東京 オリンピック ファンファーレ。 東京トゥインクルファンファーレ 生演奏

美人自転車競技選手エイミー・キュア選手が引退を表明、理由はコロナでオリンピック延期が理由│競輪プレス:競輪予想情報ブログ

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東京オリンピックの代表として決定していたエイミー・キュアが引退 2020年6月19日、オーストラリア自転車競技連盟は東京オリンピックの代表として決定していたエイミー・キュアが引退すると発表した。 27歳のキュアは、トラック世界選手権通算3勝、国内選手権通算10勝を果たすなどオーストラリアを代表するトップ選手として活躍。 東京オリンピックのオーストラリア代表として選出されていた中での、突然の引退表明となった。 「 新型コロナウイルスによる東京オリンピックの延期」が引退の理由と述べている。 エイミーキュア輝かしいキャリア 12歳で自転車競技と出会ったキュア。 2009年ジュニアトラック世界選手権個人パシュートで初優勝を果たし、翌年2010年には個人パシュートの世界記録更新を含む 大会3冠を達成。 2011年からはエリートカテゴリーに上がり、2014年の世界選手権ではポイントレースで世界王者になる。 翌年にはチームパシュートでアルカンシェル獲得(世界王者)と共に世界記録を更新。 2018年コモンウェルスゲームスではスクラッチ及びチームパシュートで優勝。 2019年の世界選手権では個人パシュートでも優勝し、トラック中長距離種目の世界トップ選手として活躍してきた。 トラック世界選手権で獲得したメダル数は、ジュニア時代も含めると 合計13個。 エイミーキュアのinstagram 「とても難しい決断でした。 オリンピックや世界選手権のスタートラインにいるような気分です。 とても不安ですが、未知の世界が楽しみです。 この決断を決めてからすでに時間が経っていますが、私は正しい選択をしたと思っていますし、次の人生を楽しみにしています。 今までもこれからも、私はサイクリングに感謝しています。 沢山の価値ある事を教えてくれ、今の私を作ってくれました。 規律を守り、忍耐強く、楽観的であることを学んできましたが、私が学んだ中で最も大きなことは、タフである事です。 私は自分の競技人生の結果に満足しており、オーストラリアサイクリングチームは私に沢山の事を教えてくれました。 友人達、そしてこれまで積むことが出来た経験に感謝しています。 10年間、自転車競技を第一優先にしてきましたが、これからは家族と友人を優先にしていきます」 東京オリンピック オーストラリアトラックチームメンバー• 短距離 マシュー・グレーツァー(男子) ネイサン・ハート(男子) マシュー・リチャードソン(男子) カーリー・マカラク(女子) ステファニー・モートン(女子)• 中・長距離 アシュリー・アンクディノフ(女子) ジョージア・バーカー(女子) エイミー・キュア(女子) アネット・エドモンソン(女子) メーブ・プルーフ(女子) レイ・ハワード(男子) キーランド・オブライエン(男子) ルーカス・プラップ(男子) アレックス・ポーター(男子) サム・ウェルスフォード(男子) 一緒に読まれている記事•

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この項目では、にで開催された夏季オリンピックについて説明しています。 に東京都で開催される予定の夏季オリンピックについては「」をご覧ください。 にで開催される予定であった夏季オリンピックについては「」をご覧ください。 その他については「」をご覧ください。 1964年東京オリンピック 第18回オリンピック競技大会 Jeux de la XVIII e olympiade Games of the XVIII Olympiad 開催都市 参加国・地域数 93 参加人数 5,152人(男子4,468人、女子684人) 競技種目数 20競技163種目 開会式 () 閉会式 () 開会宣言 主競技場 目次• 概要 [ ] の開催権を返上した及び地域で初めて開催されたオリンピックで、当時は「」国家における史上初のオリンピックという意義を持っていた。 また、アジアやにおけるの独立が相次いだこともあり、過去最高の出場国数となった。 歴史的には、、に続いて旧の首都で開催されたオリンピックでもあり、1940年東京オリンピックの開催権を返上した後に参戦したで敗戦したものの、その後急速な復活を遂げた日本が、再び国際社会の中心に復帰するシンボル的な意味を持つとされる。 開会式は10月10日、閉会式は10月24日に行われた。 開会式の10月10日は、(昭和41年)以降「」として親しまれるようになったが、「体育の日」は2000年(平成12年)より10月の第2となった。 大会開催までの経緯 [ ] 開催地決定を報じた読売新聞(1959年5月27日付) (15年)の開催権 を返上した東京は、を脱した2年後の(昭和29年)に(昭和35年)夏季大会開催地に立候補した。 しかし、翌(昭和30年)の第50次における投票でに敗れた。 次に(昭和39年)夏季大会開催地に立候補し、(昭和34年)5月26日にのにて開催された第55次IOC総会において欧米の3都市を破り開催地に選出された。 得票数はが半数を超える34票、のが10票、のが9票、のが5票だった。 特に、総会での立候補趣意演説を行なった(外交官)や、諸国の支持を集めるために奔走したの、(和田勇)、当時都議であった、「日本レスリングの父」といわれたらの功績が大きかった。 なお、和田は育ったで名誉市民第1号となっている。 (昭和32年)当時、日本水泳連盟会長を務めていたは、オリンピック招致費用が2013年現在の価格に換算して約1200億円かかることを懸念していた へ観光収入も見込めると直談判した。 1964年夏季オリンピック 開催地投票 都市 国 投票数 34 10 9 5 開催の決定した日本では「東京オリンピック組織委員会」が組織され、国家予算としてをはじめとした施設整備に約164億円、大会運営費94億円、選手強化費用23億円を計上したとなった。 開催にあたり、組織委員会は巨大な東京オリンピック公式ポスターを都市部に設置、デザインはが手掛けた。 2月7日に、体調不良で大会組織委員会会長を辞任したの辞任後、4か月間空席だった大会組織委員会会長にが決まった。 実施競技と日程 [ ] 各競技の詳細については、それぞれの競技のリンク先を参照のこと。 公開競技 [ ]• デモンストレーション [ ]• ハイライト [ ] 詳細は「」を参照• 10月11日• 重量挙げバンタム級で一ノ関史郎が銅メダル獲得。 日本勢初のメダル。 10月12日• 重量挙げフェザー級で三宅義信が優勝。 10月13日• 水泳競技男子100mで、が優勝。 10月14日• 水泳競技女子100m自由形で、が三連覇。 陸上競技男子で、伏兵ミルズが優勝。 レスリング、フリースタイルで吉田義勝、渡辺長武、上武洋次郎が優勝。 10月15日• 陸上競技、男子100mでが優勝。 10月16日• 陸上競技、男子800mでピーター・スネルが二連覇を達成。 10月17日• 陸上競技、棒高跳びで9時間半の熱闘の末、ハンセンが優勝。 10月18日• 水泳競技で米国勢が活躍。 が金メダル4個。 水泳競技で日本勢は最後の種目で銅メダル獲得。 10月19日• レスリング、グレコローマンで市川政光、花原勉が優勝。 フリースタイルと合わせて5個の金メダル獲得。 10月20日• 軽量級で中谷雄英優勝。 体操男子は、団体で金、個人総合で金・銀。 体操女子も団体で銅メダル。 女子個人総合でが優勝。 10月21日• 陸上競技での優勝、史上初の連覇。 が銅メダル。 中量級で岡野功優勝。 10月22日• 体操男子は、つり輪で早田卓次が金メダル。 重量級で猪熊功が優勝。 日本に3個目の金メダル。 10月23日• 女子で日本がソ連を破り優勝。 男子は銅メダル。 ボクシングのバンタム級で桜井孝雄が初の金メダル。 ヘビー級はが優勝。 体操女子は、平均台でが優勝。 3個目の金メダル獲得。 体操男子は、跳馬で山下治広が金、平行棒で遠藤幸雄が金、鶴見修治が銀。 遠藤が団体・個人と合わせて3個目の金メダル獲得。 無差別級でのに神永敗れる。 10月24日• 閉会式 東京オリンピックのメダル、造幣さいたま博物館にて展示。 東京オリンピックの入賞メダルはの工芸官が原型を作成した。 デザインは金・銀・銅、共に、表面は「勝利者を肩車した男性の群像」、裏面は「勝利の女神」が浮き彫りにされ、また「大会名、競技名」を記載してある欄があった。 サイズは、金メダル・銀メダル・銅メダル共に直径6cm、厚さは3mm。 重さは、金メダル90g、銀メダル82g、銅メダル69g。 製造された数は、金メダル300個、銀メダル300個、銅メダル314個。 価格は、金メダル12,500円、銀メダル7,500円、銅メダル6,000円。 (全て昭和39年当時の価格)と発表されたが、この価格はあくまで造幣局がに請求した額であり、実際のメダルの製造では1枚のメダルを製作するのにプレス加工を合計25回も繰り返すなど手間のかかったものになっていた。 大会後、製造したが余ったメダルは鋳つぶされている。 参加メダルは(表)と(裏)によるデザインだった。 各国の獲得メダル [ ] 女子飛び込みで優勝したクレーマー(統一ドイツ)• 1 金メダル• (日本、ボクシングバンタム級)• (日本、ウエイトリフティングフェザー級)• (日本、レスリンググレコローマンバンタム級)• (日本、レスリンググレコローマンフライ級)• (日本、レスリングフリースタイルバンタム級)• (日本、レスリングフリースタイルフェザー級)• (日本、レスリングフリースタイルフライ級)• (日本、柔道軽量級)• (日本、柔道重量級)• (日本、柔道中量級)• (日本、体操男子つり輪)• (日本、体操男子跳馬)• (日本、体操男子平行棒、体操男子個人総合)• ・・・・・(日本、体操男子団体総合)• ・・・・・・・・・・・(日本、バレーボール女子)• (、陸上競技男子)• ピーター・スネル(ニュージーランド、陸上競技男子)• (アメリカ、陸上競技男子)• (、陸上競技男子)• (アメリカ合衆国、陸上競技男子)• (、陸上競技女子)• (、陸上競技女子)• (、陸上競技女子)• (アメリカ、男子100m)• ドン・ショランダー(アメリカ、競泳男子400m自由形)• (オーストラリア、競泳女子100m自由形)• イングリッド・クレーマー(統一ドイツ、女子飛びこみ)• (、男子シングルスカル)• (ソビエト連邦、)• (、体操女子)• ベラ・チャスラフスカ(チェコスロバキア、体操女子平均台)• ベラ・チャスラフスカ(チェコスロバキア、体操女子)• (ソビエト連邦、体操女子)• ソビエト連邦(体操女子団体)• (団体)• (、男子無差別級)• (アメリカ、・ヘビー級、後にプロボクシングで世界ヘビー級王者)• 2 銀メダル• (日本、柔道無差別級)• (日本、体操男子あん馬、体操男子個人総合、体操男子平行棒)• (日本、体操男子床運動)• (、陸上競技男子10000m)• (イギリス、陸上競技男子マラソン)• (、陸上競技女子)• イレーナ・シェビンスカ(ポーランド、陸上競技女子走り幅跳)• マリー・ランド(イギリス、陸上競技女子五種競技)• ボリス・シャハリン(ソビエト連邦、体操男子個人総合)• (体操男子団体)• ラリサ・ラチニナ(ソビエト連邦、体操女子個人総合)• ラリサ・ラチニナ(ソビエト連邦、体操女子)• 3 銅メダル• (日本、陸上男子マラソン)• (日本、ウエイトリフティングバンタム級)• (日本、ウエイトリフティングミドル級)• (日本、レスリングフリースタイルライト級)• (日本、ライフル射撃男子フリーピストル)• ・・・(日本、競泳男子800m自由形リレー)• ・・・・・(日本、体操女子団体)• ・・・・・・・・・・(日本、バレーボール男子)• (オーストラリア、陸上競技男子10000m)• (ドイツ、陸上競技ハンマー投げ)• ボリス・シャハリン(ソビエト連邦、体操男子)• ラリサ・ラチニナ(ソビエト連邦、体操女子平均台)• ラリサ・ラチニナ(ソビエト連邦、体操女子)• (、) 競技会場 [ ] 東京23区内 [ ] 日本武道館• ():開閉会式、(とは折り返しコース、は周回コースをいずれも競技場発着として使用)、、• ():• 東京都体育館屋内水泳場(渋谷区):• ():サッカー• 国立屋内総合競技場本館(渋谷区):、、(水泳)• 国立屋内総合競技場別館(渋谷区):• (渋谷区):• ():サッカー• 駒沢体育館(世田谷区):• 駒沢バレーボールコート(世田谷区):• (世田谷区):• ():• (新宿区):、近代五種(フェンシング)• ():柔道• (世田谷区):馬術 周辺地域 [ ] 東京都(23区を除く) [ ]• (): 神奈川県 [ ]• ():• (横浜市):• (、現:):• (): 埼玉県 [ ]• (朝霞町、現:):、(射撃)• (北足立郡朝霞町):近代五種(馬術)• (北足立郡戸田町、現:):• (、現:):サッカー• 所沢クレー射撃場(): 千葉県 [ ]• ():近代五種() 長野県 [ ]• 軽井沢馬術場():馬術 選手団 [ ]• 各国選手団の中で最初に日本に乗り込んできたのはの馬術競技の選手団である。 