ホトトギス 俳誌。 沿革・組織

俳誌「ホトトギス」同人高田菲路さんの句碑、洲本・淡路文化史料館に建立

ホトトギス 俳誌

俳人・正岡子規や高浜虚子らが選者を務めた俳誌「ホトトギス」の同人で県俳句協会理事の高田菲路(本名・弘文)さん(87)=兵庫県洲本市五色町鳥飼浦=の句碑が洲本市山手の市立淡路文化史料館庭園に完成し、除幕式が行われた。 高田さんは旧制洲本中学在学中の昭和20年ごろから俳句グループを作って句作を始めた。 教員となってからは絵画を中心に創作活動を行ったが、教頭になった頃から再び句作を再開。 新聞や俳誌に投稿して数々の賞を受賞し、平成23年には「ホトトギス」の同人に選ばれた。 87歳の現在も俳句教室の指導や選者として後進の育成に尽力している。 句碑建立は高田さんの功績をたたえようと俳人仲間や関係者らが実行委を立ち上げ計画。 今春に高田さんも同行して南あわじ市八木から高さ約1・7メートル、幅約2・7メートルの自然石を採取した。 句碑には12年に大阪造幣局「桜の通り抜け全国俳句大会」で特選一席に入賞した代表作の一つ「城の花紺屋町までふぶきけり」の句が刻まれた。 高田さんが桜が舞い散る季節に神戸地方法務局洲本支局前で詠んだ作品で、場所も近く文化にふさわしい地として同史料館に建立された。 俳人や俳句愛好家ら約60人が出席した除幕式で、実行委員長の永田秀一県議は「最高の場所に最高の句碑が建立された。 淡路のみならず日本の俳句界のリーダーとしてさらなる活躍に期待しています」とあいさつ。 高田さんは「身に余る光栄。 この上ない喜びです」と感謝の言葉を述べていた。

