんせい)、(そんりゅう)、(げいたん)などが挙げられる。 これらの宮廷画家らの出身は浙江、福建方面に集中していた。 明中期の天順(1457 - 1464年)、成化(1465 - 1487年)、弘治(1488 - 1505年)年間には林良、呂紀、(りょぶんえい)、(おうがく)、(しゅたん)、(ちんしか)などが宮廷画家として活動した。 これらの画家の出身は、林良が広東、呂紀が湖南寧波であるなど、さまざまである。 これ以後の明後期には画壇の主流は文人画に移り、沈周、文徴明、董其昌やこれらの一派が活躍することになる。 辺文進(生没年不明) - 字は景昭。 の人(本貫は甘粛)。 永楽年間(1403 - 1433年)の宮廷画家で武英殿待詔の地位にあった。 工筆重彩の花鳥画をよくした。 李在(生没年不明) - 福建の人。 宣徳年間(1426 - 1435年)の宮廷画家。 仁智殿待詔の地位にあった。 山水をよくした。 日本の雪舟が明に滞在した際に交流があった。 周文靖(生没年不明) - 福建莆田の人。 宣徳年間(1426 - 1435年)の宮廷画家。 占師として宮廷に入り、後に画才が認められて画家となった。 作品には宮廷画家であることを意味する「日近清光」印を有するものがある。 孫龍(生没年不明) - 江蘇毗陵()の人。 宣徳年間(1426 - 1435年)の宮廷画家。 没骨画法の花鳥をよくした。 なお、同時代に孫隆という画家が存在し、孫龍・孫隆は同一人とする説と 、別人が音通のため混同されたとする説とがある。 林良(生没年不明) - の人。 景泰・天順・成化年間(1450 - 1487年)の宮廷画家。 浙派風の写意の水墨花鳥をよくした。 倪端(活動期1435 - 1480年) - 宣徳・成化年間の宮廷画家。 成化16年(1480年)に錦衣衛指揮同知の地位にあったことが知られる。 呂紀(1477 -? 年) - 上海同四明(浙江)の人。 弘治年間(1488 - 1505年)の宮廷画家。 職位は錦衣衛指揮に至った。 装飾的画面の花鳥をよくした。 呂文英(生没年不明) - 浙江括蒼の人。 人物画をよくした。 王諤(生没年不明) - 浙江の人。 弘治・正徳・嘉靖年間の宮廷画家。 職位は錦衣指揮に至った。 朱端(生没年不明) - 浙江海塩の人。 弘治・正徳年間(1488 - 1521年)の宮廷画家。 職位は錦衣指揮に至った。 陳子和(生没年不明) - 福建の人。 山水、人物、花鳥のいずれもよくした。 明宣徳帝『猟犬図』 戴進、呉偉と浙派 [ ] (1388 - 1462年)は、浙江銭塘(杭州)の人。 字は文進。 父も画家であった。 永楽・宣徳年間に宮廷画家となったが、画家仲間の謝環との確執により帝の怒りを買って、命からがら帰郷し、以後は売画によって生計を立てたと伝える。 山水、人物、花鳥のいずれも得意とした。 技法は南宋の院体画、元の李郭派、遠くは五代・北宋の董源、巨然を学んだ。 戴進の画風は、これら先人の様式に浙江地方様式を加味したものであるが、南宋院体画の自然主義的描写に比べると、平面化・装飾化の傾向があり、山水は斧劈皴(ふへきしゅん)が目立ち、筆法は粗放に向かっている。 沈周、文徴明らの呉派に対して、戴進の一派やその系統の画家らを総称して浙派という。 浙派という名称は後になって(明末頃)付けられたもので、派名は戴進が浙江銭塘の出身であることに由来する。 戴進は、行家(職業画家)とその画風を代表する存在であることから浙派の祖とみなされているが、実際には浙派に分類される画家たちは出身も画風もさまざまであり、呉派の文人画と一線を画すさまざまな画家を大雑把に分類したものが浙派であるといえる。 弘治・正徳年間(1488 - 1521年)の浙派に分類される画家たち、具体的には張路(ちょうろ)、蒋嵩(しょうすう)、汪肇(おうちょう)、鄭顛仙(ていてんせん)、鍾礼(しょうれい)らはいずれも粗放な筆致の水墨による画面構成を特色としており、こうした画風は、後の理論家によって「狂態邪学」として攻撃の的になった。 明中期のこの頃を境に浙派は衰え、明後期は後述の呉派が全盛となった。 以下には、「明代の宮廷画家」の節で取り上げた以外の浙派系の画家を列挙する。 なお、これらの画家についても呉偉を「江夏派」として浙派とは別扱いにする論者もおり、本節における分類は絶対的なものではない。 呉偉(1459 - 1508年) - 湖北江夏の人。 成化から弘治年間にかけて、3度にわたり宮廷出仕と帰郷を繰り返した。 孝宗からは「画状元」の印を授かったが(状元とは科挙の首席合格者の意)、性格の激しさから権力者と衝突し、在野で売画生活を続けることが長かった。 呉偉の画風にはかなりの振幅があり、若い頃の丁寧で緻密な画風が中期・晩期には粗放さを増した画風に変化している。 張路(1464? - 1538? 年) - 祥符(河南開封)の人。 嘉靖年間頃に活動した。 粗放な筆致の人物・山水をよくした。 蒋嵩(生没年不明) - 金陵(南京)の人。 正徳・嘉靖年間(1506 - 1566年)に活動した在野の画家。 汪肇(生没年不明) - 安徽休寧の人。 正徳年間に活動。 鄭顛仙(生没年不明) - 福建の人。 経歴はほとんど不明だが、山水人物図、龍虎図などが残る。 鍾礼(生没年不明) - 浙江上廬の人。 字は欽礼。 南宋院体風の山水をよくした。 沈周、文徴明と呉派 [ ] 呉派の祖とみなされる (しんしゅう、1427 - 1509年)は蘇州府呉県相城里の人。 字は啓南。 石田(せきでん)と号し、別号を白石翁といった。 沈家は代々の名家で、父の沈恒、伯父の沈貞も画家であり、沈周は父を継いで糧長(徴税官)の地位にあった。 ただし、所伝のとおりとすると数え年15歳で糧長に就任したことになり、実際に彼が徴税業務を行っていたかどうかは疑問視されている。 絵は董源、巨然、元末四大家のうちの黄公望、呉鎮を学んでいる。 明代を代表する画家で文化人である (1470 - 1559年)は、曽祖父の代から蘇州に定住していた名家の出で、父は温州知府を務めた。 徴明は初名を壁または璧といい、徴明は字であったが、後に字を徴仲と改めた。 衡山、停雲生などと号する。 詩文書画のいずれにも通じ、詩は呉寛(1435 - 1504年)、書は李応禎(1431 - 1493年)に学んだという。 絵は沈周に師法し、元末四大家、とりわけ王蒙と倪瓚の影響を受けている。 なお、沈周とは交流があり、影響を受けたことは確かだが、師・弟子の関係であったかどうかは定かでない。 画風は平明で、淡彩、淡墨、擦筆を好んで用いるが、晩年には作風が変化し、王蒙風の細かく描き込んだ余白の少ない画面になっている。 科挙に10回落ちた後、嘉靖2年(1523年)、歳貢生として北京に行き、翰林院待詔に任じられた。 しかし、その3年後に辞職して帰郷し、以後は自適の生活を送って、90歳で没した。 子の文嘉(ぶんか)、甥の文伯仁(ぶんはくじん)も著名な画家である。 沈周、文徴明に加え、(ちんじゅん)、(りくち)、、(きょせつ)など周辺の画家を含めた一派を、蘇州の古名の呉をとって呉派と呼んでいる。 呉派は宋元以来の文人画の系列に位置づけられ、浙派の行家(職業画家)に対して呉派は利家(文人画家)とされている。 