にからアリラン丸に乗り出航。 に東京に到着した。 その後世界各国の選手団が空路や海路で乗り込んできた。 には各国の選手団を運んできた旅客機が並んだほか、競技用の道具や馬を運んできた貨物機も並んだ。 選手村でくつろぐ統一ドイツの選手団• 全面返還された施設である内の独身向けの宿舎を本村(代々木選手村)として整備し 、他に八王子選手村()、相模湖選手村()、大磯選手村()、軽井沢選手村(競技)の計4カ所の分村が開村された。 代々木選手村はオリンピック終了後、改修されとして翌年の1965年に開業した。 選手村では大会期間中、毎日7,000食もの食事が作られた。 開村から閉村までの期間中に供された食事はのべ60万食にも及ぶ。 選手村の選手用食堂は男女別に分かれ2箇所あった。 女子向けが「富士 Fuji 」、男子向けは「桜 Sakura 」だった。 「富士食堂」の統括担当はでシェフ、「桜食堂」の統括担当はで馬場久シェフ。 両名に率いられたコックは総勢306名。 選手村における選手の食費は「1人あたり1日6ドル以内(1ドル360円換算で2160円)」と決められていた。 用の食事を調達するため、日本在住での屠殺免許と日本の調理師免許を持った人を探し出し(当時、この条件に合う人は日本で1人だけだった)、選手村でイスラム教徒向けの料理を作ってもらった。 選手団は自前での調理人をフランス本国から連れてきた。 選手食堂で開村から閉村までの期間中に消費された食材は、340頭、280頭、600頭、6万羽、・・合計46トン、356トン、72万個、16トン、8万6千斤、50万本だった。 大量の食事をまかなうために、の技術や解凍法、調理法が向上した。 その他• 選手村のはの他にも担当した。 の隊員約360名が7月16日より大会終了後まで交代で任務についた。 7月9日午後9時頃に選手村246号館から火災が発生して30平方メートルを焼いた。 原因はガス工事のためと推察された。 選手村に百貨店で唯一の売店を銀座店が出店し、衣料品や土産を販売。 開催に向けての整備 [ ] 五輪橋 この東京オリンピックの開催に向けて、競技用施設から選手村、などのや観戦客を受け入れるためのに至るまで、東京都内のみならず日本各地において種々の建設・整備がなされた。 東京オリンピックの経費は265億3400万円といわれる(組織委経費の99億4600万と大会競技施設関係費の165億8800万円 との合計)。 競技場等の施設 [ ]• (、、)• (当時の選手練習場、現在は陸上競技場)• (内の記述を参照) 交通機関・道路等のインフラ [ ]• の開業• の開業• のターミナルビル増築・滑走路拡張• ・の整備• ・の拡幅・整備 宿泊施設 [ ]• ホテルオークラ(現・)• 東京ヒルトンホテル(現・)• 聖火 [ ] 東京オリンピック聖火トーチ• にの・ヘラ神殿で採火式が行われた。 その後、(ギリシャ)、()、()、()、()、()、()、()、()、()、(当時は領)、()、(当時は)と、でが、それらの地域を植民地として支配していたヨーロッパ諸国やアメリカの軍隊と戦った地域を通り、平和のための聖火リレーを印象づけた。 アテネから沖縄までの各地は日本のの、の 、 によって運搬された。 那覇から国内各地への輸送には、日本国産旅客機であるが使用された。 その時の機体には「聖火号」と名づけられた。 、、の3カ所から聖火リレーが行われた。 1964年9月7日に日本国内最初の地として沖縄に到着した聖火は、第一ランナーの宮城勇や戦災遺児ランナーの金城安秀を多くのの小旗が応援した。 アメリカ合衆国の統治下の沖縄では、日の丸は以外は掲げられなかったが、聖火歓迎は日の丸の小旗で埋まった。 には、、、、、(いずれも当時は中学生もしくは高校生)などの後の著名人もランナーとして参加・力走している。 聖火の最終ランナーは、(昭和20年)にで生まれた19歳の陸上選手・(当時所属、後に社員)であった。 の日にに程近い場所で生を享けた若者が、青空の下、聖火台への階段を駆け上る姿はまさに日本復興の象徴であった。 聖火ランナー総数は、10万713人だった。 火の一部は大会終了後も鹿児島県立青少年研修センターにて 希望の火として、職員らの手で2013年まで保管され続けた。 雨などで火が消えた際に備え予備の聖火をランナーの追走車に乗せることになったが、当時の日本は道路状況が悪く振動で消えることが予想されたため、予備の火を灯したランプはに乗せられた。 9月25日の大阪(-、29区間約40km)のルートは台風20号の接近により中止され、聖火は乗用車で輸送された。 10月1日に教育委員会の配慮で走者を陸上競技場に集め模擬聖火リレーが開催されている。 2020年に甲陽学院OBによりプロジェクト56年目のファーストランを計画している。 計時 [ ]• セイコー(現)が初めてオリンピックの公式計時を担当した。 セイコーは電子計時を採用、オリンピック史上初めて計測と順位に関してノートラブルを実現し、世界的な信頼を勝ち取ることに成功した。 交通規制 [ ] 東京オリンピックの開催期間中はやなどのメイン会場の周辺はもちろんその他の広範囲にわたって大規模なが行われた。 特に、10月10日のではは1万人のを動員してに当たった。 開会式会場となったの横のも開会式当日は一般に開放されたが、この神宮外苑も収容人数は4万人程であり、チケットのない者は神宮外苑に入ることができなかった。 そして午前10時から開会式終了後までは、この神宮外苑には警察や大会関係などの許可車両以外は一切通行が禁止された。 またそれ以外に「外周制限線」と名付けられた制限区域がもうけられた。 これは「新宿4丁目交差点 - 四谷見附交差点 - 溜池交差点 - 交差点 - 新宿4丁目交差点」を囲む範囲内でおこなわれた極めて大規模な交通規制で、開会式会場の警備の他に国内外のなどの移動をスムーズにするのが目的であった。 また、その他にマラソン、、、など多くの競技で大規模な交通規制が実施された。 東京オリンピック開催が日本にもたらした影響 [ ]• 東京オリンピックの開催期間には、1964年(昭和39年)のソ連の首相解任、の中華人民共和国(のとおり本大会には不参加)による初のなど国際的事件が次々と起こった。 これにより「瞬間的に世界の注目を奪われた面もある」と考えられる一方、下の世界情勢を反映する場として注視の的になるという面もあったようである。 この大会はこれらの事件とともに世界史の一つの転換点であった。 史上初の3人乗りであるの1号(1964年10月12日打ち上げ、10月13日帰還)は東京上空を飛行するにあたり、オリンピックに参加する「世界の青年に熱烈なあいさつを」送った。 の受賞が決定したのも、会期中の10月14日のことである(実際の受賞は12月10日)。 イギリス領は、閉会式の日にあたる1964年10月24日(では同日午前7時)にとして独立したため、開会式と閉会式とで異なる国名となった。 選手村のなども、同日をもって新国旗に付け替えられた。 東京オリンピック招致の成功は、開催に先駆けて1964年4月28日に OECD への加盟が認められる大きな背景となった。 OECD加盟は原加盟国のトルコに次いでアジアで2番目、同機構の原型となったに無関係のとしては初めてで、戦前は「」の一国であった日本がを乗り越え、再びとして復活した証明の一つともなった。 東京オリンピック開催を契機に、競技施設や日本国内の交通網の整備に、多額の建設投資が行なわれ、競技や施設を見る旅行需要が喚起され、カラー放送を見るための購入の飛躍的増加などの消費も増えたため、日本経済に「」といわれる好景気をもたらした。 テレビ受像機購入者が増えたため「」の視聴者も多くなった。 そのため、娯楽性の高い「」が増えたといわれる。 特に開催地の東京では、開催に向けて競技施設のみならず、・・・など、様々なの整備が行なわれ、都市間交通機関の中核として東京()から名古屋()を経由して、大阪()に至るを結ぶも開会式9日前の10月1日に開業した。 これらのほとんどは、現在に至るまで改良やを重ねながら利用されている。 特に首都高速道路の建設は急ピッチで進められ、(羽田空港)から国立競技場までつながり(その先の新宿まで開業)、途中で・(呉服橋)・皇居周縁・・官庁街など、主要施設を経由するルートが大会前に完成したが、用地買収の期間を省くため、上空などが利用され、も首都高速道路の高架の下に隠れることとなり、東京都心部の親水空間は減少した。 「ゴミ都市」と呼ばれていた東京に、都の主導でゴミ収集車が250台導入され、また、製のポリバケツが普及した。 オリンピック組織委員会が、代々木選手村の整備期間中及び大会期間中のに際して、の人員不足を考慮して、『日本警備保障』(現在の)に警備の依頼を行った。 この民間警備会社による警備が無事に終了したことを機に、日本の社会に民間警備が認知されるようになっていく。 東京オリンピックで、初めてによるリアルタイムでの記録管理が行なわれたことも、地味ではあるが特筆すべき事項である。 それ以前のオリンピックでもコンピュータは使われていたが、あくまで記録管理はにより行なわれており、最終的な公式記録の確定・レコードブックの作成には、大会終了後数ヶ月を要していた。 しかし、東京オリンピックでは、プレスセンターのあるに設置されたコンピュータにより、リアルタイムで記録が管理され、全競技会場に置かれた端末で入力された各競技の記録が集められただけでなく、端末では他会場の競技結果も参照することが出来た。 また公式記録の確定も速やかに行なわれ、大会最終日の閉会式において、全競技の記録を記した記録本が、当時のIOC会長に渡された。 同システムの構築は、が約2年半がかりで行なったもので、プロジェクトリーダーを務めた(後に大学院経営情報学研究科教授)は、このシステム構築に関する論文をまとめた功績で、1988年(昭和63年)にを受賞している。 本システムの成功は、日本においてが普及する大きな契機となり、同プロジェクトのメンバーは、その後の、の生産管理システムなど、多くのリアルタイムシステムを手がけていくことになる。 (経済評論家)によると、は、外国人用の駅弁を考えていた時に、当時ののコックのを参考に考案され、福岡銘菓のも1964年に東京に進出して東京銘菓になった。 それまで社会人のスポーツは見る物だったが、に代表される参加するスポーツが盛んになり、公共のスポーツ施設が各地に造られていった。 「テレビ・オリンピック」 [ ] オリンピック放送を観戦する市民。 その後、は衰退していった。 東京オリンピックは、ベルリンオリンピックで初お目見えしたオリンピックのテレビ中継技術が格段に向上したことを印象づける大会となった。 技術を始め、カラー写真・小型のコンパクトカメラの開発などもその特徴である。 東京オリンピックの衛星中継は、現地の映像をで日本からアメリカへ送信し、さらにアメリカが受信した映像をでヨーロッパへ送信するという方式で行われた。 また当時初めての画像を使い、競技での微妙な結果をその場で確認でき、その後のスポーツ中継で欠かせない放送技術になった。 東京大会の日本での中継放送は、映像は一本化された単一映像をNHKも民放も使ったが、競技実況はNHKと民放は別々にアナウンサーをおいたので、同じ映像で違う実況放送であった。 民放はこのために地方局からアナウンサーを集めていた。 また開会式と閉会式は各局とも独自にアナウンサーを置いて別々に実況を行った。 日本では1959年(昭和34年)の以降テレビ受像機(白黒)の普及が急速に進み、1959年(昭和34年)に23. 当時非常に高価だった受像機は、東京オリンピックを契機に各メーカーが宣伝に力を入れ始めた。 また当時、下では、当時のの主席が「早期復帰がかなわないのなら、せめて本土と同じ時間にテレビが見たい」 と関係各所に陳情、これによって、のがまで延伸されることとなり、山岳回折を用いた見通し外通信によって建設が進められ、東京オリンピック直前の1964年9月1日に開通し、現在のでも同時に放送された。 なお、沖縄からは出場した選手は1人もいない。 を作って、沖縄として出場する案もあったが、島ぐるみ闘争の激化で「1地域としての五輪参加は、アメリカ合衆国による沖縄の恒久支配を意味する」との意見もあり、結局設立されなかった。 結果的に沖縄住民の日本人意識を高め、1972年(昭和47年)5月15日のへとつながっていった。 デザイン [ ] 開催前年の1963年(昭和38年)、組織委員会が置かれた赤坂離宮()に、デザイン室が開設された。 入場券、メダル、ユニフォーム、競技パンフレット、プログラム、施設の標識、案内板などを制作した。 多くは20代後半から30代前半のデザイナーだった。 オリンピックに際してが、「ノイエ・ハース・グロテスク(後の)というサンセリフ体を使いたい」と大日本印刷に打診、市谷工場に導入された。 ポスター [ ] 東京オリンピック第2号ポスター(9万枚作成)は、歴代大会のがイラストであったのを、ののデザイン(文字は)、写真演出、ディレクターで、オリンピックポスター初の写真ポスターである。 ポスターは全部で4種類が制作された。 第1号ポスター(10万枚作成)は、縦長の全体が白地に、赤い日の丸の下に、金の五輪マークと金字のTOKYOと1964の。 6人が3案ずつ提出した指名コンペにて満場一致で選ばれた 、亀倉(文字は)のと同じデザインだった。 赤と金の配色はの(木瓜桐文緋羅紗陣羽織・大阪城天守閣蔵)から着想を得たともいわれる。 オリンピック史上初めて五輪の輪の5色の標準色を詳細に決定した。 なお、1959年の招致ポスターは栗谷川健一が手がけた通称「富士山」だった。 ピクトグラム [ ] まず競技種目ピクトグラム計20種が前年に作られ、1964年に入ってから施設用ピクトグラム計39種の制作が始まった。 案内や誘導、競技種目表示においてが採用されたのは東京オリンピックが最初である。 外国語(特に公用語のや)によるコミュニケーションをとることができる者が少ない日本人と外国人の間を取り持つために開発された。 制作にはアートディレクターを務めたを中心にほか30名ほどのデザイナーが携わった。 競技種目ピクトグラムを制作したのは山下芳郎1人である。 ヨット競技のみは人間を描かず、柔道・ウェイトリフティングの2つは正面図。 残りの競技は右向きの1選手を描写した(レスリングのみ2選手が組む横からの図)。 サッカー・バレー・バスケ・水球のボールは、各およそ右端中段寄りに配置された。 なお、では、1964年大会の競技種目ピクトグラムを先人へのリスペクトともに継承・進化させたものと位置づけて 、右向きに統一させず、左向きのデザインも混在させた。 日本選手団のユニホーム [ ] 東京オリンピックにおける日本選手団のユニホームは1964年(昭和39年)2月に国立競技場でコンテストが開催され、そこで選ばれたデザインが後日JOC総会にかけられて承認を受けるかたちで決定された。 オリンピック東京大会日本選手団ユニホーム、特に開会式・閉会式で着用された式典用デレゲーションユニホームが、上半身が赤色で下半身が純白のかなり派手な服装であり、50年近く時を経た現在でもオリンピック日本選手団の公式ユニホームと言えばこの「上半身が赤色で、下半身は白色」を思い浮かべる人が多い。 日本選手団の制服を上野店が受注。 開会式・閉会式用ユニホーム(デレゲーションユニホーム)• ヘルシンキオリンピックから選手団公式服装を手がけてきた神田の洋服商であった望月靖之が4年以上掛けてデザインしたもの。 このユニホームの名称は「1964年オリンピック東京大会日本選手団ブレイザーコート」 、通称「式典用ブレザー」と呼ばれ男女共に上着は真紅のマットウーステッド地に金色の三つボタン、そして左胸にはポケットが付いておりその部分に日の丸のワッペンと金糸で五輪が刺繍されていた。 下半身は男子は純白のズボン、女子は純白のアコーディオン・ブリーツをスカートにしたもの。 帽子は純白地に赤いアクセントの付いたものが採用されている。 生地は、製作は当時結成されたジャパンスポーツウェアクラブが担当し、全て手縫いで縫製されている。 靴は男子は純白のエナメル地の紳士靴。 女子は白色のローヒール。 そして女子だけ純白のショルダーバッグを持つ。 がデザインしたと言うのが通説となっていたが、研究者の調査によって望月靖之がデザインしたという多数の裏付けが可能な資料の存在が判明した。 選手村などで着るユニホーム• 開会式・閉会式用ユニホームと基本的に同じデザインだがダークカラーが採用されて地味になっている。 下半身は男子はグレーのズボン、女子も色はグレーでボックス・ブリーツをスカートにしたもの。 靴は男子は黒色の紳士靴。 女子も黒色のローヒール。 また、前述の式典用と同様に女子だけ純白のショルダーバッグが採用されている。 トレーニングウェア• 大会会場などで試合時以外に着用するトレーニングウェア。 男女共に同じデザインで、赤色を基本に方から袖、わきの下からパンツの裾まで、身体の両側の側線に沿うようなラインで白い筋が入っている。 そして胸と背中に白色のローマ字で「NIPPON」と書かれている。 記録映画 [ ] 「」も参照 テレビの関連番組 [ ]• の放送開始60周年記念事業として、2013年に当時の映像記録を視聴者などから提供したもので構成した特別番組が編成されている。 いずれもにて放送。 2013年1月1日 「伝説の名勝負・東洋の魔女 世紀の金メダルロード」 と呼ばれた女子バレーボール日本代表が金メダルを決定させるソビエト戦のノーカットフルタイムの映像が視聴者から提供された。 この試合に関与した選手や、その試合を観戦した著名人のインタビューを交えてその試合を振り返った。 20時間の競技映像」 NHKの取材班は2020年の東京五輪開催決定前の事前取材で、1964年に行われた同大会の記録映像となる16mmフィルムを発見した。 この中にはNHKのライブラリーにも残されていない映像も多数発掘された。 そこで、この映像にラジオのアーカイブス音源を絡ませ、この大会に参加した選手や当事者へのインタビューを交え、1964年五輪の記憶をよみがえらせる 楽曲 [ ] 東京オリンピックの行事で使用された楽曲は、オリンピック東京大会組織委員会に設けられた式典運営協議会で以下の5曲が決められた。 「」(作曲:)• 「オリンピック東京大会讃歌 A 」(作詞:、作曲:)• 「オリンピック東京大会讃歌 B 」(作詞:、作曲:)• 「」(作詞:コスティス・パロマ、訳詞:、作曲:スピロ・サマラ)• 「オリンピック・マーチ」(作曲:) 「ファンファーレ」は広く一般から公募して、海外からの応募作を加えて414編の中から選ばれたもので、当時長野県在住の今井光也が作曲し、日本の伝統的音階を基調とした8小節の東洋的色調に溢れた作品で四部形式で書かれた純トランペットの曲であった。 オリンピック東京大会賛歌は、東京大会のみに使われた賛歌で、開会式用の A 、閉会式用の B の2曲があり、聖火が灯された直後と聖火が消えゆく直前に歌われた。 選手団の入場行進曲は、世界各国の著名な行進曲12曲が選ばれて、最初と最後に使用される行進曲として「オリンピック・マーチ」を古関裕而が作曲した。 1分間120の行進速度でコーダは「君が代」の旋律で結ばれている。 なおこの他に、開会式冒頭には「オリンピック序曲」(作曲:)が華やかな雰囲気の中で演奏され、昭和天皇・がに着席する直前には電子音楽「オリンピック・カンパノロジー」(作曲:)が荘厳な雰囲気を醸し出していた。 また国民の五輪への関心を高めるために、 NHK がオリンピック東京大会組織委員会、、の後援で製作したのが以下の音頭と愛唱歌で、1963年6月23日に発表されてレコード会社各社から競作で吹き込み発売された。 「」(作詞:、作曲:、歌:・・つくば兄弟・・・・・・・司富子)• 「」(作詞:土井一郎、作曲:) これとは別に、日本ビクターが公募して、オリンピック東京大会組織委員会、が選定し、、オリンピック東京大会組織委員会、、、 NHK 、(民放連)の後援で5月8日に東京都体育館で日本ビクター主催「オリンピックの歌発表会」で発表されたのが以下の2曲である。 「東京オリンピックの歌「この日のために」」(作詞:鈴木義夫、補作:、作曲:、編曲:、歌:・・ビクター合唱団)VS-693 JES-3408• 「東京オリンピック音頭」(作詞:山川茂男、補作:、作曲:馬飼野曻、編曲:、歌:・・・・ビクター少年民謡会)VS-693 JES-3409 実況録音 [ ] 大会終了後、 NHK から開会式や閉会式、ハイライトとなった競技のラジオ実況放送を収録した磁気録音テープが発売されると共に、その音源をもとに記録やが製作された。 またこのNHKのマラソン実況放送の音源の一部(国立競技場に戻ってきた時のとベイジル・ヒートリーのデッドヒート)が、の歌う「」の冒頭に使用されている。 記念発行物 [ ] 記念乗車券(バス1区乗車券 ¥15)• 5円・10円・30円・40円・50円の五種類が1964年(5円のみ)、1970年10月10日(残り四種)に発行された。 「出場記念」として東京オリンピック記念切手を発行した国としては、、、北朝鮮(ボイコット)などがある。 100円銀貨が1964年9月21日(11月24日追加発行)、1000円銀貨が1964年10月2日(10月29日追加発行)に発行された。 詳細はを参照。 記念乗車券• が、乗車券『 オリンピック 東京大会 記念乗車券』を発売。 その他 [ ]• GANEFO への参加選手への資格停止処分をめぐり、とと対立していた(北朝鮮)とは、組織委員会が両国の参加を実現すべく両者の間に入り調整を続けるも対立関係は修復されず、両国とも開会式の前日(10月9日)に不参加届を組織委員会に提出して参加しなかった。 当時政策を行っていた南アフリカの参加をめぐって、これに反対・抗議するアフリカ・スポーツ最高会議の要請を受け、国際オリンピック委員会は南アフリカの参加を拒否。 