白洲次郎 家系図。 白洲正子

ドラマスペシャル「白洲次郎」

白洲次郎 家系図

生涯 [ ] 生い立ち [ ] 白洲次郎は(35年)2月17日、兵庫県(現・芦屋市)に貿易商・芳子夫妻のとして生まれた。 白洲家は元の士族の出。 後に兵庫県 (現:)に転居した。 精道尋常小学校、御影師範学校付属小学校高等科を経て、(3年)旧制第一神戸中学校(のち)に入学。 サッカー部・野球部に所属。 アメリカ車( )のグレンブルックを父親から買い与えられており、級友等を同乗させている写真が残っている。 神戸一中時代にはの生徒と恋仲になった。 同級生の友人には後に作家で長官となった、他に中国古典学の大家として、文化功労者になったがいる。 祖父であるが伝道系学校のの創立に関わったことから白洲家には外国人女性教師が寄宿しており、ネイティブな英語を学んだ。 イギリス留学 [ ] (8年)神戸一中を卒業し、クレア・カレッジに進学。 西洋中世史、などを学ぶ。 のちに7代目となるロバート・セシル・ビング ロビン)と親交し、イギリス貴族のライフスタイルを知る。 1925年(大正14年)ケンブリッジ大学を卒業し、大学院へ進学。 自動車は、や(1924年)を所有。 ロビンと終生の友となり、1925年冬ベントレーを駆ってまでの大陸旅行を実行している。 カメラはを所有していた。 白洲次郎が所有していたベントレー・3リットルは、現在は埼玉県加須市にあるに展示されている。 また、所属していたクレア・カレッジ内にある図書館には、SHIRASU COLLECTIONと称した白洲次郎を記念としたセクションがあり、日本関連書籍が並んでいる。 帰国 [ ] (昭和3年)、(のちの)で父の経営していた白洲商店がの煽りを受け倒産したため、留学を断念し、日本への帰国を余儀なくされた。 (昭和4年)、の『』に就職し記者となった。 ・の長男・の紹介でその妹・正子と知り合って結婚に至り、で華燭の典を挙げた。 婚姻届は兵庫県川辺郡伊丹町役場に提出されている。 結婚祝いに父から贈られたで新婚旅行に出かけた。 英字新聞記者を経て1931年セール・フレイザー商会に勤務し取締役となり、(昭和12年)日本食糧工業(後の)取締役となった。 セール・フレイザー商会は明治初期より横浜で貿易商をしていたセールとフレイザーが明治30年に合併し、機関車や兵器などの輸入と銀行業務を行なっていた会社で、社長のジョージ・セールは白洲のケンブリッジ留学時代の学友だった。 この間、商談などで海外に赴くことが多く駐イギリスであったの面識を得 、イギリスをみずからの定宿とするまでになった。 またこの頃、やとともにのとして行動する。 近衛とは個人的な親交も深く、奔放な息子・の目付役をしていたこともあった。 戦時下 [ ] 白洲夫妻が住居にしていた武相荘 勃発の翌年の(昭和15年)、能ヶ谷(のち)の古い農家を購入し、鶴川村が武蔵国と相模国にまたがる場所にあったことから(ぶあいそう)と名付け、政治や実業の一線から離れて農業に励む日々を送った。 外国への留学時代に日本と諸外国との国力差を痛感した白洲は、当初から戦争に反対の立場を貫いていた。 終戦連絡中央事務局 [ ] (昭和20年)、のに就任した吉田の懇請で(終連)の参与に就任する。 の要求に対して白洲はイギリス仕込みので主張すべきところは頑強に主張し、GHQ要人をして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた。 からに対するプレゼントを届けた時に「その辺にでも置いてくれ」とプレゼントがぞんざいに扱われたために激怒して「仮にもからの贈り物をその辺に置けとは何事か!」と怒鳴りつけ、持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせたといわれる。 憲法改正 [ ] 同年には改正問題で、教授に憲法改正の進捗を督促する。 (昭和21年)、国務大臣が中心として起草した憲法改正案(松本案)がGHQの拒否にあった際に、GHQ草案(マッカーサー案)を提示されている。 GHQ草案の翻訳と日本政府案の作成に当たった白洲はにGHQ草案の検討には時間を要するとに宛てて書簡 を出し時間を得ようとするが、これはGHQから不必要な遅滞は許されないと言明された。 同年3月に終連次長に就任。 8月、経済安定本部次長に就任。 (昭和22年)、終連次長を退任した。 貿易庁長官 [ ] (昭和20年)、の外局として設立されたの長官に(昭和24年)12月1日に就任する。 汚職根絶などに辣腕を振るい、商工省を改組し(のち経済産業省)を設立した。 その辣腕ぶりから「白洲三百人力」と言われる。 同年、日本最大・最新鋭の広畑製鉄所(現:広畑製鐵所)が、日本側に返還されることになった。 白洲は外貨獲得のためにイギリス企業に売却を主唱するも、の反対によって頓挫した。 永野は「(広畑製鐵所を)取れなかったら腹を切る。 将来の日本経済のため、製鉄業を外国資本に任せられるか」と啖呵を切ったとされる。 白洲は「俺はボランティアではない」が口癖で、イギリス留学時代の人脈をフルに活用し、主としてイギリス企業とアメリカ企業の日本進出時に代理人を務めた。 サンフランシスコ講和会議全権団顧問 [ ] (昭和25年)、連合国との講和問題で蔵相や蔵相秘書官と共に渡米し、と会談、平和条約締結の準備を開始した。 (昭和26年)9月、に全権団顧問として随行した。 外務省の説明によると、首席全権であったは当初、英語で演説を行うつもりだったが、日本の「ディグニティ(尊厳)」のために、当日になって、急遽日本語で演説することとした という。 白洲によれば、この時受諾演説の原稿を外務省の役人がGHQの了解を得た上でGHQに対する美辞麗句を並べかつ英語で書いたことに白洲が激怒、「講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。 その晴れの日の原稿を、相手方と相談した上に、相手側の言葉で書く馬鹿がどこにいるか!」と一喝、急遽に書き直した。 原稿は随行員が手分けして和紙に毛筆で書いたものを繋ぎ合わせた長さ30m、直径10cmにも及ぶ巻物となり、内容には、並びに等の施政権返還が盛り込まれた。 しかし、サンフランシスコ条約会議に、事務の元締めとして参加した条約局長は、受諾演説文は、日英両国語で作っていたこと、および、吉田は英語で演説するつもりだったが、大使が西村熊雄に日本語で演説することを勧めたため、同僚や白州顧問等と相談したところ、皆、賛成であり、吉田にその旨伝えた、としている。 (昭和27年)から(昭和29年)まで外務省顧問を務めた。 吉田退陣後は政界入りを一部から望む声もあったが政治から縁を切り、実業界に戻った。 実業界へ復帰 [ ] 吉田側近であったころからすでにを推進しており、(昭和24年)にはが発足している。 そして1951年(昭和26年)5月には、の9分割によって誕生した9つの電力会社のうちの1つ、会長に就任した。 また、9電力体制を作った「電力王・電力の鬼」の私的・の委員に就任した。 就任の同年の流域がに指定されたことから(昭和34年)に退任するまで、只見川流域の電源開発事業に精力的に動きなどの建設を推進した。 また当時東北地方で開発可能な水力の4分の3を有していた只見川 のを巡って、古くからの権利を主張して徹底抗戦してきたに対し、当時の建設大臣を説得して、水利権を東北電力に切り替えるという超法規的措置を引き出した。 これによって、東北電力繁栄の基礎が築かれた。 東北電力退任後は会長、会長、大洋漁業(現)、、ウォーバーグ証券(現)の役員や顧問を歴任した。 晩年 [ ] 軽井沢ゴルフ倶楽部の理事長を務めゴルフに興じたほか、80歳まで型に乗り、のショーにモデルとして出演もした。 また、同時期には没後の1月に発売が開始されることとなった2代目のアドバイスなども行なっていた。 死去 [ ] 兵庫県三田市心月院にある白洲次郎夫妻の墓。 右が次郎、左が正子の墓 しかし1985年(昭和60年)11月に、妻の正子と・を旅行後、体調を崩しと内臓疾患で入院、同年11月28日に急性のため東京都ので死去した、83歳没。 墓所は兵庫県のである。 妻の正子と子息に残した遺言書には「無用 不用」と記してあった。 実はこの遺言書のフレーズは、白洲の父親が死去した際に残した遺言の内容とまったく同じであった。 そして白洲の墓碑には正子が発案したを表すが刻まれているだけで、戒名は刻まれていない。 エピソード [ ]• 白洲次郎に関する一次資料は、ほとんど現存しておらず、実像としての次郎は謎が多い人物である。 は「白洲さんは悪い人じゃないけど、女にもて過ぎたのがいかんですね」と話している。 日本で初めてを履いた人物である。 はイタリアン・ローストで細かく挽いたものを好み、青山のでよく購入していた。 顔なじみだったコーヒー売り場の店員は、白洲の訃報を伝える新聞記事で初めて素性を知り驚愕するとともに、「冗談好きで素敵なおじいさんだった」と後に取材に答えている。 手先が器用でが趣味の1つ。 や小物入れ、キャスターテーブルなど日用品をよく作っていた。 これらは現在もに展示されている。 にマッカーサー記念館の倉庫から、白洲が設計しに贈答された椅子と書簡が見つかった。 発言集 [ ]• 「吾々(われわれ)の時代にこの馬鹿な戦争をして、元も子もなくした責任をもっと痛烈に感じようではないか。 日本の経済は根本的の立て直しを要求しているのだと思う」• 「憲法にしろ色々の法規は、米国でさえ成立不可能な様なものをどしどし成立させ益々得意を増していった。 