画風的には浙派が水墨の濃淡を主調とし、筆法に粗放な部分があるのに対し、呉派は水墨に淡彩を交えた技法を主体とする。 ただし、すべての画家がこうした二分法に納まるものではない。 たとえば、理論家によって浙派、すなわち行家に分類されている呉偉は士人の家の生まれであり、実際は利家であった。 文徴明に師事した。 写意的な花鳥をよくした。 陸治(1496 - 1576年) - 呉県(蘇州)の人。 文徴明の弟子。 山水や着色花鳥画を得意とした。 文伯仁(1502 - 1575年) - 文徴明の甥。 多くの後継者を出した文氏一族の中でももっとも有力な画家とされる。 画面の隅々まで白描風の墨線で細かく描き込んだ、王蒙風の山水画を描いた。 居節(1527 - 1586年) - 蘇州の人。 文徴明の弟子。 徴明の影響の大きい山水画を残した。 その他の明中期の画家 [ ] 沈周、文徴明と並び明の四大画家と称されるのは、文徴明と同年生まれの(とういん)と、一世代後の職業画家である(きゅうえい)で、ともに蘇州で活動した。 かつては、唐、仇らを「院派」として区別することもあった。 やや時代が下る(じょい)は、激しい内面を奔放な水墨に表した個性的な画家として知られる。 他に浙派、呉派のいずれにも分類しがたい画家として、(しゃじしん)、(しゅうしべん)、(しちゅう)、(かくく)らがいる。 (1470 - 1523年)は字を伯虎という。 号は六如居士など。 弘治11年(1498年)、応天府(南京)の解元(郷試の首席合格者)となったが、翌年の北京の会試(中央の科挙)では不正事件に連座して仕官の途をあきらめ、以後は売画によって生活した。 自ら「江南第一の風流才子」と称する多趣味で奔放な性格で、奇行も多かったという。 絵は沈周に学び、元末四大家のほか南宋画院の馬遠・夏珪の影響も受けている。 人物、山水、花鳥のいずれもよくした。 (1494? - 1552年? )は、字を実父、号を十洲という。 江蘇太倉の出身で、のち蘇州で活動した。 若い時は漆職人であった。 絵は周臣に学び、青緑山水や人物をよくした。 写実的で精緻な山水・人物の他に、粗放な筆致の水墨画もある。 (1521 - 1593年)は、字は文清のち文長、天池山人、青藤道士と号した。 浙江山陰()の人で、絵のほか詩文、書をよくし、戯曲も書いた。 妻殺しで下獄するなどの数奇な人生を送った人物で、溌墨による写意の花卉画に本領を発揮した。 内面の葛藤を画面にぶつけるような激しい筆致の水墨画を残した。 謝時臣(1487 - 1557年以後) - 呉県(蘇州)の人。 文徴明、周臣、仇英らと交友があった。 画風は沈周(呉派)、戴進(浙派)を折衷した様式。 周之冕(生没年不明) - 江蘇長洲(呉県)の人。 花鳥画をよくした。 史忠(1436? - 1519? 年) - またの名を徐端本という。 金陵(南京)出身の文人画家。 画風は南宗画系。 沈周と交友があったが作風は異なる。 郭詡(1456 - 1529年以後) - 江西泰和県の人。 写意的な人物画を描いた。 董其昌『秋興八景図冊』のうち(上海博物館) 明後期の理論家である何良俊(1506 - 1573年)は文徴明を敬愛していた。 何良俊は『四友斎叢説』等の著作の中で、行家(職業画家)に対する利家(文人画家)の優位を説き、絵画において大切なものは「韻」であるとした。 すなわち、絵画には手先の技術だけではなく、それを描いた人の人格、気品が現れていることが肝要であり、したがって文人、つまり教養と徳のある人物の描いた絵が優れているとする。 また、利家が技術を学ぶことによって行家を兼ねることはできるが、逆に行家が利家を兼ねることはできないとした。 高濂(16世紀後半)は、著書『燕間清賞箋』において、弘治・正統年間の浙派の粗放な筆法、具体的には張路、蒋嵩、汪肇、鄭顛仙、鍾礼らのそれを「狂態邪学」という厳しい言葉をもって批判した。 (1555 - 1636年)は江蘇華亭()の人。 字は玄宰、号は思白、香光居士。 万暦17年(1589年)首席進士となり、職位は礼部尚書(文部大臣相当)にまで上がった。 『画旨』『画禅室随筆』などの著書があり、明末期の画家、書家、理論家として、その後の中国絵画に実作、理論の両面で多大な影響を与えた人物である。 董にとって絵画とは「古人に倣う」ものであり、五代〜北宋の董源・巨然、宋の米芾・米友仁、元末四大家らの文人画系列の絵画を学ぶべきものとした。 また、画家にとって「万巻の書を読み、千里の路を行く」ことが必要であり、「天地を以て師となす」「心を以て物を写し、丘壑(きゅうがく)は内に営む」べきであるとした。 董はまた「南北二宗論」を唱えたことで著名である。 南北二宗とは、中国の禅仏教に北宗禅と南宗禅の2派があるように、絵画にも2つの流れがあるとして、唐時代以来の絵画の流れを北宗画と南宗画に分けたものである。 董の説によれば、北宗画とは唐の李思訓・李昭道の青緑山水画に始まり、宋の趙幹・趙伯駒(ちょうはくく)・趙伯驌(ちょうはくしゅく)を経て南宋画院の馬遠・夏珪に至る流れであり、南宗画とは唐の王維の渲染のある水墨山水に始まり、荊浩、関同、董源、巨然を経て、宋の米芾・米友仁、元末四大家に至る流れであるという。 董は南宗画、すなわち利家(文人)の画に価値を置き、行家(職業画家)の絵である北宗画は学ぶ価値がないとした。 こうした論旨から、この論は「尚南貶北論」(しょうなんへんぼくろん、南をたっとび、北をおとしめる論)とも言われる。 董其昌自身の絵画は、抽象的・構成主義的であることが指摘されている。 すなわち、董の山水画の画面からは、墨の濃淡の変化や明暗のニュアンスは意図的に排除され、白の画面に黒の均質の線をもって山水が構成されている。 白と黒のモノクロームの絵画である水墨画には、写実的な描写を指向する流れと抽象的な構成を指向する流れとがあるが、董の山水画は明暗や濃淡のグラデーションによる大気や遠近感の表出を指向したものではなく、白い平面上の黒の形態による抽象的構成を指向したものである。 董は多くの作品を紙に描いているが、これは、白い画面上の黒の線による構成をより際立たせるためには絹よりも紙が効果的であるためだといわれている。 明末の画家たち [ ] 明末の動乱期にはさまざまな個性をもった画家が多数登場した。 (ごひん)は独特のデフォルメされた形態をもつ山水で知られる。 (ていうんぽう)は道釈人物(仏教と道教の人物)を得意とした。 (ちんこうじゅ)は独自の人物画で知られ、花鳥画もある。 (さいしちゅう)も人物画で知られ、陳洪綬とともに「南陳北崔」と称された。 他にも(べいばんしょう)、(らんえい)、(りりゅうほう)、(ちょうずいと)、(げいげんろ)、(ちょうさ)、(しんしじゅう)、(しょううんじゅう)など多くの画家がいる。 彼らの多くは職業画家でもある文人で、画風もそれぞれ個性的である。 呉彬(活動期間1601 - 1626年) - 福建莆田の人。 もと職業画家で、1601年に南京に出て宮廷に仕えたが、宦官の魏忠賢を批判したかどで捕えられ、以後の動静は知られていない。 奇怪な形態の山水を描いた。 丁雲鵬(1547 -? 年) - 安徽休寧の人。 道釈人物画をよくし、詩文や仏像製作にも携わった。 