上原浩治家族。 上原浩治が嫁の山崎美穂と別居で離婚危機はデマ!子供の英語力が凄すぎてヤバい!!

上原浩治!巨人軍復帰!家族の嫁と子供は?単身赴任?年金いくらになる?

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Sponsored Link 上原浩治の妻(嫁)は誰?年齢や画像、プロフィールは? 上原浩治選手は巨人でもエースとして活躍していた選手ですね。 エリートではなく苦労してプロ野球選手になった雑草魂が話題になったこともありました。 1998年のドラフトで入団していますが、この歳は松坂大輔選手もいて、高卒エリートと大卒の苦労人という比較もされて盛り上がってましたね。 メジャーの誘いもあったそうですが、巨人の熱心な勧誘があったことで巨人入りを決めて初年度から大活躍しています。 沢村賞なども獲得していますし、凄い選手ですよね。 メジャーに挑戦してからもワールドシリーズで胴上げ投手になるなど大活躍しています。 そんな上原浩治選手が結婚したのは2004年の9月です。 元レースクイーンの山崎美穂さんと結婚しています。 年齢は上原浩治選手よりも1歳年上とのことです。 上原浩治選手は42歳(2018年2月時点)なので、奥さんは43歳ですね。 美穂さんは上原投手する前は芸能界にいたそうでうが、結婚のときには芸能界を引退していて、巨人関係の仕事をしていた会社で勤務していたそうです。 結婚したときには一般人だったということであまり詳しいプロフィールの情報はないようです。 画像についても鮮明なものはないみたいですね。 上原浩治の妻(嫁)との馴れ初めは?出会いはどこ? 上原浩治選手と美穂さんの出会いや馴れ初めは気になるところですよね。 検索してみるとどうやら 巨人の若手選手間の食事会がきっかけだったそうです。 仕事の関係上、球場とかに行く機会も多く、自然と接触する機会も多くて、仲が深まっていったようです。 美穂さんは英語が堪能で上原浩治選手もメジャーを意識していたらしくて、結婚を前提にお付き合いをしていたそうですよ。 昔の画像をみると美人で可愛らしいですし、魅力的な女性だったのでしょうね。 Sponsored Link 上原浩治の妻(嫁)との離婚危機の真相は? ネット上では一時期離婚危機といった噂もあったようです。 メジャー選手は遠征とかも多いみたいですし、移動時間が長いのでどうしても家にいる時間が短くなってしまうということで夫婦仲が冷えたのではと噂されたそうです。 年間で地球一周分以上の移動距離があるらしいですし、メジャーは移動だけでも大変そうですよね。 しかし、実際には夫婦円満で離婚危機というようなことはなかったようです。 夫婦生活が長くなると多少マンネリ化したり、関係がうまくいかなる時期もあると思いますが、離婚危機に発展するほどのものではなかったみたいですね。 息子さんもいて幸せな家庭を築けているようですし、 離婚の可能性はなさそうですね。 上原浩治選手は日本球界に復帰すればいろんな番組で取り上げられて家族のことを話す機会も増えるかもしれませんね。 ぜひ巨人にはいって、高橋ジャイアンツを優勝に導いてほしいですね。 どうもこんにちは、サイト管理人のタカです。 30代の男で、最近筋トレにハマっています^^ 自重トレーニングという道具を使わない筋トレをしていて、徐々に筋肉がついているのを実感している日々です。 30過ぎて体力の衰えを感じているので焦りを感じつつ、日々トレーニングに励んでいます。 休みの日は、ドラマや映画、アニメなどをみることが多く、ガッキーこと新垣結衣さんの大ファンです! 仕事で疲れた身体と精神を新垣結衣さんの笑顔に癒やしてもらっています(笑) このサイトでは自分のなかにある思いを表現していきますのでよろしくお願いします。 最近の投稿• カテゴリー•

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上原浩治の嫁と子供&現在まとめ!結婚相手と息子の画像あり

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上原浩治さんプロフィール まずは、現役引退される 上原浩治さんについてです。 ・名前:上原浩治(うえはらこうじ) ・生年月日:1975年4月3日 ・身長:187 cm ・体重:87 kg ・出身地:大阪府寝屋川市 ・チーム:読売ジャイアンツ ・ポジション:投手 上原浩治さん経歴 上原選手の経歴を確認しておきます。 ・1999年~2008年:読売ジャイアンツ ・2009年~2011年:ボルチモア・オリオールズ ・2011年~2012年:テキサス・レンジャーズ ・2013年~2016年:ボストン・レッドソックス ・2017年:シカゴ・カブス ・2018年~2019年:読売ジャイアンツ 上原浩治さんの嫁について 上原浩治さんは 2004年9月14日に結婚されています。 お相手は元レースクイーンの山崎美穂さん。 やっぱり綺麗ですね。 二人の馴れ初めは? 上原さんは 巨人の若手投手と 食事会で山崎さんと出会います。 あまりに綺麗な山崎さんに 上原さんが一目惚れしたそうです。 二人は意気投合して交際がスタートしました。 半同棲状態の二人を、 フライデーがスクープしています。 そして、スクープから1年後の 2004年9月14日に 二人は結婚されました! 山崎美穂さんは 英語も得意としているようで、 メジャー移籍が目標にあったであろう上原さんは、 この山崎さんの 英語力にも魅かれたのかもしれませんね。 二人のお子さんについて 上原浩治さんと山崎美穂さんの間には 男のお子さんがいらっしゃいます。 2006年3月20日に上原投手が、 WBC準決勝で登板中に誕生しました! お名前は、 一真(かずま)くんと言います。 野球選手の奥さんはみなさん綺麗ですが、 上原浩治さんの奥さんもとても綺麗で魅力的な女性ですね。 今まで上原さんが頑張れたのも、 奥さんの支えがあってこそではないでしょうか? 残念ながら、上原さんは引退しますが、 これからも野球関係の仕事で活躍されると思っています。 今後の上原浩治さんに注目していきましょう!.

