ピューリタン 革命。 ピューリタン

ピューリタン(清教徒)革命のながれ / 世界史 by 逆転検事

ピューリタン 革命

「名誉革命」と「ピューリタン革命」です。 今回は、ピューリタン革命についてお話しますね。 ピューリタン革命の原因 まずは、ピューリタン革命の原因から。 17世紀初めのイギリスではエリザベス1世が亡くなり、代わって王位につくことになったのがスコットランド王のジェームス6世でした。 エリザベスには子供がいませんでしたからね。 血は薄いんですけど一応、ヘンリー8世の血を引いているジェームス6世がイギリスの王も兼任することになったんです。 ちなみにイギリス王としての名はジェームス1世です。 これが1603年のお話。 日本では江戸幕府がはじまった年ですね。 スコットランドの王様がイングランドの王様となったので両国は同君連合となりました。 我々は、イギリス、イギリスと簡単に言ってますが、1707年より以前は北のスコットランドと南のイングランドは別の国だったんですね。 だから、サッカーワールドカップではイングランドとスコットランドとして別々の代表として参加しています。 さてイングランド王となったジェームスは「王権神授説」を唱えます。 まぁ、これは王様とは、神から授かった権利を有しており、その権利は議会や司教、民などにより制限されるものではない。 」といった説です。 ですから、それまでのイングランドでの伝統政治であった「国王であれ議会を無視して政治を行うことはできない」といった決まりをないがしろにし、イギリス国教会以外の宗教。 カトリックや清教徒(ピューリタン)らに弾圧を加えていきます。 そして、ジェームスが亡くなると彼の次男であったチャールズ1世が王位につくことになります。 1625年のことです。 (ちなみに長男は早くに亡くなってしまっていました) このチャールズも父同様に議会は無視。 1628年には議会が「権利の請願」といわれる文書を王に提出。 チャールズは王権を制限するこの請願をしかたなしに受け入れます。 しかし、翌年には、この請願の内容も黙殺、白紙化してしまい、議会すら解散させてしまい封じ込めました。 ですが、1639年に再び議会を召集せざるを得ない事態となります。 スコットランドの反乱です。 スコットランドの反乱 チャールズは、父のジェームス同様にイングランドの王であると同時にスコットランドの王です。 イングランドの方は16世紀のにてイギリス国教が主流となっていましたが、スコットランドではプレスビテリアンとよばれるカルヴァン派の新教徒が多かったんです。 チャールズとしては、スコットランドもイギリス国教になってもらい宗教的にイングランドとスコットランドを統一させたいと考えていました。 しかし、これにスコットランドがNOを突きつけたわけです。 イギリス国教を強制されスコットランドでは反乱が起きます。 これを鎮圧するために戦費がかかります。 この戦費を捻出させる為には税金をもっともっと増やさなければならないわけです。 増税ですね。 これには議会を召集して認めてもらう必要があります。 こうして、チャールズ1世は1640年に11年ぶりとなる議会を召集しました。 ですが、チャールズの思惑通りには進みません。 「あいつ都合悪くなると議会召集するよなぁ。 なんか、いいなりになりたくない・・・。 」ってことで議会が増税を認めなかったのです。 チャールズは、すぐに議会を解散!わずか3週間で議会は解散させられてしまったので、これを 短期議会 といいます。 ですけど、再び議会を召集せねばならない事態になっちゃいます。 スコットランド軍が国境を越えて侵入してきたんです。 この時に召集した議会は1653年まで続くことになるのでこちらを 長期議会 といいます。 しか〜し!やっぱり、チャールズ1世の要求に応じるどころか議会は逆に王に対する不満を爆発!大抗議とか大諫奏(だいかんそう)などといったりしますが王に対しての不満爆発の文章を議会は提出するんです。 チャールズはもちろん眉を吊り上げ、反王権派の議員の逮捕を命じますがロンドン市民らは「王様やりすぎじゃない?」ってことで議会派になびく人が多数。 こうした流れの中、王と議会はついに武力衝突が始まることになります。 これがピューリタン革命の始まりです。 1642年の出来事ですよ。

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ピューリタン革命(ピューリタンカクメイ)とは

ピューリタン 革命

