目の前に切り立った今。 「生月サンセットウェイ_2020_<大バエ灯台→生月大橋 方面>」mukudakenのブログ | ///M Power

始まりの旅にて 移動手段と意外な評価

目の前に切り立った今

そういえば、去年就任式をかつてないほど大々的に行ったが、登壇の直前、オーチャードホールの、カーペット生地でやわらかくコーティングされた階段に、底がツルツルの革靴で一歩踏み込んだ途端、ズルズルと豆腐が鍋に落ちるような滑らかさでもって、私は大勢のマスコミの前で倒れ落ちていったものだった。 あれも自分らしかった。 あのときは笑い事ですんだが、今回はもちろん笑い事ではない。 おおいにない。 なにしろコクーンの演劇に関わるのは俳優や演出家、そしてお客さんだけではない。 照明家、美術家、音響、衣装デザイナー、メイクアップアーチスト、振付家、大道具制作、宣伝プランナー、そして、彼らの助手達、下請け、孫請け、美術セット搬入時のバイトたち、地方公演の興行主、チケット配券業者、etc…。 多くのスタッフたちの仕事が半年ばかり、ガサッと消失したのである。 公演中止は、やむをえないことではあるが、その数7本。 芸術監督として、仕事と収入源を失った人間の多さを目の当たりにし、私は呆然とするしかなかった。 演劇なんてなくても生きていけるし。 コロナ禍の中、ある演出家氏の発言を巡って、ある種の人々がそんなふうに言った。 それは、ひきつりながらであるが、うなずけない話ではない。 私だって、なくても生きていけるものはある。 正直、オリンピックがなくても生きていけるし、パチンコ、競馬、ボウリング、なんならテレビだってなくてもネットがあるので生きていける。 なくても生きていけるもので世の中は満ち溢れているし、おのれの戒めとして、しょせん、なくてもさほど他人が困らない仕事をしている、という忸怩たる思いは常に胸の中にある。 というより、その自戒は私の表現の在り方の根幹にどんと大きく横たわっている。 おかげで、腰の低い生き方をしてこられた。 とっつきにくい見てくれだが、愛嬌だけはある。 とはいえ、人間は、なくてもいいものを作らずに、そして、作ったものを享受せずにいられない生き物だとも私は思っている。 生きるに必要なものだけで生きていくには、人間の寿命は長すぎるのである。 人はラスコーの洞窟になぜ壁画を描いた? 時間が余ったからである。 暇つぶしに、描いて「どう?」と問うものがあり、「うん! 牛っぽい!」と喜ぶものがいたからである。 豊かさは同時に暇を生む。 そして、暇を持て余すことに苦しみを覚えるのが人間だ。 だから、禁固刑という刑罰がなりたつのである。 かつて、「野猿」というグループが解散したとき、「もう生きてなくていいや」とばかりに、自殺した女子高生二人組みがいた。 人はともすれば、「野猿」が解散しただけで自殺してしまう生き物だと知り、戦慄したことを覚えている。 生半可な気持ちで「自分に必要ないものなどなくてもいい」とは、言い切れない。 私は、少しでも長生きしたくてずいぶん前にタバコをやめたが、それでも、タバコがこの世からなくなればいいと思わないのは、タバコを欲する人のタバコ愛というのは並々ならぬものがあり、それに税収も馬鹿にならないし、と考えるからである。 しょせん暇つぶし。 しかし、人は命がけで暇をつぶしているのだ。 自分が、東京で芝居を始めるとき、目の前には荒野しかなかった。 友達も仲間もほぼゼロ。 ジーンズメイトで買った服に松尾スズキというふざけた名前だけをまとった、どこの馬の骨ともわからない、九州から出てきたばかりのプータローにとって、これから踏み込もうという演劇界は、乾いた風の吹きすさぶ荒野以外の何物でもなかった。 思えば無謀だった。 でも、自分の中に無謀がなければ、今の自分はいない。 そして、今、目の前にはなにもない。 あの頃と同じようになにもない。 ガランとした大きな劇場だけがある。 ロビーだけでも、私が初めて芝居を上演した劇場の舞台の10倍以上はある。 