一寸夢遊病者の様なもので正気かどうかも見当もつかなかったし、善意か悪意かの判断なんてもっての外で、ただはじめて化学の実験をした子供が、試験管に色々の薬品を入れて面白がっていたと思えばまあ大した間違いはなかろう」• 「自分は必要以上にやっているんだ。 占領軍の言いなりになったのではない、ということを国民に見せるために、あえて極端に行動しているんだ。 為政者があれだけ抵抗したということが残らないと、あとで国民から疑問が出て、必ず批判を受けることになる」(日本国憲法制定を巡ってのGHQとの攻防の折、宮澤喜一に対して)• 「この憲法は占領軍によって強制されたものであると明示すべきであった。 歴史上の事実を都合よくごまかしたところで何になる。 後年そのごまかしが事実と信じられるような時がくれば、それはほんとに一大事であると同時に重大な罪悪であると考える」• 「とは何と訳したらよいか知らない。 原則とでもいうのか。 …西洋人とつき合うには、すべての言動にプリンシプルがはっきりしていることは絶対に必要である。 日本も明治維新前までの武士階級等は、総ての言動は本能的にプリンシプルによらなければならないという教育を徹底的にたたき込まれたものらしい」• 「新憲法のプリンシプルは立派なものである。 主権のない天皇が象徴とかいう形で残って、法律的には何というのか知らないが政治の機構としては何か中心がアイマイな、前代未聞の憲法ができ上ったが、これも憲法などにはズブの素人の米国の法律家が集ってデッチ上げたものだから無理もない。 しかし、そのプリンシプルは実に立派である。 マッカーサーが考えたのか総理が発明したのかは別として、戦争放棄の条項などその圧巻である。 押しつけられようが、そうでなかろうが、いいものはいいと率直に受け入れるべきではないだろうか」• 我々が現在声高らかに唱えている新憲法もデモクラシーも、我々のほんとの自分のものになっているとは思わない。 吉田さんは、そのことが国民の人気を得るところとなりずっと表街道を歩いたが、もう一人のぼくは別に国民から認められることもなく、こうして安穏な生活を送っている。 けれども一人くらいはこういう人間がいてもいいとおもい、別にそのことで不平不満を感じたこともないし、いまさら感ずる年でもないと思っている」• 「税金がふえて、我々の生活が今よりぐっと苦しくなっても、なお外国の軍隊を国内に駐留させるよりもいいというのが国民の総意ならば、など解消すべし」• 「今の政治家は交通巡査だ。 目の前に来た車をさばいているだけだ。 それだけで警視総監にはなりたがる。 政治家も財界のお偉方も志がない。 立場で手に入れただけの権力を自分の能力だと勘違いしている奴が多い」 第三者による白洲次郎評 [ ] 前出のように、白洲次郎についての一次資料は少ないとされる。 彼自身の性格によるところもあるのだろう。 死の数年前、何日かにわたって古いかばんを持ち出し、中の書類を次々に火にくべていたという。 長女の桂子が「何を燃やしているの?」と尋ねるとそれには答えず、「こういうものは、墓場まで持っていくもんなのさ」と言って、焼却炉から立ち上る煙をじっと見上げていたという。 第三者による白洲次郎評を以下に記す。 「流暢な英語で、人を見下して話すところは、好きになれませんでした。 「吉田側近として活躍していた昭和20年代後半は、評判が悪かったという。 2月、で初演。 同大劇場は宝塚歌劇団の本拠地であり、兵庫県は白洲家の出身地である三田市の隣町でもある。 2 - 3月は宝塚大劇場で 、4 - 5月はで上演。 5月にDVDやCDも発売。 白洲を演じたのは同歌劇団理事で専科の。 マッカーサー()や吉田茂(専科の)をが演じ話題となった。 白洲は東宝に大きな影響を持ち(本人はフィルム納入等で直接関係を持ち義兄・樺山丑二は東宝取締役、長男・春正は元社長)、また前述のとおり白洲が神戸一中時代にタカラジェンヌと知り合いガールフレンドとしたことなど宝塚歌劇団に対する様々なエピソードを持ち、劇中でも触れられている部分がある。 その他の作品 [ ]• 第二回 昭和52年()放送 ドキュメンタリードラマ(ドキュラマ)形式の。 第二回ではをめぐる外務大臣官邸でのやりとりを軸に描かれる。 白洲役は。 平成8年()放送 NHK や日本国憲法成立の過程での活躍が描かれている。 白洲役は。 平成18年()放送 NHK 「マッカーサーを叱った男」として主にGHQとの交渉から通産省設立までを描く。 にてコミック化。 作画は• 平成6年()放送 「風の男・白洲次郎伝説」として生い立ちから晩年までを紹介。 スタイリッシュながらも気骨ある生き方にが興味を持った。 平成18年(2006年)放送 世界超偉人伝説で白洲に興味を持ち心酔するようになった明石家さんまが、約10年越しで実現させた番組。 ゆかりの人物を武相荘に招いてのトークや、白洲の人となり等を紹介。 平成21年()放送 NHK 白洲を、妻の正子をが演じるほか、(役)・(役)など豪華キャストで、白洲の親子愛・夫婦愛を描く。 平成24年()~ 放送 NHK『』 白洲を。 ( )• 令和2年() 放送 開局55周年特別企画スペシャルドラマ 白洲を。 家系 [ ] 白洲家 [ ] 白洲家は、(現・兵庫県三田市を中心とした地域)の者の家柄。 は白洲文五郎、は(現・兵庫県)の黒石氏の娘・里子。 祖父は三田藩儒の(12年 、現在の兵庫県三田市屋敷町にて出生)。 退蔵は後は敷設などの事業を興し、一時のも務めた。 また現在の、といった周辺のの都市開発や神戸ホーム(の前身)の創立にも尽力した。 父・は卒業後、、鐘淵紡績(カネボウ、現・)を経て貿易で巨万の富を築き豪放磊落な人柄で「白洲将軍」と呼ばれた。 子孫 [ ]• 長男(第一子): - 元社長• 二男(第二子):• 孫: - 兼正の長男、母はの長女・明子。 元・のでアートプロデューサー、エッセイスト、株式会社ジパング代表取締役• 長女(第三子): - 旧白洲邸・館長 略年譜 [ ]• 1902年(明治35年) - 2月17日、現在の兵庫県芦屋市にて誕生。 1914年(大正3年) - 神戸一中入学。 1919年(大正8年) - 神戸一中卒業後、イギリスに渡航。 1924年(大正13年) - ケンブリッジ大学に聴講生として留学。 1928年(昭和3年) - 白洲商店倒産。 この頃、帰国。 1929年(昭和4年) - ジャパン・アドバタイザー入社。 11月19日、正子と結婚。 この頃、正子の父を通じて吉田茂と知り合う。 1931年(昭和6年) - 2月5日、長男春正誕生。 セール・フレイザー商会入社、取締役となる。 この頃から頻繁に渡欧。 1937年(昭和12年) - 日本食糧工業(後の日本水産)取締役就任。 やがて取締役外地部長となる。 この頃、近衛文麿と知り合う。 1938年(昭和13年) - 1月3日、次男兼正誕生。 1940年(昭和15年) - 6月3日、長女桂子誕生。 1942年(昭和17年) - この頃、日本水産を退職し帝国水産理事就任。 この頃、南多摩郡鶴川村(現在の)にて農家を購入。 1943年(昭和18年) - この頃、鶴川村へ転居(=)。 1945年(昭和20年) - 終戦連絡事務局参与に就任。 1946年(昭和21年) - 2月、日本国憲法制定作業に参加。 3月1日、終戦連絡事務局次長に就任、高等官一等となる。 12月、経済安定本部次長に就任。 この頃、に介入。 1947年(昭和22年) - 終戦連絡事務局次長を退任。 1948年(昭和23年) - 12月、貿易庁長官に就任。 1949年(昭和24年) - 5月24日、貿易庁長官退任。 翌25日、通商産業省設立。 この頃、日本製鐵広畑製鉄所の外資売却問題騒動。 1950年(昭和25年) - 4月25日、吉田茂首相の特使として訪米。 この頃、アメリカ大使就任の話が出るが頓挫。 この頃、旧日本軍播磨造兵廠払い下げ問題。 この頃、設立に奔走。 1951年(昭和26年) - 5月1日、東北電力会長就任。 9月8日、サンフランシスコ講和条約調印に立ち会う。 この頃、「日本のラスプーチン」など白洲バッシング多数。 1952年(昭和27年) - 軽井沢ゴルフ倶楽部理事長就任。 11月19日、外務省顧問に就任。 吉田首相の特使として欧米視察。 1953年(昭和28年) - 2月、吉田首相の特使としてヨーロッパ視察。 吉田の命を受けてに面会しようとしたが果たせず。 1955年(昭和30年) - 旧日本軍四日市燃料廠払い下げ問題。 1959年(昭和34年) - 4月10日、東北電力会長退任。 1966年(昭和41年) - 東京赤坂に転居。 1982年(昭和57年) - 2月、軽井沢ゴルフ倶楽部常任理事に就任。 1985年(昭和60年) - 11月28日、死去。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 現代ビジネス 2011年8月17日. 2019年12月26日閲覧。 『昭和経済史への証言(下)』、1966年、411頁。 , p. 不明 [ ]. , p. 旧白洲邸 武相荘 Buaiso. 2019年6月21日閲覧。 , p. 岡部芳彦. 2019年6月21日閲覧。 , p. 『諸官省用達商人名鑑. 前編』山口晋一、運輸日報社、明43. , p. 不明 [ ]. 河上徹太郎「メトロのライオン 白洲次郎」 『文藝別冊 総特集 白洲次郎』、( 2002年)に再録。 