崔子忠(? - 1644年) - 山東莱陽の人。 着色の故事人物画をよくした。 貧窮のうちに孤高の人生を送り、1644年、明が滅亡すると、最期は土室に籠って餓死したという。 陳洪綬(1598 - 1652年) - 浙江諸曁の人。 独特の風貌の人物画を描いた。 明の宮廷に出仕したこともあるが、社会の腐敗に憤り帰郷。 1644年の明滅亡後、1646年に一時出家するが、のち還俗した。 悔遅(かいち)、老遅(ろうち)などと号したが、これらの号には明の滅亡後も生き残ってしまった(死に遅れた)との思いが込められている。 米万鍾(1570 - 1628年) - 長安の人。 山水画と書をよくし、書は董其昌と並んで「南董北米」と称された。 浙派の山水画は藍瑛によって終わると評されている。 李流芳(1575 - 1628年) - 安徽歙県の人で江蘇嘉定に住んだ。 金箋に淡墨を用いて独特の効果を出した。 張瑞図(1570 -? 年) - 福建の人。 書家としても知られる。 絹の代わりに絖本(こうほん、サテン)を用いて独特の墨色の効果を出した。 趙左(1573 - 1644年) - 華亭(上海松江県)の人。 呉派文人画の諸派の中で蘇松派の祖とされる。 董其昌と親交があり、その代作も行ったことが知られる。 沈士充(生没年不明) - 呉派文人画の諸派の中で雲間派と称される。 趙左に師事する。 蕭雲従(1596 - 1673年) - 安徽蕪湖の人。 崇禎期(1628 - 1644年)に副貢生という地位にあったが、清朝には仕えなかった。 山水画をよくし、倪瓚・黄公望を師法した。 呉派文人画の諸派の中で姑孰派と称される。 趙之謙『花卉図』1871年(東京国立博物館) 時代の概観 [ ] 時代は、明王朝が崩壊しが即位した1644年から、1840年のを経て、1911年のに至る激動の時期にあたる。 明時代の末期、朝廷は政争に明け暮れ、農民の反乱が頻発し、明王朝は混乱と衰退のさなかにあった。 1644年に農民反乱のリーダーであるがを自死に追い込むが、李自成の天下は40日しか続かず、北京はに制圧され、満州族の国である清が中国最後の統一王朝となった。 清は満州族独特の髪型であるを強要したが、それ以外の面では漢民族の文化や政治制度を引き継いだ。 による官吏登用も引き続き行われ、宮廷画家も任命された。 清時代の画壇は、董其昌の流れを汲む正統派と、明の遺民による個性派の画家たちのグループに二分されている。 明の遺民とは、異民族の王朝である清に仕えることを潔しとせず、明王朝への忠誠心と清王朝への反抗的精神をもって生きた人々である。 この中には異民族の風習である辮髪を強要されることを嫌って、出家・剃髪して僧となる道を選んだ者もいた。 清代の画家の中に、、(せきとう)などの僧籍にあった者が多いのはそのためである。 清代画壇の正統派とは、明代の文人画の呉派や董其昌の流れを汲む画家たちで、古人の筆法に倣って作画することを旨とするため倣古派ともいう。 (おうじびん)、(おうかん)、(おうき)、(おうげんき)の4人の王姓の画家がその代表で、彼らを「四王」といい、これに(ごれき)と(うんじゅへい)を加えて「 四王呉惲」(しおうごうん)ともいう。 一方で、古典の学習よりも画家個人の個性の表現を重視する画家もこの時代には多かった。 清初に南京で活動した(きょうけん)らの 金陵八家や、清中期ので活動した(ていしょう)らの と称される画家たちが著名である。 1840年のアヘン戦争以後、清は海外列強に蹂躙されて弱体化し、(1850年〜)などの国内の不穏な動きが混乱に輪をかけた。 こうした世相のもと、国際通商港であり、外国への窓口であったには、沈滞した絵画界を革新しようとする画家たちが集まり、海上画派と呼ばれた。 (ちょうしけん)、(じんい)、(ごしょうせき)らがその代表格である。 趙・呉の両名は、金石(金属器や石碑などに刻まれた文字)を学び、詩書画篆刻のいずれも得意としたことから、金石画派の名もある。 伝統画法に近代性を加味したこれらの画家は清王朝の最後を飾り、近代への橋渡しをした。 辛亥革命(1911年)以後、成立後は、ヨーロッパ、日本などへの留学経験者が画壇で活躍した。 また、上海をはじめ各地に美術学校が設立された。 こうして、従来の文人士大夫画家に替わって、海外留学組や「学校派」と呼ばれる美術学校出身者が画壇の中枢を占めるようになった。 国画(中国の伝統絵画)の伝統と西洋絵画の技法をいかに融合させるかということが近代中国画家の共通して直面するテーマとなった 四王呉惲 [ ] 王時敏(1592 - 1680年)は江蘇の人で、字は遜子、号は烟客。 万暦29年(1601年)の進士である。 王鑑(1598 - 1677年)は王時敏と同じ江蘇太倉の人で、字は元照、のち円照、号は湘碧、染香庵主など。 崇禎6年(1633年)の挙人である。 王時敏、王鑑の両名とも名家の出身で、両者の祖父はともに高名な文人であり(王鑑の祖父は)、両家には学ぶべき古画が多数所蔵されていた。 王時敏、王鑑はともに董其昌に師事した。 明末には官を辞して自適の生活を送り、清朝には仕えなかった点も両者に共通する。 四王のうちの王原祁は王時敏の孫であるが、 王翬のみは他の3名のような名門の出ではない。 王翬(1632 - 1717年)は太倉の近くの江蘇虞山(常熟)の出身で、字は石谷、号は耕烟山人、清暉主人。 王翬は、20歳の時に王鑑に見出され、王時敏に師事した。 古画の模写を得意とし、若い時は王時敏について古画の所蔵家を歴訪し模写に励んだ。 後には画聖と呼ばれ、康熙30年(1691年)、60歳の時には康熙帝の南巡(江南地方視察)の記録画の作成を命じられ、2年かけて12巻の大作を完成させた。 王時敏の孫・ 王原祁(1642 - 1715年)は字を茂宗、号を震台という。 祖父王時敏の指導で幼少期から絵を学んだ。 王時敏は「元末四大家の精神を伝えたのは董其昌、形を伝える点では自分(王時敏)も負けていないが、精神と形をともに伝えるのは王原祁だ」と称揚した。 王原祁は康熙9年(1670年)の進士で、宮廷画家となり、康熙帝の信任が篤かった。 呉歴(1632 - 1718年)は江蘇常熟の人。 字は漁山、号は墨井道人。 絵を王時敏に学ぶ。 家族を失った後、仏教、続いてキリスト教に入信し、でキリスト教の宣教師として活動した。 ただし、画風には西洋の影響はみられない。 惲寿平(1633 - 1690年)は江蘇武進(常州)の人。 初めは名を格、字を寿平といったが、後に寿平を名とし、字を王叔と改めた。 号は南田。 山水画もあるが、没骨彩色の花卉画を得意とした。 惲寿平『倣倪瓚古木叢篁図』(台北故宮博物院) 四僧 [ ] 清代初期に活動した画家の中には、正統派の「四王呉惲」とは別に、個性的な画風を持った一群の画家がいた。 このうち、出家して僧籍にあった、(せきけい)、(こうじん)、(せきとう)の4名を四僧と称する(八大山人は後に還俗した)。 俗姓は朱。 画家としては朱耷(しゅとう)とも称されるがこれは通称で、譜名(系図上の名)は朱統𨨗(𨨗の漢字は「林」の下に「金」)、僧名を伝綮(でんけい)、字を刃庵といった。 八大山人は晩年の号で、この名でもっともよく知られるが、他に雪个・个山・人屋とも号した。 