これに反発した南アフリカはオリンピック参加を辞退し、各国のボイコットは回避された。 「オフィシャルエアライン」のロゴが書かれた日本航空のコンベア880• と「を代表する」の地位をめぐって対立していたは、独立したとしてIOCに加盟していた中華民国の扱いへの反発から1958年にIOCを脱退していたため、当初より参加の予定は無かった(新興国競技大会の項目も参照)。 また会期中の10月16日に同国初の(実験)を行ってアジア初の核保有国となっている。 会期中に使用された国立代々木競技場や選手村の本村、代々木選手村は、第二次世界大戦での日本の敗戦後に日本を占領下に置いた軍の一つであるによって設けられたが返還された跡地に建設された。 選手村で新築された4階建ての中層共同住宅形式の宿舎は1965年(昭和40年)以降、となった。 オフシャルエアラインには聖火も運んだ日本航空が指定され、やコンベア880などの所有機材にロゴが書かれた。 開会式では、海上で1年半もの間訓練したのが、上空3000メートルに五色のスモークで直径1800メートル各五輪の間隔300メートルで五輪のマークを描いたことで話題を呼ぶ。 開会宣言の前にIOCのブランデージ会長が片言の日本語で「開会宣言を天皇陛下にお願い申しあげます」と述べた後、昭和天皇が開会宣言を行った。 選手村でくつろぐ東ドイツ選手団• 当時、やに勤しみスポーツに関心を持っていた作家のが期間中のオリンピック・リポーターとして採用され、式典、各競技の感動の模様を伝える記事を、、などに分載形式で連載した。 三島はオリンピック開会の感想として、「やつぱりこれをやつてよかつた。 これをやらなかつたら日本人は病気になる」 、「が日本人を〈の〉と呼んだときから、オリンピックはいつかに迎へられるにあつたといつてよい」とコメントしている。 選手村において人選手同士がを挙げた。 これは史上初のことであった。 は、この前の9月に精密検査の結果が見つかり、入院治療をしていて10月10日の開会式は出席したが、閉会式は欠席して、そして閉会式翌日の10月25日に辞任を発表した。 翌年夏に死去。 日本のお家芸と言われた男子体操団体は、に続いて2連覇を果たしたが、前回のローマ大会と東京大会に限って団体総合では1つしかメダルが授与されていない。 東京大会では女子も団体で銅メダルを獲得したが、チームへの1つだけである。 他の団体競技では選手全員にメダルが授与されているので、このようなケースは珍しい。 2006年10月19日になって表彰の楯が各選手に贈られた。 閉会式は誘導のトラブルからこれまでの慣例と違い国別の整然とした行進にならなかったが、そのために却って、各国の選手が入り混じり腕や肩を組み合って入場するものとなった。 その後のオリンピックでは東京方式が採用されるようになった。 ただし国別に選手が入場しなかったのはが先である。 マラソン競技は全コースがされたが、オリンピックのマラソン競技が全コース生中継されたのはこの東京オリンピックが世界最初である。 なお、この生中継はが担当したが、全コースを生中継するためにNHKはテレビ中継車7台、1機、を投入し放送用カメラは全部で26台もあった。 また沿道にカメラを設置し、移動中継車やヘリコプターなどを経てNHK放送センターへ画像を送るなどして見事に全コースの生中継を全世界へ送り届けた。 当時の日本の報道カメラマンはを素人の道具として否定的に捉えていたが、海外のカメラマンがモータードライブを使用しているのを目の当たりにしたことで、国内でも広まりを見せた。 大会後の日本における祝勝会にはメダル取得者が呼ばれていたが、男子バレーボールチームはでメダルを取ったにも拘らず、連絡ミスにより参加できなかった。 諸外国から来日するオリンピック関係者や各国元首たちを接待するためのを30名採用した。 このコンパニオンは一般公募などされたが、結局コネ採用ばかりでの次女と三女、の長女、の長女など大会関係者の子女が数多く含まれていた。 そのうちの一人のは報知新聞の企画で対談した・のと1965年(昭和40年)に結婚した。 公募で決まった公式標語は「世界は一つ東京オリンピック」。 の中学生の作品。 柔道会場の日本武道館には日本古来の稲藁やを用いたが敷かれた。 その後のオリンピックではビニール・プラスティック素材のマットに変わる。 1966年、アメリカ映画『』(、監督、主演)が制作・公開された。 オリンピックを含めた当時の東京の様相が色濃く描かれている。 日本国内ではチケットの売れ行きが好調で種目によっては徹夜で売り場に並ぶなどの現象も見られた。 しかし海外におけるチケットの売れ行きはあまり良くなかった。 当初の割り当て分を全て完売したのは(韓国)のみでそれ以外の国々では競技によっては完売したチケットがあったが、全て完売した国は無かった。 その理由について「チケットを買ってもホテルが予約できないので行けない」という声が多かったという。 なお、日本と韓国はまだ外交関係を結んでいなかったが 、北朝鮮と異なり、韓国は東京五輪に参加した。 日本中の関心がオリンピックに集中したため、プロ野球もこれに配慮して公式戦の日程を前倒しして消化し、の日程もプロ野球史上最も早い9月29日開幕、第7戦予定は10月7日としていたが、とのチーム同士で争われた実際のは10月1日開幕となった上、雨天による試合延期や両チームが3勝ずつで並ぶ接戦などもあって、で行われた第7戦はオリンピック開会式当日の10月10日の夜となり、注目度は大きく下がった。 日本選手団は、1位の統一東西ドイツ選手団の374人、2位のアメリカ合衆国の361人に次ぐ3位の355人で、4位はソビエト連邦の332人であった。 が金メダルの場合、国旗掲揚が統一東西ドイツ旗で、国歌演奏でなく「曲演奏」と紹介されが演奏された。 開催期間中に国立霞ヶ丘陸上競技場のに翻ったは、IOC会長から組織委員会会長の安川に寄贈されたのち、安川が母校のに寄贈した。 かつては運動会の入場行進に使用されたが、現在はレプリカを使用して現物は同校の資料館に額入りで展示されている。 2005年(平成17年)にのは、2016年(平成28年)の開催地に立候補する意向を表明した。 1964年大会で使用した施設の中では国立霞ヶ丘競技場がマラソンコースの起点となり、代々木体育館や日本武道館も使用されるが、競技の中心は新設のなどの臨海部で開催される計画案を作成したが、2009年のIOC総会による投票で2016年のオリンピックはブラジルので開催されることが決定された(も参照)。 脚注 [ ] [] 出典 [ ]• 夏季大会は非開催でも回次はそのまま残るため、東京は回次上では2回目の開催扱いとなる• . 昭和29年 10月10日,6面.• 2013年8月20日20時NHK総合放送「1964東京オリンピック〜第2回オリンピック招致にかけた男たち」• 当時の大卒初任給は国家公務員I種で23,300円であった。 放送ライブラリ• - 秩父宮記念スポーツ博物館・図書館• 東京ふる里文庫11 東京にふる里をつくる会編 『渋谷区の歴史』 名著出版 昭和53年9月30日発行 p205• 選手村の調理に携わった調理師のエピソードは、『』の題材になっている(第94回「料理人たち 炎の東京オリンピック」、2002年8月27日放映)。 - 日刊スポーツ、2015年6月22日• - JOC• の為に改装工事が行われた。 - 日本航空• - 日本オリンピック委員会• - 全日本空輸• その後も聖火輸送を記念して、のYS-11には「オリンピア」の愛称が付けられていた• トラックから聖火台までの階段の段数については、文献によって163や182など複数の説がある。 坂井自身は167段と聞かされていた(小沢剛「心の聖地 スポーツ、あの日から」四国新聞2010年5月11日、20面)。 2013年10月10日. 2017年10月17日閲覧。 AFPBB News. 2017年10月16日. 2017年10月17日閲覧。 レファレンス協同データベース 2018年4月1日• 産経WEST 2018年1月29日• 突貫工事による開業だったため、(国鉄)は路盤の安定に時間がかかるとして一部区間での徐行運転を実施し、東京駅-間は「」でも所要時間が4時間ちょうどに設定された。 13年後の1977年(昭和52年)10月10日からは190分に短縮された。 セコムオフィシャルサイト『創業物語』• 『』第5巻「驚異の巨大システム」(著、、1997年)pp. 48 - 95• 「2020五輪で東京はこう変わる!大胆予測SPマル秘公開」 2013年9月8日放送• 2011年7月25日、琉球放送「RBC ザ・ニュース アナログ放送半世紀の歴史に幕」• DNP 大日本印刷株式会社• TVでた蔵. ワイヤーアクション. 2014年7月12日閲覧。 - 日本オリンピック委員会「オリンピックメモリアル Vol. 2」(文:三上孝道)• 2013年11月号 宣伝会議• 雑誌「デザインの現場」1998年No. 100• NHK総合【】JCCテレビ 2016年4月25日 [ ]• - withnews• - NHK• 東京新聞 2019年3月12日 夕刊• 伊原久裕、「」『デザイン理論』 2014年8月31日 64巻 P. 9-P. 22, 意匠学会• 東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会 2019年3月12日• 日刊スポーツ 2019年3月12日• 『1964東京五輪ユニフォームの謎:消された歴史と太陽の赤』(著、、2019年)• Yahoo! ニュース編集部. 2016年9月6日閲覧。 中日新聞 CHUNICHI Web. 2016年9月6日. 2016年9月6日閲覧。 遠山周平 2016年9月2日. Byron. INCLUSIVE. 2016年9月6日閲覧。 遠山周平 2016年8月30日. NEWYORKER MAGAZINE. ニューヨーカー. 2016年9月6日閲覧。 小川町三丁目西町会 2006年5月. 2016年9月6日閲覧。 , pp. 171-196に所収• , pp. 171-174に所収• が来日レセプションの会場にて、東京五輪日本代表男子チーム・女子チームの選手全員に対し 「シンボル・オブ・リコグニッション」を贈呈した。 ( )• 朝日新聞昭和39年5月19日朝刊記事• の締結は五輪翌年の1965年。 観客数は1万5172人で、各年の日本シリーズ優勝チーム決定戦での最低観客数記録となっている。 試合はの完封で南海が阪神に3-0で勝利し、南海としては最後の日本一となった。 2013年8月21日20時NHK総合放送「1964東京オリンピック〜第3回1億人の勝利をアスリートたちの挑戦」 関連文献 [ ]• 『決定版 三島由紀夫全集33巻 評論8』 新潮社、2003年8月。 浜田幸絵『〈東京オリンピック〉の誕生: 一九四〇年から二〇二〇年へ』(吉川弘文館、2018年)978-4642038812 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 LA84 Foundation• 1963年 イーストマンカラー 34分、科学映像館• 1896:• 1900:• 1904:• 1906: 注1• 1908:• 1912:• 1916: 注2• 1920:• 1924:• 1928:• 1932:• 1936:• 1944: 注2• 1948:• 1952:• 1956: 注5• 1960:• 1964:• 1968:• 1972:• 1976:• 1980:• 1984:• 1988:• 1992:• 1996:• 2000:• 2004:• 2008:• 2012:• 2016:• 2020: 注3, 注4• 2024: 注4• 2028: 注4• 2032: 注4.