1642年から49年に至る、のステュアート朝に対して、議会の中心勢力であったが国王の専制政治を倒し、宗教的自由を求めて立ち上がった。 彼らはが多かったので、ピューリタン革命(清教徒革命)という。 この革命によって国王は処刑され、が実現した。 しかし、指導者自身が独裁政治を行うようになって民心が離れ、その死後はとなる。 次のとともに、の一部を構成する。 17世紀のイギリス革命は、不十分とはいえ絶対王政を倒したの最初のものとも言え、18世紀後半のアメリカ独立革命、フランス革命へと続く先駆的なものであった。 同時に、現在に続くイギリス(イングランドとスコットランド、それにアイルランドを含み)という一体化した国家の成立の画期となった変革であった。 また、革命が進行した1640年代は、ヨーロッパ全体でも(1618~1648年)にひきつづき、経済の不振、生産力の低下、自然災害の頻発、人口の減少などを背景にして政治的な混乱が続いており、「」といわれている。 なお、「ピューリタン革命」または「清教徒革命」として定着しているが、本国イギリスでは、革命とは言わずに「内乱」と言うことが多く、また最近ではイングランド・スコットランド・アイルランドの「三王国戦争」ということもある。 またの立場からを弾圧、おりからのでも大陸の新教徒を応援せず、国民の不信を強めた。 1625年に即位した次のも財政難に苦しみ、議会の同意を得ないで課税したり、貴族に献金を強要しようとした。 権利の請願 、議会はの指導の下、「」を国王に提出した。 これは(慣習法)に則り、議会の同意を得ない課税や上納金、不法な逮捕・投獄などを行わないことを国王に求めたものであった。 その拠り所としてよみがえったのがの (大憲章)であった。 チャールズ1世 「権利の請願」を無視したチャールズ1世は、議会を解散し、議会なしで専制政治を行った。 国王の側近のカンタベリー大主教ロードとストラフォード伯の二人が実際の政治にあたったので、この間をロード=ストラフォード体制ともいう。 そのもとで、国教会の教義が強制されてピューリタンは弾圧され、トン税・ポンド税などの関税、船舶税などが拡大され、大商人に対する特許状が乱発された。 議会の多数を占めるはこのような国王の施策に強く反発、信仰の自由を守ろうとするピューリタンと、財産権を守ろうとするジェントリの間に、反絶対王政の国民戦線が成立した。 スコットランドの反乱 1637年、チャールズ1世は、スコットランドに対し国教会の制度と儀式を強要した。 スコットランドにはピューリタンと同じくカルヴァン派から派生したが多く、に反発した彼らはエディンバラで暴動を起こした。 このを鎮圧するために、チャールズ1世は自ら軍隊を率いて乗り込もうとしたが戦費が不足し、やむなく、11年ぶりに議会を招集した。 しかし議会は国王の要求に応じなかったため、三週間で解散した。 これがである。 さらにスコットランド軍がイングランドに侵入してきたので、チャールズ1世はやむなく多額の賠償金を約して和を結んだため、また議会を招集しなければならなくなった。 長期議会 、選挙を経て召集されたでは、まず独占(エリザベス女王時代・チャールズ1世が特権的商人に独占権を乱発していた)を禁止し、三年に一度は議会を開催しなければならないこと、議会の解散には議会の同意が必要であることを国王も認め、さらに議会の同意のないトン税・ポンド税は廃止、船舶税は不法とされ、反王権を取り締まる上で暴威をふるっていたが廃止された。 議会はさらに国王の悪政を箇条書きにしたを採択したが、これはわずか11票の差で成立した。 議会内でも国王大権に対してあくまで抵抗しようとする議員と、妥協を図ろうとする議員の分裂が始まっていた。 内乱の勃発 1642年1月、議会が分裂しているとみたチャールズ1世は、自ら兵を率いて議場に赴き、ジョン=ピムら議会の指導者5人の引き渡しを要求した。 それが拒否されるとチャールズは北部のヨークに向かい、戦闘準備に取りかかった。 8月、ついに戦闘が始まり、内乱・内戦状態となった。 ここから一気にチャールズ1世の処刑に向かっていくが、その過程をまとめると次のようになる。 議会派と国王派 ピューリタン革命の内戦では(円頂党ともいう)と(騎士党とも言う)の二派が闘ったが、その二派の違いは必ずしも明確ではない。 議会派にはピューリタンが多く、地理的にはイングランドの東部・南部、国王派には国教徒が多く、地理的には西部・北部ということはそのとおりであるが、層はほぼまっぷたつに分裂していたので、単純に階級対立とは言えない。 また中間派も多かった。 戦闘開始後ほぼ2年間は国王軍に有利であった。 それは国王軍は軍事的経験と訓練のある貴族を指揮官とし、騎兵主体に編成されていたのに対し、議会軍は軍事的には素人のジェントリが率いる地方の民兵隊を主力としていたためと考えられる。 クロムウェルの登場 は熱心なピューリタンを集めて騎兵隊を組織、それはと言われ、国王とその一派を侵攻の敵と考え、神の意志に従った軍隊として訓練され、議会軍の劣勢を跳ね返していった。 それによってクロムウェルは革命の中心人物に躍り出ることとなった。 