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上原浩治

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活動期間 - ジャンル 登録者数 約9. 63万人 総再生回数 約718万回 チャンネル登録者数、総再生回数は 000000002020-07-15-0000 2020年7月15日時点。 上原 浩治(うえはら こうじ、 - )は、出身の元()。 右投右打。 現在は、、、として活動している。 マネジメントはスポーツバックス。 元で、2013年にはMLBで日本人初のおよび胴上げ投手ともなった。 NPB時代に20世紀最後のを受賞。 投手で20世紀にプレー経験がある最後の大卒ドラフト出身選手。 日米通算100勝100セーブ100ホールドを達成した唯一の日本人でもある。 2019年5月20日、引退を表明した。 実兄は代表取締役社長の北川隆明。 経歴 [ ] プロ入り前 [ ] 実父が監督を務めるチーム「寝屋川アスナローズ」で野球を始めた。 では野球部がなかったため、同じ団地内にある「明徳アスナローズ」で野球を続けながら、部に所属した。 高校は自転車で通えて野球が強いという理由からに進学した。 1、2年時は中学時代に陸上部で鍛えた脚力を見込まれてを務める一方で、練習ではを務めることも多かった。 3年になって投手になるがの控えでほとんど登板機会がなく 、同校も夏の大阪大会準々決勝で敗退したため全くの無名選手であった。 その頃、建山がプロ球団などから勧誘される中、体育教師になる夢を叶えるためへの進学に備える。 受験にあたっては運動能力、学力とも合格ラインに達していると自負していたが、結果は不合格であった。 高校時代は建山だけではなく、元日本代表のとも高校の同級生であり、3人は1年時にはクラスが同じであった。 この時のショックは未だに忘れられないほど強烈なものであったが、してもう一度受験することを決意。 隣町の()に通う傍らジムでトレーニングを積み、更に家計への負担を減らすために夜間は道路工事のアルバイトもこなした。 この間の努力は「人生であれほど燃えた1年間はない」程だったという。 またこの時期に著の「ピッチャーズ・バイブル」を読んでトレーニングしていた。 翌年、再度大体大を受験し合格、野球部に入った。 学生時代に、初段、中高の教員免許(体育)を取得している。 なお、教員免許は更新をしていないため後に失効している。 その年のでは主戦投手として優勝に貢献。 大学選手権でも好投し、プロのスカウトから注目されるようになった。 大学3年時の、では大会タイの14三振を奪って、メジャー球団の関心を惹いた。 この大会で速球が通用したことでプロでやっていく自信が芽生えたという。 日本代表に選ばれた同年8月の決勝で、当時国際大会151連勝中だった相手に先発してとなり、この年のインターコンチネンタル最優秀投手賞を受賞。 秋の戦では1試合21奪三振を記録。 これはリーグ記録として残っている(2010年現在)。 4年時の戦ではノーヒットノーランを達成した。 大学4年間で通算リーグ優勝5回(1年春、2年春秋、3年秋、4年春)、36勝4敗、最優秀投手賞4回、特別賞2回という成績を挙げた。 通算36勝と完封13はリーグ記録。 ではのと並ぶ目玉と目された。 大学時代は地元のがマークしていたが、国際大会の活躍で注目度を上げたことで、メジャー4球団を含む複数球団が獲得に乗り出し、最終的に(MLB)のとによる争奪戦となった。 一時はエンゼルス入りに傾いたが、巨人が、巨人ファンであった上原の父親をまず説得。 その後、本人が悩んでいるときに、父親から誘われ同行すると、その場にいたのが、当時巨人の監督を務めていたであった。 本来、ルール上ではプロ監督とアマチュア選手の接触は禁止されてはいるが、「抜け道」の形で「偶然に顔を合わせ、同席した」。 上原本人は喜ぶどころか逆に困惑し、父が巨人ファンであることを知っていただけに「巨人って、そこまでやるのか…」という気持ちが膨らんだ。 迷いながらも巨人をし、1位で入団した。 入団会見では「メジャーでやるにはまだ自信がないから、日本を選んだ」と述べ、悔しさを滲ませた。 背番号は 19を希望。 これは、大学受験に失敗して生活を送った19歳の1年間を忘れないようにという意味が込められている。 巨人時代 [ ] 2006年 は毎週日曜日に登板するという先発ローテーションが組まれていたため、「サンデー上原」と呼ばれた。 前半戦で新人では37年ぶりの12勝を挙げるなど5月30日から9月21日まで、歴代4位タイとなる15連勝を記録。 新人投手の記録としてはにが記録した13連勝を33年ぶりに更新する。 10月5日のとの最終戦では、すでにの優勝が決まった後の消化試合であったため、注目はタイトル争いとなり、各チームに所属するが41本、が42本と、を激しく争い 、松井が一貫して敬遠気味ので歩かされ続けた。 ここで上原も、7回裏にペタジーニの3打席目を迎えたところでベンチからのの指示に従いストレートの四球で渋々歩かせたが、勝負できない悔しさからマウンドの土を思いっきり蹴り上げ、目に浮かんだ涙をユニフォームの袖で拭った。 なお、この年、ペタジーニを無安打に押さえ込んでいた上原は、1・2打席目では勝負して打ち取り 、9回の4打席目では再び勝負し適時打を浴びた。 また上原自身も当時中日のと最多勝を争い、この試合に20勝目がかかっており、2失点完投勝利で20勝目を挙げた。 このシーズンは20勝4敗の好成績を残し、両リーグを通じての以来9年ぶり、新人投手としてはの以来19年ぶりの20勝投手となった。 、、、の投手主要4部門を制し、史上10人目、新人としては史上3人目の投手4冠を達成。 また、、、、(20世紀最後)も受賞する。 自分自身をに喩えた「 雑草魂」という言葉は(の座右の銘「草魂」より)、の「」と共に1999年の大賞に選ばれた。 7月2日の戦で右太もも肉離れを起こし登録抹消。 7月27日には内で自家用車を運転中にオートバイと接触事故を起こし、オートバイの男性が重傷を負った。 この事故について球団から厳重注意の上謹慎10日間の処分を受け、でされ罰金30万円の略式命令を受けた。 これにより「」のCM契約も打ち切られ、シーズンは9勝7敗に終わり規定投球回数もクリアできなかった。 同年の(対)では、第3戦に先発し、チームの1勝目と同時に自身のシリーズ初勝利を挙げ、その後のチームの4連勝で日本一を果たした。 は、4月13日の戦で左太ももの肉離れを起こして一時離脱し、後半戦では右ひざの故障もあり、2年ぶりに二桁勝利を記録したが、この年も規定投球回数がクリアできずは自身最低となる4. 02に終わった。 は自身初の200登板を達成し、17勝5敗の好成績で最多勝を獲得し、最高勝率も達成。 沢村賞、ベストナインも受賞する。 との第1戦に先発し、12奪三振・1失点完投勝利の快投でチーム史上初での西武以来12年ぶりの4連勝ストレート勝ちでの日本一に貢献し、優秀選手賞を獲得。 シーズン後に行われたにも選出され、から3打席連続を奪い、メジャーリーグのスカウトからの注目を集める。 11月29日にはの子どもたちへの支援金として200万円を当協会事務局長に手渡した。 に7月20日から8月29日にかけて7試合連続勝利を挙げるなどして最多勝争いに加わり(最終的には20勝の)、2年連続で200イニング登板達成、16勝5敗、最多奪三振を獲得と、ゴールデングラブを受賞した。 例年より始動を早め、万全のコンディションで臨んだのキャンプでは右足を痛めてしまう。 開幕には間に合わせ、当初は中5日かつ最初の6試合で平均球数130球以上を記録と投げまくるも 、5月に左足を故障。 しかしローテーションを1回飛ばしたのみですぐに復帰。 膝に負担がかからないようにコンパクトなフォームに変更し試合を作った。 