19歳の時に明が滅亡したが、彼は僧となって難を逃れた。 50歳代のある時、精神を病んで僧衣を引き裂いて還俗し以後は貧窮の中で画作を続けた。 反骨精神を筆に託し、明の徐渭などの写意の花鳥画をもとに、晩年に至って独特の画風を作り上げた。 代表作は1694年(69歳)作の画帖『安晩冊』(京都・泉屋博古館)で、山水、花鳥、蔬果、虫魚などの伝統的モチーフによりながら、意表を突いた構図、一気呵成に引かれた線などに独自の世界を見せる。 (1642 - 1707年)は全州()の人。 本名は朱若極、出家後の法名は原済。 石濤は号である。 大滌子(だいてきし)、苦瓜和尚(くかわしょう)などとも号した。 明の王族の末裔であり、明滅亡期に父を殺害された。 後に出家し江南を遍歴。 康熙帝の南巡(江南地方視察)の際に帝に謁見し、北京の宮廷に招かれて3年ほど滞在したこともあった。 晩年は揚州に定住し、売画で生活した。 黄山などをテーマとした山水画を描いたが、画風は北宗画・南宗画のいずれにも属さない「我法」(先人に倣わず、自らの画法で描くこと)にこだわった。 上述の八大山人とは、直接会ったことはないが、石濤から八大山人に送った書簡が残っており、間接的ながら両者の合作の絵もある(八大山人の描いた蘭に石濤が竹石を描き足したもの)。 なお、石濤の生没年には諸説あるが、1642 - 1707年とする新藤武弘説が有力である。 石濤の画名は生前から高く、そのために偽物が非常に多いことで知られる。 代表作は『廬山観瀑図』『黄山八勝図冊』『黄山図巻』(以上3点は京都の泉屋博古館蔵)など。 (1612 - 1692年頃)湖南武陵(常徳)の人。 出家後の法名は髠残(こんざん)、俗姓は劉。 石谿は字である。 明初の四僧の中ではもっとも本格的な仏教者である。 渇筆を用いた王蒙風の山水をよくした。 弘仁は出家後の法名で、俗姓は江、名は韜(とう)。 漸江(ぜんこう)と号する。 絵は元末四大家の倪瓚を学び、人気(ひとけ)のない岩山、絶壁から伸びる孤松などの独特のモチーフを描いた。 査士標らとともに新安派と呼ばれる。 金陵八家 [ ] 清初期、江南の主要都市には個性ある画家が現れた。 前出の弘仁とその一派は、徽州(新安)で活動したことから新安派とも呼ばれた。 古都南京(金陵)には多くの優れた画家が活動し、中で(きょうけん)、(こうしん)、(はんき)、(ごこう)、(すうてつ)、(しょうきん)、(こぞう)、(しゃそん)らを金陵八家と称した。 八家のうち、鄒喆、葉欣、胡慥、謝蓀の現存作品は少ない。 同じ頃、安徽宣城には、もっぱら黄山の風景を描き、黄山画家と呼ばれた梅清(ばいせい)がいた。 龔賢(1618 - 1689年以後)は江蘇昆山の人で南京に住んだ。 無人の山水画をもっぱら描き、濃墨を塗り重ね、墨の濃淡のコントラストを強調した作風が特徴。 高岑(生没年不明) - 杭州の人で南京に住んだ。 山水や水墨の花卉をよくした。 樊圻(1616 -? 年) - 南京の人。 生年は1611年、没年は1694年とも。 山水、花鳥、人物のいずれもよくした。 梅清(1623 - 1697年) - 安徽宣城の人。 黄山風景を得意な構図と画法で描いた。 査士標(1615 - 1698年)- 安徽休寧の人で揚州に住んだ。

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書道 絵師

一 各藩の絵師 愛媛における近世絵画の幕開けは戦国争乱が収まり、幕藩体制による伊予八藩成立のころからである。 松山・今治・宇和島・大洲など各藩の築城、藩邸の造営など新しい建設時代の要請に基づき召し抱えられた絵師たちを中心に展開していく。 江戸時代も中期以降は長年の平和と各藩の文治政策による学芸の隆盛、産業の発展にともない、文人画の勃興、写生派の台頭などで町絵師も出現、藩外との交流も活発となり、次第に画流も多様多彩となる。 だが、当初は、なんといっても藩の絵師が中心となり新時代を切り開いていく。 1 松山藩の絵師 松山藩初代の絵師は松本山雪である。 彼は松山松平初代の藩主定行に見いたされ、その転封に伴い松山入りをする。 定行は戦国争乱の世を生き抜いた武将であり、彼の父は徳川家康の同母弟に当たるいわゆる親藩で幕藩体制下における四国周辺の鎮として当地に配置される。 彼は戦国武将であるとともに高い教養をもつ文化人でもあり、幕府のそうした期待と任地住民の衆望に応え、以後、当地の産業・文化発展に力を尽くし、近世松山文化の基を開く。 その定行が松山転封に際し是非必要な人物とし山雪をわざわざ召し連れるには、よほど彼の人物・力量にほれ込んだものと思われる。 山雪もまた、その懇請に応え、藩初代の絵師として松山に住みつき、愛媛近世絵画の劈頭を飾る巨匠として輝かしい業績を残す。 山雪のころ、松山藩の絵師制度はまだ確立されておらず、極く軽い身分で藩の用を承るとともに一般の求めにも応じる至極自由な立場のようであった。 当時彼の待遇は「二人扶持」であり、彼の跡を継ぐ山月は初め「五人扶持」、のち「八人扶持」となる。 三代目の絵師豊田随園に到り初めて「百石六人扶持」の士分となり、ようやくそのころに至って藩の御絵師制度は確立される。 こうした待遇・身分は、各藩の事情によってさまざまだが、一応藩お抱えの絵師ともなれば公認された専門絵師であり、藩の用だけでなく、それぞれ地域における斯道の最高権威として指導的な役割を果たす。 以後、松山藩では初代山雪のあとその養子山月が継ぎ、三代豊田随園、四代武井周発、五代豊田随可、六代荻山常人、七代荻山養弘、八代阿倍晴洋と狩野派の絵師が受け継ぎ、途中遠藤広古・広実父子二代の大和絵系住吉派の絵師が加わる。 松本山雪 山雪の遺作は県内はもとより全国各地に散在し、また馬の名手といわれ、彼の名は広く知られている。 だが、その出生・画歴については不明の点が多く、今治出身とか、松山生まれなどさまざまな伝承も手伝い、幻の絵師ともいわれてきた。 ところが、最近、伊予画人研究会矢野徹志らの調査により、「松本家系図」が発見され、その家系・出生が明らかになった。 それによると、彼の出生は近江。 その父は紀州藩士で、浪人して藤堂高虎に仕え再び浪人する。 山雪の代に至って松山藩主松平定行に随行し、画御用を勤めるとある。 松山における彼の住所は市の郊外南土居にあり、村人はそこを松本庵という。 その近く万福寺境内に彼の墓があり、岨嶺山雪居士覚霊の戒名と延宝四年(一六七六)霜月二三日の没年月日が銘記されている。 「松本家系図」の「松本山雪恒則延宝四年一一月二三日卒行年九六歳」とも一致する。 ただ、この行年九六歳には疑点もあるようだが、相当の長寿であったことは間違いない。 彼は別号を岨嶺といい、また心易ともいう。 彼の画歴について、京狩野二代目の当主で同名の狩野山雪に師事との説もあるが、その山雪は松本山雪より若年であり、その説はどうも疑わしい。 だが、同名の故もあって両者の作がしばしば混同され、幻の絵師といわれてきたことは師弟の関係というより、むしろその作風・力量が似ていることの証左でもあろう。 山雪が松山入りの年、ちょうど桃山画壇の大御所狩野山楽が没している。 その家系を受け継ぐ狩野山雪は当時四五歳、松本山雪は五四歳(松本家系図)である。 