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吹奏楽関係者が考えた!オリンピックの定番曲

東京 オリンピック ファンファーレ

この項目では、にで開催された夏季オリンピックについて説明しています。 に東京都で開催される予定の夏季オリンピックについては「」をご覧ください。 にで開催される予定であった夏季オリンピックについては「」をご覧ください。 その他については「」をご覧ください。 1964年東京オリンピック 第18回オリンピック競技大会 Jeux de la XVIII e olympiade Games of the XVIII Olympiad 開催都市 参加国・地域数 93 参加人数 5,152人(男子4,468人、女子684人) 競技種目数 20競技163種目 開会式 () 閉会式 () 開会宣言 主競技場 目次• 概要 [ ] の開催権を返上した及び地域で初めて開催されたオリンピックで、当時は「」国家における史上初のオリンピックという意義を持っていた。 また、アジアやにおけるの独立が相次いだこともあり、過去最高の出場国数となった。 歴史的には、、に続いて旧の首都で開催されたオリンピックでもあり、1940年東京オリンピックの開催権を返上した後に参戦したで敗戦したものの、その後急速な復活を遂げた日本が、再び国際社会の中心に復帰するシンボル的な意味を持つとされる。 開会式は10月10日、閉会式は10月24日に行われた。 開会式の10月10日は、(昭和41年)以降「」として親しまれるようになったが、「体育の日」は2000年(平成12年)より10月の第2となった。 大会開催までの経緯 [ ] 開催地決定を報じた読売新聞(1959年5月27日付) (15年)の開催権 を返上した東京は、を脱した2年後の(昭和29年)に(昭和35年)夏季大会開催地に立候補した。 しかし、翌(昭和30年)の第50次における投票でに敗れた。 次に(昭和39年)夏季大会開催地に立候補し、(昭和34年)5月26日にのにて開催された第55次IOC総会において欧米の3都市を破り開催地に選出された。 得票数はが半数を超える34票、のが10票、のが9票、のが5票だった。 特に、総会での立候補趣意演説を行なった(外交官)や、諸国の支持を集めるために奔走したの、(和田勇)、当時都議であった、「日本レスリングの父」といわれたらの功績が大きかった。 なお、和田は育ったで名誉市民第1号となっている。 (昭和32年)当時、日本水泳連盟会長を務めていたは、オリンピック招致費用が2013年現在の価格に換算して約1200億円かかることを懸念していた へ観光収入も見込めると直談判した。 1964年夏季オリンピック 開催地投票 都市 国 投票数 34 10 9 5 開催の決定した日本では「東京オリンピック組織委員会」が組織され、国家予算としてをはじめとした施設整備に約164億円、大会運営費94億円、選手強化費用23億円を計上したとなった。 開催にあたり、組織委員会は巨大な東京オリンピック公式ポスターを都市部に設置、デザインはが手掛けた。 2月7日に、体調不良で大会組織委員会会長を辞任したの辞任後、4か月間空席だった大会組織委員会会長にが決まった。 実施競技と日程 [ ] 各競技の詳細については、それぞれの競技のリンク先を参照のこと。 公開競技 [ ]• デモンストレーション [ ]• ハイライト [ ] 詳細は「」を参照• 10月11日• 重量挙げバンタム級で一ノ関史郎が銅メダル獲得。 日本勢初のメダル。 10月12日• 重量挙げフェザー級で三宅義信が優勝。 10月13日• 水泳競技男子100mで、が優勝。 10月14日• 水泳競技女子100m自由形で、が三連覇。 陸上競技男子で、伏兵ミルズが優勝。 レスリング、フリースタイルで吉田義勝、渡辺長武、上武洋次郎が優勝。 10月15日• 陸上競技、男子100mでが優勝。 10月16日• 陸上競技、男子800mでピーター・スネルが二連覇を達成。 10月17日• 陸上競技、棒高跳びで9時間半の熱闘の末、ハンセンが優勝。 10月18日• 水泳競技で米国勢が活躍。 が金メダル4個。 水泳競技で日本勢は最後の種目で銅メダル獲得。 10月19日• レスリング、グレコローマンで市川政光、花原勉が優勝。 フリースタイルと合わせて5個の金メダル獲得。 10月20日• 軽量級で中谷雄英優勝。 体操男子は、団体で金、個人総合で金・銀。 体操女子も団体で銅メダル。 女子個人総合でが優勝。 10月21日• 陸上競技での優勝、史上初の連覇。 が銅メダル。 中量級で岡野功優勝。 10月22日• 体操男子は、つり輪で早田卓次が金メダル。 重量級で猪熊功が優勝。 日本に3個目の金メダル。 10月23日• 女子で日本がソ連を破り優勝。 男子は銅メダル。 ボクシングのバンタム級で桜井孝雄が初の金メダル。 ヘビー級はが優勝。 体操女子は、平均台でが優勝。 3個目の金メダル獲得。 体操男子は、跳馬で山下治広が金、平行棒で遠藤幸雄が金、鶴見修治が銀。 遠藤が団体・個人と合わせて3個目の金メダル獲得。 無差別級でのに神永敗れる。 10月24日• 閉会式 東京オリンピックのメダル、造幣さいたま博物館にて展示。 東京オリンピックの入賞メダルはの工芸官が原型を作成した。 デザインは金・銀・銅、共に、表面は「勝利者を肩車した男性の群像」、裏面は「勝利の女神」が浮き彫りにされ、また「大会名、競技名」を記載してある欄があった。 サイズは、金メダル・銀メダル・銅メダル共に直径6cm、厚さは3mm。 重さは、金メダル90g、銀メダル82g、銅メダル69g。 製造された数は、金メダル300個、銀メダル300個、銅メダル314個。 価格は、金メダル12,500円、銀メダル7,500円、銅メダル6,000円。 (全て昭和39年当時の価格)と発表されたが、この価格はあくまで造幣局がに請求した額であり、実際のメダルの製造では1枚のメダルを製作するのにプレス加工を合計25回も繰り返すなど手間のかかったものになっていた。 大会後、製造したが余ったメダルは鋳つぶされている。 参加メダルは(表)と(裏)によるデザインだった。 各国の獲得メダル [ ] 女子飛び込みで優勝したクレーマー(統一ドイツ)• 1 金メダル• (日本、ボクシングバンタム級)• (日本、ウエイトリフティングフェザー級)• (日本、レスリンググレコローマンバンタム級)• (日本、レスリンググレコローマンフライ級)• (日本、レスリングフリースタイルバンタム級)• (日本、レスリングフリースタイルフェザー級)• (日本、レスリングフリースタイルフライ級)• (日本、柔道軽量級)• (日本、柔道重量級)• (日本、柔道中量級)• (日本、体操男子つり輪)• (日本、体操男子跳馬)• (日本、体操男子平行棒、体操男子個人総合)• ・・・・・(日本、体操男子団体総合)• ・・・・・・・・・・・(日本、バレーボール女子)• (、陸上競技男子)• ピーター・スネル(ニュージーランド、陸上競技男子)• (アメリカ、陸上競技男子)• (、陸上競技男子)• (アメリカ合衆国、陸上競技男子)• (、陸上競技女子)• (、陸上競技女子)• (、陸上競技女子)• (アメリカ、男子100m)• ドン・ショランダー(アメリカ、競泳男子400m自由形)• (オーストラリア、競泳女子100m自由形)• イングリッド・クレーマー(統一ドイツ、女子飛びこみ)• (、男子シングルスカル)• (ソビエト連邦、)• (、体操女子)• ベラ・チャスラフスカ(チェコスロバキア、体操女子平均台)• ベラ・チャスラフスカ(チェコスロバキア、体操女子)• (ソビエト連邦、体操女子)• ソビエト連邦(体操女子団体)• (団体)• (、男子無差別級)• (アメリカ、・ヘビー級、後にプロボクシングで世界ヘビー級王者)• 2 銀メダル• (日本、柔道無差別級)• (日本、体操男子あん馬、体操男子個人総合、体操男子平行棒)• (日本、体操男子床運動)• (、陸上競技男子10000m)• (イギリス、陸上競技男子マラソン)• (、陸上競技女子)• イレーナ・シェビンスカ(ポーランド、陸上競技女子走り幅跳)• マリー・ランド(イギリス、陸上競技女子五種競技)• ボリス・シャハリン(ソビエト連邦、体操男子個人総合)• (体操男子団体)• ラリサ・ラチニナ(ソビエト連邦、体操女子個人総合)• ラリサ・ラチニナ(ソビエト連邦、体操女子)• 3 銅メダル• (日本、陸上男子マラソン)• (日本、ウエイトリフティングバンタム級)• (日本、ウエイトリフティングミドル級)• (日本、レスリングフリースタイルライト級)• (日本、ライフル射撃男子フリーピストル)• ・・・(日本、競泳男子800m自由形リレー)• ・・・・・(日本、体操女子団体)• ・・・・・・・・・・(日本、バレーボール男子)• (オーストラリア、陸上競技男子10000m)• (ドイツ、陸上競技ハンマー投げ)• ボリス・シャハリン(ソビエト連邦、体操男子)• ラリサ・ラチニナ(ソビエト連邦、体操女子平均台)• ラリサ・ラチニナ(ソビエト連邦、体操女子)• (、) 競技会場 [ ] 東京23区内 [ ] 日本武道館• ():開閉会式、(とは折り返しコース、は周回コースをいずれも競技場発着として使用)、、• ():• 東京都体育館屋内水泳場(渋谷区):• ():サッカー• 国立屋内総合競技場本館(渋谷区):、、(水泳)• 国立屋内総合競技場別館(渋谷区):• (渋谷区):• ():サッカー• 駒沢体育館(世田谷区):• 駒沢バレーボールコート(世田谷区):• (世田谷区):• ():• (新宿区):、近代五種(フェンシング)• ():柔道• (世田谷区):馬術 周辺地域 [ ] 東京都(23区を除く) [ ]• (): 神奈川県 [ ]• ():• (横浜市):• (、現:):• (): 埼玉県 [ ]• (朝霞町、現:):、(射撃)• (北足立郡朝霞町):近代五種(馬術)• (北足立郡戸田町、現:):• (、現:):サッカー• 所沢クレー射撃場(): 千葉県 [ ]• ():近代五種() 長野県 [ ]• 軽井沢馬術場():馬術 選手団 [ ]• 各国選手団の中で最初に日本に乗り込んできたのはの馬術競技の選手団である。 にからアリラン丸に乗り出航。 に東京に到着した。 その後世界各国の選手団が空路や海路で乗り込んできた。 には各国の選手団を運んできた旅客機が並んだほか、競技用の道具や馬を運んできた貨物機も並んだ。 選手村でくつろぐ統一ドイツの選手団• 全面返還された施設である内の独身向けの宿舎を本村(代々木選手村)として整備し 、他に八王子選手村()、相模湖選手村()、大磯選手村()、軽井沢選手村(競技)の計4カ所の分村が開村された。 代々木選手村はオリンピック終了後、改修されとして翌年の1965年に開業した。 選手村では大会期間中、毎日7,000食もの食事が作られた。 開村から閉村までの期間中に供された食事はのべ60万食にも及ぶ。 