他に青柳恵介『風の男 白洲次郎』(新潮文庫)など• Courtney Whitney 1946年2月16日. 国立国会図書館. 2019年6月21日閲覧。 2014年3月18日閲覧。 , p. 西村熊雄『サンフランシスコ条約日米安保条約』中央公論新社 1999. 7 P234,P235• 『東北電力株式会社50年のあゆみ』東北電力50年史編集委員会、東北電力、2001年6月。 [ ]• NHKドラマスペシャル公式サイト. 2014年3月18日時点の [ ]よりアーカイブ。 2014年3月18日閲覧。 ・『いま明かす戦後秘史 下巻 』、、1986年、58-60頁• 青柳恵介『風の男 白洲次郎』 [ ]• なんでも鑑定団. テレビ東京. 2009年8月2日時点のよりアーカイブ。 2019年6月21日閲覧。 「文藝春秋」1954年臨時増刊号、文藝春秋。 [ ]GHQ内部の人々を評して。 白洲次郎『プリンシプルのない日本』 [ ]• 「諸君」1969年9月号、文藝春秋。 [ ]• 白洲次郎『プリンシプルのない日本』 [ ]• 白洲次郎『プリンシプルのない日本』 [ ]• 白洲次郎「「占領秘話」を知り過ぎた男の回想」『週刊新潮』20 33 1011 、新潮社、1975年8月、 118-123頁、 :。 「諸君」1969年9月号、文藝春秋。 [ ]• 「週刊朝日」1976年11月18日号、朝日新聞出版。 [ ]• 『白洲次郎 占領を背負った男』 [ ]• 産経新聞. 2015年8月3日. MSN産経ニュース 産経新聞社. 2009年9月7日. の2009年9月10日時点におけるアーカイブ。 宝塚歌劇団. 2019年6月21日閲覧。 2014年3月18日時点の [ ]よりアーカイブ。 2014年3月18日閲覧。 参考文献 [ ] は列挙するだけでなく、などを用いてしてください。 記事のにご協力をお願いいたします。 ( 2019年6月)• 白洲次郎 『プリンシプルのない日本』 ワイアンドエフ、2001年/、2006年6月• 『白洲正子自伝』、『遊鬼』 各、新潮文庫、のち 新潮社• 、序文白洲正子 『風の男 白洲次郎』 新潮社、1997年11月• 『文藝別冊 白洲次郎』 、2002年4月、増補新版2016年3月• 白洲次郎ほか『白洲次郎の流儀』新潮社〈〉、2004年9月。 白洲正子ほか『白洲次郎』〈コロナ・ブックス〉、1999年。 『白洲次郎 占領を背負った男』 、2005年、• 北康利『白洲次郎占領を背負った男』上、〈講談社文庫〉、2008年12月。 (下)、2008年12月、解説• 北康利 『レジェンド伝説の男 白洲次郎』 、2009年/、2012年• 鶴見紘 『白洲次郎の』 、1989年/知恵の森文庫、2007年。 最初に刊行された評伝• 『英国機密ファイルの』新潮社、2007年5月。 新潮文庫、2009年11月• 続編『1945日本占領 フリーメイスン機密文書が明かす対日戦略』 新潮社、2011年2月• 須藤孝光 『1946 白洲次郎と日本国憲法』 新潮社 2010年4月。 須藤孝光 『白洲次郎 日本を復興させた男』 新潮社 2011年8月。 白洲信哉 『白洲家の流儀 祖父母から学んだ「人生のプリンシプル」』 101新書、2009年• 『次郎と正子 娘が語る素顔の白洲家』 新潮社、2007年4月/新潮文庫、2009年12月• 牧山桂子 『武相荘のひとりごと 白洲次郎・正子の娘が語る』 世界文化社、2012年• 牧山桂子・青柳恵介・須藤孝光 『白洲次郎と白洲正子 乱世に生きた二人』 新潮社、2008年9月• 牧山圭男 『白洲家の日々 娘婿が見た次郎と正子』 新潮社、2012年4月/新潮文庫、2015年• 『白洲次郎という生き方』 「別冊宝島」、2015年8月/宝島社文庫、2017年1月• 『軽井沢伝説 避暑地・軽井沢に集った名士たちとの半世紀』 講談社、2011年7月• 馬場啓一 『白洲次郎の生き方』 講談社、1999年、、2002年• 改訂版 『白洲次郎のダンディズム なぜ男らしくありえたのか』 文庫、2008年• 清水将大編著 『白洲次郎 男の語録 プリンシプルに生きよ』 シーエイチシー 2010年• 他に、白洲次郎「語録」は宝島社、笠倉出版社、英和出版社で出版。 各・2015年• 『白洲次郎的』 新書y、2004年• 青木高夫 『白洲次郎に学ぶビジネスの教科書』講談社、2015年6月• 『白洲次郎 一流の条件』 牧山圭男監修、宝島社、2016年10月 関連項目 [ ]• - 次郎は小林秀雄・河上徹太郎の依頼で、吉田の『』の出版をGHQに働きかけた。 外部リンク [ ] ウィキクォートに に関する引用句集があります。 先代: 貿易庁長官 1948年 - 1949年 次代: (廃止).

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白洲次郎 家系図

生涯 [ ] 生い立ち [ ] 白洲次郎は(35年)2月17日、兵庫県(現・芦屋市)に貿易商・芳子夫妻のとして生まれた。 白洲家は元の士族の出。 後に兵庫県 (現:)に転居した。 精道尋常小学校、御影師範学校付属小学校高等科を経て、(3年)旧制第一神戸中学校(のち)に入学。 サッカー部・野球部に所属。 アメリカ車( )のグレンブルックを父親から買い与えられており、級友等を同乗させている写真が残っている。 神戸一中時代にはの生徒と恋仲になった。 同級生の友人には後に作家で長官となった、他に中国古典学の大家として、文化功労者になったがいる。 祖父であるが伝道系学校のの創立に関わったことから白洲家には外国人女性教師が寄宿しており、ネイティブな英語を学んだ。 イギリス留学 [ ] (8年)神戸一中を卒業し、クレア・カレッジに進学。 西洋中世史、などを学ぶ。 のちに7代目となるロバート・セシル・ビング ロビン)と親交し、イギリス貴族のライフスタイルを知る。 1925年(大正14年)ケンブリッジ大学を卒業し、大学院へ進学。 自動車は、や(1924年)を所有。 ロビンと終生の友となり、1925年冬ベントレーを駆ってまでの大陸旅行を実行している。 カメラはを所有していた。 白洲次郎が所有していたベントレー・3リットルは、現在は埼玉県加須市にあるに展示されている。 また、所属していたクレア・カレッジ内にある図書館には、SHIRASU COLLECTIONと称した白洲次郎を記念としたセクションがあり、日本関連書籍が並んでいる。 帰国 [ ] (昭和3年)、(のちの)で父の経営していた白洲商店がの煽りを受け倒産したため、留学を断念し、日本への帰国を余儀なくされた。 (昭和4年)、の『』に就職し記者となった。 ・の長男・の紹介でその妹・正子と知り合って結婚に至り、で華燭の典を挙げた。 婚姻届は兵庫県川辺郡伊丹町役場に提出されている。 結婚祝いに父から贈られたで新婚旅行に出かけた。 英字新聞記者を経て1931年セール・フレイザー商会に勤務し取締役となり、(昭和12年)日本食糧工業(後の)取締役となった。 セール・フレイザー商会は明治初期より横浜で貿易商をしていたセールとフレイザーが明治30年に合併し、機関車や兵器などの輸入と銀行業務を行なっていた会社で、社長のジョージ・セールは白洲のケンブリッジ留学時代の学友だった。 この間、商談などで海外に赴くことが多く駐イギリスであったの面識を得 、イギリスをみずからの定宿とするまでになった。 またこの頃、やとともにのとして行動する。 近衛とは個人的な親交も深く、奔放な息子・の目付役をしていたこともあった。 戦時下 [ ] 白洲夫妻が住居にしていた武相荘 勃発の翌年の(昭和15年)、能ヶ谷(のち)の古い農家を購入し、鶴川村が武蔵国と相模国にまたがる場所にあったことから(ぶあいそう)と名付け、政治や実業の一線から離れて農業に励む日々を送った。 外国への留学時代に日本と諸外国との国力差を痛感した白洲は、当初から戦争に反対の立場を貫いていた。 終戦連絡中央事務局 [ ] (昭和20年)、のに就任した吉田の懇請で(終連)の参与に就任する。 の要求に対して白洲はイギリス仕込みので主張すべきところは頑強に主張し、GHQ要人をして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた。 からに対するプレゼントを届けた時に「その辺にでも置いてくれ」とプレゼントがぞんざいに扱われたために激怒して「仮にもからの贈り物をその辺に置けとは何事か!」と怒鳴りつけ、持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせたといわれる。 憲法改正 [ ] 同年には改正問題で、教授に憲法改正の進捗を督促する。 (昭和21年)、国務大臣が中心として起草した憲法改正案(松本案)がGHQの拒否にあった際に、GHQ草案(マッカーサー案)を提示されている。 GHQ草案の翻訳と日本政府案の作成に当たった白洲はにGHQ草案の検討には時間を要するとに宛てて書簡 を出し時間を得ようとするが、これはGHQから不必要な遅滞は許されないと言明された。 同年3月に終連次長に就任。 8月、経済安定本部次長に就任。 (昭和22年)、終連次長を退任した。 貿易庁長官 [ ] (昭和20年)、の外局として設立されたの長官に(昭和24年)12月1日に就任する。 汚職根絶などに辣腕を振るい、商工省を改組し(のち経済産業省)を設立した。 その辣腕ぶりから「白洲三百人力」と言われる。 同年、日本最大・最新鋭の広畑製鉄所(現:広畑製鐵所)が、日本側に返還されることになった。 