彼がどういう関係で狩野に入門したのかはわからないが、年下の山雪よりも当時華々しい活躍を続けていた山楽の影響を多分に受け、その正統の山雪にも劣らぬ画技を身につけ、その一門中で抜群の活躍をしているところを定行に見込まれたものと思われる。 彼の代表作に、東京国立博物館蔵の「宮島図屏風」「牧馬図屏風」、愛媛県指定文化財の「製茶風俗図屏風」(武智圭邑氏蔵)、松山市指定の「墨馬図屏風」(二神一正氏蔵)、などがあり、その他個人所蔵の「瀟湘八景図屏風」、「楼閣山水図屏風」、「唐人故事図屏風」、「釈迦三尊図」、「武将図」などその力量と画域を示す優作も多い。 これらの作を通じ、その描写力の確かさ、構成の力強さ、画域の広さなど当時における狩野の正統を受け継ぐ絵師であることを十分にうなずかせる。 さらに、彼の作によく見る点景の人物・動物・樹木などの生き生きとした表情、豊かな写実の傾向は、桃山から徳川初期へ移行する狩野派の時流を先取りし、同派の先端を行く気概をさえ感じさせる。 彼晩年の作には狩野を越え階体から草体へ雪舟・如拙・周文らに近い室町様式への復帰と精神性を加味した、一種純化の傾向が目立ってくる。 彼は馬の名手といわれ、名馬の産地奥州にまで足をのばしたといわれるだけに、その生態描写はまことに見事である。 山雪のやせ馬ともいい、あばら骨もあらわに無気味なまでに真迫力に富む作、また、時には足が短く頭の大きい不格好だが愛嬌に富む県内産の野間馬そっくりな姿など、馬のあらゆる姿態を活写し親しまれている。 彼の愛用した印章が今も揃って残り、県指定の文化財となっている。 その中の一顆に、「御免筆」の文字を刻んだ印章がある。 その印につき、「松本家系図」は次のように述べている。 「松本山雪藤原恒則ハ勢州桑名ヨリ来ル伊予国浮穴郡土居村ニ住ス 勅命ニ依リ上京シテ御所ニ参内シ馬ノ画ヲカク 其妙ナルヲ御感有テ肩ノ印御免筆ノ綸旨ヲ頂戴シ 其後御免筆卜云フ御印ヲ絵ノ肩ニ押ス」と。 この印章につき、従来は、山雪が藩御用以外に筆を執る時、藩主より特に許されたいわば許可証のような役割をもつものと解釈されていたが、この記述により、その由来とともに彼の画歴が一層明確となる。 つまり、松山といういわば僻地に在りながら、当時中央画壇で活躍中の有力作家を差し置き、御所に召されて絵御用を勤めるということは、彼こそ狩野の正系を受け継ぐ最有力の作家であること、また、その力量と人物を見抜いて松山に召し連れた藩主定行の烱眼、その山雪を初代絵師とする以後の松山藩絵師への影響なども推察するに難くない。 松本山月 山月は通称を佐次之丞、半輪斉と号し、山雪の跡を受け、松山藩二代目の絵師となる。 慶安三年(一六五〇)生まれ、享保一五年一月二八日没、享年八一歳。 その墓は山雪とならび万福寺の境内にあり「帰本昭光院山月居上位」とその没年月日が刻まれている。 「松本家系図」では山雪の嫡子となっているが、その年齢差などから養子という説が有力である。 山雪はその若い後継者によほど目をかけ、身辺離さず指導したとみえ、藩主定行隠棲の東野御殿へしばしば親子揃って参上し、公のお茶の相手を勤めたとか、その襖絵は親子の合作という伝承もあり、彼の画風は正に山雪直伝である。 山雪が没した時彼は二五歳、若年ながらも藩の御用を勤め、貞享元年、三四歳で三の丸藩邸に「松竹梅図」を描き画名ますます高く、名実ともに山雪の後継者と称賛される。 彼の代表作に万福寺蔵「大涅槃図」、讃岐金刀比羅宮蔵「野馬図屏風」、重信町松本敬康氏蔵「野馬図屏風」等があり、その他の遺墨にも山雪に劣らぬ画境・力量を示す作も多いが、どうも山雪の盛名におされ、影のうすい感は免れない。 山雪・山月らの活躍した江戸初期における中央画壇の状勢をここで少々考察してみたい。 元信を始祖とする狩野派は、桃山時代に至り信長・秀吉らの英雄主義的風潮に乗り、永徳の雄渾な画風が大いにもてはやされ画壇の支配勢力となる。 それに続き、さらに華麗さを加えた山楽の装飾画風が一世を風靡する。 ところが豊臣氏の滅亡、徳川氏の制覇による政権の交代で、秀吉に寵用された山楽は豊臣の残党とみなされ暫く影をひそめる。 だが、やがてその窮境を脱し、徳川方には新鋭の探幽を差し向け、朝廷には孝信を、自身は京にとどまり本家のいわゆる京狩野を形成する。 江戸に向かった探幽は清新瀟洒な画風で新時代を風靡し幕府の御用絵師となり、鍛冶橋狩野を形成する。 それにならい他の狩野派絵師たちも活躍舞台を江戸に求め、尚信は木挽町狩野、安信は中橋狩野、岑信は浜町狩野と幕府の奥絵師四家を形成し、以後の中央画壇に不動の地歩を固める。 さて、京にとどまりいわゆる京狩野を形成した山楽は、舞台の中心が江戸に移るとともに新時代の潮流からは取り残された姿となる。 彼の華々しい活躍で一世を風靡した桃山様式に代わり、探幽の確立した清新瀟洒な画風が新味をもって迎えられ、時流は大きく変わってくる。 山楽の流れをくむ山雪の画業も愛媛の絵画に新風を吹き込み、さらに御所にも出仕し中央画壇でも輝かしい業績を残すが、それもやがて時流におされ、御本家の山楽と同じ運命をたどることとなる。 彼の跡を継いだ山月も、画業をよく守り藩絵師として活躍するが、新味に乏しく、時流におされ、藩でもやがて新鮮な江戸狩野の流れを導入することとなる。 即ち三代目の絵師豊田随園の登場である。 豊田随園 随園は常之とも号し、山雪・山月の後を受け松山藩三代目の絵師となる。 彼の生年ははっきりしないが享保一七年(一七三二)、山月の没後二年目に没しており、その活躍年代は山月とほぼ同年であり、ある時期は二人そろって活躍していたものと思われる。 随園は江戸奥絵師の浜町狩野に籍を置き、松本岑信随川の教えを受け、師の一字を賜り随園と号し、同門の後見役を勤めた有力者である。 また彼の別号常之は師随川の父狩野常信から受けたとの説もある。 彼の経歴につき『古今記聞』は次のように伝えている。 「小児の時は餅など売りて家中の長屋などを徘徊して賤しき者なりと。 この小児たりし時より画を好みて反古塵紙などを与ふれば画を書く。 その風説凡ならず、其親画をならわし、終に召し出され、狩野家の後見台命を蒙りたる者也。 希世の名画といふべし。 随の字は狩野家にて賜はりし字のよし。 」 彼の遺作は多くないが、某家所蔵の「花鳥人物図屏風」などには、明らかに探幽様式を受け継ぐ常信あたりの作風をうかがわせ、描写対象を簡潔にしぼり、余白を多く残す画面構成に一種の情趣を盛り込み、山雪様式とは全く違う新しい息吹を感じさせる。 武井周発 随園の後を受け、藩四代目の絵師を継ぐのは武井周発である。 周発は元禄七年(一六九四)押川由貞の四男として生まれ、初め作之丞と称し、後半三郎と改め、常美と号す。 正徳五年(一七一五)武井家の養子となり、二年後二四歳で藩主定直の次小姓となる。 つづいて藩主定英・定喬に仕え、元文元年(一七三六)四三歳の時周発と名乗り、藩絵師となり一〇石三人扶持を給せられる。 明和七年(一七七〇)有医格となり、随園の孫豊田随可に藩絵師を継がせ、同年九月三日、七七歳で没す。 墓は菩提寺の味酒町の長久寺にある。 周発が継いだ武井家は随園の親戚に当たり、彼の絵の手引、特に江戸の浜町狩野随川門下での修業も随園の推挙によるものと思われる。 