その虚無の広大さに崩れ落ちそうになるが、ままよ、アイデアが湧いてくる。 30年以上前のあの頃と同じように、無謀なアイデアが。 そして、まず、WOWOWで、松尾スズキプレゼンツ『アクリル演劇祭』というコクーンを舞台とした奇天烈な番組が出来上がった。 これはまだ序章だ。 かつて私が『TAROの塔』というNHKドラマで演じた岡本太郎は、終戦後焼け野原になった東京でスキップしながらシャンソンを歌った。 フランス語なので覚えるのが大変だったが、 非常にバカバカしくて、そして、涙が出るほど美しいシーンだった。 初めて主演したそのドラマは、放送第二回目を前にして3. 11の大地震が起き、ニュースで放送時間がズタズタになった。 必死で覚えた長台詞を喋る私の顔の上に容赦なく津波の被害のテロップが流れる。 もちろん、地震のニュースに比べれば、ドラマなんてなくてもいい。 実に自分らしい初主演だった。 しかし、私はあのときの太郎さんのように、焼け野原を前にしてシャンソンを歌おうと思っている。 喉元にはもう、その歌は溢れかえっている。 早くお会いしたい。 お客様にも、仕事を失った大勢の仲間たちにも。 再開の形は今まで通りとは行かないかもしれない。 でも、お待ちいただきたい。 私の初舞台は、美術セットはなく、椅子が五つだけ、出演者は五人、客は身内が五〇人。 そこから始めました。 まさに荒野でした。 荒野に立ちがちな演出家です。 なにか言いたくて、筆を執りました。 今は筆を執ることしかできませんが、それしかできないことすらやらないなんて怠慢すぎる気がして。 とりあえず。 芸術監督就任にあたって 2019年9月9日 芸術監督をやらないか?そう、Bunkamuraの方に言われ、驚きとともに、ずいぶんと悩みました。 シアターコクーン芸術監督という仕事の前には、串田和美、蜷川幸雄、という二人の巨匠の名前、その、とてつもない業績が切り立った山のように立ちはだかっております。 その後に松尾スズキなどという軽薄な名前の、演劇人なのかコメディアンなのか、実体のフワフワした人間が続いてよいものか。 良識ある演劇関係者らが鼻白む姿がありありと目に浮かびます。 そこで、私は、とある茶室にて、率直に聞くことにしました。 「私がコクーンの芸術監督になって私が得をすることってなんなのですか?」と。 Bunkamuraの方は、しばらく考えて、私の耳に唇を寄せて言いました。 「この渋谷の劇場が…松尾さんのための劇場になるんですよ」そのとき、私の脳裏に故浅利慶太さんのお姿が浮かびました。 それは、自分の劇場を持ちに持った、薄いサングラスをかけた男の御影です。 尊敬する演劇人は誰か?と聞かれるたび、私は浅利さんの名前をあげていました。 劇場を持つ。 すべての演劇人の夢を徒手空拳の状態から実現した男が彼であるとすれば、その名が浮かぶのは当然の成り行きでしょう。 「…なるほど」 そしてまた、私は、もう一つの疑問をぶつけました。 「で、実際、串田さん、蜷川さんは、芸術監督としてどういうことをやっていたんですか?」 Bunkamuraの方は「うーん」と、しばし、口に手を当て、軽く目を閉じて言いました。 「人、それぞれ…ですね」 でしょうね。 そう、私は思いました。 串田さん、蜷川さん、お二人の仕事ぶりを見るに、 「好きなようにやってらっしゃる」 としか、私には思えなかったからです。 これが公共の劇場ならそうはいかないでしょう。 なにしろ、税金を使ってやる仕事です。 役人を交えた煩雑な手続き、書類の作成、会議につぐ会議、そういう、私の最も苦手な作業が目に浮かびます。 会議をしていると私は、家に帰りたくなるのです。 しかし、シアターコクーンはBunkamuraという一企業の劇場。 国民のために演劇がどうあるべきか、などということは、一切考えずに芝居がやれる。 私は、常々、自分の「オリジナリティの追求」のためだけに芝居をやって来ました。 今さらぶれたくない。 