天皇 陛下 が 最初 の 沖縄 訪問 で まず 訪れ た の は。 明仁天皇の最初の沖縄訪問 (4/4) 沖縄戦慰霊碑「ひめゆりの塔」

ひめゆりの塔事件

天皇 陛下 が 最初 の 沖縄 訪問 で まず 訪れ た の は

即位後初訪問で「ひめゆりの塔」に献花 「今上天皇ほど、国内外の各地を訪問された天皇はいません。 各種資料を丹念に調べると、即位後に限っても『旅』の総移動距離は62万kmを超えます。 地球を約15周半もできる距離です。 明治大正の天皇は御用邸や軍施設に泊まることが多かったが、昭和天皇は土地折々の名旅館などを好まれ、平成の天皇陛下はより国民の近くを旅するようになったという。 「天皇皇后両陛下がご一緒にお出かけになられるのも、平成になってからのことです。 即位後、初めて沖縄の地に降り立った両陛下は、格別な気持ちになられたに違いない。 先の大戦で戦地となり、多くの犠牲者を出した沖縄に、両陛下は長く心を寄せられてきた。 皇太子時代の1975年に沖縄を初訪問した際は、献花に訪れた「ひめゆりの塔」前で、過激派から火炎瓶を投げつけられた。 1つは両陛下から2m足らずの献花台を直撃し、燃え上がった。 「しかしその夜、両陛下は事件を非難することはせず、『沖縄の苦難の歴史を思い、これからもこの地に心を寄せ続けていく』と表明する談話を発表されました。 そして言葉だけでなく、実際にその決意を行動で示されました」 歓迎と反対が交錯する複雑な県民感情のなか、皇太子として計5回沖縄を訪問された。 1993年に天皇として初めて沖縄を訪れ、太平洋戦争の遺族代表130人に向かって、メモを持たず6分間にわたって哀悼の意を表された。 両陛下の沖縄訪問は即位後だけで6度を数える。 沖縄への旅は、両陛下の平和にかける思いの表れである。

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図録▽天皇陛下の都道府県別訪問回数

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宮内庁HPより きょう27日から29日まで、沖縄県を訪問する天皇と皇后。 与那国島も初めて訪れる予定だが、今回の沖縄訪問には天皇・皇后の強い希望があったと言われる。 在日米軍の基地負担を沖縄へ押し付けようとする安倍政権は、基地反対の翁長雄志沖縄県知事との面会を拒み、振興予算を減額するなどを繰り返す一方、先の名護市市長選で自民党などが推薦した渡具知武豊氏が当選すると、名護市に交付金を再開するという、札束で横っ面をはたくような露骨な政策も展開してきた。 また、安倍首相の側近議員や応援団メディアによる沖縄差別としか思えないようなグロテスクな沖縄攻撃も続いている。 こうした姿勢によって、沖縄は孤立と内部対立が深まり、まさに日本という国家からうち捨てられたように感じている人々も少なくない。 天皇が今回、沖縄訪問を強く希望したというのは、こうした状況とけっして無関係ではないだろう。 そもそも、天皇は長年、沖縄に対して強い思いを抱いており、今回の訪沖は実に11回目にあたる。 初めての訪問は皇太子時代の1975年7月。 訪問前、琉球文化研究などの第一人者である外間守善氏から「何が起こるかわかりませんから、ぜひ用心して下さい」と心配された今上天皇は、「何が起きても受けます」と述べたという(朝日新聞2016年12月18日付)。 太平洋戦争中、凄惨な地上戦など本土の「捨て石」にされた沖縄は、当時、3年前に本土復帰したばかりで、天皇の戦争責任を問う声も多く、皇室に対する強い反感があった。 実際、初訪問で現天皇がひめゆりの塔で献花した際、火炎瓶を投げつけられるという事件も起きている。 しかし、覚悟を持って沖縄の土を踏んだ今上天皇と美智子妃は、その後もスケジュール通りに行事を進め、ひめゆりの塔の後には「魂魄の塔」へと向かった。 この日、記者に配られた談話には、こう綴られている。 〈払われた多くの犠牲は、一時の行為や言葉によってあがなえるものでなく、人々が長い年月をかけてこれを記憶し、一人一人、深い内省の中にあって、この地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません〉 以降、天皇は何度も沖縄を訪れるとともに、会見などで繰り返し沖縄について言及してきた。