長老派と独立派の対立 議会派の中心は当初はであったが、クロムウェルの登場以降、が台頭してきた。 前者はスコットランドと手を結び、国教会に対して長老主義の教会組織を全国に広げることを主張し、国王とは妥協を図ろうとした。 それに対してピューリタン信仰にもえ、教会は聖職者のものでなく独立した平信徒によって運営されるべきであると主張したのが独立派である。 独立派は国王軍との徹底した闘いを続けることを要求し、両者の溝は次第に深くなっていった。 クロムウェルの勝利 1644年7月、マーストン=ムーアの闘いでの議会軍の勝利に貢献したクロムウェルは、その勝利を背景にして、長老派を議会軍から追放し、議会軍全体を(ニューモデルアーミー)に改組することに成功した。 こうして独立派が主導権を握った議会軍は有利な闘いを進めることになり、6月ので決定的な勝利をおさめた。 翌年春、チャールズ1世はスコットランド軍に投降し第1次の内乱が終わった。 水平派の登場 長老派は議会軍から追放されたが、長期議会の中では依然として多数を占めていた。 長老派が革命の終結を狙って軍隊を解散させようとすると、議会軍の一般兵士の利益を守ろうとする中から(平等派)といわれる勢力が台頭した。 その指導者は ジョン=リルバーンで、ロンドンの手工業者・職人層を中心に組織されていた。 彼らは1647年秋、人民主権・財産の平等化などをかかげた共和国構想をもと「人民協定」という憲法草案を軍幹部に提出した。 それに対して、ジェントリつまり地主出身のクロムウェルは否定的で、両者の間で激しい論争が行われた。 第2次の内乱 議会派が分裂したことに乗じて国王軍の残存勢力が反乱を起こし、第2次内乱となったが、この危機に議会派は独立派と水平派が和解して反革命軍にあたり、1648年にはほぼ鎮圧した。 その上でクロムウェルは議会内の長老派を追放し、議会は独立派だけで構成する「残部(ランプ)議会」となった。 このころからクロムウェルの課題は国王チャールズ1世をどう処遇するかであった。 チャールズ1世の処刑 ピューリタン革命が進行するなか、1月4日下院のみの決議で国王処刑のための最高裁判所が設置され、20日から裁判が開始された。 裁判委員は135名が任命されたが拒否する者が多く、実際には60名ぐらいで構成。 27日国王に対する死刑の判決文が作成され、57名の委員が署名し(彼らは後に「国王殺し」とよばれた)、30日ホワイトホールで死刑が執行された。 判決文には国王が「議会とそれに代表される国民に反逆し不正な戦いをしかけた」罪を追求し、「専制君主、反逆者、殺人者であり、国家に対する公敵」であるとしている。 しかし、多くの国民には国王はむしろ「殉教者」として讃えられ、その遺著として売り出された書物は政府の禁止ににもかかわらず、50版を越える売れ行きだった。 <浜林正夫『イギリス市民革命史』1971 未来社 P. 191> このような国王処刑を非難する出版に対抗して、革命による国王処刑の正当性を弁護する論陣を張ったのが詩人であった。 外国が干渉できなかった事情 イギリス国王チャールズ1世が処刑されたことは、他のヨーロッパの各国の王にとって衝撃であった。 当然、各国の国王政権はチャールズ1世に援軍を送り、王政を維持するために干渉することが考えられる。 後のフランス革命やロシア革命の場合でも、革命阻止のために外国の干渉軍が派遣されている。 しかし、ピューリタン革命の時はそうはならなかった。 それは、当時まさにヨーロッパはにあり、とが並行して展開されており、フランスでは(1648~53年)が起こっていた。 フランス・スペイン・オランダ・ドイツ諸侯・北欧諸国いずれも自国及び大陸内のことで手一杯だったことが挙げられる。 それらの戦争の講和条約であるが成立したのが、チャールズ処刑の前年のであった。 共和制の宣言 1月30日、チャールズ1世はロンドンのホワイトホール宮殿外の処刑台で衆人環視のもと、断首刑に処せられた。 議会は次いで王政そのものを継続するかどうか審議に入り、3月に「王という職は不必要であり、負担の多いものであり、人民の自由、安全および公けの利益に有害である」として君主制のを廃止した。 君主制と密接に結びついき、君主制の不可分の要素となっていたについても「人民に無用有害」である賭して廃止された。 その上で、5月19日、次のような共和政宣言を発した。 引用 「イギリスの人民はここに共和国、自由国家となる。 今後、共和国、自由国家は、この国の最高権威すなわち議会における人民の代表、ならびに人民の幸福のため議会の任命する官吏によって、王や貴族院なしに統治される。 」 <大野真弓責任編集『世界の歴史8』1961 p. 159> 具体的には、国政は一院制の議会(残部議会の議員によって構成された)と、41名からなる国務会議(大半が議員を兼ねた)が統治することになった。 これによってイギリスは、国王の存在しない共和制国家、当寺イギリスではと言われる国家となった。 