いや、30年以上、ぶれずにいたからこそ、チケットが売れ、信用を生み、人材が集まり、スタアが生まれて来たのだと、そう信じています。 串田さんも、蜷川さんも、キレイごとを抜きに、おのれの演劇に対する欲望を忠実につらぬき、その結果が評価に結びついたのだと思います。 それはきっと、ひとまわりしてむしろ日本のために効いている。 私は先輩たちのメンツにかけてそう思いたい。 キレイごとを嫌い続けていれば、自然にキレイな表現者になれるのです。 見たいものだけが集い、見たくないものは見ない自由を行使すればいい、演劇は、見せるものと見るものの関係が、非常に健康的な文化です。 私は、Bunkamuraの予算を使い、稽古場を使い、劇場を使い、好きなスタッフと好きなプレイヤーを集め、先人のように、好き勝手にやってやろうと思います。 在任中に、松尾のオリジナリティを大劇場に向けて絞り出し切ってやろうと思っています。 出し切るためには、多少のわがままも言う。 それが、選ばれたことに対する誠実さだと考えております。 ダメでもともと、Bunkamuraの社員が何人かがっかりするだけじゃあないか。 打診を受けてから2年、具体的なアイデアは頭の中でひしめきあっています。 アーティスティックなものから、あからさまなエンターテインメントまで。 ひしめきあいすぎてここには簡単に書けません。 どうか、ご期待、そして、なにかと生温かい目で、よろしくお願いします。 1988年に大人計画を旗揚げ。 主宰として作・演出・出演をつとめながら、宮藤官九郎ら多くの人材を育てあげている。 1997年『ファンキー!~宇宙は見える所までしかない~』で岸田國士戯曲賞受賞。 演劇以外にも、小説家・映画監督・脚本家・エッセイスト・俳優として幅広く活躍。 小説『クワイエットルームにようこそ』『老人賭博』『もう「はい」としか言えない』は芥川賞候補、主演したテレビドラマ『ちかえもん』は文化庁芸術祭賞ほか受賞。 2019年には正式部員は自身一人という「東京成人演劇部」を立ち上げ、『命、ギガ長ス』を上演、小規模空間での舞台上演にもこだわっている。 同作で第71回読売文学賞戯曲・シナリオ賞を受賞。 最新トピックス.

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夢に向かう全ての人へ贈る!flumpool「ネバーマインド」

目の前に切り立った今

社会人2年目の19歳男です。 今後の人生に悩んでいます。 やりたいことはあるのですがお金も無くどうすればいいか分かりません。 自分は社会人2年目です。 好きなことは音楽と車です。 工業高校卒業後、現在電力ケーブルの開発現場で端末組み立て、課電作業を行う仕事をやっています。 入社当初から思っていましたが、自分はあまり判断力や頭の柔軟性が無く、仕事が上手くいかずいろんな人に注意をされ、自分に向いているか分かりません。 一緒に作業をする方にも、「至上最低の社員」とレッテルを貼られて、なんとか汚名を返上しようと一生懸命やってきました。 自分より優秀な後輩も一人入ってきて、皆はそちらに期待をしていて、最近「お前なんかいても居なくても変わらない。 やめちまえ」といわれました。 今までは、良い意味でも悪い意味でも期待しているのだろうと思って、頑張っていました。 中にはちゃんとに頑張りを評価をしてくれる人もいます。 その人のおかげで頑張れることもありました。 でも向いているのか分からない仕事でこの頑張りを続けていくことを考えると、不安になります。 「自分の向いていることって何だろう」って思います。 今やりたいことは、物理の勉強をして、自動車の動力を研究開発する仕事をしたいです。 今の仕事を続ければ会社が倒産しなければ、定年まで毎月の給料、夏冬のボーナスを貰うことができます。 いま挑戦したい気持ちはあります。 工業高校卒業なので大学受験に挑戦するのにも学力の心配があります。 やりたいことに挑戦して上手くいかなかったとき、毎月給料がもらる生活に戻れるのか? リスクの事も考えると、何も行動に移せず、頭が混乱してしまいます。 