白洲は外貨獲得のためにイギリス企業に売却を主唱するも、の反対によって頓挫した。 永野は「(広畑製鐵所を)取れなかったら腹を切る。 将来の日本経済のため、製鉄業を外国資本に任せられるか」と啖呵を切ったとされる。 白洲は「俺はボランティアではない」が口癖で、イギリス留学時代の人脈をフルに活用し、主としてイギリス企業とアメリカ企業の日本進出時に代理人を務めた。 サンフランシスコ講和会議全権団顧問 [ ] (昭和25年)、連合国との講和問題で蔵相や蔵相秘書官と共に渡米し、と会談、平和条約締結の準備を開始した。 (昭和26年)9月、に全権団顧問として随行した。 外務省の説明によると、首席全権であったは当初、英語で演説を行うつもりだったが、日本の「ディグニティ(尊厳)」のために、当日になって、急遽日本語で演説することとした という。 白洲によれば、この時受諾演説の原稿を外務省の役人がGHQの了解を得た上でGHQに対する美辞麗句を並べかつ英語で書いたことに白洲が激怒、「講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。 その晴れの日の原稿を、相手方と相談した上に、相手側の言葉で書く馬鹿がどこにいるか!」と一喝、急遽に書き直した。 原稿は随行員が手分けして和紙に毛筆で書いたものを繋ぎ合わせた長さ30m、直径10cmにも及ぶ巻物となり、内容には、並びに等の施政権返還が盛り込まれた。 しかし、サンフランシスコ条約会議に、事務の元締めとして参加した条約局長は、受諾演説文は、日英両国語で作っていたこと、および、吉田は英語で演説するつもりだったが、大使が西村熊雄に日本語で演説することを勧めたため、同僚や白州顧問等と相談したところ、皆、賛成であり、吉田にその旨伝えた、としている。 (昭和27年)から(昭和29年)まで外務省顧問を務めた。 吉田退陣後は政界入りを一部から望む声もあったが政治から縁を切り、実業界に戻った。 実業界へ復帰 [ ] 吉田側近であったころからすでにを推進しており、(昭和24年)にはが発足している。 そして1951年(昭和26年)5月には、の9分割によって誕生した9つの電力会社のうちの1つ、会長に就任した。 また、9電力体制を作った「電力王・電力の鬼」の私的・の委員に就任した。 就任の同年の流域がに指定されたことから(昭和34年)に退任するまで、只見川流域の電源開発事業に精力的に動きなどの建設を推進した。 また当時東北地方で開発可能な水力の4分の3を有していた只見川 のを巡って、古くからの権利を主張して徹底抗戦してきたに対し、当時の建設大臣を説得して、水利権を東北電力に切り替えるという超法規的措置を引き出した。 これによって、東北電力繁栄の基礎が築かれた。 東北電力退任後は会長、会長、大洋漁業(現)、、ウォーバーグ証券(現)の役員や顧問を歴任した。 晩年 [ ] 軽井沢ゴルフ倶楽部の理事長を務めゴルフに興じたほか、80歳まで型に乗り、のショーにモデルとして出演もした。 また、同時期には没後の1月に発売が開始されることとなった2代目のアドバイスなども行なっていた。 死去 [ ] 兵庫県三田市心月院にある白洲次郎夫妻の墓。 右が次郎、左が正子の墓 しかし1985年(昭和60年)11月に、妻の正子と・を旅行後、体調を崩しと内臓疾患で入院、同年11月28日に急性のため東京都ので死去した、83歳没。 墓所は兵庫県のである。 妻の正子と子息に残した遺言書には「無用 不用」と記してあった。 実はこの遺言書のフレーズは、白洲の父親が死去した際に残した遺言の内容とまったく同じであった。 そして白洲の墓碑には正子が発案したを表すが刻まれているだけで、戒名は刻まれていない。 エピソード [ ]• 白洲次郎に関する一次資料は、ほとんど現存しておらず、実像としての次郎は謎が多い人物である。 は「白洲さんは悪い人じゃないけど、女にもて過ぎたのがいかんですね」と話している。 日本で初めてを履いた人物である。 はイタリアン・ローストで細かく挽いたものを好み、青山のでよく購入していた。 顔なじみだったコーヒー売り場の店員は、白洲の訃報を伝える新聞記事で初めて素性を知り驚愕するとともに、「冗談好きで素敵なおじいさんだった」と後に取材に答えている。 手先が器用でが趣味の1つ。 や小物入れ、キャスターテーブルなど日用品をよく作っていた。 これらは現在もに展示されている。 にマッカーサー記念館の倉庫から、白洲が設計しに贈答された椅子と書簡が見つかった。 発言集 [ ]• 「吾々(われわれ)の時代にこの馬鹿な戦争をして、元も子もなくした責任をもっと痛烈に感じようではないか。 日本の経済は根本的の立て直しを要求しているのだと思う」• 「憲法にしろ色々の法規は、米国でさえ成立不可能な様なものをどしどし成立させ益々得意を増していった。 一寸夢遊病者の様なもので正気かどうかも見当もつかなかったし、善意か悪意かの判断なんてもっての外で、ただはじめて化学の実験をした子供が、試験管に色々の薬品を入れて面白がっていたと思えばまあ大した間違いはなかろう」• 「自分は必要以上にやっているんだ。 占領軍の言いなりになったのではない、ということを国民に見せるために、あえて極端に行動しているんだ。 為政者があれだけ抵抗したということが残らないと、あとで国民から疑問が出て、必ず批判を受けることになる」(日本国憲法制定を巡ってのGHQとの攻防の折、宮澤喜一に対して)• 「この憲法は占領軍によって強制されたものであると明示すべきであった。 歴史上の事実を都合よくごまかしたところで何になる。 後年そのごまかしが事実と信じられるような時がくれば、それはほんとに一大事であると同時に重大な罪悪であると考える」• 「とは何と訳したらよいか知らない。 原則とでもいうのか。 …西洋人とつき合うには、すべての言動にプリンシプルがはっきりしていることは絶対に必要である。 日本も明治維新前までの武士階級等は、総ての言動は本能的にプリンシプルによらなければならないという教育を徹底的にたたき込まれたものらしい」• 「新憲法のプリンシプルは立派なものである。 主権のない天皇が象徴とかいう形で残って、法律的には何というのか知らないが政治の機構としては何か中心がアイマイな、前代未聞の憲法ができ上ったが、これも憲法などにはズブの素人の米国の法律家が集ってデッチ上げたものだから無理もない。 しかし、そのプリンシプルは実に立派である。 マッカーサーが考えたのか総理が発明したのかは別として、戦争放棄の条項などその圧巻である。 押しつけられようが、そうでなかろうが、いいものはいいと率直に受け入れるべきではないだろうか」• 我々が現在声高らかに唱えている新憲法もデモクラシーも、我々のほんとの自分のものになっているとは思わない。 吉田さんは、そのことが国民の人気を得るところとなりずっと表街道を歩いたが、もう一人のぼくは別に国民から認められることもなく、こうして安穏な生活を送っている。 けれども一人くらいはこういう人間がいてもいいとおもい、別にそのことで不平不満を感じたこともないし、いまさら感ずる年でもないと思っている」• 「税金がふえて、我々の生活が今よりぐっと苦しくなっても、なお外国の軍隊を国内に駐留させるよりもいいというのが国民の総意ならば、など解消すべし」• 「今の政治家は交通巡査だ。 目の前に来た車をさばいているだけだ。 それだけで警視総監にはなりたがる。 政治家も財界のお偉方も志がない。 立場で手に入れただけの権力を自分の能力だと勘違いしている奴が多い」 第三者による白洲次郎評 [ ] 前出のように、白洲次郎についての一次資料は少ないとされる。 彼自身の性格によるところもあるのだろう。 死の数年前、何日かにわたって古いかばんを持ち出し、中の書類を次々に火にくべていたという。 長女の桂子が「何を燃やしているの?」と尋ねるとそれには答えず、「こういうものは、墓場まで持っていくもんなのさ」と言って、焼却炉から立ち上る煙をじっと見上げていたという。 第三者による白洲次郎評を以下に記す。 「流暢な英語で、人を見下して話すところは、好きになれませんでした。 「吉田側近として活躍していた昭和20年代後半は、評判が悪かったという。 2月、で初演。 同大劇場は宝塚歌劇団の本拠地であり、兵庫県は白洲家の出身地である三田市の隣町でもある。 2 - 3月は宝塚大劇場で 、4 - 5月はで上演。 5月にDVDやCDも発売。 白洲を演じたのは同歌劇団理事で専科の。 マッカーサー()や吉田茂(専科の)をが演じ話題となった。 白洲は東宝に大きな影響を持ち(本人はフィルム納入等で直接関係を持ち義兄・樺山丑二は東宝取締役、長男・春正は元社長)、また前述のとおり白洲が神戸一中時代にタカラジェンヌと知り合いガールフレンドとしたことなど宝塚歌劇団に対する様々なエピソードを持ち、劇中でも触れられている部分がある。 その他の作品 [ ]• 第二回 昭和52年()放送 ドキュメンタリードラマ(ドキュラマ)形式の。 第二回ではをめぐる外務大臣官邸でのやりとりを軸に描かれる。 白洲役は。 平成8年()放送 NHK や日本国憲法成立の過程での活躍が描かれている。 白洲役は。 平成18年()放送 NHK 「マッカーサーを叱った男」として主にGHQとの交渉から通産省設立までを描く。 にてコミック化。 作画は• 平成6年()放送 「風の男・白洲次郎伝説」として生い立ちから晩年までを紹介。 スタイリッシュながらも気骨ある生き方にが興味を持った。 