彼の遺墨は今もかなり多いが、その中に最大傑作は長久寺旧蔵の「日蓮上人一代記」であろう。 惜しいことにその記念碑的な大作は戦災のため灰燼に帰し、今は昭和二年松山城で開かれた「伊予古美術展」の図録によりその面影をうかがう外ない。 縦九尺二寸、横一丈二尺という、その巨大さにも彼がこの作にかけた異常な気迫がうかがわれる。 一条の雲が渦巻き状をなし、その中央に五重塔と女神、神将を配し、それを背にして日蓮が坐す。 画面の左上から上人の歩んだ波乱の生涯、即ち「辻説法、佐渡流罪、竜の口の受難、蒙古襲来」等の一代記が展開する。 この画面構成には「一遍上人絵伝」や「蒙古襲来絵詞」など絵巻の図様や密教の「曼荼羅」の組み合わせを想像させるものがあり、平安・鎌倉・室町を経て形成された日本絵画様式の集約が見られ、それを鳥瞰する周発の力量がうかがい知れる。 その他多くの遺墨にも、随園に似た江戸狩野の緊密な構想、明るく瀟洒な色感がうかがわれ、なかなかの健筆である。 もう一つ彼の功績として特筆すべきものは、彼七二歳の著『武井周発自伝』である。 画業一筋の彼の歩みと歴代藩主や狩野家とのかかわり合いなど、当時の藩絵師の実態を克明に記録したものであり、愛媛の美術資料としてはもとより、全国的にも珍しい地方藩絵師の実態を余すところなく記述した名著である。 豊田随可 随可は常令とも号し、幼少より祖父随園の影響を受け、周発と同じ浜町狩野随川甫信門下で修業、能画のほまれ高く、周発の後を受け藩五代目の絵師となる。 寛政四年(一七九二)七二歳で没す。 『武井周発自伝』『古今記聞』など彼に関する古記録をみると、その剛直な性癖、奇行振りが伝えられ、その奇行のため狩野本家にとがめられ、祖父随園は師より受けた随の字を返上せざるを得なかったという。 また随可は他に抜きんでた才能、何事にも屈しない剛直な性格の持ち主である。 ある時、主君の側近衆がそれを心憎く思い、明月の夜、狭い縁側に莞席を敷き、今宵は月もよし、縁に出て月を賞せよと誘う。 随可はそれにつられ、空を眺めつつ莞席の端に出て、たちまち庭に転落する。 しかし、倒れながらも彼は頭をささえ、「良き月よのう、貴公達がすすめるのもごもっとも」と平然という。 また、その前置に「絵は至極の上手也、然れ共随園よりは少し劣れりと見えたり」と少々皮肉ってもいる。 当時、同年輩の墨竹の名手蔵沢の奇行も有名で、それと併称、諸芸の達人として明月上人、蔵山和尚とともに記述されている。 彼の遺墨は少なく、詳しくはわからないが、若書きは極度に様式化された筆法で生気に乏しく、晩年になるに従い軽妙洒脱、表情も豊かで生気を帯び、彼の本領を発揮したようである。 彼の活躍したころは山雪から既に一世紀を経た江戸時代も中期である。 初期に確立された「探幽様式」は彼の没後、狩野派の絶対的な権威となり、それを安易に模倣する粉本主義を生み、多くの功罪を残すこととなるが、おそらく随可もその粉本主義の洗礼を初期には強く受けていたのであろう。 しかし、彼の晩年は、ちょうど新しい実証主義が芽生えたころであり、絵画の世界も応挙の写生派、大雅・蕪村を中心とする南画の勃興があり、松山藩でも蔵沢の墨竹がもてはやされるなど、新たなリアリズムに対する覚醒が画業に反映したのではなかろうか。 随可の後、狩野系の絵師は木挽町狩野常信の門人荻山常人(文政四年=一八二一没)が引き継ぐ。 だが、ちょうどそのころ、住吉派の遠藤広実も起用され、藩の絵師も狩野・住吉両派の併立となり、さらに南画の勃興、写生派の台頭で、当地の画壇もようやく多彩、活況を呈してくる。 遠藤広古 松山藩の絵師は初代の山雪以来明治に至るまで、代々狩野派の絵師が引き継ぐ。 ところが、その途中、大和絵系の絵師、遠藤広古・広実父子二代が加わっている。 朝廷や幕府は別として、一地方の藩でこうした両派の併用は異例といえよう。 江戸時代も中期となり、ようやく文芸興隆の時に、藩におけるこうした両派の併用は、当地の文化に一層の多彩さをそえ、大いに歓迎されたものと思われる。 平安以来の日本伝統絵画を大和絵といい、その主流を土佐派、その一支流に住吉派がある。 土佐派一五代光則の弟広通(如慶)が、中絶していた住吉派を再興し、江戸に移って幕府の奥絵師となる。 それより四代を経た住吉広守門下の俊英が遠藤広古である。 広古は寛延元年(一七四八)江戸に生まれ、広起ともいい、蝸盧と号す。 寛政のころ松山藩絵師となり、文政七年一一月一七日、七七歳で没す。 彼の遺作は今もかなり多く、花鳥人物を得意とし、狩野の筆法を取り入れた気宇広大な力強い作から、大和絵の正統をひく緻密な表現まで画域は広いが、あくまでも住吉派の格調高い本格派である。 遠藤広実 広実は天明四年(一七八四)生まれ、幼名を古致、通称を伴助といい、住吉家五代広行の教えを受けて、父の跡を継ぎ松山藩絵師となる。 文久二年五月二六日、七九歳で没す。 江戸の住吉派は伝統的な大和絵を基礎に早くから狩野の筆法を加え新様式を確立している。 ところが、広実のころ、つまり江戸時代も後期に入ると伝統的な大和絵・狩野派を圧して、写生派の円山・四条派や南画など新傾向の活動が活発になる。 広実はその時代感覚を積極的に取り入れ、住吉派の正統に清新瀟洒な画境を加え、同派の第一人者といわれ、愛媛の絵画史に独自の生彩を放つ。 広実の弟子に桂心・桂丹がおり、その子広賢は住吉宗家を継ぎ八代当主となる。 2 大洲藩の絵師 肱川の清流に面し風光明媚な大洲地方は、古来文化の香り高く、小京都といわれてきた。 しかも、代々の藩主は自ら絵をたしなみ、諸芸に秀で、特に三代藩主泰恒、その子文麗はいわゆる殿様芸の域を脱し、中央画壇でも高名の画人であった。 やがてその流れをくむ藩の絵師若宮養徳らが出現して、当地人士に大きい影響を与え、伊予八藩の中でも特異な文化圏を形成していった。 そうした気風は明治以後にも及び、日本洋画の先駆中川八郎・中野和高らを送り出す。 加藤泰恒 泰恒は大洲加藤家三代の藩主。 明暦三年(一六五七)生まれ、正徳五年(一七一五)七月九日五九歳で没す。 泰経・泰常ともいい、遠江守・乗軒・傑山と号す。 木挽町狩野常信に付いて狩野の正統を身につけ、花鳥・人物・山水いずれもよくしたが、特に仏画・武者絵を得意とする。 当時、三百諸侯のうち、豊後日出の城主(豊臣俊長)とともに画道の両雄とうたわれ、絵画はもちろん武術・禅学・能楽・和歌・書道・易学・天文地理・茶道・香道にも通じ、文武両道に達した明君と慕われる。 宝暦ころの筆録『温故集』に「宝永二年彼四九歳の時、参勤の途次、京都に立寄り和歌の師大納言清水谷実業から献上画の内勅を受け、沐浴斎戒して『富士に鷹図』の三幅対を描き東山天皇に献上」とも述べられている。 彼の遺墨は、今も大洲地方に多く残され、その謹直な描法、格調高い画風が珍重されている。 加藤文麗 泰都文麗は泰恒の六男、宝永三年(一七〇六)大洲に生まれる。 正徳三年彼八歳の時、江戸に上り、父泰恒の叔父旗本泰茂の跡を継ぎ、幕府の直臣とし職務に精励、従五位下伊予守に任じられる。 絵は父と同門の木挽町狩野三代周信について学ぶ。 宝暦六年四九歳で隠居、入道し号を予斎といい、以後画道に専念。 天明二年(一七八二)三月五日、七七歳で没す。 文麗は江戸の画壇で名声高く、谷文晃も彼の指導を受け文朝と号す。 