人生のことなんて検索サイトで検索しても出ません。 下手でまとまりの無い文章ですが、この記事を見た方、何でもいいのです。 最後自分が死ぬとき、良い人生だったと思いたいです。 意見を言ってください。 お願いします。 補足今日、仕事が上手くいかずきつく怒鳴られ、今まではこんな行動はしなかったのですが、自分自身が怒った態度を示してしまいました。 今まではどんなにきつくても、自分自身の立場を考え何も言わなかったのですが、今回は出来心でこんな行動をしてしまいました。 もう耐えるは出来ません。 自分自身を変えたいです。 うーん。 よく出来た作文だ。 よく自分をとらえられていると思うよー。 僕は、現実主義だし、懐疑主義なので、ちょっと厳しい言い方になるけれどー、基本的に世の中の大半の仕事は「退屈なもの」なんですよ。 そしてやりたかった仕事についているわけでもないだろうし、やりたかった仕事についてみたものの・・・現実は、こんなものか!って思っている人が大半なわけなんだ。 それが現実ね。 研究開発の仕事をしたいって思うのは自由です。 でも、実際、その段階にいくには、現実ラインから考えれば大学院は卒業していたいところだし、まあ最低でも、私学だったら早稲田程度は出ておきたいところ。 そうでないと、そんな研究開発の部署には、まず入れないだろうよー。 挑戦するのは良いことなんだけれど、貴方が思うように、リスクもあるわけです。 でも、挑戦するってことは、失敗することを受け入れることでもあるんだよ。 通常、10人いて1人しか成功しないようなものだから「成功」って言うわけで、10人いて9人が成功するものを「成功」とは言わないだろw 当たり前だよね。 だから9人が失敗するから、1人の成功者が輝いて見えるわけだ。 だから、挑戦する以上、失敗して「いろんなものを失ったとしても良い」っていう覚悟も必要なんだよねー。 僕はねー君の気持ちは、とてもよくわかるんだ。 特に「死ぬときは良い人生だった」と思いたいってところが共感できますね。 で、私自身は、いろいろ挑戦してきて、大きな失敗もたくさんしてきた。 だけれど・・・まあ今は、そこそこうまくやっている経営者にはなっているが、そうなるまでは、大変だったわけなんだ。。。。 ということで「うまくいかなかったときは・・・まあ今以下の生活が待っていてもしょうがない」って覚悟があるのなら!やったらよいと思うよ。 私は、世間様で一流と言われている大学も出ているし、一流企業にも就職したけれど、それを捨てて会社経営を始めたのだけれど・・・これは相当、賭けだったからね。 でも、自分の学歴とか社歴みたいなものに、あんまり興味がなかったし、失敗して悪い条件の会社に入らざるを得なくなったとしてもいいや!って思えて会社を起したわけなんだ。 もう10年も前だけれどね。 つーことで・・・うまくいかないときは、それ相当の失うものがあるので・・・そういうことをぜんぶ覚悟してやればいいってだけです。 要は、失敗するか成功するかは、誰にもわからないのです。 ただ、やるからには覚悟がいるってだけで・・・実際、まあ会社経営みたいな世界だったら、失敗した友人は、本当に悲惨な運命をたどっている人も実際にはいます。 安全な道を歩くことも大切なことですよ。 まあ会社経営みたいな世界だったらね・・・小さい会社をつくるのは、物凄く「危険」なので、それを「安全なもの」に成長させるために頑張るわけなんで・・・安全を作るってことは、凄く大変なことなんです。 そういうことかな?。 ほとんどの生き物が、もともと備わった本能で行動します。 誰かに教わらなくても、どう生きればいいか知っていて迷わない。 でも人間は違います。 人間は迷う。 だから人は学習する。 まねをするんです。 例えば、目の前に切り立った岩壁があったら僕たちは先に行った人のやり方を見てそれを まねて登ろうとするよね それでもし、君がいざ登り始めたら先に行っていたやつが目の前で失敗して落ちてしまったとします。 怖くなるよね。 「自分もあんなふうになるんじゃないか」。 「戻れなくなるかもしれない」って。 一歩も動けなくなると思う でもその失敗したやつが、実はどっかにしがみついていて、傷は残っているけど意外にしぶとく別のルートに挑戦してて、それでそこそこまっとうに生きていると分かったら君は少し、勇気が持てるんじゃないかな。 「あいつも意外と大丈夫だったし」って。 「じゃあ 行ってみるかな」って。 次の一歩を、踏み出せるんじゃないかと思うんです。