平成18年(2006年)放送 世界超偉人伝説で白洲に興味を持ち心酔するようになった明石家さんまが、約10年越しで実現させた番組。 ゆかりの人物を武相荘に招いてのトークや、白洲の人となり等を紹介。 平成21年()放送 NHK 白洲を、妻の正子をが演じるほか、(役)・(役)など豪華キャストで、白洲の親子愛・夫婦愛を描く。 平成24年()~ 放送 NHK『』 白洲を。 ( )• 令和2年() 放送 開局55周年特別企画スペシャルドラマ 白洲を。 家系 [ ] 白洲家 [ ] 白洲家は、(現・兵庫県三田市を中心とした地域)の者の家柄。 は白洲文五郎、は(現・兵庫県)の黒石氏の娘・里子。 祖父は三田藩儒の(12年 、現在の兵庫県三田市屋敷町にて出生)。 退蔵は後は敷設などの事業を興し、一時のも務めた。 また現在の、といった周辺のの都市開発や神戸ホーム(の前身)の創立にも尽力した。 父・は卒業後、、鐘淵紡績(カネボウ、現・)を経て貿易で巨万の富を築き豪放磊落な人柄で「白洲将軍」と呼ばれた。 子孫 [ ]• 長男(第一子): - 元社長• 二男(第二子):• 孫: - 兼正の長男、母はの長女・明子。 元・のでアートプロデューサー、エッセイスト、株式会社ジパング代表取締役• 長女(第三子): - 旧白洲邸・館長 略年譜 [ ]• 1902年(明治35年) - 2月17日、現在の兵庫県芦屋市にて誕生。 1914年(大正3年) - 神戸一中入学。 1919年(大正8年) - 神戸一中卒業後、イギリスに渡航。 1924年(大正13年) - ケンブリッジ大学に聴講生として留学。 1928年(昭和3年) - 白洲商店倒産。 この頃、帰国。 1929年(昭和4年) - ジャパン・アドバタイザー入社。 11月19日、正子と結婚。 この頃、正子の父を通じて吉田茂と知り合う。 1931年(昭和6年) - 2月5日、長男春正誕生。 セール・フレイザー商会入社、取締役となる。 この頃から頻繁に渡欧。 1937年(昭和12年) - 日本食糧工業(後の日本水産)取締役就任。 やがて取締役外地部長となる。 この頃、近衛文麿と知り合う。 1938年(昭和13年) - 1月3日、次男兼正誕生。 1940年(昭和15年) - 6月3日、長女桂子誕生。 1942年(昭和17年) - この頃、日本水産を退職し帝国水産理事就任。 この頃、南多摩郡鶴川村(現在の)にて農家を購入。 1943年(昭和18年) - この頃、鶴川村へ転居(=)。 1945年(昭和20年) - 終戦連絡事務局参与に就任。 1946年(昭和21年) - 2月、日本国憲法制定作業に参加。 3月1日、終戦連絡事務局次長に就任、高等官一等となる。 12月、経済安定本部次長に就任。 この頃、に介入。 1947年(昭和22年) - 終戦連絡事務局次長を退任。 1948年(昭和23年) - 12月、貿易庁長官に就任。 1949年(昭和24年) - 5月24日、貿易庁長官退任。 翌25日、通商産業省設立。 この頃、日本製鐵広畑製鉄所の外資売却問題騒動。 1950年(昭和25年) - 4月25日、吉田茂首相の特使として訪米。 この頃、アメリカ大使就任の話が出るが頓挫。 この頃、旧日本軍播磨造兵廠払い下げ問題。 この頃、設立に奔走。 1951年(昭和26年) - 5月1日、東北電力会長就任。 9月8日、サンフランシスコ講和条約調印に立ち会う。 この頃、「日本のラスプーチン」など白洲バッシング多数。 1952年(昭和27年) - 軽井沢ゴルフ倶楽部理事長就任。 11月19日、外務省顧問に就任。 吉田首相の特使として欧米視察。 1953年(昭和28年) - 2月、吉田首相の特使としてヨーロッパ視察。 吉田の命を受けてに面会しようとしたが果たせず。 1955年(昭和30年) - 旧日本軍四日市燃料廠払い下げ問題。 1959年(昭和34年) - 4月10日、東北電力会長退任。 1966年(昭和41年) - 東京赤坂に転居。 1982年(昭和57年) - 2月、軽井沢ゴルフ倶楽部常任理事に就任。 1985年(昭和60年) - 11月28日、死去。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 現代ビジネス 2011年8月17日. 2019年12月26日閲覧。 『昭和経済史への証言(下)』、1966年、411頁。 , p. 不明 [ ]. , p. 旧白洲邸 武相荘 Buaiso. 2019年6月21日閲覧。 , p. 岡部芳彦. 2019年6月21日閲覧。 , p. 『諸官省用達商人名鑑. 前編』山口晋一、運輸日報社、明43. , p. 不明 [ ]. 河上徹太郎「メトロのライオン 白洲次郎」 『文藝別冊 総特集 白洲次郎』、( 2002年)に再録。 他に青柳恵介『風の男 白洲次郎』(新潮文庫)など• Courtney Whitney 1946年2月16日. 国立国会図書館. 2019年6月21日閲覧。 2014年3月18日閲覧。 , p. 西村熊雄『サンフランシスコ条約日米安保条約』中央公論新社 1999. 7 P234,P235• 『東北電力株式会社50年のあゆみ』東北電力50年史編集委員会、東北電力、2001年6月。 [ ]• NHKドラマスペシャル公式サイト. 2014年3月18日時点の [ ]よりアーカイブ。 2014年3月18日閲覧。 ・『いま明かす戦後秘史 下巻 』、、1986年、58-60頁• 青柳恵介『風の男 白洲次郎』 [ ]• なんでも鑑定団. テレビ東京. 2009年8月2日時点のよりアーカイブ。 2019年6月21日閲覧。 「文藝春秋」1954年臨時増刊号、文藝春秋。 [ ]GHQ内部の人々を評して。 白洲次郎『プリンシプルのない日本』 [ ]• 「諸君」1969年9月号、文藝春秋。 [ ]• 白洲次郎『プリンシプルのない日本』 [ ]• 白洲次郎『プリンシプルのない日本』 [ ]• 白洲次郎「「占領秘話」を知り過ぎた男の回想」『週刊新潮』20 33 1011 、新潮社、1975年8月、 118-123頁、 :。 「諸君」1969年9月号、文藝春秋。 [ ]• 「週刊朝日」1976年11月18日号、朝日新聞出版。 [ ]• 『白洲次郎 占領を背負った男』 [ ]• 産経新聞. 2015年8月3日. MSN産経ニュース 産経新聞社. 2009年9月7日. の2009年9月10日時点におけるアーカイブ。 宝塚歌劇団. 2019年6月21日閲覧。 2014年3月18日時点の [ ]よりアーカイブ。 2014年3月18日閲覧。 参考文献 [ ] は列挙するだけでなく、などを用いてしてください。 記事のにご協力をお願いいたします。 ( 2019年6月)• 白洲次郎 『プリンシプルのない日本』 ワイアンドエフ、2001年/、2006年6月• 『白洲正子自伝』、『遊鬼』 各、新潮文庫、のち 新潮社• 、序文白洲正子 『風の男 白洲次郎』 新潮社、1997年11月• 『文藝別冊 白洲次郎』 、2002年4月、増補新版2016年3月• 白洲次郎ほか『白洲次郎の流儀』新潮社〈〉、2004年9月。 白洲正子ほか『白洲次郎』〈コロナ・ブックス〉、1999年。 『白洲次郎 占領を背負った男』 、2005年、• 北康利『白洲次郎占領を背負った男』上、〈講談社文庫〉、2008年12月。 (下)、2008年12月、解説• 北康利 『レジェンド伝説の男 白洲次郎』 、2009年/、2012年• 鶴見紘 『白洲次郎の』 、1989年/知恵の森文庫、2007年。 最初に刊行された評伝• 『英国機密ファイルの』新潮社、2007年5月。 新潮文庫、2009年11月• 続編『1945日本占領 フリーメイスン機密文書が明かす対日戦略』 新潮社、2011年2月• 須藤孝光 『1946 白洲次郎と日本国憲法』 新潮社 2010年4月。 須藤孝光 『白洲次郎 日本を復興させた男』 新潮社 2011年8月。 白洲信哉 『白洲家の流儀 祖父母から学んだ「人生のプリンシプル」』 101新書、2009年• 『次郎と正子 娘が語る素顔の白洲家』 新潮社、2007年4月/新潮文庫、2009年12月• 牧山桂子 『武相荘のひとりごと 白洲次郎・正子の娘が語る』 世界文化社、2012年• 牧山桂子・青柳恵介・須藤孝光 『白洲次郎と白洲正子 乱世に生きた二人』 新潮社、2008年9月• 牧山圭男 『白洲家の日々 娘婿が見た次郎と正子』 新潮社、2012年4月/新潮文庫、2015年• 『白洲次郎という生き方』 「別冊宝島」、2015年8月/宝島社文庫、2017年1月• 『軽井沢伝説 避暑地・軽井沢に集った名士たちとの半世紀』 講談社、2011年7月• 馬場啓一 『白洲次郎の生き方』 講談社、1999年、、2002年• 改訂版 『白洲次郎のダンディズム なぜ男らしくありえたのか』 文庫、2008年• 清水将大編著 『白洲次郎 男の語録 プリンシプルに生きよ』 シーエイチシー 2010年• 他に、白洲次郎「語録」は宝島社、笠倉出版社、英和出版社で出版。 各・2015年• 『白洲次郎的』 新書y、2004年• 青木高夫 『白洲次郎に学ぶビジネスの教科書』講談社、2015年6月• 『白洲次郎 一流の条件』 牧山圭男監修、宝島社、2016年10月 関連項目 [ ]• - 次郎は小林秀雄・河上徹太郎の依頼で、吉田の『』の出版をGHQに働きかけた。 外部リンク [ ] ウィキクォートに に関する引用句集があります。 先代: 貿易庁長官 1948年 - 1949年 次代: (廃止).