同年シーズン途中にはアテネ五輪出場により一時離脱。 最後は6連勝でシーズンを終えた。 同年シーズンはリーグ3位の13勝を記録し 、防御率はリーグ唯一の2点台となる2. 60で2度目の最優秀防御率を受賞。 9月14日には元の山﨑美穂と結婚した。 この年の契約更改で年俸が3億円に到達。 入団6年目での3億円到達は史上最速であった。 はによるメジャー移籍志願を公言したために契約交渉がもつれ、キャンプ入りが遅れた。 ()防御率リーグ3位、完投数リーグ3位、奪三振リーグ5位、投球回リーグ4位、リーグ1位など好成績を残したが、打線の援護に恵まれず、またリリーフ陣が打ち込まれたこともあって、勝敗は9勝12敗と自身初めてのシーズン負け越しを経験した。 シーズン開幕前3月に開催されたのに選出された。 同大会ではエースとして3戦2勝の好投で優勝に貢献。 準決勝ではこの大会の対戦で2敗していたを相手に7回を無四球無失点の快投で勝利を呼び込んだ。 また大会最多の16奪三振を記録。 シーズンでは球団史上最多、7度目(7年連続)の開幕投手を務め自身5年ぶりの開幕戦勝利をあげ、8月25日の阪神戦で、ドラフト制以降では松坂大輔と並ぶ最速タイとなる191試合目での100勝を達成したものの 、8勝9敗で2年連続一桁勝利で負け越した。 この年から、巨人の財団法人骨髄移植推進財団への支援開始をきっかけに、自身もへの登録を呼びかける活動を始めた。 6月に自らも骨髄バンクに登録し、試合前のイベントなどで登録を呼びかける。 また、シーズンオフにはへ訪問し、病気の子供達にプレゼントを渡している。 は故障により出遅れたため、8年連続での開幕投手及び9年連続開幕一軍スタートを逃した。 プロ入り初の開幕二軍スタートとなった。 序盤に抑えのの不調が重なったことでこの年はとして起用されることになった。 5月2日の中日戦でプロ初を挙げた。 8月5日には球団史上初の4日連続セーブを記録し、8月29日のヤクルト戦では球団新記録及びプロ野球タイ記録の月間11セーブを挙げた。 9月26日の中日戦でも球団新記録となる31セーブを達成。 最終的には32セーブを挙げ、MVP投票でも2位の評価を受けた。 プロで20勝を挙げ30セーブを記録した投手はに次ぎ史上2人目であった。 中日との・2ndステージでは第2戦・第3戦に登板したものの、シーズンにもなかったビハインドの場面に登板。 レギュラーシーズンで12試合登板無失点7セーブを記録していた中日打線にもにソロ本塁打を浴びるなど追加点を許し、3連敗でのクライマックスシリーズ敗退後はベンチで号泣した。 オフには初めて巨人の後輩()を伴い自主トレを行った。 4月4日にを取得。 翌年のメジャーリーグ移籍を目指すことを7日に表明。 巨人の球団代表からは「全力を上げて慰留する」と同時に「今までよく我慢してくれた」という労いの言葉が贈られた。 シーズンではかねてから希望していた先発ローテーション復帰を果たすも5試合に登板して4敗、防御率6. 75と不調が続いたため、4月27日付で一軍登録抹消。 故障以外ではプロ入り後初となる二軍落ちを経験した。 二軍ではコーチなどと調整と投球修正を続けていた。 7月にの監督であるからの代表招集要望で一軍に緊急復帰し、として登板するも、本来の調子を取り戻すことはできなかった。 しかし星野から「日本代表に最も必要な男」と国際試合での相性・経験を見込まれ、代表に選出された。 一軍でも投手コーチと遠投に取り組むなど、引き続き投球修正を続け、原監督には精神的な部分での問題を指摘され、ビハインドでの救援や、僅差で二死からの救援など、段階を上げながら試行錯誤を重ねた。 前半戦最終戦、五輪代表合宿合流前の最後の試合となった7月29日、8回1点差から登板し1イニング無失点、その後4点差となったことで9回も続投して3三振に抑え、この年の一軍初セーブを記録した。 前年の2007年に代謝異常の難病を患っていた少年と「元気になったら東京ドームでキャッチボールをする」と約束。 8月28日のでの横浜戦の試合前に約束は実現し、少年はその試合で始球式を務める。 この様子はその年ので放送された。 この試合では約4ヶ月ぶりの先発復帰を果たし、先発投手として693日ぶりの勝利を上げた。 その後も尻上がりに調子を上げ、北京五輪後は7試合で4勝1敗。 唯一の敗戦もソロ本塁打での1失点のみで防御率2. 08という好成績で巨人の逆転優勝に貢献した。 西武とのでは第1戦(11月1日)に先発したが、負け投手となる。 10月以降の敗戦は自身初であった。 第5戦にも先発したが、3回2失点で降板。 しかしチームが逆転勝ちしたため敗戦は免れた。 日本時代に2回の沢村賞を受賞したが、複数回の沢村賞を受賞したのは12人で、平成に入ってからは、上原、、、、の6人しかいない(2018年シーズン終了現在)。 また、前年に73本塁打を放った全盛期のバリー・ボンズを日米野球で三打席連続三振に抑えたり、国際試合負け無し、最多勝、最優秀防御率、最多奪三振をそれぞれ複数回獲得するなど、球界を代表する投手として活躍した。 11月14日、FA宣言を行い、正式にメジャーリーグ挑戦を表明。 SFX社のを代理人に迎えた。 オリオールズ時代 [ ] 1月6日にと2年契約で基本合意。 13日に2年1000万ドル+出来高600万ドルで正式に契約を交わし、同球団初の日本人選手となった。 背番号は巨人時代と同じ「 19」に決まった。 オリオールズ時代(2009年) 開幕から先発ローテーション入りし、4月8日の戦でメジャーデビューし初勝利を挙げた。 しかし、同年5月23日の戦では脱水症状からくる左太もも裏の痛みを訴えて降板し 、27日にも痛みが再発したため入りしたのに続き、6月23日の戦では右ひじに違和感を訴え途中降板し 、28日に精密検査で右ひじ腱の部分断裂が判明し再び故障者リスト入り。 監督の ()は復帰後はリリーフに転向させる意向を示唆していたが 、約8週間を続けたものの回復にはさらに長くかかり、9月上旬にシーズン中の復帰を断念した。 結局、MLBの1年目は前半戦に先発登板した12試合のみとなった。 1月1日に株式会社スポーツカンパニーと契約を結び、8月にはを取得。 中に左太もも裏を痛め、DL入りして開幕を迎えた。 5月からリリーフとして復帰するが 、6試合の登板後に右ひじ痛が再発して再びDL入りした。 約1か月後の6月29日に復帰した後は、17試合登板して防御率1. 80、WHIP1. 10と好投を続けた。 敗戦処理を含む比較的楽な場面であったが、安定した投球を続けていたことが、新しく監督に就任してオリオールズの再建に着手したの目に留まって暫定クローザーとして起用されることになった。 8月21日の戦の9回に登板し1安打無失点に抑えメジャー初を挙げた。 7月16日の戦でMLB歴代4位タイの32試合連続無四球を記録。 オフに250万ドルの出来高を含む総額550万ドルの1年契約を結んだ(2年目は年俸350万ドルの球団オプション)。 は、ブルージェイズからがクローザー契約で加入したことにより、セットアッパーを務めた。 グレッグが精彩を欠いた反面、スプリングトレーニングで右ひじを痛めたが、その後は安定した投球を続け、7月まで43試合に登板し1勝1敗、防御率1. 72、WHIP0. 70(リーグの救援投手でトップ)という好成績を残した。 また前年から続いていた連続無四球試合数は36試合にまで伸び、MLB歴代3位の記録となった。 オリオールズでは上原が投げるときに「kojiコール」が起きるほど、ファンからも信頼されていた。 レンジャーズ時代 [ ] レンジャーズ時代(2012年) 2011年7月30日に、とので、前年に進出を果たしたに移籍し 、高校時代に同級生であったとチームメイトとなった。 背番号は巨人、オリオールズ時代と同じ「 19」。 残りのレギュラーシーズン 2011年 では打者優位の球場 後述 に対応できず、8月前半の11試合は防御率6. 52、WHIP1. 