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目の前に迫るド迫力の大自然! 一生に一度は行きたいイタリアの山岳地帯

目の前に切り立った今

東海汽船「2代目さるびあ丸」神津島航路ラストクルーズ(島旅編) 2020年6月 8日 今回は、さるびあ丸の神津島航路ラストクルーズを見届けることが目的なので、島には上陸せず神津島まで行って折り返してくるプラン。 離島で新型コロナウイルス感染拡大する事態を万が一にも生じさせては申し訳ないので、島民がさるびあ丸を見送るために集まる桟橋にも下りないことにした。 なので「島旅」ではなく「船旅」。 伊豆七島航路は、実は島に降りなくても十分に楽しいことを去年一度体験している。 今回はさらに、さるびあ丸ラストクルーズで各島で開催されるお別れのレセプションも見ることができ、サプライズで「三代目さるびあ丸」の並走も間近でウォッチすることができる。 船に乗る前の連絡通路入り口で、まずは検温。 ひとりずつ、非接触型の体温計で測られる。 驚くほど大柄の外国人男性が検温担当だったので妙に緊迫感のある一角になっていた。 去年の七夕ツアー&東京湾納涼船以来のさるびあ丸。 最近は、バイクの沿岸ツーリングでフェリーに乗る機会が増えているが、九州に向かう東九フェリーも、大洗から北海道に行く商船三井フェリーの船も、世代交代で新しい船になっているところがほとんど。 なので1992年就航で28年選手のさるびあ丸は、逆に数少ない「昔ながらの船」感が漂い、新鮮だ。 自腹の時はいつも安い二等だが、今回ご招待ということで初めて利用した特1等。 二段ベッドが2台あり、奥にはソファやテレビも。 なお、船内施設の写真も大量に撮ったので、そちらはまた別記事にしたい。 今回は、日本旅のペンクラブ理事でライターの板倉さんと同じくライターの熊山さんも乗船。 東京アラートで真っ赤に染まったレインボーブリッジを背景にアバター(?)ミニ熊写真を撮る熊山さん。 夜は一等船室で、東海汽船の方々と島・船関連のジャーナリストやフォトグラファー、ライターの方々と、さるびあ丸の話などで盛り上がった。 そして翌朝。 4時半に起きてAデッキにあがるも、残念ながら雲が分厚く、海に上がる日の出を拝むことはかなわなかった。 前夜はバタバタしていて船内をちゃんと見ることもできなかったが、ここに立つと毎年参加していた東京湾納涼船の熱気に満ちた夜が思い出される。 この写真手前の通路の右側には、飲み放題のビールコーナーがあり、その手前にはおつまみの販売コーナーが。 ステージはもちろんゆかたダンサーズ。 東京湾納涼船は、今年は残念ながら中止で、来年以降も会場は新しい三代目さるびあ丸だ。 毎年何度も参加していて、目をつぶってもどこに何があるか覚えている現・さるびあ丸で東京湾納涼船が開催されることはもうない。 すごく切ない気持ちになった。 二度寝した後、利島を眺めながらの朝食。 富士山のように左右対称の美しいフォルムの利島にはまだ上陸したことがない。 新しいさるびあ丸での島旅第一弾はここにしようか。 もちろん新型コロナウイルスの脅威がなくなってからの話だけど。 船旅の面白さは、海から島をじっくりと眺められることだ。 見る角度によって島の姿はがらり変わる。 伊豆七島のこの航路が「船旅」するのに最適な理由はたくさんある。 