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徳仁

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昭和50年 1975年 7月、の開会式に出席するため、皇太子ご夫妻(現在のと)は初めて沖縄を訪問されました。 その際に、療養所「沖縄愛楽園」を訪れて入所者一人一人と交流されました。 愛楽園からの帰り際、入所者から自然に合唱が起きたそうです。 歌われたのは船出を祝う沖縄民謡「だんじょかれよし」。 皇太子ご夫妻は真夏の炎天下に立ったまま、その歌に聞き入られたそうです。 後に、そのときの光景を皇太子殿下()は琉歌(八八八六の三十音のの)に詠まれ、妃殿下()はその琉歌に相応(ふさわ)しい曲を付けられました。 こうして「歌声の響」という曲が生まれました。 さて、これから皇太子殿下()の最初の沖縄訪問と「歌声の響」について4回に分けて紹介していきます。 今回はその第1回です。 【目次】 〔〕琉歌「歌声の響」 〔〕沖縄民謡「だんじよかれよし」 〔〕療養所「沖縄愛楽園」 〔〕慰霊碑「」 琉歌「歌声の響」 昭和50年 1975年 7月、皇太子ご夫妻(現在のと)は初めて沖縄を訪問されました。 そのときの療養所「沖縄愛楽園」での思い出を、帰京後、皇太子殿下()は琉歌(りゅうか)に詠まれました。 琉歌は八八八六の三十音の形式を持つのです(他の形式もあるそうです)。 だんじょかれよしの 歌や湧上がたん ゆうな咲きゆる島 肝に残て 謹訳 私たちが立ち去ろうとすると だんじよかれよしの歌声が湧き上がりました。 ゆうなの花が、美しく咲いている島の人々のことがいつまでも心に残っています。 だんじよかれよし(ダンジュカリユシ)の(ヌ)歌声(ウタグイ)の(ヌ)響(フィビチ) 見送る(ミウクル)笑顔(ワレガウ)目(ミ)に(ニ)ど(ドゥ)残る(ヌクル) だんじよかれよし(ダンジュカリユシ)の(ヌ)歌や(ウタヤ)湧上がたん(ワチャガタン) ゆうな(ユウナ)咲きゆる(サチュル)島(シマ)肝(チム)に(ニ)残て(ヌクティ)• 作詞&作曲「歌声の響」の誕生 皇太子殿下()が最初に詠まれたのは上記の一首目の琉歌でした。 それを愛楽園に贈られたそうです。 愛楽園の入所者の方々は最初は沖縄民謡の節に乗せて歌っていたそうですが、そのうち「特別な曲があれば」という声が上がるようになったそうです。 そこで皇太子殿下()の琉歌に相応(ふさわ)しい曲を妃殿下()が音楽風に作曲されました。 その際、皇太子殿下()は上記の二首目の琉歌を新たに詠まれたそうです。 こうして「歌声の響」の曲が生まれました。 沖縄の音楽 音楽研究所 : 下記記事に「歌声の響」誕生の経緯が詳しく書かれています。 その代わりに「歌声の響」の曲の一部を聞くことができる映像を見つけました。 下記のニュース映像中の32秒〜48秒あたりで「歌声の響」の曲の一部を聞くことができます。 これまで10回ご訪問されるなど、両陛下の沖縄に対する思いは深い。 人々との交流から生まれた御歌を、日本を代表するソプラノ歌手、が歌い上げる。 』とのことです。 制作には下記の方々が携わられたそうです。 聞き応えのあるCDに仕上がっていることと思います。 題字: 宮田 亮平(みやた りょうへい、金属、学長。 昭和20年 1945年 〜)• 歌: 鮫島 有美子(さめじま ゆみこ、。 昭和27年 1952年 〜)• バイオリン: 澤 和樹(さわ かずき、ヴァイオリニスト。 昭和30年 1955年 〜)• 歌・: (にしえ きしゅん、伝統芸能家。 昭和15年 1940年 〜) 「歌声の響」誕生の背景もより詳しく書かれているのではないかと思います。

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