24を喫し、被本塁打率は3. 72と大きく打ち込まれた。 しかしその後は持ち直し、8月31日には55試合登板を達成し翌年の契約オプションを更新。 9月は10試合の登板で防御率1. 23、WHIP0. 23と復調し、チームのポストシーズン出場に貢献した。 シーズン通算では65試合で防御率2. 35、リリーフ投手中リーグ1位のWHIP0. 72、同5位の奪三振率11. 77、同2位の与四球率1. 25を記録した。 自身初となったポストシーズンではとの第2戦で登板を果たすも、から3点本塁打を浴びた。 との第3戦でもに本塁打を打たれ 、さらに第5戦でもに本塁打を打たれてポストシーズン史上初となる3戦連続被本塁打を記録。 チームは進出を決めたが、「レギュラーシーズンは良かったのに、この3試合で成績すべてが消えた感じになった。 もう1回、チャンスがほしい」と語り 復調を目指したが、とのではロースターから外れ、チームは第7戦で敗退した。 1月23日にとのトレードが成立したが、ブルージェイズを含む6球団に対してトレードの拒否権を持っていたため翌日に移籍を拒否し、トレードは破談となった(他の5球団は公開されていないが関係者によると「優勝の可能性が低く、家族の滞在を考慮した住環境が整いにくいところ」だという)。 同年のシーズンは、20試合の登板で防御率2. 11、WHIP0. 70という成績を残していたが、右を痛めて6月14日にDL入り。 その後マイナーでリハビリ登板を続けていたが、右広背筋に再び張りが出て復帰が遅れ、8月26日にDLから復帰。 レギュラーシーズン最終戦まで14試合連続無失点を記録し、後半戦は17試合の登板で1セーブ、防御率1. 23、WHIP0. 54の成績を残したが、チームは地区優勝を逃す。 33は、年間35イニング以上を投げた投手ではがとに記録した数値に次ぐメジャー歴代3位の記録だった。 本人はこの年は『一発病』の克服をテーマ としていたが、イニング数の違いはあるものの、被本塁打数は前年11本から4本へと減少した。 ポストシーズンではボルチモア・オリオールズとのの8回に登板しクリーンナップを3者連続三振の快投を見せるも、チームは敗退し進出を逃した。 レッドソックス時代 [ ] リリーフ転向後、2010年は43試合で防御率2. 86、13セーブ、2011年は65試合で防御率2. 35、2012年は37試合で防御率1. 75と、安定した成績を残してきた上原は、オフにはMLBの複数球団で争奪戦となった。 12月6日にと総額425万ドル+出来高の1年契約(2年目は55試合登板で自動更新される年俸425万ドルの球団オプション)で合意したことが報じられ 、18日に契約した。 本人は決め手を、自分を最も必要としてくれている球団だと感じたこと、そしてクラブハウスに温水洗浄便座があることも良かったと語った。 一方で前年地区最下位のレッドソックスの側では、GMのはどうしても必要な補強では無いと当初考えていた が、に精通したスタッフやアドバイザーのが強く進言したため 、急遽獲得に動いたと言う。 この契約は後に、「レッドソックスは奇跡を捕まえた」と称された。 レッドソックス時代(2013年) レギュラーシーズンに、2010年以来トレードマークとしていたもみあげをさっぱりと剃りあげた この年は、序盤は4月21日の戦で失点するまでの8試合、前年から続く22試合連続無失点を記録。 6月9日のエンゼルス戦で与死球を記録したが、これがメジャー移籍後、183試合目、打者920人目にして初めての与死球であった。 シーズン当初にクローザーを務めた、、が不調となったため、6月21日に上原が(4人目の)クローザーに指名された。 前半戦は44試合の登板で2勝0敗8セーブ、防御率1. 70、WHIP0. 76の成績を残し、最終投票の候補に選ばれるまでとなった。 8月13日のブルージェイズ戦でシーズン55試合目の登板に到達、翌年の契約オプションを更新した。 日本人投手歴代最長の26試合連続無失点を記録し 、34人連続アウトの球団記録も更新。 13日も3人で抑えて記録を更新したが、次の17日のオリオールズ戦でに三塁打を打たれ、犠飛で失点してシーズン初の負け投手となり、記録はストップした。 9月20日のブルージェイズ戦で20セーブ目を挙げてチーム6年ぶりの地区優勝を決め、MLBにおける日本人2人目のとなった。 9月27日のオリオールズ戦では、救援投手では球団史上初となるシーズン100奪三振に到達。 救援投手でのメジャー記録となるWHIP0. 57を記録した。 なお、このシーズンは73試合に登板した。 シーズン途中からの抑え転向だったことでセーブ数こそ21と伸びなかったものの、救援投手ながら投票でも10ポイントの票が入っていた。 では、本人が嫌な相手 と語るタンパベイ・レイズと対戦。 第2戦から第4戦に出場し2セーブを挙げたものの 、第3戦では、同点の9回裏2死の場面で、途中から守備で入っていたに39試合ぶりの被弾となるまさかのサヨナラ本塁打を打たれている。 この打球は名物の「エイが入った巨大水槽」に叩きこまれ(球場史上3回目)、レイズの選手による初のタンクヒットとして記録された。 では前年ア・リーグ王者のとの対戦となったこのシリーズの6試合中5試合に登板し、1勝0敗3セーブ4安打9奪三振無四球無失点という圧倒的数字で、に選ばれた。 これは救援投手としては(2003年)以来、MLB史上3人目の快挙であった。 また、日本人では初の受賞でもあった。 はセントルイス・カージナルスが相手で、両リーグの最高勝率球団同士の対戦となった。 第3戦の同点の9回裏一死・走者二、三塁の場面で、の二塁ゴロで三塁走者を本塁でタッチアウトにしたが、捕手のが三塁へ悪送球。 捕球できずに倒れたのに走者のが躓き、これが走塁妨害と判定されて、ワールドシリーズ史上初めての「走塁妨害によるサヨナラ負け」を喫した。 第4戦では、9回裏2死走者1塁の場面で一塁ランナーのを牽制アウトに仕留めた。 これはワールドシリーズ史上初めての「牽制死によるゲームセット」で、同時に日本人としてもワールドシリーズで初のセーブを挙げた。 第5戦でもセーブを挙げ、歴代のポストシーズンで最多タイの7セーブを挙げた。 更に、優勝のかかった第6戦においても9回5点差で登板し、最後にを三振にしとめ、MLBにおける日本人初のワールドシリーズ胴上げ投手となった。 なお、このシーズンはポストシーズンを含むと86試合に登板しており、メジャー全投手の中で最多登板という、量・質共に比類の無いシーズンを過ごした。 シーズン始めからクローザーに定着、前半戦は42試合に登板し18セーブをあげ、防御率1. 65、WHIP0. 76、奪三振率11. 75と大躍進を遂げた前年に劣らぬ好成績を収める。 が故障者リスト入りしたことに伴いへの出場を辞退したため、代わりに選出された。 オールスターゲームでは6回二死の場面で登板し、を三振に切って取った。 後半戦に入っても好投を続けていたが、8月16日から6試合の登板で10失点を喫する乱調に陥り、9月5日にはクローザーの役割から外れることとなった。 シーズン通算では2年連続で60試合以上の登板を果たし、26セーブを挙げた。 防御率は終盤の乱調が影響し前年より大幅に悪化したが、WHIP0. 92、奪三振率11. 19は高い水準を保った。 4月3日に故障者リスト入りが発表され、同年シーズンの開幕メンバーから外れることが決定した。 4月14日の戦のシーズン初登板で、1回無失点でセーブを挙げた。 40代の日本人投手がセーブを挙げたのは以来2人目であった。 8月7日の敵地タイガース戦で9回途中に登板した際、打球を止めようとして出した右手に打球がぶつかり、手首を骨折した。 非分離型撓骨遠位端骨折と診断され、今季残り試合を欠場する見通しであると球団が発表した。 レッドソックスは11月13日、とのトレードでメジャー通算225セーブ(2015年シーズン終了時点)をマークし、MLBを代表するクローザーのを獲得したと発表。 