他にも多くの門弟があり、安永七年、七三歳の時、その弟子たちにより出版された『文麗画選』は当時の数少ない画手本であり、彼画業の特質をうかがう好資料である。 その序文の一節に「先生致仕後は、唯、画を楽しみとし神境に至った。 描くところは山水・草木・花鳥・人物あらゆるものを筆にしたが、中でも最も人物を得意とした。 しかしその作画ぶりは、筆をなめ、思を積み、日を重ねて後成るのではなく、すべて一払の際に絵を成した。 これを得る者は珠玉にも比した」とあり、その練達振りをたたえている。 大洲藩歴代の藩主が絵をよくし、また藩中に多彩な画人を生むのも多くは彼の感化によるという。 彼の遺墨も大洲地方を中心に随分多く、今もその軽妙洒脱な筆触、格調高い画境を賞し秘蔵するものが多い。 若宮養徳 養徳は宝暦四年(一七五四)もと若宮村の紺屋幸右衛門の次男に生まれ、幼少より絵を好み、長州藩絵師文流斎洞玉について学び、一〇代藩主泰済に登用され藩絵師となる。 その後藩命により江戸に上り、木挽町狩野七代養川惟信門下に学び、師の二字をいただき、養徳惟正と号す。 文流斎は先師の号を受け継ぐという。 天保五年(一八三四)五月六日八一歳で没す。 彼の遺作は多く、中でも名刹如法寺本堂三室の大襖絵二八枚の龍・松竹梅・山水図、並びに同寺蔵の十六羅漢図、加藤家菩提寺曹渓院の布袋図大幅、彼の菩提寺西光寺本堂襖絵の雲龍、西大洲西方寺襖絵の獅子図等がよく知られ、その他民間所蔵の遺墨も多い。 それらを通じ、彼の画風は単に狩野派だけでなく緻密な仏画から北画・大和絵・南画さらに民画の大津絵風のものまで随分と幅広く、しかも健筆である。 だが、彼も狩野の絵師、その粉本主義から脱し自身の画境に徹し切れないきらいもある。 彼の子に晴徳がおり同じく木挽町狩野栄信に学び、跡を継いで藩絵師となる。 その子勝鵾幼少のため、門人勝流が養子となり藩絵師を継ぐ。 勝鵾成人後やはり木挽町狩野に学ぶが、維新の動乱にあい同門も閉鎖、高弟橋本雅邦らと一時流浪。 後狩野を脱し新傾向の四条、大和絵風を試みる。 晩年は大坂に行き、蒔絵等も試みるが、明治四〇年没し、子なく若宮家は断絶する。 彼の門人には西条藩絵師となる小林西台はじめ大橋英信・宿茂徳鄰・稲沢直正・金井南岳・菅田清惟など多くの画人がおり、幕末の愛媛美術に及ぼした影響は大きい。 3 今治藩の絵師 関ヶ原の戦功により伊予半国の領主となった藤堂高虎は慶長七年(一六〇二)今治に築城を始め、現在の城下町今治の基を開く。 今治生まれの松本山雪は、その藤堂高虎に見いだされ藩初代の絵師となる、というのが従来の通説であるが、どうも先に山雪の項でふれたごとく今治藩と山雪は直接のかかわりはないようである。 従って、今治藩の絵師はそれより時代が下り、松平三代藩主定陳が、木挽町狩野常信の弟子富元守供を江戸より招き藩絵師としたことに始まる。 続いて、同門の野村常林(了貞とも号し、伊勢山田の人)が招かれ二代目の絵師を継ぐ。 その守供・常林らの指導を受け、さらに藩命により狩野晏信門下に学んだ能島邑義(一七一二~七六)がその後を受け三代目の絵師となり、その子能島典方(一七四一~一八二九)がやはり狩野典信に学び四代目絵師を継ぐ。 つまり、今治藩は初期二代にわたり江戸より招請の絵師により狩野派を移植する。 そこに育った能島父子がそれを受け継ぎ狩野の流れは連綿と続く。 ここまでは松山・大洲両藩と余り変わらぬ状況だが、その後五代目に至り、当時の在野系、つまり写生派の絵師山本雲渓が跡を受ける。 今治藩の場合、絵師に対する待遇も軽く、かなり自由が許され、その画流・格式などには、余りこだわらなかったようである。 当時の武家社会では、桃山以来の伝統で、幕府はもとより各藩の絵師も狩野が主流で不動の組織をもち、他派のくい入る余地を与えなかった。 王朝以来の古い伝統をもつ大和絵は別格として、他の新興画流が民間でどれほど支持を受けようとも、藩の絵師は別というのがいわば当時の通例であった。 その常例にこだわらない今治藩の見識もさることながら、それを平気でやってのける雲渓という絵師の人物・画業も異彩を放っている。 山本雲渓 雲渓は安永九年(一七八〇)いまの越智郡大西町に生まれ、通称を雲平、諱を邑清、字を好徳という。 寛政一〇年ころ大坂に出て医術を修め、かたわら円山派の巨匠森狙仙について絵を学ぶ。 その後今治に帰り御典医、藩の絵師を兼ね両道で活躍し、文久六年(一八六一)五月二八日八二歳で没す。 彼の祖先は河野氏であり、彼より一〇代前天正のころ山本と名乗り、九代前の当主は了菴と号し医術に長じ名声高く、代々庄屋を勤めながら医術にも関心深い家系であった。 したがって、彼の大坂遊学は医術修業のためであろうが、絵の方も狙仙門下の俊英とうたわれ、余技の域を脱し両道の達人となる。 今治に帰省後も御典医となり、名医といわれ、藩外からの診察を請う者も多く、医療費を請求しないことからも、門前市をなしたという。 また藩絵師としての活躍も目ざましく、猿の名手の盛名はもとより、狩野派・南画あらゆる技法を駆使し洒脱放逸、前人未踏の画境を確立する。 彼の人物・性癖についての逸話も多く、その無欲恬淡、天衣無縫の奇行振りが多く語り伝えられている。 猿の名手といわれるだけに、彼の遺墨はさすがに猿が多い。 一本描といわれる精密な毛描きの描法は師匠ゆずりの特技であるが、絵はただ技法の伝授だけでは成り立たない。 彼もまた師にならい山中で三年猿と起居を共にし、つぶさにその生態を観察したという。 彼のもつ精細な観察力は、おそらく当時の医学書から学びとったのであろう。 西欧写実への開眼がなければ、あの神技といわれる独自の精密描写は不可能であったろう。 その点では、彼は正に写生派の最先鋭といえよう。 だが、彼は、単なる同派の外形描写からは脱却し、描く対象の鳥・獣・人物のあらゆるものに成り切り、それと共に遊ぶ奔放自在の境を楽しんでいる。 さらに、彼の遺墨で特筆すべきものに絵馬がある。 当時における絵馬は貴賤貧富を問わず、上下和楽の大衆芸術である。 今治地区の一五社には、今も彼の絵馬が二七点も残っており、東・中予の各社にも、彼の絵馬は圧倒的に多い。 しかも大作・力作が多く、独自の力強い描法でこれまた圧倒的な迫力をもつ。 彼は、藩の絵師としてあらゆる要請に応じると共に、町絵師としても大衆の与望に生きる人気作家であり、彼の融通無礙の生きざまが、これらおおくの絵馬によっても一層明瞭にうかがわれる。 沖 冠岳 冠岳について、『今治市誌』には「沖庸という、今治風早町に生まれる。 幼より絵を好み、山本雲渓に師事、狩野の画法を善くし、長じて後は多く江戸に住す……」と略記されている。 だが出身は土佐との説もあり、その生年もはっきりしない。 字を展親、冠岳は号であり、冠翠、冠岳樵人、蠖堂の別号もある。 明治三年奉納の浅草観音堂「四睡図」(豊干、寒山・拾得と虎がともにねむる図)の大作は広く世に知られ、今治地方の社寺に残る多くの絵馬も郷土人士に親しまれ、その盛名は雲渓と並び称せらる。 明治九年(一八七六)七月没す。 彼の遺墨は随分多く、その画域も幅広い。 絵馬などにみる狩野の筆法を加味した雄渾な作風から、晩年に多い花鳥の清新典雅な写生画に至るまで、いずれも師雲渓の画系を受け継ぐものといえようが、さらにそれを脱皮し、独自の画風で一家をなすというべきであろう。 