選手村の選手用食堂は男女別に分かれ2箇所あった。 女子向けが「富士 Fuji 」、男子向けは「桜 Sakura 」だった。 「富士食堂」の統括担当はでシェフ、「桜食堂」の統括担当はで馬場久シェフ。 両名に率いられたコックは総勢306名。 選手村における選手の食費は「1人あたり1日6ドル以内(1ドル360円換算で2160円)」と決められていた。 用の食事を調達するため、日本在住での屠殺免許と日本の調理師免許を持った人を探し出し(当時、この条件に合う人は日本で1人だけだった)、選手村でイスラム教徒向けの料理を作ってもらった。 選手団は自前での調理人をフランス本国から連れてきた。 選手食堂で開村から閉村までの期間中に消費された食材は、340頭、280頭、600頭、6万羽、・・合計46トン、356トン、72万個、16トン、8万6千斤、50万本だった。 大量の食事をまかなうために、の技術や解凍法、調理法が向上した。 その他• 選手村のはの他にも担当した。 の隊員約360名が7月16日より大会終了後まで交代で任務についた。 7月9日午後9時頃に選手村246号館から火災が発生して30平方メートルを焼いた。 原因はガス工事のためと推察された。 選手村に百貨店で唯一の売店を銀座店が出店し、衣料品や土産を販売。 開催に向けての整備 [ ] 五輪橋 この東京オリンピックの開催に向けて、競技用施設から選手村、などのや観戦客を受け入れるためのに至るまで、東京都内のみならず日本各地において種々の建設・整備がなされた。 東京オリンピックの経費は265億3400万円といわれる(組織委経費の99億4600万と大会競技施設関係費の165億8800万円 との合計)。 競技場等の施設 [ ]• (、、)• (当時の選手練習場、現在は陸上競技場)• (内の記述を参照) 交通機関・道路等のインフラ [ ]• の開業• の開業• のターミナルビル増築・滑走路拡張• ・の整備• ・の拡幅・整備 宿泊施設 [ ]• ホテルオークラ(現・)• 東京ヒルトンホテル(現・)• 聖火 [ ] 東京オリンピック聖火トーチ• にの・ヘラ神殿で採火式が行われた。 その後、(ギリシャ)、()、()、()、()、()、()、()、()、()、(当時は領)、()、(当時は)と、でが、それらの地域を植民地として支配していたヨーロッパ諸国やアメリカの軍隊と戦った地域を通り、平和のための聖火リレーを印象づけた。 アテネから沖縄までの各地は日本のの、の 、 によって運搬された。 那覇から国内各地への輸送には、日本国産旅客機であるが使用された。 その時の機体には「聖火号」と名づけられた。 、、の3カ所から聖火リレーが行われた。 1964年9月7日に日本国内最初の地として沖縄に到着した聖火は、第一ランナーの宮城勇や戦災遺児ランナーの金城安秀を多くのの小旗が応援した。 アメリカ合衆国の統治下の沖縄では、日の丸は以外は掲げられなかったが、聖火歓迎は日の丸の小旗で埋まった。 には、、、、、(いずれも当時は中学生もしくは高校生)などの後の著名人もランナーとして参加・力走している。 聖火の最終ランナーは、(昭和20年)にで生まれた19歳の陸上選手・(当時所属、後に社員)であった。 の日にに程近い場所で生を享けた若者が、青空の下、聖火台への階段を駆け上る姿はまさに日本復興の象徴であった。 聖火ランナー総数は、10万713人だった。 火の一部は大会終了後も鹿児島県立青少年研修センターにて 希望の火として、職員らの手で2013年まで保管され続けた。 雨などで火が消えた際に備え予備の聖火をランナーの追走車に乗せることになったが、当時の日本は道路状況が悪く振動で消えることが予想されたため、予備の火を灯したランプはに乗せられた。 9月25日の大阪(-、29区間約40km)のルートは台風20号の接近により中止され、聖火は乗用車で輸送された。 10月1日に教育委員会の配慮で走者を陸上競技場に集め模擬聖火リレーが開催されている。 2020年に甲陽学院OBによりプロジェクト56年目のファーストランを計画している。 計時 [ ]• セイコー(現)が初めてオリンピックの公式計時を担当した。 セイコーは電子計時を採用、オリンピック史上初めて計測と順位に関してノートラブルを実現し、世界的な信頼を勝ち取ることに成功した。 交通規制 [ ] 東京オリンピックの開催期間中はやなどのメイン会場の周辺はもちろんその他の広範囲にわたって大規模なが行われた。 特に、10月10日のではは1万人のを動員してに当たった。 開会式会場となったの横のも開会式当日は一般に開放されたが、この神宮外苑も収容人数は4万人程であり、チケットのない者は神宮外苑に入ることができなかった。 そして午前10時から開会式終了後までは、この神宮外苑には警察や大会関係などの許可車両以外は一切通行が禁止された。 またそれ以外に「外周制限線」と名付けられた制限区域がもうけられた。 これは「新宿4丁目交差点 - 四谷見附交差点 - 溜池交差点 - 交差点 - 新宿4丁目交差点」を囲む範囲内でおこなわれた極めて大規模な交通規制で、開会式会場の警備の他に国内外のなどの移動をスムーズにするのが目的であった。 また、その他にマラソン、、、など多くの競技で大規模な交通規制が実施された。 東京オリンピック開催が日本にもたらした影響 [ ]• 東京オリンピックの開催期間には、1964年(昭和39年)のソ連の首相解任、の中華人民共和国(のとおり本大会には不参加)による初のなど国際的事件が次々と起こった。 これにより「瞬間的に世界の注目を奪われた面もある」と考えられる一方、下の世界情勢を反映する場として注視の的になるという面もあったようである。 この大会はこれらの事件とともに世界史の一つの転換点であった。 史上初の3人乗りであるの1号(1964年10月12日打ち上げ、10月13日帰還)は東京上空を飛行するにあたり、オリンピックに参加する「世界の青年に熱烈なあいさつを」送った。 の受賞が決定したのも、会期中の10月14日のことである(実際の受賞は12月10日)。 イギリス領は、閉会式の日にあたる1964年10月24日(では同日午前7時)にとして独立したため、開会式と閉会式とで異なる国名となった。 選手村のなども、同日をもって新国旗に付け替えられた。 東京オリンピック招致の成功は、開催に先駆けて1964年4月28日に OECD への加盟が認められる大きな背景となった。 OECD加盟は原加盟国のトルコに次いでアジアで2番目、同機構の原型となったに無関係のとしては初めてで、戦前は「」の一国であった日本がを乗り越え、再びとして復活した証明の一つともなった。 東京オリンピック開催を契機に、競技施設や日本国内の交通網の整備に、多額の建設投資が行なわれ、競技や施設を見る旅行需要が喚起され、カラー放送を見るための購入の飛躍的増加などの消費も増えたため、日本経済に「」といわれる好景気をもたらした。 テレビ受像機購入者が増えたため「」の視聴者も多くなった。 そのため、娯楽性の高い「」が増えたといわれる。 特に開催地の東京では、開催に向けて競技施設のみならず、・・・など、様々なの整備が行なわれ、都市間交通機関の中核として東京()から名古屋()を経由して、大阪()に至るを結ぶも開会式9日前の10月1日に開業した。 これらのほとんどは、現在に至るまで改良やを重ねながら利用されている。 特に首都高速道路の建設は急ピッチで進められ、(羽田空港)から国立競技場までつながり(その先の新宿まで開業)、途中で・(呉服橋)・皇居周縁・・官庁街など、主要施設を経由するルートが大会前に完成したが、用地買収の期間を省くため、上空などが利用され、も首都高速道路の高架の下に隠れることとなり、東京都心部の親水空間は減少した。 「ゴミ都市」と呼ばれていた東京に、都の主導でゴミ収集車が250台導入され、また、製のポリバケツが普及した。 オリンピック組織委員会が、代々木選手村の整備期間中及び大会期間中のに際して、の人員不足を考慮して、『日本警備保障』(現在の)に警備の依頼を行った。 この民間警備会社による警備が無事に終了したことを機に、日本の社会に民間警備が認知されるようになっていく。 東京オリンピックで、初めてによるリアルタイムでの記録管理が行なわれたことも、地味ではあるが特筆すべき事項である。 それ以前のオリンピックでもコンピュータは使われていたが、あくまで記録管理はにより行なわれており、最終的な公式記録の確定・レコードブックの作成には、大会終了後数ヶ月を要していた。 しかし、東京オリンピックでは、プレスセンターのあるに設置されたコンピュータにより、リアルタイムで記録が管理され、全競技会場に置かれた端末で入力された各競技の記録が集められただけでなく、端末では他会場の競技結果も参照することが出来た。 また公式記録の確定も速やかに行なわれ、大会最終日の閉会式において、全競技の記録を記した記録本が、当時のIOC会長に渡された。 同システムの構築は、が約2年半がかりで行なったもので、プロジェクトリーダーを務めた(後に大学院経営情報学研究科教授)は、このシステム構築に関する論文をまとめた功績で、1988年(昭和63年)にを受賞している。 本システムの成功は、日本においてが普及する大きな契機となり、同プロジェクトのメンバーは、その後の、の生産管理システムなど、多くのリアルタイムシステムを手がけていくことになる。 (経済評論家)によると、は、外国人用の駅弁を考えていた時に、当時ののコックのを参考に考案され、福岡銘菓のも1964年に東京に進出して東京銘菓になった。 それまで社会人のスポーツは見る物だったが、に代表される参加するスポーツが盛んになり、公共のスポーツ施設が各地に造られていった。 「テレビ・オリンピック」 [ ] オリンピック放送を観戦する市民。 その後、は衰退していった。 東京オリンピックは、ベルリンオリンピックで初お目見えしたオリンピックのテレビ中継技術が格段に向上したことを印象づける大会となった。 技術を始め、カラー写真・小型のコンパクトカメラの開発などもその特徴である。 東京オリンピックの衛星中継は、現地の映像をで日本からアメリカへ送信し、さらにアメリカが受信した映像をでヨーロッパへ送信するという方式で行われた。 また当時初めての画像を使い、競技での微妙な結果をその場で確認でき、その後のスポーツ中継で欠かせない放送技術になった。 東京大会の日本での中継放送は、映像は一本化された単一映像をNHKも民放も使ったが、競技実況はNHKと民放は別々にアナウンサーをおいたので、同じ映像で違う実況放送であった。 民放はこのために地方局からアナウンサーを集めていた。 また開会式と閉会式は各局とも独自にアナウンサーを置いて別々に実況を行った。 日本では1959年(昭和34年)の以降テレビ受像機(白黒)の普及が急速に進み、1959年(昭和34年)に23. 当時非常に高価だった受像機は、東京オリンピックを契機に各メーカーが宣伝に力を入れ始めた。 