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樺山家(海軍大臣・樺山資紀・樺山愛輔の子孫・家系図)

白洲次郎 家系図

文化事業案内-伊丹市 伊丹再発見シリーズ ー 白洲次郎と伊丹ー 追記H24. 15 白洲次郎といえば、日本一のダンディな男といわれ今なお話題の多い人物です。 白洲家は、摂津国三田藩の儒学者の家柄で祖父白洲退蔵は三田藩儒。 また彼の父親白洲文平 の別荘はわが町伊丹市春日丘にありました。 吉田茂の懐刀ともいわれた白州次郎の父(白洲文平)が伊丹に構えた美術館付きの邸宅があったことなど忘れられた大正・昭和の伊丹の地域文化を掘り起こす「伊丹モダニズム再発見」展が、市制60周年にあたる昨年平成17年に伊丹市立美術館で開かれました。 Shirasu」であったと仄聞しましたのでブンペイが正しいと思われます。 伊丹の町は江戸時代から酒の町として栄えただけでなく、大阪のベットタウン(住宅都市)として発展しました。 鉄道会社は、乗客を増やし収益の向上を図るため、自線沿線に積極的に住宅地開発を行い鉄道会社による住宅開発などによって 大阪のベットタウンとして 都市生活者の中にはよりよい生活環境を求めて住まいを郊外に移したいと願う人々が多く、これらの人々が阪神文化を担ってきた町、伊丹の一面が紹介されておりました。 伊丹におけるモダニズムを見直し、あらたな発見となるすばらしい企画でした。 2006年4月にはNHKの人気番組「その時歴史が動いた」で白洲次郎のことが放送されました。 このように伊丹にも縁がある白洲次郎について紹介いたします。 雑誌からスキャナーで取り込んだたけ不鮮明でわかりにくいですが、 コミュニティ誌「いたみティVol.61」 2004年10月号に伊丹市在住の中森しげ子さん所有の伊丹が写っている珍しい絵葉書が紹介されています。 その絵葉書(下の写真)には大正初期に三田市出身の芦屋に住んでいた実業家白洲文平が建てた白洲屋敷 現在伊丹市春日丘4丁目付近)が写っています。 ちょうど猪名野神社から伊丹緑道沿いに北に上ったところが春日丘で、この地は高台になっており当時の白洲屋敷からは大阪方面を見下ろす景観地にありました。 この屋敷の規模は桁はずれにすごいです。 なんと伊丹邸は敷地4万坪といわれ、伊丹段丘崖から東方を眺めわたす豪奢な建物であり、、中にはミレー、コロー、マティスらの名品を集めた美術館まであったという。 名品で飾った美術館やボタン園などL字型の2階建てで贅の限りを尽くしたものであったが、昭和に入ってすぐに文平が破産し手放され、その後切り売りされましたが、写真の給水塔跡は昭和50年頃まで残っていました。 その白洲文平の二男が白洲次郎です。 また妻の白洲正子(旧姓樺山正子)も個性豊かな女性であり、文筆家でもあり陶芸,骨董品への造詣も深く知性あふれる女性です 大正から昭和の一時期に白洲次郎は伊丹町に籍をおいており、次郎と妻正子(随筆家)の婚姻届は1930(昭和5)年、伊丹町役場に提出されています。 このような人物が我が町伊丹にゆかりがあったことは非常に嬉しく思います。 (宮内大臣に報告されている婚姻届) 上の写真は「いたみティ」Vol. 61に掲載の記事より引用。 Google Earthによる位置表示。 そして上記の番組パンフとともに北氏が1月に朝日新聞出版社から発刊されて「レジェンド白洲次郎」をいただきました。 その記述の中で白洲文平のこの白洲御殿が伊丹市春日丘にあったことや、地元の伯父さんから地元のコミュニティ誌「いたみティ」を送ってもらったことなどが紹介されています。 伊丹市には贅を尽くした建物を建てることが趣味であり、新築してはすぐにまた新しい家を建てるといった、豪快で傍若無人な人物であったと言われる父親文平氏のことが、書かれています。 次から次と建物を建てるためにミヨシさんというお抱えの大工をかかえて家屋建築の道楽三昧の日々。 次郎もこの大工に影響を受けて手作りの家具など作ることがあったと言われています。 その後文平は事業の資金繰りの悪化により、事業から手を引き伊丹の屋敷も売却。 白洲屋敷を解体する段になって、あまりに立派なもので一部再利用されることになりました。 玄関部分は筆供養で有名な京都・東福寺内の正覚庵に移築され長屋門は市内東野の久保貞雄氏宅の門として今も使われています。 白洲次郎は、父親のことを「僕はよく傍若無人だと言われるが、僕の死んだおやじに比べれば、傍若無人なんておよそ縁が遠いと思う。 」と評しています。 彼が日本国憲法制定にあたって、日本の民主化について再考を求めるため、GHQ民生局長に出したいわゆるの最後の結びににも父親のことを引用して次のように書いています。 I am afraid I have already accelerated the paper shortage by writing this mumble but I know you will forgive me for my shortcoming for which my late father is also partly responsible :」 「私はこのような愚痴を書いて紙不足を助長しているのではないかと思っていますが、 私の父親にも責任の一端がある私の欠点を貴方にお許しいただけるものと承知しております。 いずれにせよ今回NHKのドラマで放映され、また伊丹市の白洲御殿のことがこの本の中でとりあげられ紹介されています。 1月28日から神戸大丸のギャラリーで開催された白洲次郎と白洲正子展でもパネルで芦屋と伊丹の家の所在地の説明がありました。 実際4万坪の敷地といってもどのあたりまでがそうだったのか特定できませんが4千坪でも大邸宅です。 伊丹市にゆかりのある人物として多くの方に知られることは嬉しいかぎりです。 まずはじめに、白洲次郎について、ネット上のフリー百科事典で検索してみると。 白洲次郎(しらす じろう、1902年2月17日 - 1985年11月28日)は日本の実業家。 貿易庁(通産省)長官、東北電力会長等を歴任。 吉田茂の側近として活躍する。 夫人は、作家・随筆家の白洲正子。 身長185センチ、容姿端麗、スポーツ万能で晩年には三宅一生のモデルを務めたこともある。 不思議なことにこれほど話題性のある人だが、彼が注目されだしたのはつい近年のことである。 <<生い立ち>> 1902年(明治35年)2月17日兵庫県武庫郡精道村(現、兵庫県芦屋市)に白洲文平・芳子夫妻の次男として生まれる。 (別邸は兵庫県伊丹市)白洲家は、摂津国三田藩の儒学者の家柄で祖父・白洲退蔵は、三田藩儒。 明治維新後は鉄道敷設などの事業を興し、一時横浜正金銀行の頭取も務めた。 また、神戸ホーム(神戸女学院の前身)の創立にも携わる。 父文平は、ハーバード大学卒業後、三井銀行、鐘淵紡績を経て綿貿易で巨万の富を築いた。 1919年(大正8年)旧制第一神戸中学校(現、兵庫県立神戸高校)を卒業。 神戸一中時代は、サッカー部・野球部に所属し、手のつけられない乱暴者として知られ、当時、既にペイジ・グレンブルックなどの高級外国車を乗り回し、後のカーマニア・「オイリー・ボーイ」の片鱗を見せていた。 同級生には、後に作家で文化庁長官となった今日出海、中国文学者で文化功労者となった吉川幸次郎がいる。 妻、白洲正子は随筆家、長男(第一子)白洲春正は元東宝東和社長、次男(第二子)白洲兼正、長女(第三子)白洲(現姓:牧山)桂子は旧白洲邸・武相荘館長。 1942年東京都町田市鶴川へ転居し、農業に従事した。 <<イギリス留学>> 神戸一中を卒業しイギリスに留学。 ケンブリッジ大学クレア・カレッジに入学し、西洋中世史、人類学などを学ぶ。 自動車に耽溺し、ブガッティやベントレーを乗り回す。 ストラトフォード伯ロビン・ビングと終生の友となる。 ロビン・ビングとは、ベントレーを駆ってジブラルタルまでの欧州大陸旅行を実行している。 1925年(大正14年)ケンブリッジ大学を卒業。 1928年(昭和3年)父の経営していた白洲商店が倒産したため、帰国を余儀なくされる。 <<帰国>> 1929年(昭和4年)英字新聞「ジャパン・アドバタイザー」に就職し記者となる。 友人樺山丑二の紹介で妹の正子と知り合い、結婚する。 樺山正子との婚姻届は兵庫縣川邉郡伊丹町役場(現兵庫県伊丹市)、に提出されています。 その後、セール・フレイザー商会取締役、日本食糧工業(後の日本水産)取締役を歴任する。 