イギリスの歴史上、1660年に王政復古するまでのこの約10年間は、唯一の共和政の時期となった。 クロムウェルの独裁政治 水平派の弾圧 ピューリタン革命派この国王処刑をとともに反動の段階に入った。 革命の主導権を握った独立派は、革命の成果の独占を図り、水平派との同盟を解消し、さらに徹底した社会改革を求める水平派に対する弾圧に転じた。 給料の未払いを理由に従軍を拒否した水平派の反乱はただちに鎮圧された。 指導者リルバーンらは逮捕された。 リルバーンは後に政治から離れ、クウェーカー教徒として信仰の道に入る。 ディガーズ 水平派に替わって、農民の中に私有財産制を否定し、土地を共有として共同で耕作にあたろうというさらに社会改革の徹底をもとめる一派が現れた。 ウィンスタンリーに指導されたこの人々は真正水平派とよばれ、土地を勝手に掘る人たちという意味で「」とも呼ばれた。 この社会主義的な変革要求は保守化したジェントリたちに危険思想と拒絶され、クロムウェル政権によって弾圧された。 アイルランド征服 アイルランドではカトリック信徒が多く、革命の最中にプロテスタントが殺害されたことが伝えられると、夏、クロムウェルはを実行した。 このとき遠征軍は宗教的な使命感から、カトリック教徒に対する残虐行為を重ね、「緑の島を荒れ地に変えた」といわれうほどの略奪を行った。 「自由を求めて立ち上がった革命が、他民族の自由を容赦なく抑圧した。 現代にいたるアイルランド問題の起源はここにある。 」 <今井宏『明治日本とイギリス革命』1974初版 ちくま学芸文庫 1994 再刊 p. 19> スコットランド征服 、スコットランドはチャールズ1世の子のチャールズ2世を擁して南下の勢いを示したが、クロムウェルはを行い、1651年9月のウースターの闘いでそれを破り、チャールズ2世はフランスに亡命、スコットランドはイングランドに吸収され、1654年4月には合邦が宣言された。 こうしてクロムウェルの共和国政府は反革命の脅威から脱し、一応安定した権力を樹立した。 それより前の、クロムウェルの共和国政府はを制定し、オランダと対抗するイギリス海上帝国建設の第一歩となった。 議会の解散 共和制の下でも「残部議会」は存続していたが、軍隊にとっては無用な存在と捉えられるようになり、1653年4月、その要求をいれたクロムウェルは軍隊を率いて議会に乗り込み、解散させた。 こうして13年続いたは終わりを告げた。 その後、教会から推薦を受けたものを議員とする「指名議会」が開かれたが、保守派の策謀によりその存在は有名無実と成り、共和政といいながら議会は形骸化し、つまり有名無実の共和政国家となってしまった。 クロムウェルの護国卿就任 1653年秋、軍隊幹部は成文憲法「統治章典」を作成、それに則ってクロムウェルは終身のの地位についた。 護国卿政権は、議会は否定されていないとはいえ、軍隊の士官とピューリタンたちの独裁に他ならず、その基盤は著しく狭かった。 全国を12の軍管区に分けて統治し王としたが、民衆は反発を強めていった。 議会は混乱を怖れ、王政に復帰することを意図してクロムウェルに王位の提供を申し出たが、軍隊は強く反対したため、クロムウェルも断念せざるを得なかった。 王政復古 護国卿政権の前途には不安が増す一方、1658年9月、クロムウェルは死去、護国卿は息子のリチャードが継いだが、「無能な田舎紳士」にすぎず、議会と軍隊の対立を収拾することが出来ないまま無政府状態が続き、王政復古の声が強まる中、5月、処刑されたチャールズ1世の息子が帰国し、となった。 オランダから帰国したチャールズ2世が5月25日にドーヴァに上陸すると、民衆は熱狂的な歓呼で国王を迎えた。 王政復古後、クロムウェルらの墓はあばかれ、30名の革命首謀者は死刑となった。 <以上、浜林正夫『イギリス市民革命史』1971 未来社、今井宏『明治日本とイギリス革命』1974 ちくま学芸文庫 などから要約> ホッブズ『リヴァイアサン』 ピューリタン革命は内乱、国王の処刑と突き進み、クロムウェルの独裁を迎えた。 このような革命の激動の中で、国家のあり方への思索を深めたのがであった。 ホッブズは王権神授説を否定し、国家権力の根源を人びとの社会契約にあり、契約によって統治権が国王に委任されているち考えた。 に出されたその著作『』は革命の混乱を克服する動きとしての王政復古を理論づける書となった。 参考 ピューリタン「革命」を巡る議論 「ピューリタン革命」は、「チャールズ1世の専制政治に反抗した議会が武力で旧体制を変革、果てはクロムウェルを独裁者とする護民官制まで到達したが、その死後王政復古によって解体した。 この動きを推し進めた中心勢力は中小の新興商工業者とその利害に結びつく貴族・ジェントリーや商人・金融業者だった」 <大塚久雄『歴史と現代』1979 朝日選書 p. 14>とされ、続く名誉革命を含めて「絶対主義」体制を倒した「市民革命」であり、イギリスを近代への移行させたと捉えられていた。 