彼が絵に志した時期は、江戸文化の最後のやまといわれる文化文政の終わりから、いよいよ幕末に突入の時代である。 かつて威勢を誇った狩野派も昔日の面影はなく、関西一円を風靡した反俗超脱の南画思潮もようやく沈静気味の時、沈南蘋の影響を受けた新様式の写生画、西洋の画風を採り入れ、より現実的な関東南画の風潮が新味をもって迎えられる時代であった。 彼が今治といういわば僻地に在りながら、どうして新時代の潮流をかぎわけ、江戸へ行くことになったか、その事情はよくわからない。 だが、彼の幅広い交友、特に江戸における著名な小山・文晁の高弟たちとのダイナミックな交友関係から推しても、東予人特有の水軍魂というべきか、その積極姿勢によるものと思われる。 ともあれ、彼は現実逃避の関西南画よりも、合理的で積極性に富む関東南画にひかれ、そこに身を挺し、あの透徹した精密描写、しかも装飾性に富む独自の画風を確立し、江戸で盛名をはせることになったといえよう。 4 宇和島藩の絵師 慶長一九年(一六一四)、仙台藩主伊達政宗の長男秀宗が宇和島一〇万石に封ぜられる。 以後、宇和島は南予の中心とし、伊予八藩の中でも特異な文化圏を形成する。 松山・今治・西条の三親藩はすべて交通至便、肥沃な土地の瀬戸内沿岸に分布し、小松の小藩を除いては、宇和島・吉田・大洲・新谷の四外様大名は、いわば僻地の宇和海沿岸段々畑地帯であり、その配置を見ても徳川幕府の大名統制策の巧妙さがうかがわれる。 仙台の伊達本家は徳川にも対抗し得る戦国大名の雄であり、その血を引く宇和島藩伊達家も伊予八藩きっての外様の雄藩である。 それが南予の風土、独自の気骨と結びつき、明治維新における倒幕の急先鋒となったごとく、他藩に見られる中央指向の穏健さに対し、一種反骨の革新気風がみなぎっている。 絵画の分野においても、中央からの狩野派移植も見られず、土佐大和絵系画人の影響を受けた三好応山・応岸父子等の、地域に根ざした風土色が目立つ。 その傾向は明治以後現代にも及び、村上天心・高畠華宵・畦地梅太郎等、特異な個性派画人を送り出すが、依然として今も反中央の在野意識は強いようである。 その後、徳川の世となり徳川方にはばかって、その画像は粗末に扱われ、現存するものは少ないが、この画像はそれら現存するもののうち最も優れた作である。 秀吉の側近伊勢の国安濃津の城主富田右近将監知信が描かせ、秀吉の文書起草に従事した鹿苑寺(金閣)の西笑承兌和尚の賛がある。 知信の没後、その嗣子である富田信高が宇和島一〇万石に封ぜられ、亡父菩提のため正眠院(いまの金剛山大隆寺)を建立し、この画像が寄進されたものと推測される。 信高改易後もその寺に伝わり、弘化四年(一八四七)に当時の藩主伊達宗城に献上、以後伊達家の所有となり、昭和一〇年四月三〇日国の重要文化財に指定される。 顔や手の部分を特に小さく表し、大和絵の技法を加味した威風堂々の作柄は凡庸でなく、作者は不詳であるが、当時の狩野派の有力作家の手になるものと推定され、秀吉画像中の白眉というべきである。 この作は愛媛美術の流れとは直接の関係はないが、長く宇和島に保存され地域の人々にも親しまれ、教科書にもしばしば掲載された著名な作であり、ここに特記する。 大内蘚圃 蘚圃は宇和島藩士野田某の子で大内氏を継ぐ。 通称を平三郎といい、幼少にして円山派森狙仙の門に入り、動物画を得意とする。 同門の今治藩絵師山本雲渓より一六歳年長である。 『南予遺香』に、彼は、「常に酒を嗜み、飲めば則ち諧謔百出頗奇行に富めり」とある。 天保一三年(一八四一)七九歳で没す。 彼の遺墨は少なく、その全容をはかりかねるが、猿に関しては師狙仙の精密描写の技法を受け継いだが、雲渓の円熟味とはまた違って、より鋭く個性的で、円山派写生の尖鋭振りがうかがわれる。 三好応山 通称三郎兵衛といい、応山と号す。 寛政四年(一七九二)宇和島本町に生まれ、家は代々町頭役、並びに紺屋頭取を勤む。 幼少より絵を好み、土佐の大和系画人春日鉄山について学び、人物画を得意とする。 二子あって長男に家業を譲り、次弟応岸に画業を継がせ分家させる。 嘉永二年(一八四九)一〇月二日、五八歳で没す。 彼の遺墨は宇和島地方にかなり多く、伊吹八幡の絵馬「高砂図」「神宮皇后図」などもよく知られ、おおらかで練達した大和絵風の画技がうかがわれる。 三好応岸 通称を又八郎といい、応岸と号す。 天保三年(一八三二)宇和島本町に応山の次男として生まれる。 幼少より絵を好み、父応山について学び、長じて応岸と号し別家する。 伊達宗徳侯の知遇を得て、しばしば絵の用命を受け、特に「月下の山犬」は絶賛を博し、三度も揮毫したという。 明治四二年(一九〇九)八月二日、七八歳で没す。 応岸の弟子に静岸がおり、応山・応岸の流れを受け、一層の土俗性を強めた画風で地域の人々に親しまれている。 5 その他の藩絵師 小林西台 西条藩は旧河野氏の血を引く外様の一柳家改易の後を受け、親藩の松平家が寛文一〇年(一六七〇)三万石に封ぜられ、以来明治まで連綿と続く。 その松平家は、徳川御三家のうち紀州家の血を引く関係で、藩主は領地西条には赴任せず、江戸定府という伊予八藩の中別格の親藩であった。 その西条藩の絵師小林西台は、寛政六年(一七九四)、藩士小林滝蔵の子として江戸に生まれる。 一七歳で九代藩主頼学のお守役となり、三六歳で御絵師を命じられ、翌年剃髪し分煕と改名、天保六年四二歳の時、藩主の西条入りのお供をし、翌年江戸に帰り文郷と改名、嘉永七年(一八五四)二月九日、六一歳で没す。 良休・鳴春・岳陽など別号も多い。 彼は西条藩絵師であり、当然伊予の画人というべきだが、江戸に生まれ、江戸に住み、一度だけ西条を訪ねたわけで、伊予との関連はまことに薄い。 松山の山雪初め今治の雲渓など他の藩絵師たちは、修業の期間中こそ京・大坂・江戸に住み、その影響下で育つが大半は伊予の地に住み、その風土になじんだ画業の形成がうかがわれる。 ところが、西台にはほとんどそれが見られず江戸狩野そのままの瀟洒な画風を伝える異色の伊予画人というべきであろう。 彼の遺墨は西条地方を中心にかなり多い。 それらをつぶさに見て歩いた久門正雄氏は、彼の作を「温雅・清潔・正直な絵である。 正直ということは或いは小心な点もあるかも知れず、また野心的ではないかも知れぬ、が、ともかく正直で、おのが画統を正しく素直に守り、その道にだけ技を磨き、他流に心を配ったり、新機軸を出そうなどとは考えなかった」と、見事にその特質をついている。 正にその通り、彼の作はいずれも流麗、練達で、狩野の筆法を誠実に踏襲している。 だが、その中にも時流である写生派の影響がかなり色濃く感じられる。 同時代の今治の画人雲渓は、その写生派を大胆に取り入れ、その先鋭らしい冒険を試みているが、西台は、それを素直に採り入れ破綻を見せないところに両者の対比がうかがわれる。 西台の子小林朴宇も絵をよくし、父の跡を受け西条藩絵師となる。 森田南涛 南涛は文化五年(一八〇八)小松藩士森田森蔵の三男に生まれ、一九歳で江戸に上り、春木南湖の門下で学び、山水・花鳥に長ず。 三八歳で小松藩絵師となり、明治五年(一八七二)没す。

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