この間、海外に赴くことが多く、駐イギリス大使であった吉田茂の面識を得、英国大使館を自らの定宿とするまでになった。 また、この頃、牛場友彦や尾崎秀実とともに近衛文麿のブレーンとして行動すると宣伝されているが当代の碩学の揃った「朝飯会」では無論、端っこにいる存在である。 <<ヨハンセン・グループ>> 1940年(昭和15年)来るべき日米戦争を予感し(夫人の白洲正子によれば、臆病なので空襲をおそれて)、事業から手を引き、鶴川村・武相荘(ぶあいそう)に隠棲。 カントリー・ジェントルマンを自称する。 食糧不足に対処して農業に励む日々を送る一方で、吉田茂を中心とする「ヨハンセン・グループ」(宮中反戦グループ)に加わり、終戦工作に奔走し、ここから白洲の「昭和の鞍馬天狗」としての活動が始まる。 <<終戦連絡中央事務局>> 1945年(昭和20年)東久邇宮稔彦王内閣の外務大臣に就任した吉田茂の懇請で終戦連絡中央事務局(終連)の参与に就任する。 昭和天皇からダグラス・マッカーサーに対するクリスマスプレゼントを届けた時に、ぞんざいに扱われたために憤激して「仮にも天皇陛下からの贈り物をその辺に置いてくれとは何事か!」と怒鳴りつけ、持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせた。 マッカーサーは当時、神と崇められるに等しい存在だったが、白洲次郎に申し訳ないと謝った。 <<憲法改正>> 同年には憲法改正問題で、佐々木惣一京都帝国大学教授に憲法改正の進捗を督促する。 1946年3月に終連次長に就任。 8月経済安定本部次長に就任。 1947年(昭和22年)終連次長を退任する。 写真はNHKその時歴史は動いたー「マッカーサーを叱った男」より。 ) NHK「マッカーサーを叱った男」の番組では彼の個性から来る様々エピソードを通じて彼の戦後の活躍が、憲法改正だけでなくGHQの統制経済の破綻から脱却して、日本が貿易立国として通産省を立ち上げその経済復興の基盤をつくったことなど、戦後の混乱の時代になPrinciple 原則)を貫く人物と吉田茂との関係などを通じて白洲次郎の人物像を紹介した内容です。 「いまに見ていろ、とひそかに涙する。 」という彼の言葉が物語るように、彼はGHQ内部の社会主義的なスタッフのいる民生局の干渉により昭和22年6月社会党片山内閣誕生、引き続き民主党の芦田内閣も昭電疑獄で総辞職。 経済も好転せず、いずれも短命内閣で終わる中にあって、再度第2次吉田内閣が発足。 彼も返り咲きを果たした。 そして彼は民生局の内政干渉を阻止するため、内部で民生局に対立するGHQ参謀2部に周到な根回しをして民生局の勢力をそぐことに成功。 ついにマッカーサーもGHQの総意として吉田内閣で問題なしと結論づけた。 吉田内閣で彼は貿易庁長官として日本経済の自立をめざした。 しかし庁内では賄賂が横行する体質の中で、彼は毅然と汚職職官僚を糾弾して組織の改革に取組む。. また当時はアメリカの援助物資を売却した資金をもとにした政府補助金を基本にした貿易体制では決して日本の経済的な独立は成しえない。 と結論付け、彼は官僚の干渉や妨害をはねのけ自由貿易をめざしてた省庁、昭和24年5月通商産業省を立ち上げ戦後復興の基盤を作った。 白洲は通産省の立ち上げをみとどけた後、ひっそりと公職を離れたため、「風の男-白洲次郎」と呼ばれた。 その後、昭和26年サンフランシスコ講和会議に出席のため、一民間人として吉田に呼ばれて同行する。 そこで白洲は講和条約受託演説の原稿は外務省が先方とすりあわせて美辞麗句で相手を賞賛した内容でしかも英語で書かれている原稿に激怒して、それを日本語に改め堂々と日本語で吉田首相に演説させるなど最期まで彼独特のプリンシプルを貫く男であった。 戦後の日本について語った言葉 われわれが現在声たからかに唱えている新憲法も,デモクラシーも、 我々の本当の自分のものになっているとは思わない。 それが本当に心の底から自分のものになった時においてはじめて 「戦後」は終わったと自己満足してもよかろう。 もし日本が戦後の混乱期をうまく乗り切れず社会主義への道を歩んでいたり、経済の独立が達成できなかったら、日本は、今のようなMade in Japan が世界中で信頼のブランドとなる技術大国や経済発展は決して実現しなかったでしょう。 そのような意味で、幸いにして彼のように品位を重んじ、私利私欲にとらわれずみずからのプリンシプル(原則)を貫く大胆な人物がこの時代に登場して活躍していたことに大いに感動しました。 日本の復興にとって彼のような卓越した人材に恵まれたことが非常に幸運であった。 平成18年4月に放送され、10月に再放送されましたが、本当に見ごたえのある内容でした。 国立国会図書館のページ (クリック) より引用。 1946(昭和21)年2月15日、白洲次郎終戦連絡事務局参与は、松本烝治国務大臣の意を受けて、ホイットニー民政局長に宛て、GHQ草案が、松本等に大きな衝撃を与え たことを伝え、遠まわしに、「松本案」の再考を希望する旨の書簡を送った。 白洲は、「松本案」とGHQ草案は、目的を同じくし、ただ、その目的に到達する道すじを異にする だけだとして、「松本案」は、日本の国状に即した道すじ(ジープ・ウェイ)であるのに対してGHQ草案は、一挙にその目的を達しようとするものだとした。 この書簡に対して、ホイットニー局長から、翌16日、返書が寄せられ、同局長は、日本側が、白洲の書簡に よってGHQの意向を打診し、「松本案」を固守しようとする態度に出ているとして厳しく反 論し、国際世論の動向からも、GHQ草案を採ることの必要性を力説している。 (下のイラストは国会図書館資料ページより引用) 白洲はホイットニーの方法はYour way として一気に民主化ヘ の目的(object を目指すものとし、松本氏の考えはTheir wayとし て手紙にイラストを入れてジープ・ウエイの説明をしている。 (武相荘にもタイプライターとともにこの手紙が展示されていた。 ) 貿易庁初代長官 1948年(昭和23年)商工省に設立された貿易庁の初代長官に就任する。 経済復興には輸出振興が必要であるとし、通商政策の強化を目的とし、商工省を改組し、通商産業省設立の中心的役割を果たした。 これはGHQの圧力を利用した通産省の池田派占有のロビー活動でしかなかったと批判されつづけている。 1950年(昭和25年)講和問題で、池田勇人蔵相、宮沢喜一蔵相秘書官とともにアメリカに渡り、ジョン・フォスター・ダレスと会談し、平和条約の準備を開始した。 1951年(昭和26年)9月サンフランシスコ講和会議に全権団顧問として随行する。 この時、首席全権であった吉田首相の受諾演説の原稿に手を入れ、英語から日本語に直し、沖縄の施政権返還を内容に入れさせた。 吉田退陣後は、政治から縁を切り、実業界に戻る。 実業界へ復帰 既に吉田側近であったころから電力事業再編に取り組んでいた白洲は1951年5月に東北電力会長に就任する。 昭和34年(1959年)に退任するまで、精力的に動き福島県奥只見ダムなどの建設を推進した。 東北電力退任後は、荒川水力発電会長、大沢商会会長、大洋漁業、日本テレビ、ウォーバーグ証券の役員や顧問を歴任した。 ゴルフ 白洲は、日本ゴルフ界を語るには欠かせない人物でもある。 白洲がゴルフを始めたのは本人によると14、5歳の時からで英国留学中はゴルフはしなかったが、帰国してから熱中した。 昭和51年(1976年)軽井沢ゴルフ倶楽部の常任理事に就任。 メンバーは皆平等、ビジターを制限し、マナーにことのほか厳しく、「プレイ・ファスト」を徹底させた。 1982年(昭和57年)同倶楽部理事長に就任する。 田中角栄に対しては、クラブの会員でない秘書が総理秘書だからといってプレイしようとしたことを拒否した一方で、田中が手ぬぐいを腰に差すのは、合理的で良いと是認するなど「プリンシプル」に合致した公正な判断をしている。 白洲は田中に対しては、人物を認めつつも、余りに金銭的に苦労したことを惜しんでいた。 晩年の白洲が政治家として最も評価していたのは宮澤喜一であったが、白洲正子は、これを「白洲も人を観る目がなかったのね」と評している。 親友との再会 親友ロビン・ビングとは、互いに祖国が戦争状態に入るという不幸な時期を経て、1952年(昭和27年)ロンドンで再会を果たした。 最後にロビンと会ったのは昭和55年(1980年)のことであった。 三田市にある白洲家の墓地 死去 80歳までポルシェを乗り回し、ゴルフに興じていたが、1985年(昭和60年)11月に正子夫人と伊賀・京都を旅行後、体調を崩し、胃潰瘍と内臓疾患で入院。 