これは戦前から経済史家として活躍した大塚久雄氏の影響下にある「大塚史学」(あるいは「講座派」)で定式化されたもので、一世を風靡し、現在も常識として定着していると言って良いだろう。 しかし現代の歴史学会ではこの「大塚史学」と言われる近代化論はどうやら過去のものとされているようだ。 それは教科書の記述に微妙に反映している。 教科書扱いの変化 山川出版社の教科書『詳説世界史』における「ピューリタン革命」の扱いには微妙な変化が見られる。 村川健太郎・江上波夫・林健太郎らが名を連ねていた1990年代までは、「ピューリタン革命」という見出しをつけ、「……独立派の首領クロムウェルは武力で長老派を議会から追放し、王を裁判のすえ死刑に処して共和政を打ち立てた(1649年)。 これがピューリタン革命である。 」とすこぶる断定的であった。 2001年から使用された版では同じ著者たちであるが、「これをピューリタン革命という。 」とトーンダウンし、わざわざ注を設けて「絶対王政を倒し、資本主義経済の自由な発展を妨げてきた特権商人の独占権などを廃止した点で、ピューリタン革命はとしての性格を持っていた。 」と説明している。 代表著作者が佐藤次高・木村靖二・岸本奈緒らに替わった2003年版から見出しは「イギリス革命」に変化し、「……国王は40年春に議会を招集した。 これがイギリス革命(ピューリタン革命)の発端となった。 」となり、名誉革命も含めたイギリス革命の注として「このような変革を「市民革命」といい、アメリカ独立革命やフランス革命とも共通する面を持っている。 」としている。 同じ著者の現行版(2013年版)では( )がはずれ、「この革命は、ピューリタンが大きな役割を果たしたことから、ピューリタン革命とも呼ばれる。 」とされている。 このように、1640~49年内乱から国王処刑、共和政、クロムウェルの独裁に至る出来事を、単純に「ピューリタン革命」と言うことが躊躇されるようになっている。 「革命」の否定説 それは肝心のイギリス本国で、「ピューリタン革命」と言っているのはごく一部の学者に過ぎず、一般的には通用していない、中学生でさえ「革命」とは教えられておらず、単に「内乱に過ぎない」と受け取られている、といったことが伝えられたことがきっかけで、日本の研究者の中にも「革命」としては不徹底であったという評価が強まったためであろう。 1997年に出版された中央公論社の新版『世界の歴史17』では、 引用 「ピューリタン革命」として知られるこの事件を、「革命」とよぶイギリス人は、じつは一部の歴史家だけである。 この事件は、正しく言えば、スコットランドにはじまり、アイルランドに波及し、さらにイングランド自体で火を噴いた、国王に対する同時多発的な複合反乱と呼ぶべきものである。 ……もしこの複合反乱に「革命」とよべる要素があるとすれば、それは「イギリス」の存立を確実にし、イングランドの優位を不動のものにしたことである。 <大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』1997 p. 181> と書かれている。 さらに、名誉革命も含めた「イギリス革命」そのものも、「市民革命」からは程遠い内容であり、アメリカ独立革命・フランス革命とは同列に論じられないというのが、現在ではほぼ定説になっている。 たしかにイギリスでは絶対王政は倒されたが共和政になったわけではなく、強固な立憲君主政を出現させたものであり、議会政治と言っても参政権は社会上層に限られていたし、この時期にブルジョワジーの自由な経済活動が確立したわけでもない。 また結果としてピューリタンは信仰の自由を獲得したといっても社会的には審査法によって国教会体制が確立したに過ぎなかった。 このようにイギリスの変革は「市民革命」とはいえず、先駆的であったがゆえに不完全なものであったというのがほぼ現在の評価と思われる。 「革命」とみる説 もっとも最近出版された、近藤和彦『イギリス史10講』2013(岩波新書)では、こういう意見もある。 引用 ところで、1640~60年の政治過程の複合性/礫岩性に引きずられて、これを「革命」とよばない研究者もいるが、それは枝葉末節にとらわれた誤謬(ファラン)である。 フランス革命が18世紀的に複合的だったように、イギリスの革命は17世紀的に複合的だった。 三王国戦争(引用者注、イングランド・スコットランド・アイルランド間の戦争)のなかで王の家産国家は解体し、ピューリタン有産者の共和主義革命が実現し、それが60年に自滅したのである。 <近藤和彦『イギリス史10講』2013 岩波新書 p. 135> たしかに「不十分だった」とか「不完全であった」というのは、後のアメリカやフランスの革命に比較してのことであり、またアメリカやフランスの革命も「不十分で不完全」だったとも言えるのであって、17世紀という時期の条件のもとにおいては「革命」と捉えるのが正しいであろう。 フランス革命との違い なお、近藤氏は同書において、ピューリタン革命とフランス革命を比較し、次の三点の違いを指摘している。 国王裁判と処刑 イギリスでは1649年、国王裁判、処刑のあと、三月に王政・貴族院の廃止、五月に共和制が宣言された。 フランスでは1792年夏に王権停止と共和制が宣言され、その翌年に元国王の裁判・処刑が続いた。 英仏とも討論を重ね、しっかりと記録を残した点は共通だが、イギリスでは人的責任追及が先行し国政原理の転換が後を追った。 時代の違い 17世紀のピューリタン革命はいまだ宗教戦争の時代であり、18世紀の啓蒙の時代をはさんで、「第二のグローバル化」のなかでおきたフランス革命とは歴史的条件がまるで異なる。 イギリス革命に人権宣言や社団の否定、山岳派のような革命指導集団の出現がなかったと言って不完全性をあげつらうのは時代錯誤である。 外国の干渉戦争の有無 フランス革命には列強の干渉戦争があり、それに対する祖国防衛があったからこそ革命政権とサンキュロットは急進化した。 イギリス革命の場合はクロムウェルは共和制イギリスに対する国際干渉を心配していたが、ヨーロッパ諸国は三十年戦争直後でその余裕がなく、フランスはフロンドの乱の最中であったためブルボン朝そのものが危うかった。 フランスとスペインは共にクロムウェル護国卿政権を承認している。 <近藤和彦『同上』 p. 134-135 「大塚史学」とピューリタン革命論 いわゆる「大塚史学」については、戦前からの主著『欧州経済史』(岩波現代文庫)、『近代欧州経済史入門』(講談社学術文庫)を文庫本で読むことができるが、最もわかりやすいのは戦後の1979年に一般向けとして朝日新聞に連載した『歴史と現代』であろう。 大塚史学のピューリタン革命観では、長期議会で「反独占」の施策がとられ自由主義経済への移行が実現したことが評価されている。 独占とは、16世紀後半からイギリスの国王(エリザベス1世が代表的)が乱発した「独占特許」のことで、絶対王政の経済政策として採られ、その財源をもたらしていた。 それに対して興隆し始めた中小産業資本家層が下院に拠って激しく反発し、ジェームズ1世の時の1623~24年には「独占大条令」が議会で成立して独占は原則禁止された。 しかし様々な抜け道があってピューリタン革命期まで存続していたので、革命の過程で1641年の長期議会で独占に関わっている議員の追放と独占の禁止が議決された。 この「反独占」の動きは王政復古で後退するが、「名誉革命」で再び実施され「営業の自由」「取引の自由」が他国に先駆けて確立した、とされている。 <大塚久雄『歴史と現代』1979 朝日選書 p. 14 「大塚史学」が現在の歴史学会でどのように捉えられているかについては近藤和彦『文明の表象 英国』(1998 山川出版社)が触れている。 <近藤和彦『文明の表象 英国』1998 山川出版社 p. 55-57>.

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ピューリタン革命

ピューリタン 革命

清教徒革命とも。 1世のスコットランド失政を契機として,1640年が召集され,責任者の処罰,議会特権の確認,絶対王制の支配機構の打破などの改革が行われた。 国王派(騎士党)と議会派(円頂党)が,1642年開始。 当初は国王派が有利だったが,議会派はが出てを編制し,圧倒的勝利を収めた。 国王に対する処置と革命のプログラムをめぐって,議会派内の対立がきびしくなったが,と()が主導権を握り1648年を議会から追い残部議会となり,1649年国王を公敵として処刑。 同年独立派は水平派との動きを鎮圧して共和政()を樹立,,スコットランドを征服。 制定が原因となり第1次英蘭戦争が勃発 ぼっぱつ。 1653年軍により残部議会が解散され,同年末クロムウェルをとする独裁政権が成立したが,クロムウェルの没後間もなく1660年が行われた。 清教徒革命ともいう。 なお、わが国では、革命の期間を1642~49年、あるいは、1642~60年とする見方もある。 しかし、革命の成果の多くが1640~41年に達成されたこと、1649年の内乱終了後も政治変革が続行されたことを考えるならば、長期議会の開始から王政復古までを革命の期間とみるのが妥当である。 [小泉 徹] 原因革命の原因は複合的なものであったが、直接的には、1630年代のチャールズ1世親政下でのロード、ストラッフォードらによる強権的な政治に国民各層の不満が高まったことにある。 ことに船舶税など議会の同意を経ない課税の強行、星室庁および高等宗務官裁判所を通じての政治犯の弾圧などが人々の憤激を買った。 