これにより、などの複数メディアは上原がチームから8回を担当するに配置転換されることになったと同日に報じた。 7月19日のジャイアンツ戦で右胸筋を痛め、翌日故障者リスト入りとなった。 9月5日に復帰すると 、7日のパドレス戦に復帰後初めて登板し、1回を無安打無失点に抑えた。 結局復帰後は11試合に登板し無失点でレギュラーシーズンを終えている。 最終的には50試合に登板し、2勝3敗、7セーブ、18ホールド、防御率3. 45を記録した。 地区シリーズでは第1戦、第3戦と無失点を記録するもチームは敗退した。 11月3日にFAとなった。 カブス時代 [ ] カブス時代(2017年) 2016年12月14日にと1年600万ドルで契約を結んだ。 この年のオフには、来期のオフにメジャーでのオファーがなければ引退すると発言していた。 は開幕戦となる4月2日のカージナルス戦で同年シーズン初登板。 1イニングを投げ無失点に抑えた。 11月2日に(FA)となった。 巨人復帰 [ ] カブスをFAとなった時点で日本球界復帰やマイナー契約の意志はなく、MLBから契約のオファーがなければ今季限りでの引退の可能性も示唆していた。 しかし、になると一転して日本球界への復帰を示唆。 そして3月9日に古巣の巨人と1年契約を結び、同日に入団記者会見が行われた。 かつての背番号「19」はが着用していたため、「 11」を背負うこととなった。 これは空番から本人が指定した。 契約金は1億円、推定年俸は2億円+出来高払い(いずれも推定)となり 、同日付で支配下選手登録公示された。 3月31日の戦の8回に4番手として、2008年10月5日の対戦以来3464日ぶりのNPB公式戦登板を果たし、1回を三者凡退無失点に抑えて公式戦3535日ぶりのホールドを上げた。 しかし、オープン戦での段階での入団だったにも関わらずすぐ一軍に合流したことから調整不足に陥り4月10日の戦と4月15日の戦で打ち込まれ2試合連続で敗戦投手となる。 同年のに中継ぎ投手部門のファン投票で選出され、11年ぶりに球宴へ出場。 第2戦()の6回に4番手で登板。 43歳3か月での球宴登板となり、2006年に当時チームメートだったが記録した球宴最年長登板(43歳2か月)を更新。 7月20日、戦の7回に3番手で登板してホールドを上げ、世界で2人目、日本人では史上初となる日米通算100勝100セーブ100ホールドを記録した。 しかし夏場に入ると再び打ち込まれる場面が目立ち、7月26日のヤクルト戦で延長11回から登板するもに勝ち越し適時打を浴びて敗戦投手となり 、翌27日に二軍へ降格した。 その後、調整を経て8月25日に再昇格すると以降はシーズン終了まで一軍に帯同した。 日本復帰1年目は36試合に登板し、5敗14ホールド・防御率3. 63を記録した。 10月23日、左膝のクリーニング手術を受けた。 経過を見極める必要性から、10月29日に一度自由契約となった が、12月14日に自身のブログを更新し、巨人と再契約を結んだことを明かした。 これについて、巨人へFA移籍した、の人的補償として上原をとられないための「プロテクト外し」だったのではないかと指摘され、上原本人は球団の考えは分からないが裏はないと否定、巨人側も否定した が、一連の出来事は一部で「出来レース」「人的補償からの一時避難」ではと指摘された。 からは、菅野が背番号を「18」へ変更したため、メジャー移籍前に使用していた背番号「19」を再び背負うことになった。 また、中日に在籍していたが2018年限りで現役を引退したことにより、同い年でもあるのと並んで球界最年長選手となった。 開幕は一軍入り出来ず、二軍スタートとなった。 引退 [ ] 2019年は一軍復帰はならず、同年5月20日にシーズン途中での現役引退を表明。 同日付でNPBより選手として公示された。 シーズン中に引退という異例の事態に球団では慰留の構えを見せるも本人は残らず、「2軍で抑えられないようでは1軍では抑えられない。 辞めるなら球団に迷惑かけたくない。 若手の投げる機会を奪いたくないから」などといった内容の発言を残している。 なお、12球団における最初の任意引退選手となった。 上原の引退により長嶋政権で在籍経験のある投手は全て現役を退いた。 2020年からはと、として活動する。 また、同年1月31日にはの公式チャンネル「上原浩治ベースボールアカデミー」を開設した。 選手としての特徴 [ ] Brooksbaseball. メジャー移籍前の巨人時代はこれにを混ぜて投げていた が、メジャー移籍後からは前者の2球種以外の割合は低い。 最も特筆すべきはその 制球力であり、奪三振が多く与四球が少ないピッチャーである。 NPB10年間で7. 99(主にクローザーを務めた2007年は奪三振率9. 58)、MLB8年間で奪三振率10. 7、2013年においては自己最高12. 2を記録する。 制球力を示す指標である奪三振を与四球で割るでは、生涯1000イニング以上投げた投手の中では日本プロ野球歴代最高となる通算6. 68(2位はの4. 61、3位はの4. 50であり、上原の数値は突出している ) で、メジャーリーグでも2014年まで通算100イニング以上投げた投手の中で歴代最高の通算8. 96を記録している。 日本での10年間の1549イニングで与四球数はわずかに206個。 日本での通算与四球率は1. 20で、「精密機械」と呼ばれたの1. 90、の1. 80といった、往年の名投手達の記録を大きく上回っている。 また、本来はワンバウンドしやすいためが多くなりがちなフォークピッチャーでありながら暴投も非常に少なく 、2018年までの20年間で僅か19個(NPBの11年で10個、MLBの9年で9個)しか記録していない。 飛球の割合が多いとして知られ 、もともと被本塁打がやや多い傾向があった(日本での通算被本塁打率1. 1 )。 リリーフに転向したメジャー時代での通算被本塁打率は1. また内野フライに打ち取った確率23. 0パーセントは2013年メジャー1位であった シーズン途中時点。 オリオールズ時代のチームメイトで捕手のは「構えた場所に寸分の狂いなく投げ込んでくるから、受けるのが楽しい投手だった」 と言い、投手コーチのも「フォームに惑わされている打者がいるのは確かだが、それだけで行きつける場所は限られている。 上原が何年も活躍できているのは、スプリッターの使い方がうまいことと、コマンド(狙ったスポットに投げる能力)が優れているからだ」と制球力の良さを特徴に挙げた。 上述の制球力に加えて、「迷ったらプレートを外せばいいだけ」 と一球ごとの投球間隔が非常に短く速いテンポでどんどんストライクを投げ込んでいくため、巨人時代には2時間程度での完投勝利もしばしばあり、1999年7月4日の戦では1時間59分での完投勝利を記録した。 「打者1人に対して5球。 1イニング15球なら次の日もそんなに疲れも残らない」という考えで、1試合あたりの球数も少ない。 投球フォーム [ ] テイクバックが小さく腕の振りが速いのが特徴で、やや気味のノーワインドアップので投げる。 この投球フォームは非常にスムーズで一見それほど特徴的には見えないが、投球動作の前半は腕が体の陰に隠れて見えない上に球持ちが非常に短いため、テイクバックからボールを離すまでの時間が短く、メジャーの多くの選手が「球の出どころが見づらい」と語り、を実際の球速以上に感じさせる「Deceptive(幻惑的)」な投球フォームと呼ばれている。 同僚の外野手は、「見極める時間が無い」、「ど真ん中の速球が、投げられてから半分通過するまで判らない」と述べ、捕手のですら「投げた瞬間、ボールがストライクかどうかは高めに外れた時以外は判別できない」と述べている。 