竹芝22時発なので金曜日仕事帰りに乗れる• スカイツリー&東京タワー、お台場、レインボーブリッジ、羽田空港と東京湾の夜景が見事• そんな夜景を見ながらお酒を飲むのが最高に楽しい• 東京湾を出た後も、特徴ある形の島が次々現れ、最後まで飽きることがない• 往復して東京に戻ってくると19時で帰宅にもちょうどいい時間 今はまだ、新型コロナウイルスの収束前で伊豆七島の島々へ観光で訪れるのは控えるべきだが、島で降りず純粋に船の旅を楽しむというのはありだと思う。 ちなみに東京・竹芝桟橋から神津島までの往復は、2等船室で10,900円。 さらに6月25日以降なら、新さるびあ丸就航記念で、ぽっきり1万円で1等室神津島往復できてしまう。 安すぎ!!! ビールやワインなど持ち込んで、デッキで海風を浴びながらのんびり海上バケーションなんていうのも優雅な週末じゃないだろうか。 実際今回も、下船せずただ最後のさるびあ丸に乗るためにやってきたと思われる人たちが大半だった。 自分もその一人だ。 本格的なカメラ・ビデオカメラを構えた乗客も多かった。 実は少し前、ラストクルーズに三代目さるびあ丸が顔をだすという情報も公開されていた。 下関のドックをでて、東京に向かって航行する生まれたてほやほやの新・さるびあ丸。 写真以外で見たことある人は、ドック周辺にお住いの人たちや関係者などごくごく限られている。 伊豆諸島海域で誰より早くその写真を撮りたいという人もきっと乗っていたのだと思う。 それにしても島は、見ているだけで飽きない。 サンゴ礁の隆起などでできた沖縄離島の島々と違い、伊豆諸島の島々は火山活動によって誕生している。 なので島周囲は切り立った崖が多くを占め、非常に荒々しい。 平地も少ないので、島の外周は船からしか見えないところも多い。 ・・・とその時。 「わださん、まもなく神津島沖。 もう見えますよ」 東海汽船の方にそう声をかけられた。 慌てて外にでると・・・ おおお!!! 東海汽船のTwitterやFacebook公式アカウントで建造途中の写真をずっと見ていた三代目さるびあ丸。 それが生で、目の前に浮かんでいた。 自分でもびっくりするくらい感動してしまった。 新しいさるびあ丸だよ!!! 遂に対面できたよ! そして神津島。 ここに前回来たのも東海汽船のツアーだった。 二代目さるびあ丸が神津島を訪れるのは今日が最後。 子供から高齢者まで、島の方々が見送りにきていた。 手に持っているのは「さるびあ丸、28年間ありがとう」と書かれた手ぬぐいだ。 さるびあ丸を愛する神津島の島民の方が作ったオリジナル手ぬぐいで、下記サイトで販売されている(記事公開時、東海汽船が桟橋で配布していたと誤記しておりました。 申し訳ありません) レセプションの後、紙テープでのお見送り。 「ありがとう」の声がひびき、笑顔なんだけど切なく名残惜しそうな表情にもなりながら手を振る人達に、思わずうるっときてしまった。 桟橋に降りた人によると、涙を浮かべている人もいてもらい涙してしまったのだとか。 神津島からは、三代目さるびあ丸が並走してくれることに。 二代目・三代目さるびあ丸が一緒に長い距離を走るのはこの日一日限りだ。 私たちには聞こえない声で会話をしているんじゃないか。 そんな気持ちにすらなった。 写真ではさんざん見ていたが、海上を滑るように走るその姿は本当に美しい。 さるびあ丸にのってさるびあ丸を見る。 貴重な経験だ。 こんなに長時間、航行する船を見続けるという経験も、今までなかったしこの後もないだろう。 普通はすれ違う時に、遠目にちょっとの時間見るくらいなので。 皆、写真を撮りまくっていた。 そして式根島。 子供たちの太鼓が響き渡る中の着岸。 そしてやはりここでもセレモニーが行われ、目頭が熱くなりそうな別れがあった。 式根島もまた来たい。 温泉に入りたい。 三代目さるびあ丸は着岸はせず沖合に停泊して、二代目さるびあ丸が島との別れを済ませまた戻ってくるのを待っている。 そして新島。 ここでも多くの島の人たちの見送りが行われた。 島でのセレモニーや見送りシーンは動画で撮影しているので、よかったら見てほしい。 