また当時、下では、当時のの主席が「早期復帰がかなわないのなら、せめて本土と同じ時間にテレビが見たい」 と関係各所に陳情、これによって、のがまで延伸されることとなり、山岳回折を用いた見通し外通信によって建設が進められ、東京オリンピック直前の1964年9月1日に開通し、現在のでも同時に放送された。 なお、沖縄からは出場した選手は1人もいない。 を作って、沖縄として出場する案もあったが、島ぐるみ闘争の激化で「1地域としての五輪参加は、アメリカ合衆国による沖縄の恒久支配を意味する」との意見もあり、結局設立されなかった。 結果的に沖縄住民の日本人意識を高め、1972年(昭和47年)5月15日のへとつながっていった。 デザイン [ ] 開催前年の1963年(昭和38年)、組織委員会が置かれた赤坂離宮()に、デザイン室が開設された。 入場券、メダル、ユニフォーム、競技パンフレット、プログラム、施設の標識、案内板などを制作した。 多くは20代後半から30代前半のデザイナーだった。 オリンピックに際してが、「ノイエ・ハース・グロテスク(後の)というサンセリフ体を使いたい」と大日本印刷に打診、市谷工場に導入された。 ポスター [ ] 東京オリンピック第2号ポスター(9万枚作成)は、歴代大会のがイラストであったのを、ののデザイン(文字は)、写真演出、ディレクターで、オリンピックポスター初の写真ポスターである。 ポスターは全部で4種類が制作された。 第1号ポスター(10万枚作成)は、縦長の全体が白地に、赤い日の丸の下に、金の五輪マークと金字のTOKYOと1964の。 6人が3案ずつ提出した指名コンペにて満場一致で選ばれた 、亀倉(文字は)のと同じデザインだった。 赤と金の配色はの(木瓜桐文緋羅紗陣羽織・大阪城天守閣蔵)から着想を得たともいわれる。 オリンピック史上初めて五輪の輪の5色の標準色を詳細に決定した。 なお、1959年の招致ポスターは栗谷川健一が手がけた通称「富士山」だった。 ピクトグラム [ ] まず競技種目ピクトグラム計20種が前年に作られ、1964年に入ってから施設用ピクトグラム計39種の制作が始まった。 案内や誘導、競技種目表示においてが採用されたのは東京オリンピックが最初である。 外国語(特に公用語のや)によるコミュニケーションをとることができる者が少ない日本人と外国人の間を取り持つために開発された。 制作にはアートディレクターを務めたを中心にほか30名ほどのデザイナーが携わった。 競技種目ピクトグラムを制作したのは山下芳郎1人である。 ヨット競技のみは人間を描かず、柔道・ウェイトリフティングの2つは正面図。 残りの競技は右向きの1選手を描写した(レスリングのみ2選手が組む横からの図)。 サッカー・バレー・バスケ・水球のボールは、各およそ右端中段寄りに配置された。 なお、では、1964年大会の競技種目ピクトグラムを先人へのリスペクトともに継承・進化させたものと位置づけて 、右向きに統一させず、左向きのデザインも混在させた。 日本選手団のユニホーム [ ] 東京オリンピックにおける日本選手団のユニホームは1964年(昭和39年)2月に国立競技場でコンテストが開催され、そこで選ばれたデザインが後日JOC総会にかけられて承認を受けるかたちで決定された。 オリンピック東京大会日本選手団ユニホーム、特に開会式・閉会式で着用された式典用デレゲーションユニホームが、上半身が赤色で下半身が純白のかなり派手な服装であり、50年近く時を経た現在でもオリンピック日本選手団の公式ユニホームと言えばこの「上半身が赤色で、下半身は白色」を思い浮かべる人が多い。 日本選手団の制服を上野店が受注。 開会式・閉会式用ユニホーム(デレゲーションユニホーム)• ヘルシンキオリンピックから選手団公式服装を手がけてきた神田の洋服商であった望月靖之が4年以上掛けてデザインしたもの。 このユニホームの名称は「1964年オリンピック東京大会日本選手団ブレイザーコート」 、通称「式典用ブレザー」と呼ばれ男女共に上着は真紅のマットウーステッド地に金色の三つボタン、そして左胸にはポケットが付いておりその部分に日の丸のワッペンと金糸で五輪が刺繍されていた。 下半身は男子は純白のズボン、女子は純白のアコーディオン・ブリーツをスカートにしたもの。 帽子は純白地に赤いアクセントの付いたものが採用されている。 生地は、製作は当時結成されたジャパンスポーツウェアクラブが担当し、全て手縫いで縫製されている。 靴は男子は純白のエナメル地の紳士靴。 女子は白色のローヒール。 そして女子だけ純白のショルダーバッグを持つ。 がデザインしたと言うのが通説となっていたが、研究者の調査によって望月靖之がデザインしたという多数の裏付けが可能な資料の存在が判明した。 選手村などで着るユニホーム• 開会式・閉会式用ユニホームと基本的に同じデザインだがダークカラーが採用されて地味になっている。 下半身は男子はグレーのズボン、女子も色はグレーでボックス・ブリーツをスカートにしたもの。 靴は男子は黒色の紳士靴。 女子も黒色のローヒール。 また、前述の式典用と同様に女子だけ純白のショルダーバッグが採用されている。 トレーニングウェア• 大会会場などで試合時以外に着用するトレーニングウェア。 男女共に同じデザインで、赤色を基本に方から袖、わきの下からパンツの裾まで、身体の両側の側線に沿うようなラインで白い筋が入っている。 そして胸と背中に白色のローマ字で「NIPPON」と書かれている。 記録映画 [ ] 「」も参照 テレビの関連番組 [ ]• の放送開始60周年記念事業として、2013年に当時の映像記録を視聴者などから提供したもので構成した特別番組が編成されている。 いずれもにて放送。 2013年1月1日 「伝説の名勝負・東洋の魔女 世紀の金メダルロード」 と呼ばれた女子バレーボール日本代表が金メダルを決定させるソビエト戦のノーカットフルタイムの映像が視聴者から提供された。 この試合に関与した選手や、その試合を観戦した著名人のインタビューを交えてその試合を振り返った。 20時間の競技映像」 NHKの取材班は2020年の東京五輪開催決定前の事前取材で、1964年に行われた同大会の記録映像となる16mmフィルムを発見した。 この中にはNHKのライブラリーにも残されていない映像も多数発掘された。 そこで、この映像にラジオのアーカイブス音源を絡ませ、この大会に参加した選手や当事者へのインタビューを交え、1964年五輪の記憶をよみがえらせる 楽曲 [ ] 東京オリンピックの行事で使用された楽曲は、オリンピック東京大会組織委員会に設けられた式典運営協議会で以下の5曲が決められた。 「」(作曲:)• 「オリンピック東京大会讃歌 A 」(作詞:、作曲:)• 「オリンピック東京大会讃歌 B 」(作詞:、作曲:)• 「」(作詞:コスティス・パロマ、訳詞:、作曲:スピロ・サマラ)• 「オリンピック・マーチ」(作曲:) 「ファンファーレ」は広く一般から公募して、海外からの応募作を加えて414編の中から選ばれたもので、当時長野県在住の今井光也が作曲し、日本の伝統的音階を基調とした8小節の東洋的色調に溢れた作品で四部形式で書かれた純トランペットの曲であった。 オリンピック東京大会賛歌は、東京大会のみに使われた賛歌で、開会式用の A 、閉会式用の B の2曲があり、聖火が灯された直後と聖火が消えゆく直前に歌われた。 選手団の入場行進曲は、世界各国の著名な行進曲12曲が選ばれて、最初と最後に使用される行進曲として「オリンピック・マーチ」を古関裕而が作曲した。 1分間120の行進速度でコーダは「君が代」の旋律で結ばれている。 なおこの他に、開会式冒頭には「オリンピック序曲」(作曲:)が華やかな雰囲気の中で演奏され、昭和天皇・がに着席する直前には電子音楽「オリンピック・カンパノロジー」(作曲:)が荘厳な雰囲気を醸し出していた。 また国民の五輪への関心を高めるために、 NHK がオリンピック東京大会組織委員会、、の後援で製作したのが以下の音頭と愛唱歌で、1963年6月23日に発表されてレコード会社各社から競作で吹き込み発売された。 「」(作詞:、作曲:、歌:・・つくば兄弟・・・・・・・司富子)• 「」(作詞:土井一郎、作曲:) これとは別に、日本ビクターが公募して、オリンピック東京大会組織委員会、が選定し、、オリンピック東京大会組織委員会、、、 NHK 、(民放連)の後援で5月8日に東京都体育館で日本ビクター主催「オリンピックの歌発表会」で発表されたのが以下の2曲である。 「東京オリンピックの歌「この日のために」」(作詞:鈴木義夫、補作:、作曲:、編曲:、歌:・・ビクター合唱団)VS-693 JES-3408• 「東京オリンピック音頭」(作詞:山川茂男、補作:、作曲:馬飼野曻、編曲:、歌:・・・・ビクター少年民謡会)VS-693 JES-3409 実況録音 [ ] 大会終了後、 NHK から開会式や閉会式、ハイライトとなった競技のラジオ実況放送を収録した磁気録音テープが発売されると共に、その音源をもとに記録やが製作された。 またこのNHKのマラソン実況放送の音源の一部(国立競技場に戻ってきた時のとベイジル・ヒートリーのデッドヒート)が、の歌う「」の冒頭に使用されている。 記念発行物 [ ] 記念乗車券(バス1区乗車券 ¥15)• 5円・10円・30円・40円・50円の五種類が1964年(5円のみ)、1970年10月10日(残り四種)に発行された。 「出場記念」として東京オリンピック記念切手を発行した国としては、、、北朝鮮(ボイコット)などがある。 100円銀貨が1964年9月21日(11月24日追加発行)、1000円銀貨が1964年10月2日(10月29日追加発行)に発行された。 詳細はを参照。 記念乗車券• が、乗車券『 オリンピック 東京大会 記念乗車券』を発売。 その他 [ ]• GANEFO への参加選手への資格停止処分をめぐり、とと対立していた(北朝鮮)とは、組織委員会が両国の参加を実現すべく両者の間に入り調整を続けるも対立関係は修復されず、両国とも開会式の前日(10月9日)に不参加届を組織委員会に提出して参加しなかった。 当時政策を行っていた南アフリカの参加をめぐって、これに反対・抗議するアフリカ・スポーツ最高会議の要請を受け、国際オリンピック委員会は南アフリカの参加を拒否。 これに反発した南アフリカはオリンピック参加を辞退し、各国のボイコットは回避された。 「オフィシャルエアライン」のロゴが書かれた日本航空のコンベア880• と「を代表する」の地位をめぐって対立していたは、独立したとしてIOCに加盟していた中華民国の扱いへの反発から1958年にIOCを脱退していたため、当初より参加の予定は無かった(新興国競技大会の項目も参照)。 また会期中の10月16日に同国初の(実験)を行ってアジア初の核保有国となっている。 会期中に使用された国立代々木競技場や選手村の本村、代々木選手村は、第二次世界大戦での日本の敗戦後に日本を占領下に置いた軍の一つであるによって設けられたが返還された跡地に建設された。 選手村で新築された4階建ての中層共同住宅形式の宿舎は1965年(昭和40年)以降、となった。 