しかしその背後には、ますます増大する行政費用をだれが負担するか、また宗教上の問題において最終的決定権をもつのはだれか、といった基本的な問題が横たわっており、それらの問題はすでに1620年代に争点になっていたのである。 1621年に始まり1628年の「権利請願」に至る議会における論争がそれを示している。 ところで、それよりも100年ほど前、ヘンリー8世(在位1509~47)は同様の財政問題に突き当たり、中小地主を中心とする議会の支持を背景として、宗教改革を実行し、修道院の財産を奪って、一時的にせよこの問題を解決していた。 しかしその後、チューダー朝の君主は、エリザベス1世も含めてみなこの問題の根本的な対策を怠っていたため、17世紀になると、スチュアート朝の君主は問題の解決を迫られた。 彼らは国王の封建的諸権利を盾に財政の立て直しを図ったが、結局その負担を背負うことになったのは、宗教改革の結果、修道院の財産を手に入れて上昇してきた中小地主層ジェントリであった。 したがって結果としてみれば、スチュアート朝の国王は王政の最大の支持基盤を自ら掘り崩すことになり、このジェントリの離反こそが、スチュアート朝の命取りになったということができよう。 [小泉 徹] 経過革命の直接的きっかけは、1637年、チャールズ1世がスコットランドに国教会の祈祷 きとう 書と儀式を押し付けたことにある。 スコットランドは当時ピューリタンの一派である長老教会主義を国教としていたためこれに反発し、イングランドとの戦争の準備を始めた。 これに対して国王は自ら兵を率いて乗り込もうとしたが失敗し、戦わずして兵を引き揚げた。 しかし戦費を補うために議会を開かねばならず、1640年4月、11年ぶりで議会が招集された。 ところがこの議会は国王の政策を非難することに終始したため3週間で解散され、「短期議会」とよばれるようになる。 その間、戦争準備を整えたスコットランドがイングランド北部に侵入、国王は賠償金の支払いを約束して和平を結び、その財源を得るべく同年11月には、ふたたび議会を招集せざるをえなくなった。 「長期議会」とよばれるこの議会はただちに改革に着手し、3年議会法、議会の同意に基づかない課税に反対する法、星室庁および高等宗務官裁判所の廃止法など一連の改革立法を行った。 これらの改革は、イギリス人が古来から有してきた神聖不可侵の権利を回復するものとして全会一致で決定されたが、1641年秋、アイルランドでのカトリック教徒の反乱が伝えられると、議会内改革派はよりいっそうの改革を推進するために、国王の悪政を列挙した「大諫議書 かんぎしょ 」を議会に提出した。 しかし保守派がこれに反対したため、1641年11月、議会は王党派と議会派に分裂する。 これをみた国王は翌年1月、議会に乗り込んでピムら議会派指導者を逮捕しようとしたが失敗し、ロンドンを離れて戦争の準備にとりかかった。 こうして同年8月、両派の間で戦闘が開始される。 戦闘は各州内部で入り乱れて戦われ、初期は王党派が有利であったが、しだいに訓練を積んだ議会派が巻き返し、1645年、クロムウェルの率いる「新型軍」New Model Armyの活躍によって、議会派はネーズビーNasebyで決定的勝利を収めた。 しかし勝利を得た議会派内部で、改革の方向をめぐって対立が生じた。 国王との和解を望む議会の主流派すなわち長老派と、軍隊の力を背景に徹底抗戦を主張する独立派との対立である。 ところが両派の対立、駆け引きのうちに、王党派が反乱を起こし、第二次内乱となった(1648)ため、独立派は最左翼のレベラーズと結んで王党派を破り、政治の主導権を握った。 そして実力をもって長老派議員を議会から追放し(プライドの追放、1648年12月)、国王を処刑(1649年1月)して、さらにレベラーズをも弾圧した。 しかしこのようにして成立した共和政は強力な支持基盤をもたず、一方で有力ジェントリから見放され、他方で軍隊の圧力に抗しきれず、自己保身に終始した。 このため独立派の指導者クロムウェルは、1653年4月、実力で議会を解散し、指名制の議会を招集して「聖者」による支配を行おうと試みる。 クロムウェル自身は、軍幹部の用意した「統治章典」によって統治すべく「護国卿 きょう 」の地位についた。 そして全国を最初11、のちに12の軍管区に分けて、それぞれに軍政官を置いて地方行政を担当させた。 しかし、この支配はまったく支持基盤を欠いており、そのうえ軍政官には身分の低い者が多かったので、地方行政は麻痺 まひ 状態に陥った。 この権力の空白状態のなかで王党派と議会派との事実上の和解が進行し、王政復古を望む声が高まってくる。 1658年クロムウェルが死去すると共和政の存続は絶望的になり、1660年、スコットランド軍およびイングランド軍総司令官モンクが準備を整えて、チャールズ1世の子、チャールズ2世を王位に迎え、ここにピューリタン革命は終息した。 [小泉 徹] 結果王政復古の結果、共和政は終わりを告げたが、ピューリタン革命がすべて失敗に帰したわけではない。 長期議会の初期に可決された改革立法の多くがそのまま認められ、イギリスの国制のなかに定着したからである。 また宗教問題においても寛容の原則が認められ、しだいにイギリス社会に定着してゆく。 また革命中に王党派から没収されて第三者の手に渡った土地も、ほとんどそのまま第三者のもとに残された。 ピューリタン革命の全体像については今日さまざまな解釈がある。 当時実際に戦った人々の意識のうえでは、それはカトリック反動を阻止するピューリタンの正義の戦いであった。 しかし革命の主要な課題は宗教問題にとどまらなかった。 ホイッグ史観に代表される19世紀の歴史学は、この革命を、国王の圧政に抵抗した議会が、ついに自らの権利を守り、輝かしいイギリス議会政治の基礎を固めたものと考えた。 しかし革命の全期間を通じて、議会が主導権を握っていたのはわずかな時間にすぎない。 また、この革命は新興の市民階級が封建的諸勢力を打倒した市民革命であるという見方もある。 しかしだれが市民階級でだれが封建的勢力なのか、17世紀の世界のなかでそれを区別するのは困難である。 またこの革命は17世紀中葉にヨーロッパ全域に現れた一連の内乱、「ルネサンス国家の危機」の一現象であるとする見解もある。 しかしこの説明だけでは、なぜイギリスにおいてだけ「危機」がこのような経過をたどったのかは説明できない。 このように多様な解釈のなかにあっても、いくつかの点は一致して認められている。 すなわち、国王の封建的諸権利とそれに伴う機構が廃止された結果、イギリスでは事実上排他的所有権が確立し、農業の分野における資本主義の発展を、促進したとはいえないまでも、それを阻止する要因が除去されたということである。 そして、その恩恵を被ったのがジェントリを中心とする土地所有者階層で、彼らこそが近代イギリス社会の担い手となったということである。 したがってピューリタン革命は、結果として近代イギリス社会の一つの起点を形づくったということができるであろう。 清教徒革命ともいう チャールズ1世はスコットランド鎮圧の軍費捻出のため,1640年,11年ぶりで議会を召集したが,議会側は専制を批判して大諫奏 だいかんそう を提出するなど,王と対立した。 1642年国王の議会への弾圧からとなる。 初めはが,や都市市民に基礎を置く議会派より優勢であったが,を主体としたクロムウェルの鉄騎隊が出現して,1645年で議会軍が勝ち,48年国王は逮捕された。 クロムウェルの独立派は王と妥協をはかる長老派議員をし(),1649年1月王を処刑して共和政を宣言した。 ついでクロムウェルは急進的な水平派を弾圧し,1653年には護国卿として軍事独裁体制を樹立した。 またアイルランド征服・航海法発布・英蘭戦争などを強行したが,彼の,1660年に王政復古が行われた。 出典 旺文社世界史事典 三訂版 旺文社世界史事典 三訂版について の解説 【エリザベス時代】より …彼と同時代またはその後の劇作家には,風刺喜劇の型を確立したベン・ジョンソン,ロンドンの民情を背景にメロドラマを多作したトマス・デッカー,高揚された詩的表現を用いて迫力に富む流血悲劇を作り上げたジョン・ウェブスター,冷徹皮肉な人間性の観察者トマス・ミドルトン,純化された情念の輝きを耽美的に追求したジョン・フォードなどがいる。 彼らの作品は移り変わる観客の嗜好と人気の波にもまれつつ,時に10に及ぶ数の劇場で上演され続けたが,ピューリタン革命勃発後の1642年にロンドン中の劇場が閉鎖されることになって,エリザベス朝演劇はその幕を閉じた。 なお,こうした大衆演劇とは別に,おもに宮廷や貴族の邸宅でしばしば上演された仮面劇もまた,この時代に完成を見たもう一つの演劇的ジャンルとして,無視することはできない。 … 【ジェントルマン】より … ジェントリーの勃興については,学説上二つの対立する主張がある。 一つは,宗教改革からピューリタン革命に至る1世紀間には,おりからのインフレによって,伝統的な固定地代を徴収する貴族が没落したのに対し,競争地代を徴収し,毛織物その他のマニュファクチュア経営,石炭業などをも展開した資本家的なジェントリーが急速に勃興したというR. トーニーの主張である。 これに対して,そのような事実は存在せず,貴族であれ,ジェントリーであれ,宮廷内に官職を確保しえた一族つまり〈宮廷派〉は勃興し,それができなかった一族〈カントリー派〉は没落を余儀なくされたとするH. トレバー・ローパーの学説が対立,〈ジェントリー論争〉の名を与えられている。

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