投球フォームは、メジャーに来て肉離れで苦しんでいた時に、MLBの硬くて傾斜のきついマウンドに合わせを参考にマウンドからジャンプするような投球フォームに変更することにより、太ももの負担を減らすと同時にボールの方に力を乗せるようにした為、球威が上がっている。 前述のように配球はフォーシームとフォークで半々であるが 、絶妙に投げ分けており、二球種を全く同じように投げられることは、上原の優れた長所である。 対戦したヤンキースのは「速球だけでなく、スプリッターも両サイドに投げ分ける。 速球とスプリッターが同じような軌道を描くから、見極めるのが難しい」 と言う。 スカウトの意見では「スプリッターが常に鍵」で、配球は制球力が上原の武器だと分析した。 球種 [ ] 速球はフォーシームを2種類の握りで投げ分ける。 ツーシームは投げられないと語っている [ ]。 2013年の速球の空振り率36. 3パーセントはメジャー3位であった。 上原の速球は回転が良く浮き上がるようだと評され、同僚の捕手だったウィータースは「コウジの場合何より大きいのは、全く同じ腕の振りから速球とスプリッターが繰り出されること。 投球モーションが幻惑的なこともあって、手を離れた瞬間は全く同じ球に見えるんだ」 と言い、同じく外野手のも「コウジの球は、手から離れた瞬間にジャンプして向かってくるような印象を受ける。 ボールを放す位置が打者の近くで回転も良いから、スピードガンが示すよりも速く見えるんだ。 あの幻惑的な投げ方が有利に働いている部分もあるだろう」と語っている。 オリオールズ時代の監督のはその切れ味を「シャープなナイフ」と表現していた。 6月16日の戦では、速球を軸に好投した上原に対し、 アメリカの解説者は「メジャーの引っ張る打者にとって、最もフラストレーションの溜まる投手の筆頭が上原でしょう。 とても幻惑的な腕の動きです。 素早い腕の振り。 ボールは間違いなく打者の予想よりも速く手元に届くのです」。 フォークボールは、落差の大きいもの、小さいもの、シュート回転させて右に落とすもの、スライダー回転させて左に落とすものなど、数種類のフォークを投げ分ける。 メジャー移籍後を境に上原のフォークはスプリットと呼ばれるようになり、上原自身もスプリットと呼ぶ。 オーバーベイは「2シームのように動きながら沈んでくる場合もある。 スプリッターに限っていえば、に似ていると思う。 同じように2シームのような回転をしながら沈んでいくし、低めの制球力も見事だった。 ボールの手からの離れ方、回転なんかはすごく似ていると思う」 と語っていたが、実際の上原のスプリットはいわゆるワンシーム回転であるがゆえに左右の投げ分けが可能であり、回転も握りもツーシームのそれではない。 レッドソックス投手コーチのも「スプリットもただ落とすだけじゃなく思い通りのコースに投げることができるから、打者も対応しきれないんだ」 と語り、同僚の外野手は、「スプリットを制球出来る点で、他の投手と圧倒的に違う」と述べている。 2013年のスプリットの空振り率は43. 4パーセントで、200投球以上の投手ではメジャー2位だった。 時に落ちないで減速のみするスプリットは、ではと判断される場合もあるが、実戦ではチェンジアップを投げることはない。 その他の球種としては、を少し投げ、極めて稀にを投げることがある。 メジャー移籍直後は人指し指と親指だけで投げる「一本指カーブ」をキャンプ前のトレーニングで練習していた。 ただこのカーブは制球が未だに定まらず、メジャーで初の与死球となったボールは、2013年シーズンにたった3球投げたカーブのうちの1つである。 フォークを覚えたのはプロに入ってからで、アマチュア時代はとを軸にしていた。 しかし、ナックルカーブはプロ入り初先発の試合で阪神(当時)のに痛打され、先輩捕手のから「いらんやろ? 」と指摘されて以来投げていない。 また本人曰く、「フォークを覚えたらスライダーの投げ方が分かんなくなっちゃった」ため、プロ入り後数年にわたってスライダーを封印していた。 スライダーは依然として得意としておらず、で後輩のに握りの伝授をお願いして断られたことがある。 カットボールは巨人時代には投げていたが、「次に投げるストレートや別変化球のキレに影響」が出るということでメジャーでは封印している。 国際大会での活躍 [ ] 本人は「対戦相手に恵まれていただけ」と謙遜するが 、外国チームとの国際試合では大学時代から数えて通算25戦12勝0敗2セーブ、「国際戦負けなし」という無類の強さを誇る。 2003年、アジア予選では中国戦に先発し、7回1失点で勝利投手となった。 本戦では2登板で1勝0敗、防御率2. 08 で銅メダル獲得に貢献。 2006年のでは2次リーグ初戦のアメリカ戦で勝敗が付かなかったが5回1失点と好投し、対戦成績0勝2敗で迎えた準決勝・韓国戦でも7回無失点8奪三振と好投して勝利投手になるなど、大会2勝を挙げて日本の初制覇に貢献した。 2007年12月の北京オリンピックアジア予選でも1セーブをマーク。 2008年のシーズンは絶不調であったために批判が多かったが、北京オリンピック野球日本代表監督を務めたが直々に交渉してクローザー兼投手主将として起用。 では2試合に登板し防御率0. 00、1セーブを記録した。 北京オリンピック終了後に代表引退を表明したが 、2013年の第3回WBCについては要請があれば前向きに検討していたと述べた。 2017年の第4回WBCについては「出てみたくなってきているのは確か」とブログに綴っていたが 、カブスの意向で出場辞退し、「申し訳ない気持ちでいっぱい」とコメントした。 人物 [ ] 座右の銘には「 雑草魂」を挙げている。 1999年のペタジーニ敬遠にみられるように勝負を避ける敬遠や四球を「楽しくないから」と嫌う。 真っ向勝負しロケットの愛称を持つは憧れの投手で、投球フォームやグラブの使い方を真似ている。 巨人時代の先輩によると、上原は「究極の負けず嫌い」で「野球が純粋に好きな、野球少年」であるという。 その陽気な性格から、ふざけて抱きついたりするが好きで、抱きつき魔であり、酔ってに抱き付いた写真を投稿したり 、試合後の抱擁が情感溢れるとアメリカのメディアに茶化されたこともある。 元々は先発に対して人一倍強いこだわりがあり、上原自身「先発が一番好きだ」と言う。 日本で(先発として)限界説が囁かれる中に渡米し、ボルチモア・オリオールズと契約したのも、先発としての起用を優先するという条件をオリオールズが呑んだからである。 巨人や五輪代表で、抑えとして起用されたことに本人は納得していなかった。 2009年にリリーフに転向。 「抑えて当たり前、打たれたときだけ記事になる」 という中継ぎの仕事の過酷さを訴え、メディアの扱いが小さいという不満から 自らブログで全投球の解説をするという情報発信を行っている。 ボストンでの優勝パレードでに乗って手を振る。 右から上原、田澤、ブレスロー。 (2013年11月2日) 2010年、前年に大きな怪我があったのでツキを替えようと、アニメ「」ののようなもみあげを伸ばし髪を短く刈った髪型にした。 これがの番組『』で取り上げられると、「もみあげ通信」という上原のコーナーができて、ルパン三世のテーマやルパンに関する歌などが流れるようになった。 もみあげをのばした理由は相手チームに名前を覚えてもらうため であったというが、その後、髭も伸ばし出して、もみあげと髭がつながり、ルパンというよりも山賊の様な状態になった。 しばらくして本人も次第に「自分の方向性がわからなくなって」しまったということから、2013年からは髭ともみあげをさっぱりと剃りあげた が、これは「若く見える」と評判がよく、この年大半の選手が髭を生やしたボストン・レッドソックスでは逆に異彩を放つ目立つ存在となった。 レッドソックスのチームメイトは、上原は田澤のように髭が余り伸びないたちだと思いこんでいて、かつて立派な髭をたくわえていたことを記者に知らされて驚いたという。 2013年後半戦の上原の活躍は、メディアから様々な表現で形容された。 