「早く乗ってみたいね」「中はどんななんだろう」沖合に停泊する新造船を見ながら、そんな話でも盛り上がったのではないだろうか。 ここは他の島と異なり、桟橋に入れる人をかなり制限したのかも。 桟橋の入り口あたり集まっていた人たち、着岸したら入ってくるのかなと思ったけどそうではなく、ずっとそこからさるびあ丸を見ていた。 高齢者が多く医療体制が乏しい離島にとって、新型コロナウイルス感染拡大はまさにバイタルな事態となる。 東海汽船の公式アカウントでも、決して密にならないよう、丘の上など船が見れる場所から見送ってほしいと呼びかけていた。 船から各島にプレゼントされたのは、船内で長らく使われてきた島名プレート。 役場や観光協会などに三代目さるびあ丸の写真と一緒に飾られるのかもしれない。 利島から船長には、小中学校の児童生徒会で作った、メッセージが書き込まれたさるびあ丸の絵が贈られた。 どのくらいの生徒数なんだろうと思って調べたら、利島村立利島小学校の令和元年の児童数は21人。 1年生・2年生は2人、6年生は1人。 学級数5クラスということなので、どこかの2学年は1クラスしかないのだろう。 中学校は15人だ。 最後の寄港地、伊豆大島・元町港。 先に三代目がもう着岸していた。 島の人たちもたくさん集まっている。 間近で見る三代目さるびあ丸。 桟橋の横の三代目さるびあ丸は、洋上で見ていた時よりずっと大きく感じられた。 そしてポップで楽し気で和柄のようでもある波の幾何学文様は、一目見たら忘れられない。 藍色「TOKYOアイランドブルー」も美しい。 「オツカレサマ」と書かれた文字、よく見るとフィンで構成されていた。 自分の近くだけあまり人がおらず、結果「これ自分が全部投げなくちゃだめだろうな」と、撮影の手を止めてひたすら紙テープを投げ続けた。 たぶん人生でもっとも紙テープを投げた日だと思う。 結果、色とりどりの紙テープがまるで網のように広がった。 2隻のさるびあ丸に挟まれた広い桟橋で、最後のお別れセレモニー。 テレビ局も多数きており、その日の夕方にはNHKで流れた。 ここまで桟橋に下りるのも自粛してきたが、2隻のさるびあ丸が両側に着岸する桟橋風景にどうしても我慢できなくなり、セレモニーが終わり密集度が下がったタイミングで船から一瞬だけでて、写真撮影した。 リコーの360度カメラ「THETA S」でも撮影したのがこれだ。 神津島航路ラストクルーズの2代目さるびあ丸と、新造船3代目さるびあ丸が停泊する伊豆大島・元町港の桟橋。 - ここで三代目さるびあ丸ともお別れ。 船首には虹がかかっていた。 東京湾に入り、夕暮れ時のレインボーブリッジ。 雷雨の中ここを出発したのはわずか20時間前なんだけど、まるで何日もかけて旅して戻ってきたような不思議な気分。 船旅ならではの感覚なのかもしれない。 楽しかったし、名残惜しかったし、島々での別れのシーンは胸があつくなるものだった。 二代目さるびあ丸がこの後、どの国でセカンドライフを送ることになるのかは教えてもらえなかったが、新しい場所でも元気でいてほしい。 ありがとう、さるびあ丸。 きっと、忘れない。 ちなみに二代目さるびあ丸は、今日6月8日からドック入りで運休となる橘丸に変わって、三宅・八丈島航路に移動する。 日本でのラストクルーズは6月25日だ。 それまでなら八丈島で折り返して帰ってくる船旅も楽しめる。 もちろん観光客も問題なく上陸してくださいという段階になれば、ルール守った上で島旅も満喫したいところ。 若い頃に伊豆七島に行ったことがあるという人も、私世代以上だと結構多いのではないだろうか。 二代目さるびあ丸で懐かしい思い出に浸りながらの船旅をするなら今月がラストチャンスだ。 観光自粛の今なら、天気予報を見ながら直前にチケットを予約・購入することもできる。 お時間ある方いれば是非。

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