オフシャルエアラインには聖火も運んだ日本航空が指定され、やコンベア880などの所有機材にロゴが書かれた。 開会式では、海上で1年半もの間訓練したのが、上空3000メートルに五色のスモークで直径1800メートル各五輪の間隔300メートルで五輪のマークを描いたことで話題を呼ぶ。 開会宣言の前にIOCのブランデージ会長が片言の日本語で「開会宣言を天皇陛下にお願い申しあげます」と述べた後、昭和天皇が開会宣言を行った。 選手村でくつろぐ東ドイツ選手団• 当時、やに勤しみスポーツに関心を持っていた作家のが期間中のオリンピック・リポーターとして採用され、式典、各競技の感動の模様を伝える記事を、、などに分載形式で連載した。 三島はオリンピック開会の感想として、「やつぱりこれをやつてよかつた。 これをやらなかつたら日本人は病気になる」 、「が日本人を〈の〉と呼んだときから、オリンピックはいつかに迎へられるにあつたといつてよい」とコメントしている。 選手村において人選手同士がを挙げた。 これは史上初のことであった。 は、この前の9月に精密検査の結果が見つかり、入院治療をしていて10月10日の開会式は出席したが、閉会式は欠席して、そして閉会式翌日の10月25日に辞任を発表した。 翌年夏に死去。 日本のお家芸と言われた男子体操団体は、に続いて2連覇を果たしたが、前回のローマ大会と東京大会に限って団体総合では1つしかメダルが授与されていない。 東京大会では女子も団体で銅メダルを獲得したが、チームへの1つだけである。 他の団体競技では選手全員にメダルが授与されているので、このようなケースは珍しい。 2006年10月19日になって表彰の楯が各選手に贈られた。 閉会式は誘導のトラブルからこれまでの慣例と違い国別の整然とした行進にならなかったが、そのために却って、各国の選手が入り混じり腕や肩を組み合って入場するものとなった。 その後のオリンピックでは東京方式が採用されるようになった。 ただし国別に選手が入場しなかったのはが先である。 マラソン競技は全コースがされたが、オリンピックのマラソン競技が全コース生中継されたのはこの東京オリンピックが世界最初である。 なお、この生中継はが担当したが、全コースを生中継するためにNHKはテレビ中継車7台、1機、を投入し放送用カメラは全部で26台もあった。 また沿道にカメラを設置し、移動中継車やヘリコプターなどを経てNHK放送センターへ画像を送るなどして見事に全コースの生中継を全世界へ送り届けた。 当時の日本の報道カメラマンはを素人の道具として否定的に捉えていたが、海外のカメラマンがモータードライブを使用しているのを目の当たりにしたことで、国内でも広まりを見せた。 大会後の日本における祝勝会にはメダル取得者が呼ばれていたが、男子バレーボールチームはでメダルを取ったにも拘らず、連絡ミスにより参加できなかった。 諸外国から来日するオリンピック関係者や各国元首たちを接待するためのを30名採用した。 このコンパニオンは一般公募などされたが、結局コネ採用ばかりでの次女と三女、の長女、の長女など大会関係者の子女が数多く含まれていた。 そのうちの一人のは報知新聞の企画で対談した・のと1965年(昭和40年)に結婚した。 公募で決まった公式標語は「世界は一つ東京オリンピック」。 の中学生の作品。 柔道会場の日本武道館には日本古来の稲藁やを用いたが敷かれた。 その後のオリンピックではビニール・プラスティック素材のマットに変わる。 1966年、アメリカ映画『』(、監督、主演)が制作・公開された。 オリンピックを含めた当時の東京の様相が色濃く描かれている。 日本国内ではチケットの売れ行きが好調で種目によっては徹夜で売り場に並ぶなどの現象も見られた。 しかし海外におけるチケットの売れ行きはあまり良くなかった。 当初の割り当て分を全て完売したのは(韓国)のみでそれ以外の国々では競技によっては完売したチケットがあったが、全て完売した国は無かった。 その理由について「チケットを買ってもホテルが予約できないので行けない」という声が多かったという。 なお、日本と韓国はまだ外交関係を結んでいなかったが 、北朝鮮と異なり、韓国は東京五輪に参加した。 日本中の関心がオリンピックに集中したため、プロ野球もこれに配慮して公式戦の日程を前倒しして消化し、の日程もプロ野球史上最も早い9月29日開幕、第7戦予定は10月7日としていたが、とのチーム同士で争われた実際のは10月1日開幕となった上、雨天による試合延期や両チームが3勝ずつで並ぶ接戦などもあって、で行われた第7戦はオリンピック開会式当日の10月10日の夜となり、注目度は大きく下がった。 日本選手団は、1位の統一東西ドイツ選手団の374人、2位のアメリカ合衆国の361人に次ぐ3位の355人で、4位はソビエト連邦の332人であった。 が金メダルの場合、国旗掲揚が統一東西ドイツ旗で、国歌演奏でなく「曲演奏」と紹介されが演奏された。 開催期間中に国立霞ヶ丘陸上競技場のに翻ったは、IOC会長から組織委員会会長の安川に寄贈されたのち、安川が母校のに寄贈した。 かつては運動会の入場行進に使用されたが、現在はレプリカを使用して現物は同校の資料館に額入りで展示されている。 2005年(平成17年)にのは、2016年(平成28年)の開催地に立候補する意向を表明した。 1964年大会で使用した施設の中では国立霞ヶ丘競技場がマラソンコースの起点となり、代々木体育館や日本武道館も使用されるが、競技の中心は新設のなどの臨海部で開催される計画案を作成したが、2009年のIOC総会による投票で2016年のオリンピックはブラジルので開催されることが決定された(も参照)。 脚注 [ ] [] 出典 [ ]• 夏季大会は非開催でも回次はそのまま残るため、東京は回次上では2回目の開催扱いとなる• . 昭和29年 10月10日,6面.• 2013年8月20日20時NHK総合放送「1964東京オリンピック〜第2回オリンピック招致にかけた男たち」• 当時の大卒初任給は国家公務員I種で23,300円であった。 放送ライブラリ• - 秩父宮記念スポーツ博物館・図書館• 東京ふる里文庫11 東京にふる里をつくる会編 『渋谷区の歴史』 名著出版 昭和53年9月30日発行 p205• 選手村の調理に携わった調理師のエピソードは、『』の題材になっている(第94回「料理人たち 炎の東京オリンピック」、2002年8月27日放映)。 - 日刊スポーツ、2015年6月22日• - JOC• の為に改装工事が行われた。 - 日本航空• - 日本オリンピック委員会• - 全日本空輸• その後も聖火輸送を記念して、のYS-11には「オリンピア」の愛称が付けられていた• トラックから聖火台までの階段の段数については、文献によって163や182など複数の説がある。 坂井自身は167段と聞かされていた(小沢剛「心の聖地 スポーツ、あの日から」四国新聞2010年5月11日、20面)。 2013年10月10日. 2017年10月17日閲覧。 AFPBB News. 2017年10月16日. 2017年10月17日閲覧。 レファレンス協同データベース 2018年4月1日• 産経WEST 2018年1月29日• 突貫工事による開業だったため、(国鉄)は路盤の安定に時間がかかるとして一部区間での徐行運転を実施し、東京駅-間は「」でも所要時間が4時間ちょうどに設定された。 13年後の1977年(昭和52年)10月10日からは190分に短縮された。 セコムオフィシャルサイト『創業物語』• 『』第5巻「驚異の巨大システム」(著、、1997年)pp. 48 - 95• 「2020五輪で東京はこう変わる!大胆予測SPマル秘公開」 2013年9月8日放送• 2011年7月25日、琉球放送「RBC ザ・ニュース アナログ放送半世紀の歴史に幕」• DNP 大日本印刷株式会社• TVでた蔵. ワイヤーアクション. 2014年7月12日閲覧。 - 日本オリンピック委員会「オリンピックメモリアル Vol. 2」(文:三上孝道)• 2013年11月号 宣伝会議• 雑誌「デザインの現場」1998年No. 100• NHK総合【】JCCテレビ 2016年4月25日 [ ]• - withnews• - NHK• 東京新聞 2019年3月12日 夕刊• 伊原久裕、「」『デザイン理論』 2014年8月31日 64巻 P. 9-P. 22, 意匠学会• 東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会 2019年3月12日• 日刊スポーツ 2019年3月12日• 『1964東京五輪ユニフォームの謎:消された歴史と太陽の赤』(著、、2019年)• Yahoo! ニュース編集部. 2016年9月6日閲覧。 中日新聞 CHUNICHI Web. 2016年9月6日. 2016年9月6日閲覧。 遠山周平 2016年9月2日. Byron. INCLUSIVE. 2016年9月6日閲覧。 遠山周平 2016年8月30日. NEWYORKER MAGAZINE. ニューヨーカー. 2016年9月6日閲覧。 小川町三丁目西町会 2006年5月. 2016年9月6日閲覧。 , pp. 171-196に所収• , pp. 171-174に所収• が来日レセプションの会場にて、東京五輪日本代表男子チーム・女子チームの選手全員に対し 「シンボル・オブ・リコグニッション」を贈呈した。 ( )• 朝日新聞昭和39年5月19日朝刊記事• の締結は五輪翌年の1965年。 観客数は1万5172人で、各年の日本シリーズ優勝チーム決定戦での最低観客数記録となっている。 試合はの完封で南海が阪神に3-0で勝利し、南海としては最後の日本一となった。 2013年8月21日20時NHK総合放送「1964東京オリンピック〜第3回1億人の勝利をアスリートたちの挑戦」 関連文献 [ ]• 『決定版 三島由紀夫全集33巻 評論8』 新潮社、2003年8月。 浜田幸絵『〈東京オリンピック〉の誕生: 一九四〇年から二〇二〇年へ』(吉川弘文館、2018年)978-4642038812 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 LA84 Foundation• 1963年 イーストマンカラー 34分、科学映像館• 1896:• 1900:• 1904:• 1906: 注1• 1908:• 1912:• 1916: 注2• 1920:• 1924:• 1928:• 1932:• 1936:• 1944: 注2• 1948:• 1952:• 1956: 注5• 1960:• 1964:• 1968:• 1972:• 1976:• 1980:• 1984:• 1988:• 1992:• 1996:• 2000:• 2004:• 2008:• 2012:• 2016:• 2020: 注3, 注4• 2024: 注4• 2028: 注4• 2032: 注4.

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