「strike machine(ストライクを投げる機械)」、「Mr. Automatic(強制終了)」 、「unflappable(動じない)」、「untouchable(触れられない)」、「simply unstoppable(全く止められない)」、「the sixth sense(第六感の持ち主)」、「Deceptive(幻惑的)」 、「」 、「Unhittable God-Creature(打てない生き物)」 、「Yoda with a splitter(スプリッターを投げる)」 などなど思いつく限りの賞讃が与えられた。 更にボストンでは上原の行動はレッドソックスを盛り上げていると認められ、次の10の特徴を写真付きで地元紙が掲げるほど気に入られた。 彼はハイタッチを愛している。 彼のもみあげは最高。 彼の名前と日本国旗入りのグローブは、悪い奴らに禁止された。 彼は勝利を決めた後、アリ・ゴールドのような抱擁をする。 彼はガッツポーズの宝庫。 彼の投げ終わった姿は、一球一球がドラマのクライマックスシーンのようだ。 彼は人助けに幸せを覚える。 これがリリーフピッチャーの本質だ。 彼の顔は感情を正確に表す。 彼の熱意は感染する。 彼は勝利に対して本当にエキサイトする。 そして、一日も経てば、彼はチームメイトにふさわしいタイプに思えてくる。 2013年のワールドシリーズMVPのデビッド・オルティーズは成績だけでなく人柄にも触れ、「投手としても、人間としても最高の男」 だとして、最大級の賛辞を送った。 同学年のオルティーズとは公私ともに仲が良く、家族ぐるみの付き合いである。 シーズン中はチームが勝利した後に列になってハイタッチをする時に、相手の股間をどっちが先に触るかという遊びをしていた。 ポストシーズンで担がれるといったパフォーマンスをするようになったのは、(精神的に)疲れすぎてその遊びをする余裕がなくなったことから、上原がオルティーズにもたれかかったことが始まりと、NHK-BSの特番でインタビュアーとなったに打ち明けている。 、で揺れる日本の中において開幕強行に踏み切ったに対して選手会に同調し、「正気の沙汰とは思えない」と批判したことがある。 、第35回・スポーツ部門を受賞。 2020年現在、長男はので野球を学んでいる。 ポスティング移籍問題 [ ] 入団当初からメジャーへの強い希望を持ち続けており、2004年オフにポスティングシステムによる翌2006年のメジャー移籍を直訴。 当時の年俸3億3500万円を8500万円分減額して、FA権を取得するまでかかる4年間分の違約金を払うとまで申し出たが 、球団首脳陣は頑としてポスティングシステム行使を容認せず、「わがまま」 であると評したために、フロントとの感情的な対立に発展。 そのシーズンは契約交渉がまとまらないままキャンプ入りした。 ポスティング移籍拒否されたこの年から翌年にかけて、怪我などもあって成績が落ちたため、メディアの論調も厳しかった。 結局、メジャー移籍を果たしたのは2009年の海外FA権取得後(5年後)で、現在も『ポスティングの12球団統一ルール』の施行を主張している。 詳細情報 [ ] 年度別投手成績 [ ] 球 団 25 25 12 1 4 20 4 0 --. 833 769 197. 2 153 12 24 3 4 179 3 0 49 46 2. 09 0. 90 20 20 6 1 2 9 7 0 --. 563 519 131. 0 112 20 22 1 1 126 1 0 53 52 3. 57 1. 02 24 22 4 1 1 10 7 0 --. 588 573 138. 2 133 18 28 3 5 108 2 0 66 62 4. 02 1. 16 26 26 8 3 4 17 5 0 --. 773 808 204. 0 173 18 23 3 6 182 2 0 65 59 2. 60 0. 96 27 27 11 1 3 16 5 0 --. 762 821 207. 1 190 28 23 3 5 194 0 0 76 73 3. 17 1. 03 22 22 2 0 0 13 5 0 --. 722 637 163. 0 135 24 23 0 5 153 1 0 54 47 2. 60 0. 97 27 27 6 2 4 9 12 0 0. 429 747 187. 1 164 24 22 0 0 145 0 1 73 69 3. 31 0. 99 24 24 5 0 3 8 9 0 0. 471 673 168. 1 157 24 21 3 1 151 0 1 67 60 3. 21 1. 06 55 0 0 0 0 4 3 32 4. 571 237 62. 0 47 4 4 1 1 66 1 0 12 12 1. 74 0. 82 26 12 2 0 0 6 5 1 5. 545 370 89. 2 90 11 16 1 0 72 0 0 43 38 3. 81 1. 18 12 12 0 0 0 2 4 0 0. 333 279 66. 2 71 7 12 1 0 48 0 0 33 30 4. 05 1. 25 43 0 0 0 0 1 2 13 6. 333 174 44. 0 37 5 5 0 0 55 1 0 15 14 2. 86 0. 96 43 0 0 0 0 1 1 0 13. 500 174 47. 0 25 6 8 1 0 62 0 0 9 9 1. 72 0. 70 22 0 0 0 0 1 2 0 9. 333 69 18. 0 13 5 1 0 0 23 0 0 8 8 4. 00 0. 78 '11計 65 0 0 0 0 2 3 0 22. 400 243 65. 0 38 11 9 1 0 85 0 0 17 17 2. 35 0. 72 37 0 0 0 0 0 0 1 7 ---- 130 36. 0 20 4 3 0 0 43 1 0 7 7 1. 75 0. 64 73 0 0 0 0 4 1 21 13. 800 265 74. 1 33 5 9 2 1 101 1 0 10 9 1. 09 0. 57 64 0 0 0 0 6 5 26 1. 545 249 64. 1 51 10 8 0 1 80 1 0 18 18 2. 52 0. 92 43 0 0 0 0 2 4 25 0. 333 160 40. 1 28 3 9 1 0 47 4 0 14 10 2. 23 0. 92 50 0 0 0 0 2 3 7 18. 400 184 47. 0 34 8 11 1 2 63 1 0 18 18 3. 45 0. 96 49 0 0 0 0 3 4 2 14. 429 178 43. 0 38 7 12 3 0 50 0 0 21 19 3. 98 1. 16 巨人 36 0 0 0 0 0 5 0 14. 000 139 34. 2 32 5 5 0 2 24 0 0 14 14 3. 63 1. 07 :11年 312 205 56 9 21 112 67 33 23. 626 6293 1583. 2 1386 188 211 18 30 1400 10 2 572 532 3. 02 1. 01 :9年 436 12 0 0 0 22 26 95 81. 458 1862 480. 2 350 60 78 9 4 572 9 0 153 142 2. 66 0. 各年度の 太字はリーグ最高 ポストシーズン投手成績 [ ] 年 度 球 団 登 板 先 発 勝 利 敗 戦 セ | ブ ホ | ル ド 勝 率 打 者 投 球 回 被 安 打 被 本 塁 打 与 四 球 敬 遠 与 死 球 奪 三 振 暴 投 ボ | ク 失 点 自 責 点 防 御 率 W H I P 1 0 0 0 0 0. --- 3 0. 0 2 1 1 0 0 0 0 0 3 3 99. 99 99. 99 2 0 0 0 0 0. --- 8 1. 