同年11月18日死去。 83歳。 墓所は兵庫県三田市。 正子夫人並びに御子息に残した遺言書には 「葬式無用 戒名不用」 と記してあった。 三田市にある心月院には三田藩主九鬼家の墓所があります。 ここに次郎の母が県下に分散していた墓を一つにまとめ改葬したという白洲家の墓地もあります。 エピソード 日本人で初めてジーンズを穿いた人といわれている。 長い足に映えた。 ラッパズボンも愛用しこれも似合った。 戦後の日本でGHQに対してプリンシプルを貫き「従順ならざる日本人」といわれた本当の意味でnoblesse oblidge (高い身分の者に伴う義務。 )という言葉が彼ほど似合う人物はいない生き方である。 時代の 変わり目となる激動の時代に、このような人物がいたことは日本にとって幸運であった。 また昭和26年9月号の文芸春秋に白洲次郎が寄せた一文「日曜日の食卓にて」で父親の白洲文平について語ったいます。 父親白洲文平氏もまたこのような豪快な人物であったことがうかがわれます。 -「風の男 白洲次郎」 青柳恵介著 新潮社。 より引用。 僕はよく傍若無人だと言われるが、僕の死んだおやじに比べれば、傍若無人なんておよそ縁が遠いと思う。 死んだ親父は、こういう人だった。 建築道楽で、家ばかり建てていた。 道楽はたくさんあって、ほかの、あまり言いたくない道楽もあったが、そして、いつでも建てる家は日本館にきまっている。 僕のおやじは外国育ちの男だ。 そこで西洋館は靴を脱がないでもいいから西洋館がいいじゃないかと言ったら、外国じゃ道がとてもきれいだ。 だから靴のまま上ったって汚くない。 だけど日本みたいな、こんな汚い道を歩いて来て、そのまま上られたらたまらない、だから日本館がいいと、言う。 ところが、そのおやじは靴履いて畳の上を歩くのだ。 そして人が汚いじゃないですかと言うと、俺は別だと言って澄している。 これがほんとの傍若無人というものだ。 僕のおやじは、子供のときから外国育ちで、ほんとの意味のお洒落だった。 晩年は九州の、大分と熊本との国境に、百姓をして独りで住んでいた。 もっとも女中かなんかはいたけれども、東京に来るときは、木綿の刺子の紺の股引をはいて、上にはツイードの洋服を着て、荷物は全部猟に行くときの網に入れて、それで東京に来て平気で歩いている。 そういう人だった。 死んだという電報が来たので、妹が行ったら、ベッドに独り死んでいて、ベッドの下を見たら、棺桶が入っていた。 それはほんとの田舎で、身体が大きいから、出来合いの棺桶ではあとの者が困るだろうというので、前からつくってあったのだ。 こういうことも皆傍若無人の現われといえよう。 地域の有力者だった白洲文平氏(大正10年の新聞記事より。 ) 伊丹市広報紙?(大正10年)と思われる新聞記事コピーをある郷土史研究の方からいただきました。 記事の内容は9月15日に開会された伊丹町会の内容で、議題が寄付採納2件、郡立女学校費の件、町予算更正追加の件となっている。 (右の写真ークリック拡大表示。 ) 寄付採納の2件は、1件目はコピーが黒くて読みにくいですが 、「池上茂兵衛氏より金200円を伊丹小学校基本財産に寄付。 」 そして2件目は、 「郡立高等女学校設立に関し町費中へ左の通り指定寄付」 二萬円 一萬円 白洲 文 平 八千円 七千円 武内 佐次郎 四千円 と寄付者の記載がつづき合計6万2千3百50円の寄付が異議なく可決された。 また下の段の記事では 「中学校横より、白洲氏邸前に通ずる道路新設の件」と記載されています。 現在の小西新右衞門はじめ酒造家ら上位4名の多額寄付で全体の寄付額の半分以上も占めています。 当時の1万円といえばどれだけの価値があったのでしょうか。 白洲文平氏は伊丹の有力者として地域にも貢献されています。 (この新聞ならびに関連情報があればメールください。 ) 追 記1 伊丹市内のコミュニティ誌「いたみティ」Vol. 70、2007年1月号に 「伊丹の白洲屋敷にあった大水槽の写 真見つかる」 という記事が紹介されています。 わたしもこの水槽は子供のころ近くを通って在ったことを覚えてますが、何の建造物かまったく知りませんでした。 写真は、水槽の隣接地にお住まいの元木俊幸さん宅に保存されていた写真が掲載されており、その大水槽の高さは約10メートルあり、ツタが生い茂っている珍しい写真です。 元木さんの話では倒壊の危険性が高くなって平成元年頃に取り壊されたという。 ことです。 白洲屋敷の敷地は4万坪(132,000平米)といわれ、この大邸宅は,昭和5年ごろ、文平が破産したため手放し、その後分割して売られ相次いで住宅ができた。 このとき水槽も壊そうという話がでたが、「だれかがたたりがある。 」といいだしたところから残った。 とのこと。 白洲文平が寄付した女学校建設のための1万円は現在の貨幣価値で5千万から1億円にあたるものであり、この郡立高等女学校はその後県立伊丹高等女学校となり戦後の学制改革で県立伊丹中学校と合併、現在の県立伊丹高等学校へと引継がれた。 (「いたみティ」Vol.70より引用。 ) もし取り壊さなかったら、おそらく平成7年に当地を襲った阪神淡路大震災ではきっと倒壊して付近に被害が出ていたかもしれません。 いずれにせよ屋敷への給水に水圧が必要でこの大水槽が付設して造られたのですが、一軒の家屋に使う水槽だけでもこれだけの規模が要ったということは往時の屋敷の規模がいかに大きかったのか想像できます。 「今に生きる白洲次郎」 (A4サイズ 28ページ 神戸市シルバーカレッジ・国際交流・協力コース12期生の皆さんが2008年3月に作成された 報告書は白洲次郎に関して体系的に詳しく紹介されています。 家系図削除。 上記サイトを参照してください。 ) 吉田茂との係わりに関して、 白洲次郎は、 「吉田さんの奥さんは 牧野伸顕の娘さんで、牧野伸顕は鹿児島出身で、 大久保利通の二男なのです。 僕の女房は、やはり鹿児島出身でです。 そんな関係で牧野伸顕を知っておったから吉田さんも知っていたということです。 吉田さんが英国の大使をしている時分(昭和11~13年)によくロンドンに行ったんです。 そのころ、私は日産コンツェルンの外国関係の責任者だったんです。 まだ若くて、三十歳ちょっとくらいです。 その時分にロンドンに行ってよく話したりしまして、はじめて大人の付合いがはじまったということでしょうね。 」 東京都郊外の町田市には白洲次郎・正子夫妻が農家を買い取り改装して住まいとしていた住居を娘の牧山桂子さんが武相荘として公開されています。 落ち着いた佇まいの中で、骨董蒐集に卓越した白洲正子さんのコレクションの展示など様々なイベントや展示もされており、四季折々の花木も楽しめます。 この武相荘は2002年11月に町田市の指定史跡となっています。 落ち着いた雰囲気の庭や茅葺の家屋など撮影しました。 20撮影)。 武相荘のページへリンク *武相荘のページより引用記事。 父・白洲次郎は、昭和十八年(1943)に鶴川に引越して来ました当時より、すまいに「武相荘」と名付け悦にいっておりました。 武相荘とは、武蔵と相模の境にあるこの地に因んで、また彼独特の一捻りしたいという気持から無愛想をかけて名づけたようです。 近衛内閣の司法大臣をつとめられた風見章氏に「武相荘」と書いて頂き額装して居間に掛けておりました。 私は両親を親としてしか見た事がなく、同じ様に私が育ち、両親が人生の大半を過した現在の茅葺き屋根の家に対しても、ただ家という認識しかありませんでした。 この記事は伊丹市文化財保存協会から発行されて伊丹市教育委員会生涯学習部社会 教育課がまとめたものであり白洲家屋敷跡碑建立に際して調査された史実を体系的に まとめられています。 伊丹市民だけでなく多くの方々に昭和の快男児といわれた白洲次郎という人物や4万 坪の屋敷と言われる理由などの解説を通じて白洲次郎という人物に思いを馳せること ができる内容です。 ・ 伊丹市は平成22年3月に伊丹緑道の段丘上に建設された「白洲家伊丹屋敷」跡地内に説明 案内板を設置しました。 (このページがリンクされているより引用。 ) 【白洲次郎】マッカーサーを叱った男~戦後復興への挑戦~ Youtubeより。 追 記3 エフエムいたみプレス VOL11 2011年春号 ーVOL13 より。

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