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創刊号の巻頭句

ホトトギス 俳誌

その愛馬が逃げたが、北方の駿馬を率いて戻って来た。 喜んで息子がその馬に乗り、落馬。 足を折る怪我を負う。 が、戦争が起り、みな兵士となり戦死する中、その息子は足が不自由だったために戦いに駆り出されずに済み、父子ともに無事だったという故事。 人生は吉凶、禍福が予測できないと言うたとえ。 《人間万事塞翁が馬》の慣用語で知られる。 《禍福は糾える縄の如し》という言い回しもある。 幸福な時にも舞い上がらない。 不幸な時にも落ち込まない。 それは、厳しい現実を生き抜いてきた人々によって紡がれてきた言葉なのであろう。 平常心で人生を過ごすことが出来れば幸せなことである。 俳句も然り。 俳句は平凡人の詩であり、平常心の詩である。 俳句の道は生涯の道でもある。 一時的な成績に拘ることなく、俳句を作る間だけでも、平常心を保ち、飾りを捨てて、美しい心もちで居たく思う。 午年の平成二十六年が走り出した。 あの鬣を靡かせて走る馬の姿は美しい。 飾らぬこころ、奢らぬこころで句の道を馬のごとくに美しく走ってゆきたく思う年の初めである。。 雲母の小筥(冬支度 林檎を詠む) 会田仁子選 林檎熟る虚子の歩きし道かとも 早川水鳥 会田仁子の寸評 晩秋の信濃を訪ねた作者。 右に左に林檎園を見ながら浅間山の辺りまで来た時、ふと小諸に疎開していた虚子のことが脳裏をよぎった。 「もしや虚子先生も此の辺りを歩かれたのでは」と。 虚子は昭和十九年九月から二十二年十月までの三年余りを小諸町野岸に疎開し、その間沢山の俳人が小諸を訪ねた。 住居の隣に建てられた俳小屋開の句会に林檎を詠んだ次のような句がある 近々に林檎の袋掛けといふ ゐぬる リンゴ実となりつゝ楽し小屋住まひ 濱 子 又小諸スケッチに『散歩』『好きな径』等の文章もあり、秋には林檎を見つつ散歩を楽しんでいたのであろう。 このような虚子の暮らしを知っていた作者。 林檎を通して思いを遠く虚子に寄せた奥深い一句である。 死にたしと言ひしを忘れ林檎剥く 五十嵐至夏 会田仁子の寸評 どのような事情があったのか想像も出来ないが、心許せる人に「もう死にたい」と苦しみを聞いてもらったのであろうか、いや人に聞いてもらうことすら出来ず自分の心の奥深く叫んでいたのであろうか。 そんな苦しみの日々を送ったことも忘れ今林檎を剥いている。 林檎のもつ明るさ、幸福感に、死ということから離れられた作者の健やかな心の内を読みとることが出来る。 季題『林檎』がこの句を助けている。 心に残る句 貫野 浩 梅雨に入る雲は伊吹へ走りけり 梅本峽童 この句は昭和五年の俳誌「ホトトギス」虚子選に初入選した時の峽童の句である。 だからもう、八十五年も前のことである。 峽童は若い頃から、ホトトギス系俳誌のいくつかに投句していた様であるが、本人の言によれば「生来の怠け者とて一句も記録して置かなかつた上、戦災につづく戦後の混乱に購読していた沢山の俳誌も散逸してしまった」とのことだ。 昭和二十一年に満州から引き揚げて来られた久米幸叢先生が米原町(現在の米原市)にお住まいと知り、指導を受けるべく訪ねたと言う。 しかし運悪くとはこの事で、妻が病気になり七人の子供を残して逝去した。 それからは、難渋苦渋の生活で好きな俳句も時折新聞や雑誌で見るのが関の山と言う有様であったらしい。 本人は昔でも身体の小さい方で、紳士服を売り歩いていた所謂、行商で生活維持していたのである。 大垣市から西近江の今津の地に居を移すようになって生活も漸く安定し、昭和三十九年再び句作に復活、何を措いても幸叢を訪問し指導を受けたそうである。 この時に幸叢先生から「自分の詠んだ句は大事にすることだ。 記録がないなんて以ての外だ」とこんこんと訓されたと回顧している。 爾来、峽童は句作を続け昭和五十二年十二月に自句集「奥琵琶」を上梓している。 掲句は昭和初期から二十五年までのホトトギスを借りて見つけた十六句の内の一句である。 その峽童も昭和五十九年に逝去したが、湖西に住む俳人達にとって、峽童の詠んだ句の「湖、伊吹山、竹生島、えり、簗」は句作の指針として今も心の奥深く残っている。

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日本一長寿の雑誌「ホトトギス」

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俳人・正岡子規や高浜虚子らが選者を務めた俳誌「ホトトギス」の同人で県俳句協会理事の高田菲路(本名・弘文)さん(87)=兵庫県洲本市五色町鳥飼浦=の句碑が洲本市山手の市立淡路文化史料館庭園に完成し、除幕式が行われた。 高田さんは旧制洲本中学在学中の昭和20年ごろから俳句グループを作って句作を始めた。 教員となってからは絵画を中心に創作活動を行ったが、教頭になった頃から再び句作を再開。 新聞や俳誌に投稿して数々の賞を受賞し、平成23年には「ホトトギス」の同人に選ばれた。 87歳の現在も俳句教室の指導や選者として後進の育成に尽力している。 句碑建立は高田さんの功績をたたえようと俳人仲間や関係者らが実行委を立ち上げ計画。 今春に高田さんも同行して南あわじ市八木から高さ約1・7メートル、幅約2・7メートルの自然石を採取した。 句碑には12年に大阪造幣局「桜の通り抜け全国俳句大会」で特選一席に入賞した代表作の一つ「城の花紺屋町までふぶきけり」の句が刻まれた。 高田さんが桜が舞い散る季節に神戸地方法務局洲本支局前で詠んだ作品で、場所も近く文化にふさわしい地として同史料館に建立された。 俳人や俳句愛好家ら約60人が出席した除幕式で、実行委員長の永田秀一県議は「最高の場所に最高の句碑が建立された。 淡路のみならず日本の俳句界のリーダーとしてさらなる活躍に期待しています」とあいさつ。 高田さんは「身に余る光栄。 この上ない喜びです」と感謝の言葉を述べていた。

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