1 3 2 1 0 0 1 0 0 2 2 13. 50 3. 00 1 0 0 0 0 0. --- 3 1. 0 0 0 0 0 0 3 0 0 0 0 0. 00 0. 00 3 0 0 1 2 0. 000 10 3. 0 1 1 0 0 0 4 0 0 1 1 3. 00 0. 33 5 0 1 0 3 0 1. 000 21 6. 0 4 0 0 0 0 9 0 0 0 0 0. 00 0. 66 5 0 0 0 0 0. --- 15 4. 2 2 0 0 0 0 0 3 0 0 0 0. 042 2 0 0 0 0 0. --- 6 2. 0 1 0 0 0 0 1 0 0 0 0 0. 00 0. 50 出場:4回 19 0 1 1 7 0. 500 66 18. 0 13 4 2 0 0 21 0 0 6 6 3. 00 0. 太字はMVP受賞 五輪での投手成績 [ ] 2 2 1 0 0 51 13. 0 12 1 3 0 0 10 0 0 3 3 2. 08 2 0 0 0 1 6 2. 0 8 0 0 0 0 1 0 0 0 0 0. 00 WBCでの投手成績 [ ] 3 3 2 0 0 67 17. 0 17 2 0 0 1 16 2 0 3 3 1. 59 タイトル [ ] NPB• :2回 (1999年、2002年)• :2回 (1999年、2004年)• :2回 (1999年、2003年)• 当時連盟表彰なし 表彰 [ ] NPB• :2回 (1999年、2002年)• (1999年)• :2回 (1999年、2002年)• :2回 (1999年、2003年)• :4回 (1999年8月、2002年7月、2003年8月、2004年9月)• 優秀選手賞:1回 ()• :2回 (1999年、2002年)• :2回 (1999年、2004年)• :1回 (2002年、捕手:)• 最優秀バッテリー賞(特別賞):1回 (1999年)• 優秀選手賞:2回 (、)• サンヨーオールスター新人賞() (1999年)• サンヨー賞(オールスターゲーム):1回 ()• 最優秀:1回 (1999年)• :1回 (1999年)• 第1戦 優秀選手賞 (1999年)• :2回 (1999年、2007年)• ・ジャイアンツMVP賞:2回 (1999年、2002年) MLB• :1回 () 大学時代• 最優秀投手賞:1回 (1997年) その他• 【 】• 殊勲賞:1回 (1999年)• 【 】:1回 (1999年)• 日本【 】• 大賞:1回 (1999年)「雑草魂」• 【 】• ファン賞:1回 (1999年)• 感動賞:1回 (1999年)• アサヒスーパードライ THE BEST PLAYER【 】:3回 (1999年6月、7月、9月)• アサヒスーパードライ 年間ベストプレーヤー【 日刊スポーツ 】:1回 (1999年)• 2004GIANTS月間MIP賞:1回 (9月度)• 【 】:1回 (2013年)• 【 商工会議所青年部 】 (2016年)• 初奪三振:同上、1回表にから見逃し三振• 初勝利・初先発勝利:1999年4月13日、対1回戦(東京ドーム)、7回3被安打無失点• 初完投勝利:1999年5月16日、対7回戦(東京ドーム)、9回2失点• 初完封勝利:1999年9月14日、対25回戦()• 初セーブ:2007年5月2日、対中日ドラゴンズ5回戦(ナゴヤドーム)、11回裏に5番手で救援登板・完了、1回無失点• 初ホールド:2007年7月12日、対阪神タイガース12回戦(東京ドーム)、9回表に6番手で救援登板、2回無失点• 初安打:1999年4月13日、対広島東洋カープ1回戦(東京ドーム)、3回裏にから投手内野安打• 初打点:1999年8月10日、対18回戦(東京ドーム)、2回裏にから遊撃ゴロの間に記録• 初本塁打:2003年7月20日、対横浜ベイスターズ20回戦()、3回表にから左越ソロ NPB節目の記録• 最年長登板:43歳3ヶ月 (2018年) 日本シリーズ• 連続試合無失点:27 (2013年7月9日 - 9月13日)• シーズン:0. 選出:1回 ()• 100セーブ:2015年5月10日(日本時間11日• 2000投球回:2017年5月12日、8回裏に4番手として救援登板、1回無失点• 700試合登板:2017年7月24日、8回裏に4番手として救援登板、1回1失点• )、先発100勝100セーブ100ホールドは史上初 背番号 [ ]• 19 (1999年 - 2017年、2019年)• 11 (2018年) 登場曲 [ ]• Sandstorm()(2013年 - 2019年) 代表歴 [ ]• 1997 IBAFインターコンチネンタルカップ 日本代表• 関連情報 [ ] 出演 [ ]• (2003年10月-2004年3月、)• (2006年10月-、TBSラジオ)• ザ・ドキュメンタリー「上原浩治・密着400日~それでもメジャーに行く理由」(2009年2月28日、)• (2013年11月3日、テレビ東京)• (2014年8月4日、)• (2016年5月7日、) 書籍 [ ] 著書 [ ]• 『我慢』(2005年、、)• 『闘志力。 『不変』(2014年1月、、)• 『覚悟の決め方』(2014年5月、、)• 『SPORTS FILE 野球上達日記 大リーガー編』、2015年4月。 『OVER 結果と向き合う勇気』 2019年、• 『不屈の心』 2019年、 関連書籍 [ ]• 『雑草魂の育て方』、1999年10月。 『』 、、2007年。。 78~79 、遠投主体の独自の調整法など• 柏英樹『プロ野球選手になるには』ぺりかん社、2009年• 『メンタル強化55の基本』、2015年8月。 プレスリリース , SKIYAKI, 2019年10月1日 , 2020年2月5日閲覧。 サンスポ. 201-05-20. 2019年5月20日閲覧。 「」『』、2019年5月19日。 2019年6月14日閲覧。 の2019-06-14時点におけるアーカイブ。 - 東京スポーツ・2014年7月23日• 2016 RUGBY Japan 365 2012年1月13日. 2018年5月26日閲覧。 臼北信行 2013年10月3日. 誠 ITmedia. 2013年10月21日閲覧。 毎日新聞、2015年10月3日閲覧• 2013年7月17日閲覧。 『ベースボールマガジン 2004年プロ野球総決算号「激動」』ベースボールマガジン社出版 発行日2005年1月1日、113頁、雑誌07915-1。 『月刊スラッガー』2006年6月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-12、56頁。 47NEWS 2015年7月20日閲覧。 宮下敬至 2008年4月8日. nikkansports. com. 2013年10月23日閲覧。 スポニチ. 2009年1月8日. 2013年10月21日閲覧。 日刊スポーツ、2009年4月10日。 日刊スポーツ、2009年4月26日。 日刊スポーツ、2009年6月25日。 日刊スポーツ、2009年6月28日。 日刊スポーツ、2009年7月2日。 日刊スポーツ、2009年6月27日。 、2013年6月28日。 日刊スポーツ、2009年9月13日。 スポーツ報知、2010年12月28日。 日刊スポーツ、2010年4月4日。 日刊スポーツ、2010年5月7日。 日刊スポーツ、2010年5月26日。 日刊スポーツ、2010年8月22日。 日刊スポーツ、2010年12月15日。 J SPORTS Web、2013年7月16日• 日刊スポーツ、2011年9月2日。 日刊スポーツ、2011年10月3日。 日刊スポーツ、2011年10月12日。 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